姉
北と南へわかれる辻で、御者に金をはらって降りた。都からここまで、貨物に便乗して3万デニーの約束だが、少し色をつけて3万5千デニー。馬車代としては高いが、急ぎの旅に融通を利かせてくれた感謝の気持ちだ。
馬車に載せていた荷物を全部下ろすと、背負いきれないくらいの量になる。背中と両腕だけでは足りず、最後は本の束を腹にくくりつけた。仮住まいをひきはらう時に、ほとんどの書物は処分してきたのだが、残ったものだけでこのありさまだ。
村庁で荷物を下ろすのを待っていてくれれば馬車で送ると言われたが、断った。ここからなら、歩いてもラウ家はたいして遠くない。それに、官品運搬用の馬車に便乗するのは本当は規則違反だ。よくあることとはいえ、明日からの勤め先に、ことさらトラブルを持ち込みたくはない。
とぼとぼと、歩く。
長旅の疲れが関節に響いている。はやく帰って休みたいが、そうもいかない。今日のうちにやっておかなければいけないことは、いくらでもある。明るいうちに買い物も必要かもしれない。
歩く。
思ったより、遠い。身体がなまっている。
汗がべとつく。
まだ昼すぎだというのに、眠い。
立ちどまって、あくびをする。荷物の重みと身体のだるさが、混ざりあってずんと響く。
気が遠くなりそうだ。
「ケヴィン!」
大きな声。女の声にしては、低い。
なつかしさに、涙があふれそうになる。ふりむく。
うす茶色の、丈の長いワンピースに、使いこまれた白のエプロン。日よけにベールをかぶって、編みこんだサンダルをはいた、つり目で長身の女。
ユッタ=レッツェル。義理の姉だ。
つかつかと、姿勢よく大股に、肩が触れそうなところまで歩いてくる。
「こっちにいたの? 村庁の前で待ってたのに!」
ごめん、と口ごもって、少しうしろにさがる。
一年ぶりだが、彼女は変わらない。きゅっと寄せた眉も、すらりとした立ち姿も。
少しだけ、距離のとり方がおかしい。そんなところも。
「……でも、」
ふと疑問をおぼえて、
「どうして、今日来るって知ってたの? 手紙には、そこまで書かなかったよね」
「ディルクに会ったんじゃないの?」
いわれて、思い当たる。馬車の上から見た、5歳くらいの子供。
「……あれ、ディルクか」
ユッタの弟であるから、いちおう、ケヴィンの義理の弟ということになる。ただし、ケヴィンがレッツェル家を離れ、ラウ家の養子になってから生まれたため、あまり顔を会わせたことはない。
「気がつかなかったの? もう!」
呆れ声をあげながら、ユッタはケヴィンの腕に手をのばした。布袋の紐をぐい、と引っ張り、奪い取る。
「いいよ、」
「いいから。」
両腕の荷物をひきうけ、かるがると右肩にまとめて背負う。
ずいぶんと楽になった。
「……ごめん、」
「ありがとう、でしょ。」
怒ったような顔をくずさないまま、いつか聞いたような言葉をユッタはくりかえした。
ラウ夫妻が死んだあと、ユッタにはずいぶんと世話になった。
都に行ってからは、ほとんど手紙も書かなかったが。
「まず、うちに来なさいよ」
そんなことを言いながら、ユッタはラウ家への道を先に歩きだしていた。
あわてて後を追う。
「行くつもりだったけど。荷物があるし━━」
「だから、先にうちに寄れば、荷物だって一緒に運べたでしょう」
あたりまえのように、ユッタはそう言う。
たった4歳しか離れていないのに、ずいぶん年上のようだ。
「……それで、おかあさんのところには寄るの?」
低い声でユッタが言うのは、ケヴィンの生家のことだ。
この村には、ケヴィンの実家が3つある。
ひとつは、生みの親の家。
そして、レッツェル家。
ラウ家。
生家には、10年前に枯枝病で死んだ家族の遺品があり、近くには墓もある。
レッツェル家には、わずか3年ほどだが、家族として暮らした人々がいる。
だが、今の自分はケヴィン=ラウ。六位下の位階と家督をあずかる、ラウ家の当主だ。
たとえ、その屋敷に人はなく、さしたる思い出もなく、ひえびえと静まっていようとも。
「……今は、いかないよ。そのうちにね」
そう、言う。
「そう、……」
きりりと唇をむすんで、ユッタはうなずいた。
そのまま、歩きながら、
「……試験、残念だったね」
話題をかえるが、やはりどこか暗いまま。
ケヴィンは、つとめて明るく、
「どうしてさ、……こうして、帰ってこられたのに。」
「だって、……」
つぶやきが風に流れる。
「……中止にならなければ、もっと偉くなれたんでしょう。」
「わからないよ、そんなこと。」
実際、わからない。
ラウ家の養子になってから、6年かけて準備をして臨んだ、国官任用試験。
半年かけて最終論述まで進んだのに、新皇帝の意向で、試験そのものが中止だ。
試験なのだから、出来がよいか悪いか、それだけが結果だと思っていた。
世の中、なにが起こるかわからぬ。
かりに、あのまま試験が続いたところで、思ったとおりの結果が出たとは限らない。皇帝試問で落第した者だっているのだ。
「……ねえ、ユッタ」
話題をかえようと、ケヴィンは紐をもち直しながらいった。
「なあに、重い?」
「ちがうよ。……あの、小さいころにさ」
「うん、」
「……黒い、狼みたいな獣に、」
「はあ?」
「いや、なんでもない。」
頭をふって、忘れることにした。
幼い日の、夢のような記憶である。
きっと、なんでもないことだったのだ。
*
ラウ家についた。
いったん荷物をおろして、鍵束をとりだす。門のかんぬきを開ける大鍵と、鎖を留めた輪錠を解くための馬蹄鍵がふたつ。館の鍵はまた別である。
「……どんだけ、」
ユッタが、あきれたようにつぶやく。
輪錠は錆びているのか、なかなか開かない。しばらく悪戦苦闘して、ようやく外した。この錠は、もう使いものにならないだろう。鎖ごと、門の内側にうっちゃっておく。
ふたりがかりで、門をあける。
庭は、荒れ放題である。もっとも、ケヴィンがここを出た時点で、既に相当なものだった。玄関まではすぐだが、腰まで生い茂った草やぶのせいで道はまるで見えない。
「……ここも、手入れしないとね。」
めんどくさそうに、ユッタが鼻をならす。
「そのうち、誰か人をたのむよ」
「やったげるわよ。そのうちね」
ラウ夫妻の生前は、下男が管理していた庭である。季節の花と観葉植物がこまごまと並んだ、貴族好みの庭園だった。
もっとも、何が植えられていたか、ケヴィン自身もよくは覚えていない。
「ふう、」
と、息をついて、玄関の前でまた荷物をおろす。
鍵をあける。
暗所にこもった埃のにおいが、むわっと鼻についた。
「……たった一年だぜ、」
「その前から、掃除はできてなかったでしょ」
いわれて、ケヴィンは眉をしかめた。図星である。
「で、荷物はそんだけなの? 後でなにか届くの?」
「いや。生活用品は、ほとんど処分してきたし──大事なものは、持ってきたから」
「ふうん、」
荷物をちらりと見る。
旅支度のほかは、ほとんどが書物のようだ。
「こういうのこそ、別便で送りなさいよ」
「貴重な本だよ。馬車郵便なんかに任せられるもんか」
ユッタは眉をしかめたが、それ以上何も言わなかった。
荷物を玄関に置いたまま、かすかに埃のつもった床をあるいて、台所へ。勝手口をあけはなって、木製の流しをチェックする。埃が積もってはいるが、使うのに支障はなさそうだ。
かまどは、中を見てみなければわからないが、1年やそこら放置したところで壊れるものでもないだろう。
あとは井戸だが、草やぶの中をひとりで見に行くのはちょっと辛い。
「ケヴィン!」
大声をだして振り返るが、玄関には誰もいなかった。
ユッタはきつい目をして眉根を寄せた。
*
「……ここにいたの、」
寝室のドアががちゃんと開いて、ユッタが入ってきた。
「ごめん、」
ケヴィンは、壁の上から目を離して、ふんわりと笑った。寝室といっても、今は寝具はない。ベッドのあった空間には、埃が積もっているだけだ。
ここは、ラウ夫妻の寝室である。
「……井戸を見たいんだけど、」
ユッタは、きつく腕組みをして、すらりとドアのところにたっていた。
「うん、すぐ行くよ。」
ケヴィンは身をひるがえして、ユッタの脇をぬけて部屋をでた。笑っていたが、目は伏せていた。
かすかに、ふるえる拳が目に入る。すぐに擦れ違って、視界から消える。
ユッタは、つかつかと部屋のなかへと進み、ケヴィンが立っていたところまできた。
もう一度腕組みをして、壁のまえに立ち、にらみつける。
壁に飾られた、ラウ夫妻の肖像画を。
(呪われてる、)
そう、思う。
あれから、二年もたつのに。
(とっくに黄泉へと消えたくせに、生きたものを縛るなんて、)
歯がみする。
七年前、連れ去っただけでは足りずに、
わたしの、かわいい弟を。