枯枝病
およそ10年前━━
アベル=タイケは、キーニー村の端にある青い屋根の家で、家族とともに暮らしていた。
妻と、4つになる子供。
妻と知り合ったのは、およそ6年前。都からキーニーに戻った直後のことだ。
勝手に村を飛び出したかどで訴追されそうになり、ひとまず村主の家に留めおかれて沙汰を待つ間に、夫に死なれて実家に戻っていた村主の姉と恋仲になった。
アベルよりひとまわり以上年下の、細い目をした美しい女であった。
きつい女だと言う者もいたが、アベルに向ける顔はやさしかった。
結婚して1年もたたぬうち、子供が生まれた。妻によく似ていた。
この村で朽ち果ててもよいと、はじめて思った。
都での暮らしは、楽なものではなかった。いつか一旗あげてやると、それだけを考えて、20年余年を無為に過ごした。
どんなことでもして這いあがると思いつめていたが、振り返ってみれば何もしていなかった。
ただ、やくたいもないことを学び、誰でもできるようなことをして生きていた。
中年になり、ふと、田舎が懐かしくなり、物乞いのようなことをしながら再び旅をした。故郷に帰ることにはあまり現実味を感じなかったが、ともかく帰る道を辿った。なんとなく、途中で死ぬような気がしていたが、冬の寒さにもかかわらず無事に着いてしまった。
そうして、家族ができた。
都で見た物語や、こまごまとしたからくりを、息子のために整理しているうちに、やっと実感が湧いてきた。
さいわい、この村はゆたかである。
畑を耕し、紙工場で働いていれば、よほど凶作の年でも、なんとか生活できる。
多くを望まなければ、それで充分だ。
そう、思いはじめたころ、その冬はやって来た。
*
その日、紙工場は休みであり、アベルは、起きぬけから自室にこもって、4歳の息子に贈るためのからくり仕掛けをいじっていた。
押し車をおすと、車輪の動きに連動して、人形がくるくると回る。
それだけの、単純なからくりだが、なかなかうまくいかない。
歯車が、うまく咬み合わないのだ。
全体の大きさを少しずつ大きくしてみたり、使う木の種類をかえたりして、もう四回は作りなおしている。しかし、どうしてもうまく動かない。見た目にはぴったりのようでも、歯の大きさが微妙にずれているらしく、回転が止まってしまうのである。
もとは、都でみた舶来品のおもちゃである。自分なりに図面をひいて似せようとしてみたが、うまくいかない。
職人としてちゃんと学んだわけではない。すべて、見よう見まねだ。
都にいたときは、外国製品を手に入れては何度もいじりまわして、模倣するのに日々を費やしていた。いまは、そういうものが簡単に手に入るわけではないが、見たものははっきり覚えている。
作業をはじめてから、もう、五日目である。
仕事のある日は、帰ってから。今日のような休日は、ほとんど一日中、アベルは作業を続けた。昔から、そのようなところがあった。
一度、手先をうごかしはじめると、頭がかあっとなって夢中になってしまうのだった。
だから、ぎぃっと音をたててドアがあいても、気がつかなかった。
背中に、ぽんと小さな手があてられて、はじめて手を止めた。
アベルは、ふりむいて、幼児の小さな手にふれた。
ぎっと手元を睨みつけていた目が、ゆるむ。
「おお、……どうした」
息子であった。
ふんわりした笑みを頬にさらけ出しながら、アベルの皺ぶいた手を握りかえしてくる。
「母さんは、どうした?」
ふだん、アベルが作業に没頭しているあいだは、妻も子も部屋に入ってこない。
きいてみると、息子は、曖昧に笑いながら首を振った。なんとなく、その笑みにかげりがあるようにもみえる。
居間からは、なんの物音も聞こえてこない。足音も、衣擦れの音も、寝息すら。
アベルはようやく不審を感じて、立ちあがった。
おさな子の手をひいて、居間に出る。きれいに片付いた部屋には、しかし、妻の姿はなかった。
「ヘラ。……ヘラ!」
いらえはない。
少しずつ不安になってくる。もう一度、かがんで子供と目線をあわせ、たずねる。
「母さんは、どこにいるんだ?」
「……でてこない。」
ちいさく、緊張したような声で、そう答える。
「なに!?」
子供は泣き顔になって、もう一度、くりかえした。
「でてこない……」
あたりを見回す。
さして大きい家ではない、アベルの書斎、居間とつづきの土間、寝室。それから、厠があるだけだ。
厠か!?
焦燥にかられて、扉をあける。
あざやかな金髪が、床にひろがっていた。
妻が、いつのまにかひどく痩せた35歳の女が、浅い息遣いで口を大きくあけて伏していた。
瞼は閉じていた。
*
「枯枝病、」
ケヴィンは、ふるえる声でそう繰り返した。
「そう。あとで、医者にきいてわかったことだが。」
アベルはむしろ平坦な声で、淡々と続けた。
「……枯枝病は、すぐには重症化しないはずです。それまで気づかなかったのですか」
できるだけおさえた声で、ケヴィンはそうたずねた。ふるえは止まらなかった。
仮に、気づいていたとしても、できることはなかったろう。そのことも、よく判ってはいた。
「気づかなかったのだよ。おれは、そういう男なのだ。だから……」
*
だから、息子が同じ病気にかかっていることにも、気づかなかった。
*
アベルは、雨の中をしとしとと足早に歩いていた。
この季節にはめずらしい長雨である。
都へむかう本道から、西へ。枝分かれした山道には、ほとんど人通りはない。このさきは行き止まりで、どこにもつながっていないのだから、当然だ。
落葉をふみながら、歩く。
妻が倒れてから、二日たった。
医者の家まではこんだ妻の身体は、いつのまにか、ひどく軽くなっていた。
それこそ、まるで枯枝のように。
合羽のフードから水がしたたりおちる。目にしみる。汗か、もしかすると涙か。
おれは泣いているのか。
そんな資格があるのか。
ともかく、歩く。
妻と息子は、同じ部屋に寝かせてある。
どちらも、もう起き上がることはない。
いや、そんなものは、医者がそうきめただけだ。
おれは、納得していない。
なぜなら、二人とも、まだ生きているからだ。
やぶ医者め。
たとえ、目を開かなかろうが、手足が動かなかろうが、二人はまだ生きている。
ならば、明日にでも治る可能性はあるではないか。
そんなことを、ぐるぐるとつぶやきながら、歩く。
どこまでも、
どこまでも、歩く。
山道の奥の奥、どんづまりまで来て、ようやく、足を止める。
どんづまりと言っても、そのむこうにはさらに旧道が続いている。ただ、この先はもう数十年前に使われなくなった道であり、木々にまぎれてほとんどわからなくなっている。
ここまでのルートも、きちんと整備されているわけではないが、ほんの十年ほど前まで参道として使われていたため、まだしも道のていをなしている。
どんづまりの右脇、うちすてられたように転がっている、苔むした大石。
辻神とか、御石とかよばれる、ものである。
ティスワユフル帝が即位してから、こうしたものに祈る行為はほとんど犯罪のように扱われ、隠れて参詣するものも、しだいに減っていった。
アベルは、石のまえに立ち、じっと睨みつけた。
助けてください、
とか、
妻子の命が助かれば、私がかわりに━━
とか、
さまざま頭のなかをめぐっていた言葉は、結局、口から出なかった。
ただ、アベルはそこで、雨に濡れながら、半日ばかり動かずに立っていた。
*
それから。
「……クルトには、殴られたよ」
すこしだけ、懐かしそうに、アベルはそう話を終えた。
「なぜ、救えなかったかとね。当然だ。それから、何も身が入らず、このざまだ。税金どころか飯の種もろくに稼がず、絶縁したはずのあいつに金をせびったことも何度もある。とんだ疫病神だ」
そうして、にこりと笑って、
「さて、……今日はもしかしてもう終わりかね? ここの食事も悪くはないが、たまには栄養のあるものを食わせてくれんかね」
そう、言った。
*
それから、しばらく後。
ケヴィンは、辻神のところに来ていた。
そして、しばらく座って、思い悩んでから、
きっと口をむすんで、立ち去った。