冬5
山神は伴侶であった陽明の最後を見届けて、山に帰る選択をした。
理由は簡単だ。
陽明は最後に、一人残された山神とある約束をした。
「必ず迎えに行く」
と。
山神は幸せだった。
愛した男はやがて迎えに来てくれる。
また一緒に過ごす事が出来るのだと。
山神は待ち続けた。陽明を。その生まれ変わりを。
死に絶えた雪山から何度も季節を繰り返した。
春には桜、夏には祭り、秋には紅葉。
陽明と自分が愛した景色だった。
春を100回数え、それからは数えなくなった。
彼はまだ迎えには来なかった。
それから数年が経って、遅すぎると、山神は不安になった。
忘れられては無いだろうかと。
一度思ってしまうと不安は一気に膨れ上がった。
山神は陽明が生まれ変わっているかどうかを調べた。
すぐに分かった。陽明は生まれ変わっていた。
この町から遠く離れた地で。あの目も発現していて、魑魅魍魎も見えているようだった。
しかし、陽明の生まれ変わりは、すでに結婚していた。
妻子があり、とても幸せに暮らしていたのだ。
この事実に山神は狂乱した。
「私の事を迎えに来てくれるって言ったのに! どうして!」
私の事を忘れ、他の女と幸せになるだなんて……そんなの許せない。
山神は陽明の生まれ変わりを、とことん落とした。
妻は事故で死に、子供は病気で死んだ。周りも次々と不幸になって行き、男は一人になった。
一人生き残った男は、寂しく孤独死した。
怒りで我を忘れた山神は、愛した男を不幸にしてしまった事に絶望した。
私はなんて事を……! 不幸になんかしたくなかったのに! 私は陽と幸せになりたかっただけなのに!
山神は自分の犯した罪に涙した。
だが、それと同時に、
「陽が悪いの、迎えに来てくれないから! 好きでやったんじゃないの! 陽が、陽が!」
本当は分かっていた。
迎えになんか来ないかも知れないって、心の何処かでは思っていた。
生まれ変わったら、記憶が無くなる事ぐらい知っていた。
でも、信じた。信じるしかなかったのだ。
「あはははは! 私、陽を殺した! あはははは!!」
愛した男を手にかけた。
その事実に山神は壊れた。
「ごめんなさい、ごめ、ん……ははっ、あはははは……」
山神は、それからまた春を数えた。
100数えて、また陽が生まれ変わっていないかと確認した。
天界にある魂の存在を確認して、この先何百年も新しく産まれる事はない事を確認した。
「あなたに会わせる顔が無いのに……私は……」
山神は限界だった。
陽と会うためにこれ以上待って居られなかった。
寂しさをこれ以上紛らわせる事が出来なかった。
「陽……会いたい……会いたいよ……」
自分で殺したくせに、虫の良い話だと分かっていた。
山神は悟った。
待って居ても愛した人は迎えには来ない。
だったら、私が迎えに行けばいいのだ、と。
山神は早速、一番早く陽を誕生出来る方法を考えた。
調べた所、とある女の腹から生まれる確率が高い事を知った。
神代神社、分家にいる女だ。
しかし、この女は体が弱く、普通にしていたら子供を産む事は無かった。
そこで山神は、女を操り、無理矢理子を作って産ませた。
その子供が、俺だ。
女は案の定、出産に耐え切れずに死んだ。
山神は女が死んだことになんの感情も湧かなかった。
ただ、俺が無事に生まれて来た事を知り、喜んだ。
そこまで確認した後、山神は山を出た。
神代神社近くに家があり、妊娠中の人間が居ない事を確認した後、実家が神社近くにあり、結婚生活が破綻すれば実家に帰りそうな妊婦を見つけた。
紅の母親の事だ。
幸い、腹の子に魂はまだ宿ってはいなかった。
山神は、腹の子に入る事にした。
勿論、紅の両親を不幸にした後でだ。
腹に入った山神は、人間と同じように記憶も感情も、一度まっさらになった。
小さな赤子に入りきらなかった記憶と感情と神の力、そのほとんどを山に置いて来たのだ。
山神は紅葉と名付けられた。
その後、この町に戻って来たのだ。
そこから先は、俺も知っての通りだった。
「坊や、私はあなたの母親を殺したの。それだけじゃないわ。前世のあなたを殺しているの」
喉が張り付いて何も答えられなかった。
母が無理に俺を産んだのは……山神に操られていたから?
「会いたかった、本当に……愛しているわ、夜」
「……」
「でも、もうお終い」
紅は凍りついたように動かない俺の頬を撫でた。
心臓が縮み上がる。
なんて冷たい手なんだ……
両手で包みこまれて、目を覗き込まれる。
おでこ同士がくっ付くような距離。
紅の目が……山神の赤い目が俺を射抜く。
「私、ずっと疑問だった」
その距離のまま、紅が話し始める。
冷たい吐息が当たり、目を見開く。
「夜の目が黒くなるの……どうしても嫌いだった……理由が分かったの」
「……こ、う」
「私の目の色は赤だから。夜の目は、赤になるのが正しいの。夜……私は満足だわ」
紅は離れて行った。
「もう思い残す事は無いわ。町へお帰り」
「こう……紅!」
「私を……もうその名で呼ばないで! 私は紅なんて名前じゃないの!」
何と言ったらいいのか、分からず顔を歪める。
名前……彼女の……山神の名前……
「夕」
山神がはっと俺を見た。
「名前、夕だろ? 何度か夢で見たんだ……」
「……陽……本当に?」
期待に満ちた表情で夕が俺を見つめた。
でも夕はすぐに泣きそうな顔になる。
「夕は愛称よ。本名は他に知られるとまずいから愛称で呼びあっていたのよ……あなたと紅のように」
「……」
「本当に、本当に覚えているのなら私の名前を言って! お願い……」
俺は答えられなかった。
夕はそれ以上話すのは無意味だと、山の奥に行こうと足を踏み出した。
「紅……! 待って!」
掴もうとした手は振りほどかれた。
「もうこれ以上、私を振り回さないで!」
紅はすでに紅ではなかった。
俺の手を振り払った彼女は震える喉で吐露する。
「桜が咲く季節を何度も数えた、信じていたから、春になったら迎えに来てくれるって、信じていたからっ………夏になるとあなたと毎年行っていた祭りが始まる、余計に寂しくて…涙が止まらなくなってしまう……秋には紅葉が色付いて赤くなるあなたの瞳を思い出す、恋しくなってしまう……胸が張り裂けそうだった……冬には何もない……あなたと出会う前の事を、寂しい記憶を……もう、嫌なの、一度幸せを知ってしまったら、それを忘れて元の生活になんて、戻れなかった!」
彼女は叫んだ。
赤い瞳を濡らし、涙を零し、声をあげて。
零れた涙は雪の結晶となり、雪の上に積もって行く。
今降っている穏やかな雪は、彼女の心を表しているようだった。
「分かってる……あなたは陽じゃない」
未だ錯乱する彼女は俺を見据える。
雪山の奥地、薄手の巫女服を身にまとい裸足で立つ。
人のそれでは無かった。
はらはらと雪は降り続ける。
まるで彼女の悲しみを表しているかのように。
「陽は、もう……どこにもいない」
最愛の人の存在を失い、彼女は慟哭する。
俺ではそうする事も出来ない。
慰める事がどうしてできようか。
「あなたは……迎えにっ、来てくれなかった」
顔を覆い、震えながら嗚咽を漏らす。
俺は何もできない。
その悲しみを癒すことなどできない。
彼女は踵を返し、さらに雪山の奥へと進んで行く。
「さようなら、夜……」
「ぁっ……」
悲しみを忘れるために彼女は奥に進んで行く。
人が踏み入る事が出来ない場所に。
俺の手の届かない場所に。
「……っ」
寒さで凍え、声が上手く出せない。
それに……彼女をどちらの名前で呼ぶ方が正しいのか分からなかった。
「待って!」
寒さに凍り付いた体を奮い立たせ、追いかける。
深く積もった雪に足を取られ、転びそうになりながらただ真っ直ぐに進む。
彼女は雪の上を滑る様に進んで行く。俺の元から離れて行く。
「待って! 待てよ!!」
彼女は止まらない、進んで行く。
俺は必死に考えた。
どうしたら彼女は止まってくれる? 俺の話を聞いてくれる?
俺は走馬灯のように今年の春夏秋を思い出した。
美しかった桜、着物姿の彼女。
派手に咲いた花火、ワンピース姿の彼女。
色付いた紅葉、ジーンズを穿いた彼女。
綺麗な雪が降った今日、巫女姿の彼女。
「迎えに来たんだ! 今! 迎えに来たんだ!!」
力の限り叫んだ。
雪にかき消されないように、彼女に聞こえるように。
「だから! 行くな!! 行かないでくれ!!!」
彼女の足は止まらない。
何も聞こえないふりをして一度も振り返らない。
俺は楽しかった日々を思い出しながら、彼女を追いかけて行く。
*****
再び森を抜けると、そこには氷の張った小さな泉があった。
山神は泉のほとりで何かを見ていた。
「まだ居たの? 死にたいの?」
「俺は君を連れて帰るまで帰らない」
「もう日が暮れるのに」
山神の視線を辿って、ぎょっとする。
泉の中に氷漬けになっている白い着物を着た少女が居た。
目を閉じて、完全に死んでしまっている気がする。
少女はやけに見覚えがあった。
「私の前の入れ物よ……姥捨て山だったこの山にはいらない子供も捨てられていたの……あの子に入ったのは……気まぐれだったわ」
万が一の為に取って置いてある、と山神は語った。
山神が再び歩き出したので後ろを付いて行く。
「坊や、もう帰らないと悲しみに飲まれて出ていけなくなるわ」
「悲しみに飲まれる?」
「……前に此処を統治していた山神の悲しみよ。そう言えば知らないのね」
今の山神……夕の前の山神は、少し前で見た大きな切り株、巨木に宿っていた。
当時、山はこんなひどい状態では無かった。
四季折々の山菜が取れ、豊かな川から魚が取れる、恵みに溢れた普通の山だった。
歯車が狂ったのは、巨木が切り倒されてからだ。
「何処かでお屋敷を作るために切り倒されたのよ……愛していた人間に切り殺されたの。悲しみは深かったわ」
良くしてやった人間にこのような仕打ちをされ、前山神は怒りと悲しみにくれた。
もう二度と恵みを与えるものかと、この山は吹雪き続ける事になった。
前山神は憑代が切り倒されたため、自身はこのまま存在して生けない事を分かっていた。
「私は季節の精霊だったのよ。仲間と一緒に山に春の訪れを知らせて回っていたの。……この山に来た時、山神に言われたの……次の山神に任命する。力を託します。と」
前山神に力を託されて、山の管理をする事になった山神。
しかし、存在が無くなった今も前山神の悲しみは深く……今でも山は冬のまま……
「前の山神は、私の母親みたいなものよ……人みたいに血の繋がりがある訳ではないけど……母親なの」
必要な事は巨木から教えてもらった。
心は、陽明が教えた。
この雪の原因が夕では無く前の山神だと言うのは、知らなかった。
山神が足を止めた。
目の前には小さな祠があった。
「陽が作ってくれたの……神様なんだから必要だろうって」
山神は祠に積もってしまった雪を優しく落とした。
とても大事そうに、愛おしそうに、祠を撫でた。
「どうしたら帰って来てくれるんだ?」
「……私は帰らない。此処に居る」
背を向けたまま、山神は吐き捨てた。
「私はあなたを不幸にした。どうして一緒に居られるの?」
俺の前世……山神に呪い殺された前世に関しては、何も思えなかった。
確かに山神は酷い事をしたのだろう。
だけど、それ以上に俺が酷い事をしたのだ。
迎えに行くと言っておきながら、迎えには行かず、他の女と幸せになっていた。
俺の母親については……母と会った事が無い俺には、ただ居なくて寂しかった思い出しかない。
「もうあなたには関わらないわ。人を愛してしまったのが悪いのよ……紅を知る全ての人間の記憶を消し、私も心を殺す……喜びも悲しみも感じなくなるの。みんな幸せになるのよ」
「それじゃあ、君が幸せじゃないだろ」
「私はこの山を管理しないといけないの。長く離れていたから荒れ果ててしまったけれど……この山に居る事が私の至情の喜び。他にはなにもいらない」
山神は、自分で自分を言い聞かせている。そんな感じがした。
どうしたら戻って来てくれるのだろうか?
「ふ……ふは……何を言っているの私……そんな事ちっとも思ってないくせに……あ、は……ははは」
「……紅…? 夕?」
「ははは! もう山は嫌!! 何もない! 色もない! 何もない所で一人ぼっち!! あはははは!!」
山神はまた、ひとしきり狂ったように笑った後、その場に座り込んだ。
「寂しいよ……もう一人ぼっちは嫌だ……陽……」
ぽろぽろと涙が雪の上に積もって行く。
約200年。幸せな時間を経験した山神には、寂しい山での生活は耐えられなかった。
俺が去ってしまったら、彼女はどうなってしまうのだろう。
「君が此処にいるなら、俺も此処にいる」
咄嗟に出た言葉だった。
山神は赤い目で俺を泣きそうな顔で見る。
「此処に居たらあなたは死ぬ。分からないの?」
分かっている。体は冷えてどんどん動けなくなってきている事も。もう足の感覚すら無い事も。
「俺が、そばにいる。死んでも君のそばにいる」
「どうしてっ、なんで!? 私はもうあなたを殺したくないの!」
「君に殺されるんじゃない。俺は好きで此処で死ぬんだ」
未だ泣く山神を抱きしめた。
朝、紅を抱いた時よりも体は冷えていて、氷のようだった。
「どうして……?」
「君の事が好きだから。何よりも大切だから」
「私は紅じゃない! もう紅じゃないのに……」
「君は紅だよ。ねえ、紅……此処で結婚式をしようか」
「……夜」
「指輪も何もないけど……紅を愛するって誓うから」
紅は声を上げてボロボロ泣いた。
俺にしがみ付いて来た。
「私……夜を傷つけた……前の夜を殺したの」
「……うん」
「夜のお母さんだって……たくさんたくさん不幸にしたの」
「うん」
「私は幸せになっちゃいけないの! なりたいけど、なれないの」
「一緒に幸せになろう」
「嫌! 嫌!! そうしたらまた繰り返す、あなたとの幸せな日々と山での白い日々を繰り返すことになる! 耐えられない! もう耐えられないの!!」
再び幸せになる事を、紅は拒絶していた。
幸せであった俺との時間と、つらく寂しい山での時間。
幸せは何時か終わる。そして、また山に帰る……もう、耐えられない。
「なら俺を殺してくれ」
「よ、る……?」
「俺は紅を置いては行けない……一緒に帰れないのなら、今此処で……」
「出来ない!」
「紅」
「出来ない! 出来ない! もう夜を殺せない! 誰か、誰か私の事を殺して!」
「紅……」
「何も感じたくない! 悲しみも喜びも! 陽に教えてもらった心が痛いの! ……壊れる……壊れちゃうよ……」
どうしたら良いんだ……
嗚咽を漏らす紅に何と声を掛けようか迷っている際、ふと、頭に何かよぎった。
頭に入った雑念だと思った。
違った。それは俺では無く、魂が覚えている事だった。
『……君は山から出てこられないのか』
『………山神だもの、何処へもいけないの』
『そうか……俺に付いて行きたいんだよね? だったら真名はある? 術で外に出られるようにしてあげる』
『名前なんかない……本当の山神じゃ無いもの……』
『じゃあ俺が名前を付けてやるよ。そうだなあ、目が赤いし……君の名前は……』
そうだ、あの時もこんな風に……
綺麗な赤い日差しが……山神の目のような……
何度も見た夢、色の無い夢。
前の俺、前世の記憶……どうして繰り返し見るのか、今理解する。
陽明は迎えに行く事を忘れては無かった。
だから俺に迎えに行けと、幸せな夢を見せていたのだろう?
俺は彼女の名前を、思い出した。
「……夕陽」
紅がハッと顔を上げた。
「夕陽、だろ? 本当の名前」
「……陽……陽……ああっ……」
「俺が名前、付けたもんな」
「陽……ほんとうに? ほんとうにあなたなの?」
「逢いたかった、夕陽」
「陽……陽っ……ずっと、ずっと逢いたかった……逢いたかった!」
「ずっと迎えに来られなくてごめんな」
すんなりと陽明の言葉が出てきた。
夕陽、それが山神の本当の名前。美しい名前だった。
愛する人に出会えた喜びで涙する夕陽は、紅では無くなった。
今はそれでも良かった。
「帰ろう、みんな待ってる」
「……ほんとに、良いの? 私、そばにいて……」
「ああ」
力強く頷いた。
もう何も迷わなかった。
「私……人じゃないのよ」
「関係ない」
「私、私やっぱり」
迷う夕陽に、何度も声を掛けた。
大丈夫だ、安心していい、と。
「陽……夜……」
「紅、君は確かに悪い事をした……だから、俺のそばで罪を償ってくれ……一生……いやそれ以上に、何時までも愛している」
「夜……夜……私も愛してる……いつまでも……私、夜のお嫁さんになるのが、ずっとずっと夢だったの……」
「俺も……紅、ずっと一緒に……」
紅に口付けた。
今までで一番冷たくて、心が通った口付けだった。
俺達は幸せだった。
このまま二人、此処で果てるのも悪くないとさえ思えた。
紅を何度も抱きしめた。
冷たくなった俺の体よりさらに冷たい紅の体。
何時かのように体温を分け与えた。
ずっと一緒だ。
紅が不安にならないように何度も囁いた。
呪文のように、消えない痕を刻むように。
俺の体は動かなくなっていった。
でもかまわなかった。
「愛してる」
それを最後に、俺は気を失った。
最後に聞こえたのは紅が俺を呼ぶ声だった。




