コップ一杯分の苦悩
知っての通りこの場所は紛れもなく一軒の店であり、我々は当然ここで目まぐるしい日々をせわしなく生き抜く雇われ店員である。そうなれば私たちは言うまでもなく、コップ一杯分のそれを、自然と量の増すそれを持ったまま、店で働かざるを得ないという現状にあるわけだ。
僕の働くことになった店も、いつものようにおびただしい数の店員たちがまるでひとつの海流のようにフロアを行き来している。個室ばかりの店だから、キッチンで作られたばかりの料理をその個室に運ぶまでの間には、それほど客の姿は覗えない。確認できるのは宴会の途中で飲みすぎたビールを輩出する為に席を立つ酔っ払いや、宴もたけなわと店を出る集団客や、せかせかと勘定を支払うどこかの会社の下っ端サラリーマンくらいだ。
ちなみに僕はこの店の出入口を見たことがない。僕は物心ついたときからこの店で働くことが決定していて、住み込みで一日中労働をしてやっと自分の食を繋いでいるのである。店から出たことがないというのはちょっとおかしな話だと思うかもしれないけれど、実際問題この店には風呂もトイレも小さな庭も窓もちょっとした服などを揃えられるファッションコーナーも、一部屋あたり従業員五〜六人が寝泊まりできるフロアも備え付けられているので、生活に事欠くことなんて一つもないのである。そしてそのくらいこの店は想像を絶する規模の飲食店だということを忘れないでほしい。僕はもうかれこれ二十年近くこの店の世話になっているわけだが、正直なところまだ会ったこともないような同志も、五万といる。
今日も店はとても繁盛した。最近読んだ新聞には(言い忘れたけど、店には本屋だってあるのだ)、未曽有の世界的大不況だなんて書かれていたけど、僕にとっての世界はこのたった一軒のしがない飲食店だから、これといって僕の生活に差支えがない限りは、不況も何もないようなもんだ。
僕はオーダーストップの時間になると残っている客にラストオーダーの確認を取って、空いた食器を回収し、空席の机を雑巾でふき、椅子や座布団の配置を元どおりにし、メニュー表を所定の場所に戻した。閉店の時間を回ると客を促して酔っぱらいの千鳥足をレジまで送り、あとはレジ係の人に任せる。残った食器を回収してキッチンの担当に委ね、机と椅子の処理をし、ゴミ袋をポリバケツから出して新しい袋と取り換え、ゴミは一か所にまとめてゴミの処理担当に任せる。ひと通り仕事が終わると僕は自分の名前が書かれた「出勤」の木札をひっくり返して与えられた大部屋に帰り、煙草を一本吸った。
大部屋の襖は冬場以外はほぼ開けっ放しで、まん前には廊下をはさんでベランダがある。僕はそこで煙草を吸う。閉店後も下の階から聞こえてくる店の騒音はやまない。もともと騒音を形成しているのは客の声だけじゃなくて、皿を洗う音だったり、明日の仕込みをする新人に対して厳しく叱りつけるチーフの声だったり、仕事を終えた女性従業員たちの開放感に満ちたはしゃぎ声だったりするからだ。だから結局店は二十四時間眠らずに働き続けているわけだ。僕と同じ部屋に寝泊まりしている他の五人は今日は偶然にも全員非番だったので、ある者は枕に両肘をついて読書をし、ある者は同僚を誘って従業員専用のバーに行き、ある者は早々と夢の中へ旅に出てしまっていた。
僕は二本目のタバコを吸い終えると、今日一日の店での出来事をざっと思い返してみた。ベランダの向こうでは薄いゴムでできた膜みたいな夜空が世界を静かに梱包している。月の光をちらちら照り返す群青色の海も見える。
僕は今日一回注文を取り違え、五回理不尽な注文を快諾し、七回謝罪し、二十回ほかのウェイター/ウェイトレスとぶつかりそうになった。そしてそのたびに僕は、例の勝手にかさの増えるコップの中身を注文された料理にこぼした。僕がぶつかりそうになった相手も、同じようにこぼした。でもお互いに料理を客にそのまま提供した。なぜならコップの中身は何度捨てたってどうせ増える、つまり、こぼして当然のものだし、それを捨てるための指定されたバケツはこの店には(おそらくほかのどの店にも)用意されていないし、そもそもこぼしたところで料理の見栄えも味も匂いも深みも何一つ変わらないからだ。本当に何も変わらないんだ。第一もし万が一味やら何やらが変わっていたとしても、それに気付くような人間なんて今の世の中には一人だっていないんだ。だから従業員がその永遠に増え続けるコップの中身を料理にこぼしながら運び続けることは、いわば客を含めた全員のあいだの暗黙の了解なのである。
僕は今日の出来事を一通り思い出してから、その記憶をすぐに過去という便利なゴミ箱に放り投げた。放り投げて、そして知らないうちにどこかへ消え去るようにした。たぶんこの記憶は、明日のこの時間にはもうなくなっているだろう。だって、なくなってくれないと、一日ごとに生産されていく記憶の置き場に困ってしまうことになるし。古いものは捨て、新しいものを入れるんだ。
いつもなら記憶の廃棄処分をし終えたくらいで睡魔がちょうど都合よく僕を迎えに来てくれるのだが、今日は何だかまだ目が冴えていたし、頭もしっかりしたままだった。たまにこういう日がある。そうすると僕は決まって従業員専用の二十四時間営業のバーに行って、あえて酒を頼まずにカルピスとかを注文する。そしてカルピスを飲みながら自分の身体機能の閉店時間を待つ。
僕の部屋は五階にあり、バーは地下にある。僕は睡魔訪問の時間稼ぎのために階段を使ってバーに向かった。上りだったら目が冴えてしまうが、下りならゆっくり行けば段を下る時の心地よい揺さぶりで睡眠時間を早められるかもしれない。階段の蛍光灯はちょうど良い明るさだった。眠りたい僕にとってちょうど良いということだから、つまりは普段の正常な状態の僕ならば少しだけ暗いと思うような明度の蛍光灯だった。
僕は誰ともすれ違うことなくバーまで辿り着いた。思えばこの店には文字通り想像を絶する数の人間が移動しているというのに、その一人たりとも僕を視界に入れることがなかったというのは、不思議といえば不思議だった。
僕はバーに着くとまず同じ大部屋の仲間を探した。もちろん彼らと同じ席に座るためではなく、彼らを避けるために。同席すれば予期せぬ膨大な量のアルコールを取り込む羽目になるだろうし、長ったらしい愚痴をこぼされるだけだろうから。そんなのはごめんだ。幸い彼らはすでにバーを出ていたらしく、どこにも見当たらなかった。僕は一番奥の隅っこのカウンター席に座って、無口なバーテンにカルピスを注文し、それをちびちびと飲んだ。飲みながら僕はこの店の出入口ついて考えた。
前にも言ったとおり、僕はこの店の出入口を見たことも、当然使ったこともない。必要がないと言ってもいいくらいだ。ただ、この店に客が来て、客が帰り、定年退職する従業員がいて、新人が面接に来るということは、出入口は確かに存在するということになる。そして僕と出入口はそれくらいのつながりしかもたないものなんだ。
ふと、僕はこの店が少し変だなと思った。
会計所のレジがある場所は知っているけれど、出入口を僕は知らない。ということはレジと出入口との距離が恐ろしく長いという間取りになる。ほかの店について生で見たことがないからよくわからないけれど、利便性を考えればレジは出入口のすぐそばにあるべきだし、出入口はレジのすぐそばに設置されるべきじゃないだろうか。少なくともレジのある位置から出入口の存在を確かめられないなんて、ちょっと異常としか言いようがない気がする。今まで当たり前だと思い込んでいた事に疑問を抱くときには必ず妙な違和感を覚えるものだけど、僕は今その感覚の典型を味わうことになった。
だめだ、こんなことを考えてしまうから頭が冴える一方なんじゃないか。僕は眠りたいんだ。
僕はカルピスを一気に半分まで飲んだ。冷えた液体は生ぬるい僕の食道を沿うように流れ下る。僕は何も考えまいとした。目を閉じて、周りの雑談を遮断しようと心掛けた。
一つだけ、どうしてだか知らないけれど声が浮き出てきて僕の耳に届く。とても静かにその声は届く。とても小さい声だったので、本来ならその声を僕は聞こえるはずがなかった。
僕は音の発信源の方を向いた。僕がカウンターの一番隅っこで、声の持ち主は僕の二つ隣で、僕と同じカルピスを飲んで、僕と同じように周りの喧騒を遮断していた。彼女の「声」を僕は聞くことができたが、彼女の「言葉」を聞き取ることは残念ながら僕には、そしておそらくこのバーにいる僕以外の誰にもできなかった。
彼女のカルピスはほとんどなくなっていて、彼女の例のコップの方の中身は、もういつこぼれてもおかしくないくらいに満たされていた。むしろそれをこぼさずに持っていられることの方が不思議なくらいだった。だって普通の人なら彼女の半分くらいの量しか増していない段階で、仕事中に半ば故意に中身をぶちまけようとするものだから。僕も、そこまでじゃないにしても、七割くらいに増えてきたところで料理にこぼしてコップを空にし、足軽になる。だってその方が自分の仕事がしやすくて楽だ。
コップを持っているということは、彼女は僕と同じフロア係ということだ。僕は気まぐれで彼女に話しかけてみることにした。
「やあどうも、失礼ですがどうかなされたんですか?」
彼女は僕よりも二、三歳くらい年上に見えた。彼女は僕が突然話しかけたことではっと我に返った様子で、少し驚いた風にも見えた。
「すみません」と僕は付け加えた。「コップがそんなに満たされている人も珍しいなと思ったもので」
彼女は僕の言葉を聞いて最初カルピスのコップに目をやり、それが僕の言っているコップじゃないということを認識した後で、あふれそうなコップの方を一瞥した。それから何か物事に飽きてしまった人のようにため息を深くついた。
「たしかに珍しいかもしれませんね。私もこんなに中身がいっぱいになったコップをほかで見たことはありませんし」と彼女は言った。
「じゃあどうして捨てずに溜めているんですか?」と僕は聞いた。すると彼女は一瞬だけ、僕の方に鋭角的な視線を向けたが、次の一瞬のうちに何かを諦めたかのように視線を机の木目に戻し、それが誰にも向かないようにした。刃渡りの短い両刃のナイフみたいな視線が僕の印象に焼き付く。机の木目は何を象徴するでもなくあるがままに流れている。
「わかりません」と彼女は言った。投げやりな風には聞こえなかった。
「変な事を聞くようですけど」少し間をあけてから、彼女は何かの判断の末に僕に向かって呟いた。
「どうして皆さんはそれをこぼすんだと思いますか?」
「中身をどうして料理にこぼすのか、ということですか?」
「ええ、私はこのお店で働くようになってまだ間もないですし、ここのシステムについてはあまり詳しくありません。でも、私にはどうして皆さんが料理に中身をこぼしたまま、それを平気でお客さんに提供できるのかがまったくわからないんです」
「どうして―…?」僕はどう答えていいのかわからなかった。だから彼女が僕に何か回答のヒントをくれるのを待つことにした。でもいくら待っても彼女は何も話さなかった。なぜなら、彼女もずっと僕の回答を待っているからだ。
「あまり深く考えたことはないけど」と僕は仕方なく言った。「あなたの持っているコップの中身も、僕の持っているやつのも、もちろん他の従業員の持っているそれも、絶対に増え続けるってことは知ってますよね?」
「はい」
「で、それを何もせずにいれば当然いつか中身が溢れちゃうってのもわかりますよね?」
「ええ」
「そうすると、僕らの仕事はこのコップを持ったまま料理を運ぶことですから、嫌でも中身は料理にこぼれてしまうじゃないですか」彼女は理解しかねるようだった。僕は続けた。
「例えば僕の持っているコップをキッチンの調理台の上とかに置いておいたまま料理を運ぶことができたり、片手にだけ料理を持って何度も往復しながら、料理を一つづつ丁寧に運ぶことが許されるなら、たしかにコップの中身がいくら増えようと料理にこぼすことは避けられますけど」そう言って僕は半分残っている僕のカルピスをわかりやすいようにちょっと遠くに置いた。彼女は頷きながら僕のカルピスが移動するのを黙って目で追った。「でも知っての通り、このコップは絶対にそんなことできないものですよね?つまり、コップはキッチンの調理台の上に置いておくこともできないし、コップのために料理を片手にだけ持って何回も往復して運ぶことで、仕事の効率を下げることもできない。それに中身を増やさないように努力することだって、毎日せかせかと働いてるんじゃ不可能だと思いませんか?」
「不可能?」彼女の眼が持つあの鋭さが僕の両目を捕えた。仕方なく僕は「大体この店には中身を捨てるためのバケツだってないんですよ?最初からね。それに、コップをキッチンの調理台に置いておくどころか、フロアの人間はキッチンに入ることすら許されてないじゃないですか。この店はとても大きいから、分業というものが異常なくらいきっちりしてる。キッチンの彼らには煩わしいコップなんてないし」と少し話の軌道を誤魔化した。
「私が以前働いていた店にも、そんなバケツなんてありませんでした」と彼女は言った。
無駄だった。彼女の眼は僕のくだらない責任転嫁をとっくに無効化している。
「中身がこぼれても、料理には何の影響もないんですよ?」僕は少し強めの口調でそう言った。彼女が単にその暗黙の事実を知らないだけかもしれないと思ったからだ。
「そんなことはありません」と彼女はきっぱり言った。「コップの中身が料理にこぼれれば、味も見映えも匂いもすべて格段に落ちます」
「いや、落ちませんよ。だからこそこの店はいつも繁盛しているんじゃないですか。新聞を読みましたか?この世界的な不況をものともしない。だから少なくともこの店に限っては、もちろん客にとってですけど、コップの中身なんて無いのと同じなんです。他の店に比べれば、規模が大きい分たしかに色々な不都合や問題が生じる。その結果かさの増すスピードは速いかもしれない。でもこの店の規模を考えればこそ、コップの中身が持つ客への影響は塵よりも小さくなる。そうやってうまい具合にこの店は成り立ってるんです。」
「あなたのそれは本当にお客様のことを考えていますか?」と彼女はぴしゃりと言った。
例の鋭角的な視線は今度は僕の目ではなく心に突き付けられた気がした。とても複雑な温度の刃物だ。
「私がこの店に面接に来た時、つまりまだ私がお客さんとしての側面を持っていた時、賄いで出していただいた料理の質がコップの中身のせいで本来のものよりも落ちていたことに、すぐに気がつきました。私は面接の担当者が席を外した時に、私と一緒に面接を受けていた方にそのことを話しました。その方も質の悪さには気づいていました。その方は、そんなの仕方のないことだってほとんど諦めていました。あなたの言うように。でも、私にはそれがどうしても納得できませんでした。もちろん今もそうです。だって完全じゃない料理だとわかっていてそれをお客様に提供するのって、あきらかに、あきらかに、おかしい…じゃ…ないです…か」刃物は急に鋭さを失っていった。彼女が説明の難しい複雑な悔しさから涙ぐんでいたからだった。
僕は今まで彼女の話を百パーセントの状態で聞いていたわけではなかった。心の片隅でこの店の出入口について考えていたのだ。けれどそれをちょっとやめにして、彼女の悔しさに百パーセント付き合おうと思った。
「実は僕はあなたの言うことが全く分からないってわけじゃないんです」と僕は言った。「本当に本当のことを言ってしまえば、コップの中身がこぼれれば、料理は劣化します。当たり前です。これは何もあなたに同情したり譲歩したりして言ってるわけじゃありませんよ」僕の思い込みかも知れないけれど、その時彼女の涙は少しだけ僕に向かって波打ったように見えた。「味も質も見映えも存在意義も、程度の差こそあれすべて劣ります。そしてこれはきっと個人的な見解じゃなくて、確固たる事実だと思います。あなたの言う通りにね。でも、仮にコップの中身をこぼしてはならないという規則がこの店にできたとします。そうすると何が起こるかというと、当然、僕らの仕事の効率が目に見える形でガタ落ちするんです。簡単な例でいえば、料理を運ぶスピードが極端に遅くなる。例えば、客が店員を呼んでも、中身をこぼすのを避けるために誰も注文を受けたがらなくなってしまう。宴会の席なんかには特に近寄りたくなくなるでしょう。さらには、従業員同士の暗黙の共有事項が、一つ減る。わかりますよね?」
「わかります。でも、じゃああなたは規則がなければ中身をこぼさないように努力をする必要はないって言うんですか?」
「そういうわけじゃありませんよ」
「いままでこぼさないように努力したことは?」
「あります。昔。昔って言っても僕はまだ十九ですから、それほど遠い話ではないんですけどね」
「お若いんですね、私は二十一歳です」と彼女は言った。僕の予想はばっちり当たっていた。
「まだ僕が料理運び係に配属されて間もない頃、僕はあなたと同じような悩みを、いや、悩みというか疑問というか、そういう類のものを抱きました。どうして料理運びはこんな邪魔なコップを抱えたまま仕事しなければならないんだろうとか、どうしてコップの中身はこんなにも薄汚く見えるんだろうとか、どうしててきぱき働く人のコップの中身は仕事が間に合わない人のやつよりも溜まるのが速いんだろうとか、そもそもなんで働いただけで中身が勝手に増えてくるんだろうとかね。もちろん、どうしてみんな平気な顔して料理にぶちまけられるんだろうとも思いましたし。でも、僕は料理運びを始めて四、五年経ちますけど、そういう疑問に対する答えって、何となくわかってきた気がします」
「答え?」
「答えというか、解釈ですかね」
「どういうことですか?解釈って、もしかして『そのうちわかるから、今はとりあえず黙って見過ごすのが賢明だろう』とか、そういう解釈なんですか?」そう言って彼女は涙をハンカチでちょっと拭った。彼女の涙はもう彼女のコップの中身よりも先に溢れてしまいそうだった。そのうちわかるという解釈はある意味で正解なんだけれど、それを肯定してしまえばおそらく彼女のハンカチがぐしょぐしょに濡れてしまうと思ったので、僕は眠くもなく冴えてもいない頭を絞って説明を探した。
「そのうちわかると言ってしまえば簡単なんでしょうけど、僕はそうは思いません。うまく説明できればいいんですけどなかなか言葉が見当たらないので、とても端的に言うことにしますけど。要は、店を最優先にすることですよ。店を最優先に考えれば、結果中身はこぼさざるを得ないということになるんです。そういう解釈です」
彼女の眼は客観的に僕の説明を見据え、彼女の耳は非感情的に僕の言葉を淘汰した。それでも彼女は泣きだしそうだった。彼女は涙がこぼれないよう上を向き、そのついでに残りのカルピスを飲んだ。だからグラスの底にフルーツカクテルが残っているだけになった。「結局お店はお客さんよりも自分を優先させることになってしまうんですか?自分を優先させるために自分の邪魔なものをわからないように押し付けてしまうと」
「自分を優先させることも、邪魔なものを他に押しやることも、世の中の隠されたルールじゃないですか」と僕は言った。そしてそう言い終えたとき、張りつめっぱなしだった僕の心臓は、どこか深いところに在った清き血を在るべき場所に留めておくことをやめ、日々循環する薄黒い血流に混ぜて、一緒に流し込んだ。全身で一種の諦めと、小汚い敗北と、開き直りと、眠気を感じ取った。
僕は口先だけでまるで昨日の売れ残りのような賞味期限切れの弁解を彼女の前に提供した。
「コップの中身が増えるのは客のせいでもあるし、だから僕らは料理にそれを還元する。たとえ原因が客に無いものだって、僕らは平気で客に還元します。そりゃあそうでしょう、客側だって僕らに原因があるはずもないことで僕らのコップの中身を増やすんですから。客は僕らに直接関係のない要素で僕らの中身を増やす。つまり自分を優先する。同じように僕らも自分を優先して、理不尽に溜められたコップの中身を客の料理に流し込む。そうやって結果的に中身が循環していく。あそびのない社会では、僕らは結局そんな方法で日々の労働を凌ぐことしかできないんですよ」
「本当に、本当にそうでしょうか」と彼女は言った。
「わかりません。僕が思うのがそうってだけです」と僕は答えた。
僕は遠くに置いていたカルピスのグラスを手元に戻して、残っていた半分を飲み干した。氷はすっかり溶けていたので、だいぶ水っぽい、まずいカルピスだ。僕はフルーツカクテルも口に入れ、がりがりと噛み砕いた。彼女の瞳の潤いについて僕は確認するのをやめた。僕の視線は目的もないまま机の木目をたどるだけだった。
「このお店を出ませんか?」
行き当たりばったりの僕の視界は不意に彼女のくりっとした両目に切り替わった。びっくりした。僕はそのせいで次の言葉を出し遅れた。
「この店を出るだって?」やっと僕がそういったとき、彼女はもう椅子から腰を半分以上浮かせていた。僕と彼女は席を立った。そして僕はものすごい速さで駆けだした彼女のあとに、本当に必死でついていった。
「ねえ、この店の出口を知ってるの?」僕は前髪をなびかせ、息を弾ませながら彼女に聞いた。
「ええ、私はもともと別の場所から来たから」
と彼女は言った。彼女は僕の二歩くらい前を走っていて、僕は結構全力で走っている。にもかかわらず、彼女には全くと言っていいほど疲れた様子がない。僕の眠気は吹っ飛んだ。
僕らは、僕ら以外の誰も僕らの存在に気づかないくらいに速く走った。バーを出た時も、薄暗い階段を全速力で登った時も、ただの一人ともすれ違わなかった。でも、それは予想通りだったし、僕にはそれが不思議な事だとも思えなかった。何の迷いもなく出口に向かって駆ける彼女に、僕は汗を流し、息を切らしながら何とか食らいついていった。
キッチンの中を走り抜けた時だった。僕は一瞬にして全身の力が抜けかけ、危うく腰を抜かしてしまいそうになった。なぜならそこには、僕らのコップの比にならないくらい大きな鍋が置いてあり、中には僕らのコップの中身と同じものがその大きな鍋いっぱいに満ちていたからだ。コンロの上にあるスープやシチューの鍋の横に、平然とその鍋は腰を据えていた。一番大きいサイズの鍋だ。鍋の横には中身がべっとりとこびりついたおたまがまるで疲弊しきった蛇みたいにぐったりと置かれている。
ああ、結局キッチンにも中身はあって、ここでは中身なんてこぼすどころじゃない。それどころか、故意に加えていたっていうのか。
僕は崩れてバラバラになってしまいそうな両足を何とか踏ん張って、無我夢中で彼女の後を追った。僕はとても悔しくなった。こんなに大きな鍋が料理を作る段階ですでに用意されているなら、僕らのコップなんて確かにあってないようなもんじゃないか。なんだって僕らはこんな小さなコップ一杯に悩まされなきゃならないんだ。本当はこのコップの中身も、それより大きなあの鍋のそれも、どっちも料理にはこぼしたりするべきじゃない。でも、こんなに堂々と、まるで調理過程の一要素みたいに鍋を置くんじゃあ、僕らがこの塵みたいに小さなコップの中身をこぼすことに罪を感じるわけがないじゃないか。
ああ、いっそこの鍋を床に叩きつけてから逃げてやろうか。この目障りなコップも一緒に。いや、いいんだ、そんな余計なことはしなくていい。僕はただ走ろう。これが正しいことなんだ。あとちょっとでここから出られるんだから。彼女だけが頼りだ。
出口は普通の自動ドアで、まるで僕らを歓迎するかのように店は僕らを「外」へと導いた。「外へ出たければそうすればいい。誰もそれを妨げない。誰もそれを憐れまない」ドアが開いた音だと思うが、何となく僕にはそういう風に聴こえた。まるで吐き捨てるように。彼女は外に出ると走るのをやめた。だから僕も彼女の横で止まった。「じゃあ元気で」と閉じるドアは皮肉っぽく別れの挨拶をした。
僕と彼女は薄い膜のような夜空の最果て近くをなぞるようにして歩いた。僕は彼女の方を見ず、とりあえずは自分の鼓動が正常に戻り、汗が引いていくまで歩き続けることにした。体が元に戻る頃には海辺まで来ていた。近くにちょうど勝手のいいベンチを見つけたので、僕らはそこに腰かけて話をすることにした。
「いやあ、とても疲れたな。走るのが早いんだね」と僕は言った。
「あなたもたいしたものだったわ。だって走るので私についてこられた人ってあなたが初めてだもの。ありがとう」と彼女は言った。
僕は彼女の顔をちゃんと見た。彼女はやっぱり疲れがない。彼女の髪は夜のしなやかな暗がりにとても上手に馴染んでいる。眉は彼女の人間的な愛しさを真摯に表現している。瞳は――――?
瞳はもう潤んではいなかった。数分前の逃走を思い起こしてみても、雫が渇いた床を濡らした光景なんて思い当たらない。彼女が僕の前を走り、僕が彼女の後ろを走っていたから、もし雫がこぼれるようなことがあれば僕は絶対に気づいていたはずだ。
あれ?雫――――?
僕はまたしても奇妙な違和感を覚えた。その理由は本当に一瞬にして分かった。あまりに重要すぎるものが僕と彼女の両方から消え去っていたからだ。堂々と消え去ったそれは、言うまでもなくコップとその中身だ。
「ねえ、見て。僕のコップがなくなっちゃったよ。はは、どこかでなくしちゃったみたいだ」と言って僕は両腕を横に広げてみせた。そして久しぶりに両掌を開いた。両掌を同時に開くことがこんなにも気持ちいいことだなんて、今まであの忌々しいコップのせいで忘れてしまっていた。でももうコップは消えた。今度はコップのことを忘れてしまおう。僕は彼女のほうを見た。彼女は不思議そうに僕を見た。
「コップ?コップって?」
「コップだよ、ほら見てごらん。君の手からもなくなってる。僕らは自由になったんだ」
「自由ですって?あなたの言っているのはどういうことなのかしら。何の話?」
「コップの中身の話さ。わからないのかい?だってほら見てよ。さっきまであんなに邪魔だったコップが、もう無くなっちまったんだよ!きれいさっぱり消えちゃったんだ!これでもう僕も君も中身をこぼすことに怯える必要なんてなくなったんだよ!」
僕はだんだん興奮してきた。そして彼女の冷静もそれに比例した。
「ねえ、あなた少し変よ。コップとか中身とか、こぼすとか、私にはさっぱりわからないもの。コップが欲しいなら明日どこかへ買いに行けばいいでしょ?ちょっとおとなしくしてよ。もう夜も遅いんだからね」
「何だよ、どうしたって言うんだ!君も素直に喜べばいいだろう?僕より君のほうが悩んでたじゃないか。でも、こうなるべきだったんだ!僕も君も、店から抜け出して正解だったってことだね。やっぱり君には感謝しなくちゃ」
「お店?」と彼女は尋ねた。彼女は全く真剣な顔つきをしている。だから僕はちょっと興奮を冷まさないわけにはいかなかった。
「お店、うん、そうお店だよ。お店で働いてたから、君はコップを持つことを義務化されたんだよね。それに、お店で働いてたから僕とバーで出会ったんだ。そして君はそのせいで苦しんだし悩んだし、僕に脱走を持ちかけることになったんだ。ねえ、…まさかとは思うけど、覚えてないって言うんじゃないだろうね?」僕は僕の意思を通り越して、勝手に興奮が冷めていくのが手に取るようにわかった。同時にとても怖くなった。そして肺が何か得体のしれない物質によって押し上げられ、そのまま固定されてしまったみたいな気がして、また怖くなった。だんだんベンチに座っているという感覚も、夜が暗いという常識も、彼女が生き物であるという事実も、人知れず薄れていくように思われた。怖いとしか言いようがない。本当に怖い。彼女はぽつりと言った。
「ねえ、あなたは誰なの?」
温かさがない。その代わりに冷たくもない。何もない言葉だった。そしてそれっきり僕は言葉を「聞く」こともできなくなった。だから僕はいろんなことが疑わしく思えてきた。果たしてあんな店は本当に在ったんだろうか。コップの中身は本当に僕らの意思に反して勝手に増えていたんだろうか。僕は彼女を救ったんだろうか。縋ろうと僕が目を向けた場所には、彼女はもういなかった。彼女がどこか別の場所に行ってしまったんじゃなくて、もう世界に存在していないんだということは、僕には分かった。彼女がさっきまで使っていた空間はもうとっくに埋められてしまっている。
薄い膜のような夜空は問題なく夜空であり続け、僕の座る最果てのベンチは変わりなく僕を乗せて立ち続ける。そして風は彼女をまるで白い砂のようにさらさらと消し去り、僕の耳を塞いだんだ。きっとそのうちに僕の体も消えるんだろう。だって僕一人だけが残されたところで、一体何になるって言うんだ。何もできやしないじゃないか。
膜の空も無限の海も、こうなれば闇でしかない。僕は既に寒さも感じなくなっている。あの時僕は彼女の憂鬱に付き合うべきじゃなかったし、店を逃げ出すべきじゃなかったんだ。