冬3
その日見た夢は、何時もと違っていた。
辺り一面、真っ白な大地を踏みしめ、森の奥へ進む。
傍らには馬と思うかのような大きな九尾の狐。
白い体にほんのり橙色の狐は俺を背に乗るように促してきた。
俺は何も言わずに狐の背に乗った。
何も無い白い空間を歩いて行った。
変わり映えのしない景色、冷たい山風。猛吹雪。
指先がかじかんで勝手に震えた。
この雪山はもうずっと雪が降り続いている。
何もかもを拒絶するように。
優しさも思いやりもこの山にはきっと届かない。
悲しみを湛えた季節の変わらない冬山。
「酷い仕事を受けちまったなあ……」
俺はぽつりと呟いた。
すると、狐が口を開いた。
「だから言っただろう。碌な仕事ではないと」
「うーん……皆困っていたしなあ」
「主はお人よしだ」
フン、と鼻を鳴らして狐は前に進む。
しばらくすると、巨大な森が見えてきた。
「この先に雪降らしの原因があるのか?」
「さてな。行くぞ主」
そのまま獣道を入って行く。
森の中に入ると、途端に雪の勢いが弱まる。
風もほとんど止み、雪がはらはらと落ちるのみ。
明らかな変わりように警戒を強め先を急ぐ。
そして、ぴたりと狐の足が止まった。
視線の先に居たのは……
「女の子……?」
白い着物に短い黒髪。
目を閉じて大きな切り株に寝そべっていた。
異様な光景だった。
少女の目が開いた。
この世の物では無い、赤く揺らめく瞳。
一瞬、死を感じるほどの力。
狐は一度引こうとしていた。
これは妖怪では無い。雪女だと言う話だったが、全くの別物だ。
山神。
物の怪ではなく、信仰されるべき対象だ。
「……」
山神はじっと俺の顔を見つめていた。
そんな俺は何故か、山神の赤い瞳が気になって仕方無かった。
魅入られてしまった。
何故か、どうしてか……分からないけれど……
危険を承知で話しかけてみた。
「こんにちは、はじめまして俺の名前は……」
*****
「紅!? 紅! どうしたんだ! 紅!!」
何度呼んでも紅はピクリとも反応を返さない。
完全に気を失ってしまっているようだった。
砕けて散らばった水晶玉が危険なので、一端、破片をはらいながら紅を移動させた。
「どうした香夜?」
騒ぎを聞きつけて爺さんが顔を覗かせた。
そして紅と、砕けた水晶玉を見て血相を変えた。
「香夜、おまえ……何をした?」
偽る事なく説明をした。
遊び半分で紅に水晶玉を触らせた事。
触った瞬間、水晶玉は砕け、紅が倒れた事。
「水晶玉に触った……? どうして砕けているんだ……?」
「じいさん、俺……」
「その水晶玉は曰く付きだ。無闇に触らせるものでは無い」
「……どういう、物なんだよ?」
何でも、あの水晶玉は……白山の主、山神が作った物、とされている。
自身の力を凝縮して作った透明な水晶。
それを子孫に託し、山神は山へと帰って行った。
どう言う意図があったのかは分からないが、それを受け継いだ当家は、水晶玉を山神自身とし祀った。
冬に冷たい風に当てなさいとの言いつけをずっと守って来た。
水晶玉は、山神と血の繋がりがある者が触れるなら問題は無かった。
血の繋がりがない者が無闇に触れると電撃が走り、痛い思いをする事になる。
紅もその状態なのではと爺さんは語った。
しかし、水晶玉が砕けるなんて事は今まで無かった。いや、合ってはならない事態なのだ。
「水晶玉が原因で紅は気絶したって言うのかよ」
「分からん。気絶するほど電撃が走ったと言う話も聞いた事が無い……ただ、状況からそうとしか思えないだろう」
俺は部屋を慌てて出て行った。
どうして紅が倒れたのか、そんな事はもうどうでも良かった。
「婆さん! 救急車! 救急車呼んでくれ!!」
俺は紅を助ける為に、奔走した。
まず救急車を呼んで貰うように手配した。
それから、紅の所に戻った。
神社の前には長い階段がある。
せめてそこを下りた状態で救急隊員に紅を見てもらった方が速い気がした。
背負う前に紅の顔色を確認した。
今日、初めて会った時より顔色は良かった。
心地よさそうにすやすやと寝息を立てていた。
「紅……」
呼んでも返事は無かった。
爺さんに手伝ってもらって紅を背負った。
階段を何とか降り切って、息を切らす。
爺さんは近所の紅の家に行って紅が倒れた事を知らせに行ってくれた。
救急車が到着し、紅はベッドに寝かされた。
その時にようやく、自分がとんでもない事をしたと自覚した。
何の考えも無しに神社の物を触らせた。
二度と紅の目が覚めなかったらどうしよう。
どう償えばいいのだろう。
「どなたかご家族の方は居ますか?」
救急隊員からそう言われた。
今ここには、俺しかいない。
「俺は、家族では無いですが婚約者で……」
「分かりました。乗って下さい」
目が覚めた時、近くに親しい人がいた方がいいと考えたのだろうか。
今は都合が良かった。
一緒に乗り込んで、病院へと急いだ。
*****
紅の検査結果が出るまで、ずっと病院の待合室で座っていた。
町唯一の大きな病院は、今日もお年寄りたちが列をなしている。
結局、紅が倒れた原因は分からなかった。
紅は目が覚めるまで入院する事になった。
その時、病室の扉が開いた。
「紅葉……!」
紅の母親だった。
話を聞いて仕事を途中で抜け出して来たのだろう。
彼女は紅の顔色を確認した後、がっくりと椅子に座った。
「おばさん……」
「香夜くん、大丈夫よね? 紅葉、目を覚ますわよね?」
「……」
何も言えなかった。
原因は結局分からなかった。
だから、どうしたら目が覚めるのかも分からないのだ。
俺から伝える勇気は、無かった。
「……寒くなってから、無理をしていたの……この子」
何も言わない俺に察したのか、ぽつりと言葉を零す紅の母。
今の紅よりも、母親の方の顔色が悪かった。
「顔だって真っ青通り越して真っ白だった……今日だってそう、私が作ったグラタンが食べたいだなんて……そんな事、一度だって言われた事なかった……」
ぶるぶると肩を震わせながら必死に声を絞り出している。
「我がままを言わない子供だった。何時も……あの白い山を見て笑っていた。私には笑顔なんて見せないくせに……」
「おばさん……?」
「私は、本当にこの子の親だったのかしら……」
「っ、何を」
「私はこの子を産み落としただけで……本当の親は別にいる気がしてならないの……」
「やめて下さい、本人の前で」
「……大丈夫よ。私は紅葉の母親だと思っていますから」
疲れ切った表情と、声。
娘が倒れたと知って、そうとう心配したのだろう。
支離滅裂な言葉を聞いても怒る気にはなれなかった。
「異常は無かったんです。きっと目が覚めますよ」
「ええ……そうね……」
「一度、帰ります。何かありましたらご連絡ください」
「私は、もう少し傍にいるわ……ありがとう、香夜くん……」
一度頭を下げてから、病室を出た。
憔悴しきった紅の母。
早く起きろよ、紅。
みんな、待っているから。
病院を出て、歩いて神社まで帰った。
着物姿で出歩いているのが珍しいのか、好奇の視線が突き刺さった。
そんな事で苛立ったりしないのに、今日に限ってはイラついた。
紅を背負って下りてきた階段をゆっくり上って行く。
……俺のせいだ。
紅が倒れたのは全部……
紅が無理をしているのは分かっていた。だから休憩を取らせた。そこまでは間違ってはいなかった。
……水晶玉。
話しの通りなら山神の力そのもの。
どうして砕けた?
紅が触れたから砕けた?
どうして砕けたら、紅が倒れるんだ?
分からない事だらけだった。
「香夜……! 紅葉ちゃんは?」
「婆さん……大丈夫、異常はないって」
「……そう、良かった。目は覚めたの?」
「……それは、まだ」
婆さんは肩を落とした。
爺さんはと聞くと、どうやら水晶玉の事に関して本家で詳しく聞いてくると言って飛び出したようだ。
「香夜が飛び出して行ってから妙な事があったのよ」
「……妙な事?」
「水晶玉の破片が、消えたの」
「えっ!?」
婆さんは俺と爺さんが飛び出して行ってから、俺の部屋の掃除をしてくれたようだ。
散らばってしまった水晶玉の破片。
危ないからと箒で掃いて一か所にまとめておこうと思ったらしい。
そして、作業を始めた途端、
「氷が溶けるように、水になって蒸発したわ……跡形も残らなかった……」
「あれはただの水晶玉じゃないって事?」
「少なくともガラス玉じゃないわ」
もう、何も言葉が出なかった。
頭が痛い。
「一体、何が起ころうとしてるんだ……」
白山を睨みつけた。
ただそこに永久に存在する山。
永遠の命を持つ山の神。
嫌な予感に眉を顰め、紅が無事に目覚める事を祈った。
そうする事しか出来なかった。
「香夜……少し休んだら?」
婆さんにそう言われ、眉を寄せた。
何もせずに一人でいたら、気が滅入ってしまうだろう。
紅を傷つけた罪悪感に苛まれて、気が狂ってしまうかもしれない。
「いや……大丈夫」
「香夜、でも……」
「掃除、手伝うよ……何かしていたいんだ……気を紛らわせたいんだよ」
婆さんはそれ以上口を挟む事は無かった。
俺の今の気持ちを、少しは理解してくれたのかもしれない。
「無理はしないで……疲れたら休むのよ」
「分かってるよ」
俺はその場を飛び出して、紅が拭き掃除をしていた場所に行った。
バケツも雑巾もそのままだった。
紅の後を引き継ぐように床を拭いた。
バケツで雑巾を洗うたび、水の冷たさに驚いた。
こんな冷たい水でずっと掃除をしていたのか……?
指先は痺れ、感覚が遠のいて行く。
冷たさとは、痛みだ。
紅……
紅の事で一杯だった頭を痛みで誤魔化した。
昼食も食べず、床拭きの交代を申し出られても、婆さんに心配されても……紅の代わりに床を拭き続けた。
全てが拭き終った頃、俺の手には感覚は無かった。
紅の体はとても冷えていた。
もしかしたらほとんど感覚が無かったのかもしれない。
一度、部屋に戻って暖を取る事にした。
爺さんはまだ戻らない。
本家でも何も分からないのだろうか?
「……ぁ」
降り始めた。
分厚い何層もの曇り空から、真っ白で汚れ一つ無い物がはらはらと落ちてくる。
もうすぐ、夕方。
日が落ちかけ、赤く染まる時間だ。
俺は暖を取りながら、地面に落ちてくる雪を眺め、きっと明日には積もっているだろうと悟った。
ふと見ると、机におにぎりが置いてあった。
婆さんが置いて行ってくれたものだろうか。
二つある内、一つを食べる事にした。
具材は昆布だった。ちょっとしょっぱかった。
隣には調べてはいるが何なのか分からないお札があった。
ボロボロの札……
どうしてこんな物を見覚えがある、なんて思ってしまったのだろうか。
これを差し出して来た紅の事を思い出した。
何かは分からないけれど、お守りだと思って胸元にしまい込んだ。
その後も、落ちる雪を眺めていた。
雪が降る時期になると、紅の具合は悪くなった。
毎年の事だった。
風邪を引くわけでは無かった。
調子が悪い、といった感じだ。
でも今日ほど酷い日は無かったように感じる。
何かに体を乗っ取られる、だなんて……冗談、だよな……
この調子で降り続けば、明日には町は真っ白だ。
……紅の体、本当に雪みたいだった。
冷たかった……とても……
「香夜!」
「……婆さん?」
婆さんが血相を変えて駆け寄ってきた。
「紅葉ちゃん目が覚めたって!」
「えっ!? 本当に!?」
「ええ! 今、紅葉ちゃんのお母さんから連絡があって……」
「婆さん、お見舞いに行ってきていい?」
「勿論! 行ってきなさい」
婆さんの言葉に背を押されるようにそのまま飛び出した。
良かった、紅。目が覚めたんだな。本当に良かった。
まず、安心したって言って……次に謝らないとな。
降り始めた雪を蹴散らして紅の元へ。
病院が此処からそう遠くないのが幸いして、すぐに辿り着いた。
「……?」
病院に辿り着くと、看護師も医師もバタバタしていた。
時刻はもうすぐ夕方を迎える。
通院患者の姿はすでに無かった。
誰も座っていない椅子がずらりと並んでいる。
紅の病室が何処なのかは知っている。
はやる気持ちを押さえて、紅の元に急いだ。
向かう途中にも看護師が走り回っていた。
何だ……?
「居たか?」
「いえ、何処にも……」
「まさか、病院を出たのか……?」
誰かを探しているのか?
一言声を掛けてから、病室のドアを開けた。
そこには、涙を流し続ける紅の母親の姿があった。
「おばさん?」
「こう、やくん……もみじが、もみじが……」
紅の姿は何処にも無かった。
検査に行った? いや、そう言う感じでもなさそうだ。
「どうしたんですか」
「紅葉が、何処かに行ってしまったのっ……私がうたた寝をしている隙に……病院中探してもらっているけど、見つからないのっ……」
「何処に行ったか検討付かないんですか?」
「分からないわ! ただ、このメモが残ってて……」
病室に備え付けてあるメモのようだった。
そこには、母親へのメッセージが一言書いてあった。
『お母さんへ
私は帰ります。今までありがとう。グラタン一緒に食べられなくてごめんね』
紅の母は震えていた。
俺は、硬直しつつも何度も短い内容を読み返した。
「家に帰ったんじゃないんですよね」
「家には母が……紅葉の祖母が居ます……連絡したけど帰って来てないって……」
心臓をくすぐられているような、嫌な予感。
『私は帰ります』……?
何処へ? 一体、何処へ……?
『怖い! 私は何時かあの山に帰らなきゃいけないの! 嫌、ずっと此処に居たいのに! 帰りたくない!』
今日、紅に言われた事を思い出し、青ざめる。
まさか、まさか、まさか……!
「山に、帰った……?」
白山をぎこちない動きで見上げた。
そうだ、と上から見られた気がした。
予感が、現実のものとなる。
「香夜くん?」
「探しに行ってきます」
それだけ言い残し、走り出した。
病院では、と一瞬頭をかすめたがそのまま突っ走った。
紅、紅……! 駄目だ、早まるな! 行くな!
白い山、入ったら最後二度と出てこられない死の山……
どうして!? どうしてあんな場所に帰るだなんて……!
走った。時折転びそうになりながら、車に轢かれそうになりながら。
そして空を睨みつけた。
降り始めた雪が、紅を隠そうとしている気がしたから。
ただ、降り注ぐ雪を睨みつける。




