冬4
ようやくたどり着いた、白山の麓。
「はーっ、はーっ……ふ、う……」
荒くなった呼吸を何とか落ち着かせた。
白山にはバリケードがされていた。
遊び半分で入ると生死にかかわるからだ。
危険、と書かれた看板もいくつか立っていた。
柵を乗り越えて、雪山の入り口に立った。
本当に、この先に……?
山の広い入り口から冷たい風が漏れ出る。
風に乗って落ちてくる雪は空から産み出されたものでは無かった。
一年中、雪の降る山。白い山。
遥か昔に本当の名前は失われてしまった。
足がすくんだ。
入ったら二度と戻ってこられない……
もしこの先に紅が居なかったら?
そんなの……死に損じゃないか。
「紅……何処に居るんだ……」
数歩、後ずさりした。
その時、何かが視界の端で光った気がした。
「……?」
気になって覗き込んだ。
そこには赤い玉の付いたかんざしが落ちていた。
「!」
気が付いて慌てて拾い上げる。
雪に半分埋もれていたかんざしは、間違いなく夏に俺が紅にあげたかんざしだった。
どうしてこんな所に。まさか……本当に?
意を決して、前に進む。
そして気が付いた。
薄く積もった雪に点々と足跡が続いている事に。
足跡の大きさが紅とそう変わらない事に。
頭が真っ白になった。
走った。
少しでも早く紅を連れ戻すために。
まだ山の入り口、今戻ればまだ間に合う!
しかし前に進むほど雪と風が行く手を阻む。
眼を開けていられない程の吹雪。
足跡は消えかけ、周りは雪で何も見えない。
冷たい風が体温を奪って行く。
奥歯をガチガチ鳴らしながら愚直に前に進む。
「紅! 紅! 居ないのか!?」
ビュオオ、と風が鳴るのみ。
紅の姿はおろか、何の影も見えなかった。
もうすでに足跡は消えていた。
戻ろうにも自分の足跡も消えている。
冷たい風に雪を体に叩きつけられていた。
「クソッ、紅! 紅!!」
叫びながら前に進んだ。
その時、雪に足を取られて転んだ。
風が強いためそこまで積もっていなかったが、一か所だけ積もっている場所があったようだ。
「つっ……」
たいした怪我は無く、咄嗟に付いた手を少し擦りむいた。
ハンカチで保護しよう……持っていただろうか?
胸元に手を入れると、かさっ、と紙に手が当たった。
何だろう? と手に取ってみると、お札だった。
紅に渡された、覚えがないのに覚えがあるような気がしてしまうお札。
今は必要ない。しまおうとした時、薄汚れた札に血が付いてしまった。
やば。さすがに汚すのは良くないよな。
「……?」
血が付いた途端、札が淡く光り始める。
……なんだ? 幻覚でも見始めたのか? だとしたらまずいな。
さらに強く光り始めたので目を細める。
幻覚じゃない!?
札はするりと手を離れ、この吹雪の中、空中にぴたりと静止した。
一瞬にして札が燃えたと思うと、札は新品のように綺麗になり、赤い文字が再び浮かび上がる。
かろうじて読み取れた言葉は……
「烙炎……?」
札を中心に何かが形を持ち始める。
四足、九本の尾、鋭い牙。体は白く、淡くオレンジ色に光っている。体の大きさは馬ほどあるだろうか。
それは一度高く鳴いて、雪山に降り立った。
驚き、唖然としている俺と目が合った。
「やあ、随分と様変わりしたな。主よ」
突然人語を話し始めた狐にさらに驚き、言葉を失う。
普通と違う動物が突然話し始めるのは、覚えがあった。
氷美だ。あの猫も突然話し始めた。
「しかし……此処はあの山か……酷いな。此処まで酷いのは見た事が無い」
「……」
「山神を迎えに来たのか? 約束していたものな」
山神を迎えに行く約束……?
「俺は……違う……山神と約束は……」
「前世でしていただろう。忘れたのか、陽明」
「俺は……陽明じゃない……!」
呆れたように狐が言う。
「その目、陽明のものだ。間違いない。お主は陽明の生まれ変わりだ。よって我の主でもある」
「お前の、主……?」
「我を呼び出せるのは陽明ただ一人。お主、名は?」
「……香夜」
「香夜、良い名だ。新しい主の名だ。我はそれを受け入れよう。さあ命令を」
「命令?」
「何か用があって呼び出したのではないのか? この吹雪の中、山神の元に辿り着くには我が必要ではないのか?」
夢の中で、狐に乗って雪山を進んで行く光景を思い出した。
頼っていいのか? 陽明の式神に。文献通りの見た目をしている狐に。
「俺は、山神に用は無い」
言うと、狐は以外そうな顔をした。
表情が豊かな狐だ。
「婚約者がここに入ってしまって……探しているだけなんだ」
「その婚約者とやらは山神ではないのか?」
「いや……人間だよ」
紅は人間だ。
確かに少し変な所があるけど、山神……神様だなんてそんな事、ありえない。
俺はかんざしを狐に差し出した。
「匂いで追えたりするか?」
狐はかんざしの匂いを嗅いだ。
次に地面の匂いを嗅いで、頷いた。
「行けそうだ」
「じゃあ連れて行ってくれ」
「それが主の望みならば」
促されるままに、俺は狐の背に乗った。
とても懐かしい感覚。
初めて乗ったのに、妙に馴染んだ。不思議な感覚だ。
「こんな山に女一人で来るとは……正気なのか? その婚約者殿は」
「分からない……正気だったのか操られていたのか……」
「操られていた?」
狐に大まかに説明をした。
水晶玉の事、紅が倒れて、目が覚めたら手紙を置いて此処に来た事……紅自身、操られていると言った事。
狐は難しい顔をした。
「もしや山神の怒りに触れた可能性が有る」
「……なんだ、それは」
「山神は主を深く愛していた。知っているか、我々のような魑魅魍魎は人とは違い、誰か一人を愛してしまうと永久にその人物を愛し続けてしまうのだ……山神は主が死んで何百年も経つと言うのに、主を今でも愛し続けている」
「俺はっ……俺は陽明じゃない!」
「同じことだ。山神から見たら陽明も香夜も、全く同じものに見えているだろう」
そんな……弱弱しく呟く。
じゃあ紅は、山神に気に入られた陽明の生まれ変わりである俺に好かれて、婚約したから……?
だから山に連れて行かれたって言うのか!?
「俺は……俺のせいで……」
「だからやめろと言ったのだ。神との婚姻など……のちに苦労する事になるとな……」
「俺は……どうしたら……」
「取り敢えず婚約者殿を見つけるしかなかろう。まだ山神本人の可能性もある。掴まれ、主」
首当たりの毛を掴むと、狐は飛んだ。
ぽん、ぽん、と軽やかに走る。
振り落とされないようにしがみ付いて、前に進む。
途中、狐が何かに気が付いて足を止めた。
雪の中に顔を突っ込んで、何かを咥え上げた。
「それは……!」
赤い草履だった。
仕事着である巫女服とセットになっている物だ。
「同じ匂いがする。婚約者殿のものか?」
「ああ、そうだ……」
「……香夜、おまえ仕事は何をしている?」
「神社の跡を継ごうと……」
「何処の神社だ?」
「神代神社」
「……そうか、香夜は生まれ変わりなのと同時に子孫でもあるのだな」
感慨深げに狐は呟いた。
靴は片方しか見つからなかった。
強い風が全てを拒絶するように吹き荒れる。
「山神……何故だ。陽明が来たのだぞ? 何故拒む?」
「……どうかしたのか」
「来るなと言っている。帰れと」
「そんな事を山は言っているのか?」
「……ああ。昔、色々あってな……山神の感情は分かるようになっているのだ」
唯一愛した俺が来たのに、山神はそれを拒否している。
狐には理由が分からないようだった。
「山神は主を深く愛していた。我々式神は、そんな山神を信じて婚姻を許した……だと言うのにこの仕打ち……」
狐は深く憤っているようだった。
そこで、狐は何かに気が付いた。
「主……主の婚約者は聖域へ向かって居るぞ」
「聖域?」
「山神の家……祠がある場所だ」
こんな山の奥深くに祠があるのか?
すると目の前に、森が現れた。
猛吹雪で近付かなければ全く見えなかった。
狐は地面の匂いを嗅いで、その場に座り込んだ。
俺は狐の背中から降りた。
「この先の獣道へ匂いが続いている」
「一緒には来てくれないのか」
「此処は山神と主の聖域。結界が張られている。二人以外は入る事が出来ん」
「でも紅が……婚約者がこの先に……」
「主の婚約者は、山神なのだろう。入れたのがその証拠だ」
「そんな! そんなはずは!」
「気を引き締めろ主……婚約者殿はもう婚約者ではない可能性が有る。それに、山神は主を拒否している……言葉に気を付けろ、最悪死ぬぞ」
此処まで来る過程で、すでに腕も足も感覚がおぼつかない。
狐の言葉を聞いて、心の臓が痛いくらい冷えた。
心臓が動くたび、冷たい血が全身に回って行く感覚。
俺は気づいていた。
こんな場所に一人、たどり着けるはずがないのだ。
俺は助けがあってようやく来られたけど。紅は誰の助けも借りずこの猛吹雪の中、たった一人でここまで……
偶然なのか、必然なのか。
「……行って来る」
それはこの先に行けば分かる事だ。
狐に見送られ、細い道をただ進む。
途中から上り坂になった。何処へ向かって居るのだろうか。
「……あれ?」
森の中に入ったからだと思っていたが、どうやら違う。
風は止み、雪も優しく降り注ぐのみ。
時折木に積もった雪がドサッ、と落ちる音と一緒に、鳥が羽ばたく音が聞こえた。
この山にも生き物が居たのか。死の山なんて言われているのに……
歩いているうちに体温も少しずつ戻ってきた。
ふと空を見ると、雲の裂け間に空が垣間見えた。
……もう夕方か。赤い日差しが雪山を照らしている。
「は、あ……」
幻想的で美しい光景。
だけど今は……恐ろしい光景にも見えて身震いした。
しばらく歩いて、開けた場所に出た。
大きな切り株が強い存在感を主張していた。
見覚えのある場所だった。夢で見た事がある場所だった。
「紅……!」
そこに紅が居た。
俺に背を向けて、切り株をじっと見ていた。
「良かった紅。探したんだよ」
雪に足を取られつつも紅に近付いて行く。
狐の忠告など、会えた喜びでこの時点では覚えていなかった。
「どうして来たの?」
帰って来た声は、今まで聞いた事が無いくらい冷たいものだった。
胸につららが刺さったような気分だった。
「どうしてって、紅の事が心配で!」
「……烙炎は何をしていたの? 私は帰れって言ったのよ」
「紅? 何を言ってるんだ?」
どうして狐……烙炎と一緒に居る事を知っているんだ?
恐る恐る紅の手に触れた。
その手はすぐに振り払われた。
氷のように冷たい手。
そして……
「こ、う……?」
俺は紅の目に釘付けになった。
「だから、嫌だったのよ」
紅の目は、赤かった。
血を垂らしたような……人間とは違う瞳。
俺はこの目を、なんども夢で……
「坊や、悪い事は言わないから回れ右してお家にお帰り」
「……紅? 坊や……?」
「あなたは私の子孫だもの。坊や、歴史も忘れてしまったの?」
震えた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ!
紅が山神? そんな! どうして!?
「紅、皆心配してる。帰ろう」
「大丈夫。明日になったら記憶を消すから。私の存在はなかった事になる。分かった? 坊や」
「紅、紅……俺はそんなの嫌だ! 一緒に居るって約束したじゃないか!」
紅は呆れたように溜息を吐いた。
「これが一番良い方法なの……分かって、夜」
「紅が此処に残る事が? いい方法な訳ない!」
「私は罪を犯した。夜を不幸にしたの。もう一緒には居られない」
「紅が居なくなる事が俺の不幸だ!」
「……そう、そうね」
紅は一瞬、本当に嬉しそうに笑った。
でも、またすぐに無表情になった。
「夜が私の事を嫌いになるように、お話してあげる」
「……何を」
「陽が死んだ後どうなったのか。私が犯した罪の話よ」
紅は語りだした。
最愛の伴侶を無くした山神が、どんな気持ちで山に残り、どんな気持ちで罪を犯し、壊れて行ったのかを。




