決意
領治官がやって来る日まで、あと3日。
ケヴィンは夜明けのずっと前に起きて、じりじりと何かを待っていた。休日だというのに、ユッタが来る前に着替えて、玄関に一番近い居間のソファでぐるぐると指を動かしている。
黒のズボンに、背広。いつもの部屋着ではない。むろん役所の制服とも違う。
「……まるで、貴族みたいね。」
いつのまにか、ユッタが後ろにたっていた。こんこん、と開いた扉をたたいてノックのまねをする。
「どこから、……入ってきたの?」
ぼうっとした顔でそうたずねると、ユッタはきょとんと目を丸くした。
「どこって、……勝手口。いつもそうだけど」
「ああ、そっか……」
「どこか出かけるの? そんな格好して。」
「いや、……人が、来るかもしれないから。」
「なあに、それ。」
あきれたように言って、ユッタは廊下に出ていった。そのまま台所にいって、ごそごそと何かしているようである。
「……なにか約束があるの?」
声だけがとんでくる。
「いや、郵便が……」
「郵便ん? それで、そんな格好してんの。部屋着でいいでしょうが。」
そう、言ってから、ユッタは、それが貴族というものなのだと気づく。
ラウ夫妻とは何度か会ったことがあるが、一度として部屋着でいたことなどなかった。
いや、あの二人に、部屋着なんてものが、あったのだろうか?
「ねえ、……ケヴィン」
ざくざくと漬物を切る手を途中でとめて、小さくつぶやく。
返事はない。
包丁をもったまま、大股に五、六歩あるいて、居間をのぞきこむ。
落ちつかなげに座った後ろ姿。闇のように濃い色の背広、足首まである長ズボン。それを台無しにするような猫背、寝起きの髪、ぼんやりと揺れる撫で肩、
どうみても、上流階級の男ではない。
「……似合ってないよ、あんた」
ちいさく吹き出しながら、そう言う。
ケヴィンがふりむいてなにか言おうとしたとき、玄関でノッカーの音がした。
とたんに、ケヴィンは立ち上がり、ユッタをおしのけるようにして玄関にすっとんでいった。がちゃりとドアをあけると、顔見知りの御者。ちょっと気圧されたような顔をして、右手にもった封筒をさしだす。
「文でございます、」「ありがとう」とケヴィンはかぶせて、ポケットからあらかじめ包んでおいた礼金をだして、おしつける。それじゃ、ともごもごいいながら、扉をばたんとしめる。
後ろからみていたユッタは、ため息をついた。あれのどこが貴族様だか!
ケヴィンはユッタの隣をすりぬけて、早足に廊下をすすんだ。「ちょっと、朝ごはんは?」「置いといて!」いいすてて、ともかくも書斎へ。
ドアをしめてから、封筒の名前をたしかめる。
イェルク=ランガー。味もそっけもない官製封筒の裏に、金釘流でそう書いてある。
都にいたころの友人。いまも、次の国試を目指して浪人しているはずの男だ。
糊で封したところをぴっと切って、中身に目をはしらせる。
時候のあいさつもなく、唐突にはじまる書き出し、近況のような床屋政談のような、ただの世間話のようなよしなしごとが、便箋二枚にわたって続き、そのあとようやく本題。
妖術師条項については、最近の判例をみつけることができました。ちょうど君が都を出た翌週のことです。異様な速さで裁きがなされたのですが、それは、昨今の政治的混乱と無縁のものではないと推察します。結論から申し上げると、被疑者は、「妖術師を自称した詐欺師」として裁かれました。判事は、先帝のころの判例をいくつか挙げたようですが、それらの詳しい資料は見つけることができませんでした。━━
ケヴィンは、大きく嘆息した。
書斎をでて、ラウ夫妻の寝室へ。
壁にかかった夫妻の肖像画を前にして、考える。
(……ぼくは、何をすべきなのか、)
むろん、決まっている。
正義。ただしいことをするために、自分はここにいるのだ。
だが、なにが正義であるのか。
法か。
ならば、迷うことはない。法解釈の検討はすべて終えた。護法官の方針どおりに判決をかいて終わりだ。最終決定権は領治官にあるのだし、自分の立場でこれ以上やることはない。
あるいは、ラウ家の誇りか。
義父ならば、いうだろう。ラウ家こそが、キーニーの、いや北嶺地方の旗振りたるべしと。そのためにケヴィンは拾われたのだから、当然だ。地方の役所づとめなどその足がかりにすぎず、出世のためにならぬことは、強いてやる意味がない。
あるいは、憐憫か。
アベル=タイケという男は、確かに哀れではある。しかし、役人として、地位ある貴族として、それが何かをなす理由になるだろうか?
帝への忠誠か。
もうすこしで直接顔をあわせるところだった先帝はまだしも、即位して間もない現皇帝は顔も正式な名前も知らない。人並みの忠誠心はあるつもりだが、現実感はない。生まれながらの貴族ならば、また違うのだろうが。
もう一度、肖像画を見上げる。
義父の顔。ただ、無表情に、こちらを見下ろしている。これ以外の表情を見たこともない。
もう、見ることもない。
そして、義母。
あまり、目をあわせた記憶はない。ただ、期待されていたのだとは思う。
最後まで、母と呼ぶことはなかった。
入庁したばかりのころ、護法官詰所で、昔の裁判記録を読んだ。
罪状は、殺人と、強盗。
判決は、火刑。
男が火にかけられるところを、ケヴィンは見ていた。
ずっと。
あの、骨と、筋と、あぶらの焦げたにおいを。
*
「……ヤンがきたよ」
昼食をたべながら、ユッタが小さくいった。
「ヤンが? いつさ」
「さっき。……すぐ帰っちゃったの。あなたに用があったわけじゃないみたい……」
ぼんやりといいよどみながら。ケヴィンは眉をしかめた。何だというのか。
「……ねえ、」
たべかけのパンが皿におかれた。
ユッタは、じっとこちらをみていた。
ほおづえ。切れ長の目を、くるりとまん丸くして。
「……アベルの裁判、あなたが担当なんですって?」
え、とケヴィンはぼんやり呟く。
「ヤンからきいたの。皮肉なもんね。」
「皮肉、……?」
ケヴィンがききかえすと、ユッタはかすかに目をとじて息をついた。
迷うように、くるくると指をまわして間をとってから、
「おぼえて、ないの?」
「なにが?」
「あなた、……かれの友達だったじゃない。まいにち、あの家にかよって、おもちゃをつくったり……わたし、日暮れ前に連れ戻すの大変だったんだから」
「……なんの、こと?」
ユッタのいいぶりからすると、レッツェル家にいた頃のことのようだが、そんな覚えはない。
いや、
そんなことも、……あったのだろうか?
「ケヴィン、」
そっと、食卓ごしにユッタは手をのばした。
指先が触れたとき、ケヴィンの肩はびくんと震えた。かまわず、ユッタは太い指でかれの掌をおしつつんで、きつく握った。
「おねがい。……助けてよ。あなたなら、できるんでしょう。」
じっとりとした汗が、ふたりの指のあいだを流れて落ちた。
そして、ちいさな涙の玉が、ユッタの目のおくにあるのをみて、かれは決断した。
強く、うなずいて。
*
たすけてよ、とさけんだとき、だれの名前をいうつもりだったのか。
アベル=タイケ。そのつもりで、口をひらいた。
けれども、
ほんとうに、喉の奥まででかかったのは、別の言葉だった。
あなたを。
あの日の、あなたを。
*
ふたたび、取調室にて━━
休日であり、護法官詰所には誰もいない。刑務官はいるが、いまは部屋の外に出ている。
アベルはなんとなく居心地悪そうにしていた。今日は取り調べはないと思っていたのだろう。
「クルト=オルフが、あんたを無罪にするよう嘆願した」
ケヴィンが、じっと目をみてそう言うと、アベルの表情が、さっとかわった。
わざと、こういう言い方をした。正確な言い方ではないが、まるきりの嘘でもない。
意見書をとりさげるというクルトの主張を、ケヴィンはそう解釈した。
「いまから、方法を考える。協力してもらう」
きっぱりと、そう告げる。
それが、最初の一歩だった。