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不思議な塔


 不思議な塔



 北海道の麗瑛町(れえちょう)に広々とした草原がある。雲一つない青空の元、延々と続いているかと錯覚する豊かな緑。観光系のWEBサイトに掲載された風景画像は、仕事で疲れた彼の精神を刺激した。

 久松邦夫(ひさまつくにお)は慰安の旅先を此処に決めた。

 飛行機は嫌いだったので電車で十時間かけて赴いた。電車すらあまり乗らないので、途中で海中を走ると知ったときには驚いた。

 札幌は東京とさして変わりがなく新鮮味がなかった。有名な時計台は期待を裏切り、しかしその裏切りさえ札幌の平凡さの所為で予期していたから、邦夫は特に残念がったりしなかった。

 五千円ちょっとで泊れるそこそこのホテルで夜を明かし、バイキングの朝食を済ませ、電車を乗り継ぎ麗瑛町へ赴く。

 駅の近くには、観光客をアテにした店舗が幾つも立ち並んでいた。ぶらぶらと歩いていると、興味を引く所があった。小さなアイスクリーム屋だ。レジには三十半ばと思しき人妻風の女が居た。邦夫をちょっと見てから「いらっしゃいませ」と凄く小さな声で言った。

 アイスを一つ注文する。すぐに作られた。

 レジのすぐそばにベンチがあり、座ってゆっくり食べたいと思った邦夫は女に尋ねた。「ここで食べてもいいですか」

 女はさっきよりも大きな声量で「はい」と愛想よく応えた。甘い物は好きだったが、思ったより大きくて食べきるのに時間が掛った。邦夫が舌をぺろぺろさせている間に二組ほど客が訪れ、邦夫をちらと見遣っていた。

 草原はスマホの地図によればさほど遠くない。邦夫は徒歩で向かった。北海道といえば寒さが印象的であるが、あまり寒くはなかった。東京よりちょっとだけ寒い。

 建物が少なくなり、徐々に目的地が見え始めた。邦夫は実は心配だった。札幌が思ったよりも平凡だったから、この草原にもガッカリする未来が訪れる可能性に危惧したのだ。

 しかし杞憂だった。

 草原はディスプレイで見るよりも圧倒的だった。其処はまるで異世界の雰囲気を纏っていた。

 邦夫は暫く開放的な気分を味わってから、漸う足を踏み出した。遠くに見える幾つかの木々のまとまりのひとつに狙いを定めた。

 くしゃ、くしゃ、と緑に実った草を踏む。

 遠くから車の音でも聴こえれば興ざめだが、小鳥の囀りだけが彼の耳に木霊した。ここに来てよかったと早くも満足する。

 歩きながら何度も辺りを見回した。普通の休日ならさして混まないと思ったのだが、その通りだった。見た感じ、他人は五組程度である。

 木々の並びに近づくにつれて、その向こう側にある白い何かが気になり始めた。人工物でもあるのだろうか。

 邦夫はよく聴く洋楽を不正確な歌詞で口ずさみながら歩み続けた。自分が今まで居た世界からどんどんと離れていくような感覚があった。

 木々と出会う。

 見上げ、大きいなと邦夫は思った。自分よりも何十倍、何百倍と生きているに違いない。視線を下げ、木々の向こうにある世界へ歩を進めた。途中、振返った。遠くに数組の観光客か地元民が見えた。

 木々の鬱蒼を抜ける。

 ちょいと離れた所に、気になっていた建造物が聳えていた。それは、塔だった。白っぽい廃れた塔だった。入口と思しき所へ到着する。都会で見る高めのビルの半分程度の高さ――邦夫はそう測定した。

 塔の外側をぐるりと一周した。期待した立て札とかはなかった。入口の前で入ろうか迷ってから、スマホで地図を開いた。建物は認識されているが、タップしても詳細が表示されない。検索して調べるのは面倒に感じたので、進入することにした。

 管理人室は入ってすぐ左にあった。

 小窓があり、中にいる男とやり取りできそうだった。男は椅子に座ってカバーのついた本を読んでいた。邦夫に気が付くと不思議そうな表情をして身体を寄せてきた。

「すみません。観光客なのですが、ここは入ってもいいのでしょうか」

 男は合点したように頷き、「はい」と応えた。

 邦夫は前に向き直り、細い通路を進んだ。広間に出て、まず彼を包み込んだのは解放感だった。見上げるとその訳を知った。天井まで吹き抜けだったのだ。

「すっげ」

 自然と笑みが零れてくる。しかし、素人ながら、これは建築技術的に問題がありそうな気もした。

 壁に沿った階段を昇りながら、そういった一抹の不安を覚えつつも、内心は小躍りしていた。とんだ掘り出し物だ、と。

 二階と言ってよい場所へ到着し、とりあえず一周した。壁に取り付けられた窓から外を見たり、手すりから階下や上階を眺めたりする。窓以外に興味を持つべきものは何もない。

 三階へ昇った。

 まるで二階と変わらなかった。この施設が何の目的で建造されたのか疑問を感じつつ、階段を一歩踏み出したとき、視界の端で異常を捉えた。

 顔を上げてそれを見た時、心臓が爆発しかけた。声は出なかったが体は飛び上がった。

 階段の中腹で老人が佇んでいた。壁に背を向けて立っているのだ。老人らしく杖をついている。

 邦夫は咄嗟に昇るのを中断した。踵を返し、無暗にもう一周した。心を落ち着かせる意味合いがあった。

 階段に到着するとまだ老人はそこに居る。

 彼と同じ段辺りまで昇り声を掛けた。

「こんにちはぁ。大丈夫ですか?」

 老人は邦夫を認めるなり、ううむと唸った。そして、次にはオオと唸った。それからこう言った。「これはこれは、こんにちは」

 邦夫は彼の足のつま先から頭までこっそりと見通して、「足でも痛めましたか」と尋ねた。

 老人は邦夫の意図を察したか、表情を綻ばせて、「心配いりません。そういう訳ではないのです」としゃがれ声で言った。

 邦夫は迷った。そうですかと一言添えて彼を見捨てるか、はたまた助けるかと逡巡したのだ。老人は視線を下に向け黙りこくっている。迷惑を掛けたくなくて助けを辞退する人間がいることを邦夫は知っていた。

「本当に大丈夫ですか。もし、一緒に降りましょうか」と聞いた。

 老人はまた口角を僅かに上げ、「大丈夫。そういう訳ではないのです。ただ考えていたのです。昇るか、降りるか」とだけ言ってまた黙った。

 邦夫は頬をぽりぽりと掻いてから、さてと思った。老人の言ったことの意味がよく判らなかったのだが、このまま立ち去るのは気が引けた。いや、違う。旅先で邂逅したこのちょっと不思議な他人に親近感でも沸かせたのだろうか。普段の自分ならしないようなことを想像し、実行してしまっていた。

「昇ったらどうです」などと言ったのだ。

 すると老人はムッと顔を顰めて、「それは疲れるでしょう」と言った。

「では下ったらどうです」

「それも疲れますでしょう。そして昇るのに比べて面白くない」

「ならば」と邦夫は言葉を切ってから言う。「そうして立ち止まっている今はどうなのです」

 老人は邦夫の目をじっと見張った。

「楽しいですよぉ。考えている間は自分自身と向き合えますからねぇ」

 確かに楽し気な口調だった。

 結局、邦夫は昇って行った。

 この階もこれまでと変わらなかった。

 次の階へ昇り一周する。同じだ。

 屋上までこの調子じゃないんだろうな、と不安を抱えつつ階段を乱暴に昇っていく。その途中で人の声らしきものが聞こえてきて、ちょっと嬉しくなった。

 その階は少し設備が違った。そこそこの椅子とテーブルがあり、幾つかのグループが腰かけて談笑したりしている。

 邦夫は一周し、恐らく一人でいるであろう者を見定めていた。両の前腕を手すりに置き、重ねた手の甲に顎を載せて階下を見下ろしている女がいる。邦夫は彼女にゆっくりと近づき、勇気を出して声を掛けた。

「こんにちはぁ」

 女は顔だけ向けて、何も言わない。

「すみません、初めて来た観光客なんですが、ここってなんていう施設かご存じですか?」

 女は目線を左上に向けてから、「あー」と低い声を出した。そして引きつった笑みを浮かべて、「わかんない、ごめんなさい」と言った。

「そうですか。……この塔、何階まであるんでしょうかね」

 女は姿勢を崩し腰に手を当て身体を反らせた。胸が強調される。「ちょっとごめんなさいねぇわかりません」そう言って困ったような笑みを浮かべた。

 邦夫は彼女をさっそく気に入った。知らない土地の知らない女。一人ぼうと手すりに寄り掛かる女。長い黒髪の赤いニットを着た女。細身に小ぶりな胸の女。

 女は、邦夫を高鳴らせるものを全て有していた。

「そうですか。……あの、あなたもお一人ですか?」

 この旅行をただの男一人旅にしないチャンスがあるとしたら、今しかないと思った。

「え、はい」女はキョトンとしている。

「そぉですか」と邦夫は顎を摩り、「よかったら一緒に昇りませんか」と言った。

 大胆だった。老人のときもそうだが、旅先ということもあり浮かれているらしい。自分の行動力に、事後に驚かされる。

 女は少し口を開けたまま数秒固まっていたが、やがて声を出した。

「ごめんなさい。あたしこの階に居たいんです。ごめんなさぁい」

 邦夫は少なからずショックを受けたが、「あ、そうですか」と小さく返答し、へらへらした。女も眉を捻らせた笑みを浮かべている。ナンパ失敗である。

 バツが悪くなった邦夫は背を向けて階段に向かったが、どうにも踏ん切りがつかず、馬鹿みたいにもう一周した。また女の所で立ち止まる。

 女は手すりに寄り掛かった姿勢に戻っていた。

 女の先の発言には聞き逃せない何かがあったと感じていた。彼女の背中に向かって再度声を投げかけた。

「すみません、どうしてこの階に居たいのですか?」

 女は邦夫をちらと一瞥した。

「だって、下を見てみてください。ほら、深くて怖いでしょう。落ちたら痛そう。次は、上を見てください。天井まで凄く遠いでしょ? ここからだと手が届きそうにないけど、下にいた頃ほどじゃない。何だか、ねぇ荘厳でしょう?」

 女は屈託のない笑顔を向けてきた。邦夫は謎の悪寒に襲われ、生返事をして早々にその場を後にした。彼の背中に彼女の声が漂った。「それに、ここにはあたし一人じゃないしねぇ」

 階段を昇る。

 何もない。

 次の階。

 何もない。

 次の階。

 何もない。

 次の階。

 何もない。……いや、ある。

 気を紛らわせようと、違和感の正体を探るべくもう一周した。少しして、他の階との違いは香りだと気が付いた。なんだろうか。甘ったるいような、有害そうな匂いだ。

 だからなんだと自嘲した直後、強烈な気配と視線を感じた。

 どれだけ見回してもこの階には誰も居ない。子供の頃、夜中に目が覚めて無意味に怖くなったことを思い出していた。上階へ逃げたい気持ちが強まってきたが、じっと我慢した。敵意とは別のものを感じたのだ。

 物理的な伝達や言葉でのコミュニケーションとは異なり、感覚的な接触があった。次第に浮遊感が生まれた。

 そして微弱なる意識の淵で、言葉とは程遠い、筆舌に尽くし難い、会話の如くを何者かと交わした。

 ……そうか、一人で旅行か。はい、そうです。お前はここに来たことがあるか? いいえ、初めて来ました。うん、北海道の感想は? 思ったより普通で肩透かしです。わかる、俺も初めて来たときはそう思った。

 邦夫はスマホを見た。十五分程が経過していた。

 ……もう行きます。どこへ行く。上の階へ。馬鹿が、帰ってこれなくなるぞ……。

 邦夫はゆったりと歩み出した。意識が肉体に定着するまで、少し時間を要した。階段を昇りながら、階下を振り返った。途端にどっと汗が吹き出た。じぃっと目を見張る。もう例の香りはしなくなっていた。

 汗を拭い、邦夫はこの階の探索に出かけた。

 窓の外に見える草原を眺める。遠くで家族連れがシートを敷いて寛いでいた。父親らしき人物がこちらを指さしたように見えた。

 また二階か三階か、数えていないがそのくらい昇った。

 時折、窓の外の風景をスマホで撮影した。階下や上階にスマホを向けもした。画像を確認していると、先ほどの女が階下を見下ろしているものがあった。次の画像では、上を見ていた。電子データに変換された彼女と目を合わせた。

 暫く階段を上がり続け、漸う特徴的な階へ到達した。この階の壁にはモニターが三台埋め込まれていた。孤立した一台と並んだ二台だ。孤立したほうの電源ボタンを押してみた。製品ロゴが数秒映し出され、次には真っ赤な画面となった。どうも薄気味悪いので画面を消した。

 並んだ二台の方へ行く。片方の電源を付けてみた。ロゴが現れ、パッと暗転すると椅子に座った人間を正面から捉えた映像に切り替わった。見覚えのある男だった。本を読んでいる。この塔で最初に会った管理人だった。彼は不意に邦夫と目を合わせた。邦夫はドキッとした。男は「あぁ」と言ってから、「どうかされましたか」と丁寧な口調で尋ねてきた。このモニターにはスピーカーが内蔵されているらしい。カメラは見当たらない。

 邦夫は眉を顰めてから、「あ、すみません。ちょっと電源ボタンを押してみただけでして」と作り笑いを浮かべた。

 男も苦笑いしてから、「あぁそうなんですね。何かお困りでしたらどうぞぉ」と言う。

 特に困ってはいないのだが、このまま切るのもどうかと思い、邦夫は質問を見つけた。

「あの、この施設はどういった用途なのでしょうか」

「この塔は、かつてこの地に住んでいた富豪が五十五年前に道楽で建造しました。後年には、主に屋上からの景色を目当てに観光客にも開放され、公共の施設のような扱いとなったとされる記録が辛うじて残っています。十年前に道が文化遺産に指定しました。富豪の名に因み、田中山(たなかやま)塔と呼ばれます」

「たなかやま……」

「屋上からの景色は最高ですよ。きっといい気分になりますので、是非昇りきってください。階段しかなくて大変かもしれませんが」

 礼を言ってから邦夫がぼうとしているので、男の方から通信を切った。邦夫はもう片方のモニターの電源を付けた。すると、また管理人室に繋がった。二人して薄ら笑いを浮かべつつ、適当な雑談を交わした。通信を終えると、邦夫は階段へ向かった。

 昇り階段と下り階段。

 当然昇るが、実は疲れ始めていた。学生時代は運動に青春を捧げて体力には自信があったのだが、身を引いて八年くらい経っている。今年で三十歳だった。この程度の運動で疲労するとは思っていなかった。想像以上に体力は落ちている。

 下で幽霊も奇妙なことを言っていたことを思い出す。

 帰ってこれなくなるとかなんとか。

 喉が急に乾いた。

 邦夫は手すりに近づき、上階を仰ぎ見た。

 あと幾つ昇ったらいいのか数える気にならないが、まだまだなのは分かる。下から視線を感じたので、欲望に負けることなく身を引いた。きっと見ていたら後悔しただろうと想像する。

「昇るさ、当たり前だ」

 ここで踵を返すというのは論外だった。このまま東京に帰るだと? 絶対に嫌だ。そんな馬鹿な話はない。

 絶対に屋上へ行き、この草原を一望するのだ。

 根拠のない自信が身の内に湧き立つ。これが大事なのだと、スポーツの経験から知っていた。格上を倒す方法はそれに尽きる。

 五階ほど昇り、そろそろ変化が欲しいと思い始めた頃、自動販売機を見つけた。

 観光客を馬鹿にした値段設定だったが、喉の渇きを我慢することは不可能だった。千円札を手放し、炭酸水と釣銭四百円を手にする。

 バシュと音を立てキャップを取り除き、ガキュガキュと喉を鳴らし液体を流し込む。ふと、冷静になって自動販売機を眺めた。どの飲料も見たことがない。

 一体、今、何階なんだろう。

 そして屋上まで……。

 考えるのをやめて邦夫は歩み出した。元サッカー部キャプテンを舐めるんじゃねェ。口元に笑みを浮かべて階段をひとつ、またひとつと昇った。

 結構な時間を掛けて、十階くらいは昇っただろうか。

 妙だな、と邦夫は思い始めていた。外から見た時、ここはそんなに高い塔とは思えなかった。通っていた高校の校舎を思い浮かべる。三階建てのあの校舎の……。

「え?」

 思わず声に出てしまった。

 高校の校舎の三倍程度の高さだった筈だ。ならばせいぜい十階かそこらだ。邦夫はすぐに手すりに身を寄せた。躊躇いなく階下を見下ろす。

「嘘だろ」

 びっくりするほど高い。信じられなかった。かなり下の方で顔を出している者がいた。彼女が見上げる前に視線を上に移した。

「……嘘だろ」

 十階ほど昇る前よりは天井が近付いている気がしたのだが、まだまだありそうだった。もう天井付近と思っていたので面食らった。

 邦夫は手すりから離れて、ゆっくりと後ずさりした。壁に小さく衝突して、そのままずるずると腰を下ろす。疲れから来る汗と、そうでない汗が混ざり合った。

 何だ、この塔は。

 こういうとき、人は思ったように動けないものだと初めて知った。これが小説やら漫画の世界ならば、この不可解さに悠然と立ち向かうのだろうが、まず邦夫が陥ったのは、思考停止状態だった。頭が真っ白になり、何も考えられないし、考えるつもりもなくなっていた。

 何分そうしていたか判然としないが、突然きっかけもなく意識を取り戻した。スマホを出して、時間を見たり、今読む必要のないメールを開いたりした。スマホゲームを五分程やった。

 ふぅ、と意識的な溜め息を吐き、また数分間一点を見つめて静止した。

 彼は立ち上がり、手すりから身を乗り出した。

 上を見上げ、天井までの残りの階数を調べた。時間をじっくり掛けてぶつぶつ呟き確認した結果、あと九階残っていると判った。下を見る気にはならなかったので、そのまま発進した。

「俺は昇るんだ。絶対に屋上に着くんだ」

 階段を昇り切っては、手すりから身を乗り出し、残りの階数を数えた。

 ……順調じゃないか。はい。あと何階だ? あと五階です。そうか、お前は名前を何というのか。邦夫です。邦夫か、変哲のないつまらない名前だな。そうですか、あなたは? おい、もうすぐ着くんじゃないのか?

 手すりから身を乗り出す。

 炭酸水を飲み干す。

 邦夫の血走った目は、あと一階昇ったら、その次が天井であることを確かめた。

 終わりがない塔?

 よくありそうな設定は御免だぜ。

 邦夫は声に出して高らかに笑う。甘いような香りが漂ったこの階をぐるりと一周する。階段に戻ってくると、昇り階段の所で子供が一人、腰かけていた。唇の皮を血が出るまで剥いて遊んでいる。

「俺の警告を無視したな」

 邦夫は応えず、昇って行った。

 最上階だ。脚がパンパンである。息も切れ切れで、儀式のように一周する。窓から見える景色には目を向けなかった。屋上から見たい。戻ってくると、屋上への階段の途中で、老人が佇んでいた。あのとき見たように、壁を背にして立っている。

「ねぇ見てよ。ほら、下はこんなに深いんだねぇ」

 声に振り返ると、あの赤いニットを着た女が階下を眺めて微笑んでいる。

 彼女の更に向こうで、さっきまでなかった豪華な椅子に座った数人のグループが何やらひそひそと話していた。彼らの近くに設置された自動販売機から買ったのか、テーブルにはペットボトルや缶が置かれている。

 階段に視線を移す。その途端、すぐ横の壁から声が聞こえた。見るとモニターがある。

「田中山氏、大丈夫ですか、今すぐ向かいます」画面いっぱいに管理人の男の緊迫した顔があった。

 再度顔を前に向けると、老人の隣でさっきの子供が階段に腰かけていた。口から血が流れている。そこを弄ったと思しき指先にもべっとりと血が付いている。

「俺は昇るんだよ」

 邦夫は誰にともなくそう言って、強い一歩を踏み出した。

 背後でバァンというくぐもった破裂音がした。振り返ると女が消えていた。

 また一歩、踏み出す。

 また一歩。

 遂に老人と子供の段を超えた。甘い香りが鼻を掠めた。昇り切った所で、見下ろす。子供も老人もこちらを見ない。モニターの中で男が、「もう死んだんですか」と真顔で言った。

 邦夫は鉄製の扉に手を掛けた。これを開ければ屋上だ。

 何だか勇気がいる。この扉を果たして開けていいものか。

「いや!」と強く言い放ち、邦夫は開けた。

 口の中いっぱいに甘みと冷たさが広がった。

 レジの方へ顔を向けると、あの小綺麗な人妻が他の客にアイスを渡しているところだった。

 アイスを舐めながら彼女を見つめていると、目が合った。

 彼女は微笑んだ。そして小さい声でこう言った。

「楽しかった?」

 それだけ言って、すっと目を離し作業に戻った。

 邦夫は逃げるように東京へ帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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