裁判
忘れろ、と。
それから、学べ、と。
言われたのはそれだけだった。
*
朝、ケヴィンは両親の寝室へはいり、しずかに肖像画をみあげた。
そして、
ふかぶかと頭をさげ、謝罪し、
つかつかと部屋をでた。
さようなら、と。
なにかに、小さく別れを告げて。
*
取調室はがらりと模様替えされた。
取調官と被疑者がむかいあうための机は取り去られ、かわりに、赤い布がかけられた判事机が持ち込まれた。それから、普段は使われない肘掛けつきの椅子。
椅子も机も、どちらも領治官のためのものだ。
被疑者は、机からは離れて、部屋のまんなかに立たされる。
判事補、すなわち書記と資料管理をする役のものは、部屋のすみに小さな椅子を置いて座る。
裁きのあいだ、室内にいるものは、基本的にこの3人だけである。
判事補が二人になったり、刑務官が脇に控えたりする場合もあるが、今回はそうではない。
さほど複雑な事件ではなく、言い渡し文もちゃんとできており、被疑者に凶暴性もみられない。
簡単な裁判、ということだ。
少なくとも、領治官は、そう思っている。
だから、護法官補でしかないケヴィンが判事補をつとめることになった。クルト=オルフの裁判では、ティモ護法官が判事補となる。護法官はそちらに集中するらしい。
領治官は、裁判の前日にやってきた。いくつかの会議をおえてから、昼すぎに、護法官詰所へ。
ティモ護法官よりいくぶん若い、への字口をした男であった。
クルトの裁きも同日にひかえているから、アベル=タイケの資料は、かるく目を通す程度だ。ケヴィンが起草し、ティモ護法官が承認した判決文を、そのまま読み上げる手はずになっている。
結論は、流刑。
くつがえるはずはない。判決文に、そう書いてあるのだから。
*
刑務官につれられて、アベルが入ってくる。刑務官はリリエンタールではなく、オリヴァという若い男である。アベルを立たせて、刑務官は部屋をでてゆく。
アベルは、目を伏せて立っている。手は縛られているが、足は自由だ。
かりに、ここで彼が暴れだせば、ケヴィンがとりおさえねばならない。
手に余れば、斬ることになる。
さて━━
領治官が、罪状をよみあげる。これも、ケヴィンが起草したものである。
クルト=オルフの意見書を、おおかた引用して、
「以上、村主クルト=オルフの情報提供により、妖術を使えるといつわり、子供たちを脅迫した疑いにつき、これより吟味をとりおこなう」
と、そっけなく告げる。
ほんとうは、この後に、妖術師条項の趣旨についてひとくさり述べる文が入っていた。
ティモ護法官の意見で削られたが、打ち合わせの際に領治官の目には入っている。それで、充分であった。
妖術師条項が、妖術師を『自称する』者を罰する規定だということを、領治官に認識しておいてもらわねばならなかった。
さて、
「認めるか?」と、領治官がたずねる。
アベルは、無言で首をふる。
「しかし、村主が証言しているな。」
たんたんと、領治官がことばをかえす。
「村主が見たことを認めないのではない。妖術を使えるといつわった、というところだ。」
「そのような言動はしていないと?」
「いや。……いつわったのではない。真実なのだ」
じめじめとした崖のような声で、男はそういった。
すこしの沈黙のあとで、かすかに嘲笑をこめた声で領治官はきいた。
「妖術を使えるとでも?」
「あれは、」
と、アベルが指さす。領治官のうしろを。
「おぬしの影だ。」
「なんだと?」
たしかに、窓からはいる光が、薄暗い室内に長い影をつくっている。
だから、なんだというのか。
「影を見てみよ。動きはせぬか」
ほう、と領治官は声をあげて、右手をあげてみせた。
当然、影も、右手をあげる。
「影が動かぬでどうする。」
そう、言ってみせる。老人のざれごとに、頓智で返したつもりであった。
「では、色はどうだ」
アベルは、ぞわりと震えるような声で続ける。
「手の先をみよ、」
そう言われて、思わず、影の手の先に目をやる。
とんとんと、たたみかけるように、次の言葉がとんでくる。
「影の手の先、━━紅くはないか。」
「なに?」
わずかな、色の違いであった。
いわれて初めて気づくほどの差にすぎないが、わずかに淡く色づいているように見える。
「血の色に、染まっている。そのように、見えはしないか。」
「ばかをいえ。夕日であろう」
思わず、領治官はそう反駁した。
まだ夕陽がさすような時間ではない。とっさに、他に言葉がでなかった。
ごう、と窓から風がはいった。
雲が動いたらしく、さっと影がさす。
暗闇、というほどではないが、夕刻の空と同程度の暗さになった。
部屋のすみにいるケヴィンの顔が、目をこらさねばよく見えない、という程度である。
アベルは、にたりと笑った。
「うわあ!」
とつぜん、ケヴィンが叫んだ。
ケヴィンの影が、うぞうぞと蠢いて、床をはいまわっている。いや、そのように見えた。
領治官は目を丸く見開いて、硬直した。
「ばかな……」
「ほれ、おのれの足元をみるがいい」
いくえにも身をかさねた蛇のような、ぶきみな黒いものが、領治官の足にからみついていく。
鳥肌がたった。
「う、……」
「これは、妖術ではないのか?」
「……きさまっ、」
領治官が、なにごとか叫ぼうとしたとき、
「ひいいいいいぃっ!」
ケヴィンが大声をあげた。かれの服の上まで、黒いかげが這い登ってきている。
「領治官! 無理です……お許しください……この男は本物の妖術師です! 逆らったら……」
「うろたえるな。ケヴィン護法官補」
領治官はきりりと唇をかんで、まっすぐにアベルをにらみつけた。
アベルも、じっと領治官をみつめたまま、微動だにしない。
ぞわり、ぞわりと、影が領治官の身体をはいまわる。
そして、
「……判決は、のちほど護法官から言い渡す。ケヴィン護法官補、いそぎ起草せよ」
吐き捨てるように、いって、席をたった。
*
天井裏。
のぞき穴に向けた幻灯機のあかりを吹き消して、リリエンタールは大きく息をついた。
鏡と、色のついた薄紙。それから、蝋燭。
手回しハンドルのついた小さな箱のなかに、歯車と硝子。
もとは、舶来の機械だということだ。
まさか、このために作ったわけでもあるまいが━━
(あの男、本当に妖術師ではないか。)
そんな考えが、頭をかすめる。
まあ、何だって構うまい。
六位下にもなる上級貴族の土下座など、滅多に見られないのだから。
いずれ、かれが領治官になったら、みんなの前でばらして笑ってやろう。
リリエンタールはその光景を思い浮かべて笑った。くつくつと、のどの奥で声を殺しながら。
*
「おい、」
と、仏頂面をしたライナーがケヴィンの肩をたたいた。
「え、」
「やりやがったな。……たいしたやつだな、お前」
褒めているようにきこえるが、目は笑っていない。
「いえその、ぼくは……まさか」
ケヴィンはもごもごと口ごもった。
「……まさか、あんなことが起こるとは……とっさにびびってしまって、その」
「……おい、」
ライナーは声をひそめて、顔をぐっと近づけた。
「お前まさか、俺たちまであれを信じたと思ってるんじゃないだろうな?」
ケヴィンは絶句した。冷や汗がだらだらとにじみ出ている。
「あのオッサンが妖術師じゃないなんてこたあ、おれも護法官も、わかってるんだよ。あたりまえだろうが」
「……護法官は、そんなこと一言も」
「領治官のメンツをつぶすようなこと、誰が言うかい」
「そうですか……。申し訳ありませんでした」
ケヴィンは深く頭をさげた。ライナーはにやっと笑った。
「あやまる必要はない。おれたちがいるのは上意下達の世界だ。領治官がいいっていやあ、いいんだよ。お前はスジを通したってわけだ……けど、」
ちょっと心配そうな顔になって、
「領治官の前で、あの醜態だ。出世は遠ざかったろうな。ま、がんばれよ」
むろん、後悔などない。
「ありがとうございます」
そういって、ケヴィンはかすかに笑った。
*
3日後━━
ケヴィンとアベルの二人が、アベルの家の戸をくぐった。
アベルにとっては、一ヶ月以上留守にしていた家である。
「……ああ、やっぱり家が一番だな」
がらくたをかきわけ、大儀そうに座りながら、ぼそぼそと、そんなことを呟く。
「やはり、そうですか。」と、ケヴィンは苦笑する。
「クルトの奴のおかげで、長いこと窮屈な生活だったが、出てみるとあれもよい経験だな」
にやりと笑って。
「……そのことですが、」
「ん?」
「クルト=オルフは、税の不正をおこなったかどで、流刑を申し渡されました。あなたの裁判と同日です」
なるべく感情をこめずに、ケヴィンはそう告げた。
ほんの少しだけ沈黙してから、アベルは頷いた。
「そうか、……」
「……驚かれないのですね」
「知っていた。税の不正とやらについては、ということだが」
「そうですか。……でも、なぜ」
「本人に聞いたからさ。おれが捕まる前の日だったか、少し揉めた。金のことでな。それで、まあ、口がすべったということなんだろう……」
たんたんとした口調。それ以上、なにも言いたくないようだ。
ケヴィンは話題をかえた。
「そういえば、幻灯機……ぼくが、昔みたのも、あれだったのですね」
「……なに?」
「昔、この家にきたとき、黒い獣に襲われたことが……いえ、そう思ったことがあるんです」
アベルは首をかしげた。
「いや、……そんなわけはない。あれをつくったのは、今年になってからのことだ。いちおう試しはしたが、人前で使ったのは今回が初めてだ。ちゃんと使うには天井に穴が必要だしな」
「なんですって、……」
「そうか、……きみはまだ小さかったからな。覚えていないのか」
アベルはかなしげにいった。
「昔、よくここへ来て、いろんな話をしたろう。きみは物語詩がすきだったな。まだ幼いというのに、即興で物語を口ずさんでいたじゃないか。そのきみが、頭のよさをかわれてラウ家へひきとられたと知ったときは、さもありなんと思ったがね……」
覚えていない。
物語詩など、もうずっときいたこともない。
「ほんとうに、おぼえていないのか。」
ぼんやりと、考える。
ラウ家へいく前、自分はどんな子供だったのか。
「……黒い獣というのは、きっとこれだな」
アベルは部屋のすみにある棚から、古ぼけた平たい紙袋のようなものを取り出した。その中から、何枚もの厚紙がでてきた。
厚紙をかさねて、一番上の紙がよく見えるように、ケヴィンにむける。
森の絵のようである。
━━くらーいくらーい森のなか、子どもがひとり、おりました。
アベルはそう歌った。紙の裏に、言葉がかいてあるらしい。
紙をめくる。
こんどは、森の絵のなかに、子供の絵がかいてある。
それから、奥のほうに、なにかが隠れているような。
━━森の奥のそのまた奥に、なにかが住んでおりました。
また、めくる。
━━黒い黒い、狼のような、熊のようなけものが、
森の奥のそのまた奥の、がらくた小路におりました。
そこに、獣がいた。
子供がかいたような、稚拙な絵であった。
「……これは、」
ケヴィンはつぶやいた。あとは、言葉にならなかった。
涙が、失われた歳月の重みが、ぼたぼたとかれの目から流れ落ちていた。