夏3
紅が来たのは俺が仏間で思考してから数時間後の事だった。
もうすぐ太陽が赤く染まる時間帯だ。
「こんにちは」
玄関の扉を開け、紅が微笑む。
本当ならば俺が紅の家に迎えに行くはずだった。
現に俺は今靴紐を結んで出かける準備をしていた。
きっと紅はまたドキドキして居ても経ってもいられなくて来ちゃった、とか言うのだろう。
突然の紅の登場により、最初は驚いたが、次に目に飛び込んできた光景に、思わず見惚れた。
「……どうしたの? 夜?」
あまりに長く見惚れていたのだろう、心配そうにこちらを窺う紅。
それもそのはず、紅の滅多に見ないワンピース姿に、頬に熱が集まる。
ワンピース姿とか子供の時以来だ。
中断していた靴紐を結んで、立ち上がる。
「なんでもない」
そう言うが、視線を紅と合わせられない。どこか照れくさい。
「そう?」
変な夜。と夕日のお陰か頬が赤い事に気が付かない紅はそう言って首を傾げた。
「紅、その……」
「……なあに?」
「すごく良く似合ってる」
視線を逸らしたままそこまで言って紅に視線をずらす。
紅は顔が夕日に負けないぐらい真っ赤だった。
「い、行こう」
「……ぅ、ん………」
家を出て、ぎくしゃくしながら川を目指す。
日は落ちかけており街灯の明かりと出店の明かりが、川沿いの道を照らしていた。
遠くから見たその光景が綺麗だなと思った。
「何か食べたいものあるか?」
「……かき氷、だけど、最後に買おう?」
「そうだな、とけちゃうもんな」
まだ花火が上がるまで時間がある。人の数はまだそれほど多くは無い。
空を見上げる。雲一つない良い天気だった。この分なら綺麗に花火が見れるだろう。
「知ってる? 昔は灯篭流しがあったんだってさ」
「……そう、なの?」
「だいぶ前に無くなっちゃったみたいだけど」
「そう……すごく、綺麗だったろうな………」
紅は白山を見上げ、微笑んだ。
その様子に俺も優しく笑った。
出店を見ながら道をゆっくりと進み、途中で焼きそばやリンゴ飴を買って一周した。
折り返して帰って来るころには人の通りが増えてきた。親子連れや俺達の様なカップル、友達同士の気の置けないグループ。皆一様に夏を楽しんでいた。
俺は、はぐれたくない一心で驚かさないように紅の手に触れる。
「あっ……夜……?」
「人が増えてきたから……駄目か?」
紅の手は少しひんやりしていた。今の夏にはちょうどいい冷たさ。俺の体温が高すぎるのだろうか。
紅は首を横にゆるゆると振る。
「………いいよ」
薄く笑ってそう言われ、手を繋ぐ。紅の名前を優しく呼ぶと、目と目が合う。そのまま数秒見つめあった。
「大好き」
言うと紅の顔がまた赤くなる。紅が持っているリンゴ飴の様だ。俺に寄り添う紅は恥ずかしそうにしながら、
「………私も……」
小声でそう言ったのがかろうじて聞こえた。
俺も何だか気恥ずかしくなった。少し早足で通りを進んで行く。
そしてふと、足を止める。
「なあ、紅」
来た道を帰る途中、目を付けていた店に紅を誘う。
リンゴ飴をチロチロと舐めながら、紅が聞く。
「なに?」
「紅はどれが好き?」
その店は女性用のアクセサリーが売っていた。腕輪、ネックレス、ピアスやイヤリング、一番多いのは髪飾りだろうか。
そのうち、目に留まったのはシンプルなかんざしだ。
黒くまっすぐで光を反射する棒の部分にまあるい赤い玉がくっついている。
「これなんかどう?」
「……うん、綺麗」
街灯の明かりに照らされた赤いガラスの玉は乱反射して輝く。
「買ってあげる」
「えっ、でも……」
「……いらない?」
紅は癖の一切ない自分の髪にゆっくり触れる。
「……髪、短いから………」
紅の髪は短い。裏は首筋が隠れるぐらいのショートで耳よりも前に顔にかかる部分は胸位で長くなっている。
かんざしの実際の使い方は確かに出来ないかも知れない。
「着物の帯とかに挟んでさ、アクセサリーみたいな感じ?」
「……でも」
今は着ていないが普段は紅は巫女をしている訳で……できなくはないと思う。
紅が否定的な声を上げるのは、俺が紅の為に物を買おうとしているからだ。
遠慮しているだけ、いつもの事。俺があげたくて買うからいいのに。
「紅はどれが好き?」
「……夜?」
「選ぶだけだよ」
結局、俺が最初に選んだかんざしを指差したので、紅が何かを言う前に会計を済ませる。
「よ、る!」
紅が抗議の声を上げたが素知らぬ顔をした。
買い物を済ませ空を見上げた。すっかり日は落ちた。そろそろ時間だろう。
「かき氷買って戻ろうか」
「………」
「ん? 紅?」
じとりと刺さる紅の視線が少し痛い。
「かき氷はいい、よ……」
「え? なんで」
「だって………」
紅の視線の先は俺が持ってる買ったばかりのかんざしだ。
「嬉しくなかった?」
「……そんな事っ」
「ごめん、迷惑だったかな」
そっか、いらなかったか。要らない物を貰っても困るだけだし……
紅の機嫌を直す方法を考えながら、頭を掻いて考えていると、そっと服を掴まれ、紅と視線が交差する。
「違う……夜………」
「紅?」
「う、嬉しい……」
紅は赤い顔のまま視線を逸らす。愛しさがこみあげてくる。
「迷惑じゃ……な、い……」
俺は紅の頭を何度か撫でた。
紅は俺が何か買い与えるたびにこんな反応を返す。恐らく彼女の家があまり裕福では無く、お金の大切さを身に染みて分かっているから。紅は自分に対して俺がお金を使う事をあまり良しとしないのだ。いつもの事。
でも今回ばかりは本当に要らないのかと思ったよ。
「かき氷、買おう?」
「……うん………」
「ほら」
手を差し出すと紅はその手に自分の手を置いた。
すぐそばを子供が笑いながら走り去って行った。
がやがやと賑やかな道を進む。太鼓の音も聞こえてきた。
毎年の事で、中央の広場では祭囃子を奏で、盆踊りが披露されている。そちらの方は混むのであまり行った事は無い。
かき氷屋は混んでいて、少し並んだ。
「紅、何味がいい?」
「……いちご」
「分かった、いちごとレモン一つずつで」
注文するとすぐに出てくる。屋台は手際がいい。
かき氷を受け取って、歩き出す。
「じゃあ、帰ろうか」
「……うん」
かき氷をつつきながら来た道を戻って行く。
会場から遠ざかって行くと同時に、人の通りもまばらになって行く。もうはぐれる心配はない。それでも俺達は手を離さなかった。
逆に、紅はギュッと俺の手を強く握る。
「紅? どうかした?」
「……えっ?」
紅の黒い瞳がゆれる。俺は、何故か不安そうに揺れている気がした。
「大丈夫か?」
「う、ん……」
「紅?」
「大丈夫……だから」
紅の顔を覗き込む。紅も俺の顔を覗き込んだ。互いに瞳を覗き込む。
少しずつ近付いて行くと、紅の顔がいつも通りゆがむ。
「そんなに黒が嫌いなの?」
「……うん」
「どうして?」
「わか、んない……どうして……だろ?」
神社、長い長い階段を上がり、俺と紅の職場に着く。
その小高い山の裏で毎年俺達は花火を見る。誰も知らない穴場。
かき氷は溶け始まってしまっている。
遠くで放送が始まった。まもなく花火が始まるだろう。
「紅、とけちゃうぞ」
かき氷をさして、言うと、紅は美味しそうに食べ始めた。それを確認した俺も食べ始める。食べながら道を見降ろした。特に明るい道は出店が並んでいる道、その奥に川が流れている。灯篭流しがもしあったなら、さぞかし美しい景色だったろう。
「あ、始まった」
遠くで花火が発射され、空気が震える。そして、大輪が咲いた。
「わあ……」
毎年の事だが、紅は感嘆の声を上げる。花火が咲くと紅の顔が明るく照らし出される。
「……ねえ、夜……」
紅は俺にぴったりくっつく。じっと俺の目を見ていた。
「俺の目は何色?」
「花火と同じ色になるの……きれい」
これも毎年の事だった。紅は俺の瞳を見て、うっとりと目を細める。そんな紅を見て、とても優しい気持ちになれた。
……俺は今、幸せだ。
紅と時たま会話を交わしつつ、じっくり最後まで花火大会を楽しんだ。
「綺麗……だったね」
「花火が? 俺の目が?」
紅は終始ずっと俺の目を見つめていた。軽く声を上げながら紅が答える。
「……どっちも」
微笑んで、そう言う。俺は買ったかんざしを紅に手渡す。
「はい、今日付き合ってもらったお礼」
「……ぁ……」
「俺、持ってる間におまじないしておいたから……紅が幸せになれるようにって」
かんざしを受け取った紅はふわりと柔らかく笑う。
今日見た花火なんかより、ずっとずっと綺麗で美しくて……心臓が高鳴る。
「……ご利益、有りそう」
「そうだろ?」
「あ……私からは、これ」
封筒だった。それはどこかで見覚えがあった。
「春に、優勝してもらった……」
「ああ、旅行券だっけ?」
「夜……一緒に行ってくれるって………」
紅がこちらを窺う。迷惑ではないだろうかと必死に考えている。そんな、断ったりなんかしないのに。
「行こう! 一緒に」
「ほ、ほんと?」
「秋にでも行くか、紅葉がきっと綺麗だから」
紅が色付いた広葉樹の下で俺を待っている、そんな妄想をした。紅は秋が似合う。
「わ、と……紅?」
紅に抱き着かれた。突然だったが優しく受け止め、様子を窺う。
「う、嬉しい……」
「……紅」
「ありがとう、夜……生まれて来てくれて……」
「……」
「お誕生日……おめでとう」
それは、今まで紅にしか言われた事のない言葉だった。誰も俺が生まれた事を祝福してはくれなかった。俺は学校に通うまで誕生日を祝うという風習も知らなかった。
「ありがとう……紅」
「……夜?」
紅の背中に手を回し、髪に鼻をうずめる。
「愛してるよ」
紅の顔をゆっくりと見ると案の定紅潮している。その黒い瞳が愛おしくて真っ直ぐに射抜く。
「……」
紅はゆっくり目を閉じた。
「………」
これ以上言葉は必要なかった。
唇をほんの数秒、重ね合わせた。
*****
色のない世界、山の上から川を見下ろす。
「ここから灯篭流しを見たら綺麗なんだろうな」
男の声だ。足元には雪が残っていた。
「すごく綺麗だよ? 来年見に来ようか」
振り向くと、少女が居た。母の面影のある、少女。
同時にこれが夢であることを理解した。いつもの夢、俺は誰かの目を通して色々な物を見る。少女は必ず近くに居る。
男は考える。
「俺はどちらかと言えば灯篭を夕と一緒に流したいかな」
「流した後に来ればいいよ」
「俺の体力が持つか……」
「貧弱なんだから」
少女は頬を膨らませる。
此処は、どこの山だ?少なくとも俺が見た山の角度では無い事は確かだ。
「そうだ、夕」
「なあに?」
「これをお前に」
そう言って黒白の俺は何かを取り出す。
……かんざしだ。
「陽、私、髪短いよ?」
「良いんだよ、ほら」
少女の着物の帯にかんざしを挿しこんだ。
「夕は飾り気がないから、このぐらいあってもいいだろう」
少女は目の色を何度かかえながらかんざしを確認している。
そして、少女は俺に抱き着いた。
「夕、危ないだろう」
「だって、嬉しかったんだもの!」
「そうか、それは良かった」
少女は大人っぽく艶やかに笑う。
「陽、大好き……陽は?」
「……俺も愛してるよ、夕」
二人は愛を語り合う。何度も何度も、確かめるように。
それは、とても幸せな時間だった。そしてそれが永遠で無い事も、黒白の俺は分かっていた。愛を語り合い、心のどこかで嘆いていた。
理由を知るのは、まだ随分先の事になる。