夏1
夏
太陽の暑い陽射しが空から降り注ぎ、気温が瞬く間に上昇していく。
「あっつういぃ!」
俺はそう叫んで仰向けに倒れた。
喉から漏れた、おおよそ人語とは思えない呻き声に、紅はこんな暑い昼下がりだと言うのに、凛とした表情で、
「締まりのない声だね」
そう言って薄く笑った。
現在八月上旬、神社境内、何時もの縁側にて。
「紅は暑くないのか?」
不満げに唇を尖らせてじろりと見ると、まだ微笑を浮かべている紅の顔と目が合う。
うだるような暑さにもかかわらず、紅は汗一つ掻いていない、と言うか紅は冬もあまり寒がらない。体温調節が上手いのか、はたまた違う理由なのか……
「いつも言ってるけど、暑くないよ」
「ふこうへいだぁ!」
言いながら寝返りを打ってうつ伏せになる。
顔だけ横を向いて、紅を見ると、楽しげに微笑んでいた。
照れくさくて後頭部を掻いて、起き上がる。
カランコロンカラン、と少し遠くで神社の鈴が鳴る。
何人かの参拝客を覗き見て、女性が多い事に気が付く。
「なんか……女性が多いなぁ」
「夜、何言ってるの?」
え? と間抜けな声を出して紅を見ると、少し怒っているのか、顔を険しくしながら、
「神代神社は縁結びと夫婦円満の御利益だよ?」
ああ、そう言えばそんな事、文献にも書いてあったな……
夫婦円満は初代様山神様の仲があまりにも良かったためで、縁結びはわざわざ遠い所まで旅を続け、運命のようにこの地を訪れご結婚したからとか、だった気がする。
「そういや、そうだった」
「もぉ、夜? 忘れたら駄目だよ?」
「うん……大丈夫、ど忘れしただけ。ごめんな」
「……それなら、いいけど」
紅はそう言うと、俺の腕を掴んで引き寄せて、次に肩を掴まれた。
なんだろうと声を発するよりも早く、紅の深い漆黒と視線がぶつかった。
俺の瞳を見つめる紅の視線は、いつも真剣だ。
何時もなら俺の眼が黒くなってから顔を近付けるのをやめる。この行為は何時も紅から始まって紅で終わらせている。最近それが妙に面白くない。桜祭りの時、俺から近付いて行ったら案の定紅は赤面してしどろもどろになって、紅の本来の目的である俺の眼を見る事は達成できなかった。要するに、紅からじゃないと目的を果たせない事になる。
ならどうしようかなぁ、と最近そんなあれやこれを考えていたのを思い出し、紅の整った顔を見つめる。
こう何回もやられていると、どのくらいの距離で紅の顔が歪むかも覚えてしまっている。
もうすぐ俺の眼が黒くなる、と言う距離で、たまには反撃してやろうと紅の片腕を掴んで引き寄せ、もう片方の手で紅の後頭部を支えながら、額に唇を落とした。
紅が息を飲む声が聞こえ、数秒経たないうちに思いきり突き飛ばされ、背中を軽く打った。
「あっ、ごめ……」
何時もの事だ、と背中をさすりながら起き上がる。
俺から積極的に行くと、紅は絶対に俺を拒否する。
「なあ、紅」
呼んで、紅を見る。
赤く染まっている頬を一瞥して、
「二人きりの時ぐらい、こう言う事しちゃ駄目か……?」
「えっ?」
「っ、だからっ、その……」
キスしたり、とか、したいな、って……
唇を尖らせ小声でそう言うと、紅が巫女服の袖を引きずりながら目の前に来た。
思わずふっくら柔らかそうな唇に眼が行く。
次に長い睫毛に縁取られた濡れた瞳が見えた。
紅は少し恥ずかしそうに唇で弧を描く。
「……やってみる?」
熱が頬に集まるのを感じながら後ろに倒れる。
そんな風にお膳立てされたら出来るものも出来ない。
「やらないの?」
「……やらない、と言うか、出来ないと言うか」
「…………そう……期待したのに、な」
最後は俺に聞こえない程度で言ったのか、頬を膨らませてそっぽを向いた。
さっきの台詞聞こえてたって分かったら、きっと恥じらうんだろうな、と思っていると、紅が何の気なしに携帯電話を取り出し、慣れた手つきで文字を打ち始めていた。
「メール?」
「あ、うん」
見られても問題が無いのか、紅は画面を隠さない。
「誰と?」
「うん? 瑞樹」
「へぇ………瑞樹………は!?」
紅に教えてもらって思い出した、俺と同級生の瑞樹くん。
確かに小柄だったのは覚えているし、演劇部だったのも知っている。
まさかあんな美形だとは思いもしなかったが。
桜祭り以来、二人はたまに連絡を取り合っている。
何でも瑞樹が勝手に演技中の紅が待合所に居ないのを見計らって、勝手にメールアドレスを拝借したらしい。
「瑞樹といったい何を……?」
「えっとね……言って良いのかな?」
「大丈夫、俺の口堅いのは知ってるだろ?」
「……う~ん………じゃあ言うけど、瑞樹……彼女が出来たって」
思わず吹き出す。
「彼女!? ええ!? ほんとに?」
「……みたいだよ?」
「へぇ……女装はやめたんだな……」
瑞樹は小柄だが顔は悪くない。
そうかそうかと、何度も頷いていると、誰かの足音が近付いてきた。
因みによっぽどの事が無い限り誰もこの場所には近づいてこない。
「雪森さん、今大丈夫ですか?」
「あっ、はい」
仕事仲間の一人の巫女に呼ばれると、紅は縁側から出て行ってしまった。
縁側に誰も来ないとは言っても、最近は別で、紅が着物美人コンテストで優勝してからは、紅が目当てで来る参拝客が多く、こうして度々巫女仲間に呼ばれ、接客しているとの事。桜祭りが地元の祭りだから、紅の事がこうして地域に広まってしまったのだろう。
一度戻ってきた紅が、
「ごめん夜、お仕事してくるね」
「了解…………紅!」
縁側から身を乗り出し、俺に呼ばれて振り向いた紅の腕を掴み、引き寄せた。
吸い寄せられるように俺の腕の中に納まった紅の頭を、腕を掴んだ手とは逆の手で支え、奪い去る様にキスをした。
眼を見開いて微動だしない紅を良い事に、俺は唇で今度は紅の頬をなぞり、耳元でこう言った。
「期待したんだろ?」
意地悪気にそう言って、名前を呼んで解放してやると、真っ赤な顔を隠さずにふらふらと歩き始め、仕事に向かった。
「あ、雪森さん……どうしたんですか」
「き、にしないで……」
「でも……」
「ほんとに大丈夫、すぐ元に戻るよ……」
それから紅が一息ついたのが聞こえて、足音が遠ざかって行った。
俺だって恋人らしい事したい。紅だって同じはずだ。
流石に人目がある場所は恥ずかしいが。
紅も特に何も言わなかったところをから察するに、二人きりの時はキスとかしてもいいと言う事だろう。
何年も一緒に居れば文句を言わない理由だってすぐ分かる。
俺は、読み終わった文献を手に文献が保管されている倉庫に向かう。
俺からしてみると家の倉庫でも十分広いのだが、本家の文献の量はここの文献の量をはるかに上回るらしく、倉庫の大きさも何十倍と大きいらしい。
外は酷い暑さだと言うのに、倉庫は心地よいくらいにひんやりしていた。
ここで文献読みたいなぁと思うも、爺さんから、あまり倉庫に長居はしてはいけないと止められている。
理由を聞いたところで満足のいく回答はまず得られないから、特に気にしていない。
順当に読んでいた文献の右に置いてあった文献を手に取る。
烙炎の舞
と書いてあった。
確か、神代神社、巫女舞の一番最初の舞だ。
その次の文献には、緑想の舞……これは二番目の舞。
確か、舞は七つあった。
手に取った文献をまじまじと見つめる。
そして溜息を吐いた。
一冊一冊が結構な厚さだったからだ。
一冊だけを持って倉庫を後にする。
外に出た瞬間に、この国、夏特有の纏わりつくような湿気にうんざりする。
「あー……暑いなぁ」
額を手の甲で拭い、何時もの場所へと戻るために木で出来た日陰を歩き始めた。
ああ、そう言えば……
明日は夏祭りだ。
縁側に座り込み、手にしていた本を隣に置いて、ふとあさっての方向を正視する。
眼に入ったのは何時もの、あの雪山……
夏だと言うのにもかかわらず、変わらずに吹雪いている。
まるであの場所だけ切り取られて別の空間にあるかのようだ。
皆、不気味だとか気味が悪いとか散々な物言いだが、俺には、美しく神秘的で神々しく見えた。
そこに絶対的な、人間では達する事の出来ない不可侵の場所に、山神が、赤い眼をした少女が居ると思うと、興奮してゾクゾクする。
好奇心で、あの山に踏み入ってしまいたくなる。
でも、それをしないのは紅と言う存在のお陰だ。
もし、紅との未来より、雪山への興味が勝ったならば、俺は迷いなく雪山に踏み込むだろう。
「夜?」
声をかけられてゆっくりと前に立つ紅を見上げた。
「珍しいね、山なんか見て……」
「………なあ、紅。今あの雪山は何を考えている?」
「うん? えっと………楽しみなんだって、夏祭り前は毎年浮かれてるんだよ」
「………そう……」
「……………そう言えば、夜」
話しかけられて、視線を雪山から紅に向ける。
「明日、花火大会でもあるけど……忘れてない?」
とっても大切な日だよ。
紅が優しく微笑む。
何の日か分からなくて首を傾げ紅を見つめる。
紅は自分で答えは言いたくないのか、だんまりだ。
もう一度思考に入って、今が夏、祭りが近いと言うキーワードからようやく答えが出た。
「誕生日、だ」
「毎年、忘れるよね」
もう慣れたと言わんばかりに眉根を寄せられる。
俺は、自分の事なのに毎年毎年誕生日を忘れる。
紅が俺の誕生日を知ったのは付き合い始めてからだ。
「プレゼント、何が欲しい?」
その問いに思わず間抜けな声が出た。
子供でもあるまいし……欲しい物なんかすぐに出てこない。
加えて俺はさっきまで自分の誕生日を忘れていた。
……救いようがない。
「欲しい物とか……急に言われても」
「なんでもいいよ、あんまりお金がかかるのは、駄目だけど……」
紅はちょっと俯いて、上目使いで俺を見上げてくる。
その台詞から察するに、まだ働いて稼いだお金を家に殆ど入れているのだろう。
紅が母親からもう大丈夫って言われているのを見たと婆さんが言っていた。
「じゃあ……何でもいいの?」
「うん! なぁに?」
「なら、約束な………明日、一緒に夏祭りに行こう」
それに紅が怪訝そうな顔をした。
「何時も……毎年一緒に行ってるよ? 約束しなくても……」
「いいの、俺がしたいんだから! 約束、守ってくれる?」
紅は納得のいってなさそうな表情だったが、
「………う、ん……」
そう、納得はしていないようだが、ちゃんと返事をしてくれた。
「じゃあ、明日の行動予定は?」
折角約束したのだから、今までよりも良い夏祭りにしようと意気込んだ紅の表情を見つつ、
「何時もは神社の裏山で花火を見るだけだったけど……出店も行ってみるか?」
俺も紅も人混みが苦手で極力避けてしまうため、祭りが行われている通りには行った事はあるが、あまり長い時間居た事が無く、祭りの雰囲気を満喫できたためしがない無い。
それが分かっているのか紅は、
「……人多いよ? いいの?」
と首を傾げながら聞いてきた。
その声に期待が入り混じっている事を感じる。
本当は行きたかったのか、と、もっと早く気が付けばよかったと後悔。
「出店が始まる夕方ぐらいの早い時間なら、人もそんなにいないだろうし……神社に戻って来て、いつも通り花火を見る事も出来るだろ?」
それに紅は嬉しそうに頷いて、ありがとう、と呟いた。
それに微笑んで、また仕事に呼ばれる紅。
もうすぐ日が傾く。
紅が行ってくるねと言い、微笑むのを見て、俺も微笑み返した。
縁側に俺一人になり、また仰向けに寝転がる。
俺は、自分の誕生日があまり好きではない。
子供の頃は爺さんと婆さんが何不自由なく育ててくれたが、誕生日だけはあまり盛大には祝ってはくれなかった。
それは、俺が生まれた日が、母親の命日だからだ。
本当なら子供なんて産めるような体力は無く、虚弱で、医者からも止められていたにも関わらず、それを拒否して俺を産んだ。
詳しい事は誰も教えてくれないから、この程度しか知らない。
きっと今聞いても、教えてはくれないだろう……
うとうとと舟をこぎ始めると、軽く誰かに頭を叩かれた。
「わッ」
「……香夜、文献は直射日光に当てては駄目だと言ったじゃろう?」
「うっ、爺さん……」
振りかえると、この神社の現当主である俺の祖父が立っていた。
「なんじゃ香夜」
「……何か用事でも?」
「札がな、在庫が少なってきてな」
札? 首を傾げると、
「参拝者用のじゃ」
「ああ、それで?」
「前も手伝ってくれただろう、札を書くのを手伝ってくれ」
「ん、分かった」
立ち上がり、それを確認して部屋から出て行く爺さんの後を、文献をきちんと日陰に置いてから追った。
本音はちょっと面倒だなと思ったり。
でもこれも神社を継ぐためには必要な事だと思い、足を速めた。




