冬2
ああ、また。
何も無い真っ暗な空間で一人たゆたう。
雪解け水で出来た泉の中を沈んで行っている様な、冷たい感覚。
この世界に春は来ない。
永遠に来ない。
あの人が私を迎えに来ない限り。
永久に抜け出す事は出来ない。
「こんばんは〈私〉」
再び現れた少女に膝枕をされ、何時ものように見上げた。
冬の化身のような少女は、また一方的に話し始める。
「〈私〉を通じて彼の目を見たわ。……とっても素敵だった。全てを投げ打ってでも欲しかった、一番欲しかったものよ?〈私〉も大好きでしょう?」
まるで自分が好きなのだから私が好きなのは当たり前、と言いたげな内容に叫びたくなる。
私が夜の事が好きなのは……きっかけは確かに目だったかもしれない、けど!
それだけじゃ語りつくせない。
「何か言いたげね〈私〉」
「……」
「大丈夫よ? 何時か全てを思い出す。その時に理解するわ。どうして彼を好きになったのか、ね?」
少女は楽しげに笑っていたように見えた。
でも、それは表情だけで全く笑ってはいなかった。
〈私〉に対する憐れみと同情。二つの感情が見え隠れして感情を逆なでされていく。
「〈私〉は何も覚えていないから、そんな顔をするのね」
「……」
「私は裏切られた。酷い裏切りだった……とても耐えられなかったの」
裏切り? 迎えに来なかった事ではないのだろうか。
少女からふつりふつりと怒りの感情が漏れ出始める。
鳥肌が立つ。
夜以外に感情を持てない私でも恐怖を感じる程。
しばらくして、その怒りは一気に収束した。
今の少女の感情を一言で表すなら、諦め、だろうか。
「待って居たってあの人は来ないもの……悲劇の女を気取ったって話を聞いてくれる人は誰も居ない」
「……」
「私は一人よ。何時だって。幸せだった時間を糧にして食いつぶすしか能がないの」
幸せだった時間。私と夜との時間のように、少女と幸せな時間を作ったあの人との時間。
間違いなくあの時は幸せだった。
でも、少女は壊れてしまった。
無残にも、屑を丸めてその辺に捨てるように転がされて。
愛する人からの仕打ちに耐える事がどうしてできようか。
「私はもう一度、幸せになりたかっただけ。分かるでしょう? 〈私〉?」
幸せになりたいと思うのは万人共通だろう。
私だって、夜と一緒に幸せになりたい。
少女はどうしてそれを邪魔するのかが分からなかった。
「私も、〈私〉も、幸せになれないの。幸せになりたかったのに、なれないのよ」
「……」
「ふふふ……あ、はははははっ!!! とんだ喜劇だわ!! あはははははははっ!!!!!」
「……」
「幸せになりたい! 幸せになりたい! 願ったって叶わない! あははははははっ!! 私は幸せになれない!! 幸せになれないのよ!!! ははははっ!」
笑い続ける少女は、そこで一端静かになる。
少女の壊れぐあいを目の当たりにして、涙が自然と溢れた。
ただ幸せになりたかっただけなのに、唯一の願いは叶わない。
彼と再び会う。
そんな些細な幸せも、おとずれる事は無かった。
「だから不幸にしてやったのよ」
「……」
「みんな、みぃんな。愛する陽の事も、不幸にしたの」
「……」
「だから、不幸をもたらした私は幸せにはなれない」
少女は、私の目を覗き込んだ。
飛び散った鮮血のような鮮やかな赤。
その目から涙が溢れる事は無かった。
とっくの昔に枯らしてしまったのだろう。
雪降る空に向かって慟哭し、生まれを呪った。
どうして自分は人ではないのだ。
どうして愛する人と同じ時間を生きられないのだ。
どうして一人この山に残らねばならないのだ。
どうして死ぬことは叶わないのだ。
どうして彼は迎えに来なかったのだ。
「みんな、不幸になる。幸せになれない……大丈夫、もう私は壊れてる。心が無ければ幸せになりたいなんて思う事も、悲しいなんて思う事も無い……完全な存在になれるわ」
「……」
「気に病む事はないわ。私は山神。あの山を管理する者。人一人に感情を揺さぶられる事も、もう、無くなる……」
悲しみの中、意識が遠くなる。
夢が終わる。
冷たい泉の深くに沈んで行く。
少女は泣きたそうな表情で、でも泣けないと訴えているようだった。
「私だって幸せになりたかった」
本来なら大粒の涙を零していただろう。
堪えるような表情の少女を最後に、目の前は黒く塗りつぶされた。
*****
疑問だった。
どうしてあんな夢を見るのか。
少女が一方的に話すだけの面白みのない夢。
でも、分かった。
少女は私だ。何となく、そう感じた。
理由なんか無かった。直感がそう訴えていた。
私は幸せになれない。なりたくてもなれない。
その言葉が頭に残った。
起きたばかりなのに、昨日と同じように体が冷えていた。
少女はみんなを不幸にした、と言っていた。
何をしたのだろう? 私にはそれが分からなかった。
「紅葉……」
「……おはよう」
「……おはよう」
部屋から出ると、母が心配そうに私を見た。
母に手を握られた。とっても温かかった。
「顔色が悪いわ……大丈夫なの?」
「うん。温かい物でも食べれば大丈夫だよ」
「そう? 何か食べたい物ある?」
気が回らない母なりに気を使ってくれているのだろう。
後に鏡で自分の顔を見たら青かった。本当に顔色が優れなかったようだ。
「……じゃあ、お母さんの……グラタンが食べたい」
私が母に甘える事など滅多に無かった。
母は大層驚いていたが、
「朝からグラタンは……」
「夕飯の時で良いよ」
「そう……腕を振るって作っておくね」
「うん」
朝は適当に焼いたパンにホットミルクにした。
ホットミルクだけで、体の体温が戻ってきた気がする。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、紅葉」
珍しく母親に挨拶をして意気揚々と家を出た。
頭の中は夜の事でいっぱいだった。
『幸せになりたいだけなのに、全てが阻んでくるの。
待って居るだけでは幸せになれない事も痛感した。
だから私は、迎えに行くことにしたの』
声に耳を塞いで、神社に向かう。
見てて、夢の中の私。もうすぐ私は幸せになるから。
そうしたらあなたも幸せになれるでしょう?
この時は、本当にそう思っていた。
*****
神社では大掃除が続いていた。
埃を払い、綺麗な布で寒い中拭いた。
毎年の事だった。
廊下を水拭き中に夜が現れた。
「紅、おはよう」
「おはよう」
夜は濡れている私の手を取った。
手はすっかり冷え切っていて、夜は眉を寄せた。
「きつくない? 大丈夫?」
「毎年の事だから。それに全然寒くないよ」
「……そう。でも、少し休まない?」
無理をしていると思ったのか、夜は私を気遣ってくれた。
本当に寒くなかった。
朝、起きたばかりの時の方が冷えていたぐらいだった。
バケツと雑巾を隅に寄せてから、夜の後を追った。
夜の部屋に来た。
窓はすべて締め切られおり、石油ストーブが焚かれていた。
「あったかい……」
思わず口に出して呟いた。
夜は畳の上に座り込んだ。
私は自然とその隣に座った。
夜の腕に寄り添った。
温かい。
安心と一緒に心も満たされていく。
大好き。夜。
夜は何も言わずに私を抱きしめてくれた。
熱い。
熱くて、溶けてしまいそうだ。
「顔色悪い。紅? 体調悪いのか?」
「いつもと同じだよ?」
同じでは無い事は分かっていた。
体温が冷え切っているし、動きも鈍い。
夜は私をさらに深く抱きしめた。
「冷たすぎる……雪を抱いているようだ」
……雪?
私は、人の形をした雪?
ふと、少女の姿が頭をよぎる。
振り切るように夜の背に腕を回す。
雪であったって、構わない。
夜の腕の中で溶けて無くなる事が出来るなんて……それもまた幸せな終わり方だと感じた。
腕の中で少しずつ溶けて、水になって……
私の心も溶かして欲しい。形を壊しても構わないから。
あなたの手で……終わらせて……
「紅」
優しく名を呼ばれ、微笑んだ。
夜から何度も口付けを受けた。
熱くて、本当に溶けそうな唇に、吐息。
拒む理由は何処にも無かった。
気が付くと畳の上に横になっていた。
夜ごしに天井を見上げる。
動いていないと思っていた心臓が激しく高鳴った。
血液が体を巡り、きっと顔色も良くなっただろう。
その体制のまま、夜の唇を受け止めた。
「ん、あ……夜、今、しごと……っ……」
仕事をサボって夜と唇を重ねた。
罪悪感と恥ずかしさから自然と目が潤む。
押し倒されている状態だけど、キス以上の事はさすがにしてこなかったのが幸いした。
「俺の体温、移してやるから」
耳元でそう宣言され、体温はさらに上がって行く。
今まで冷えていたのが嘘のように体調が良くなっていく。
「は、あ……ぁ」
心地よさからぶるりと体が震え、自然と吐息が漏れる。
その吐息を食べるようにまた口を塞がれた。
何も怖い事なんて無かった。
だって、私は今とても幸せだから。
このまま夜と結婚するの。
それで、子供は二人産みたい。
立派に育てて、子孫繁栄を願うの。
夜がおじいちゃんになっても、ずっと傍にいる。
そして、私は……山に……
山、に?
「……」
自分が年取るイメージがまるで掴めなかった。
どうして、山が出て来たの?
思わず、頭を抱えた。
「紅?」
もうこれ以上、私の中に入ってこないで!
私は私! 他の誰でもない!
たった一人の人間なの!
「どうしたんだ? 紅?」
「こんな事本当はしたくなかったのに」
「……紅?」
「あなたを不幸にしたくなんか無かったのに」
「紅!? どうしたんだ? しっかりしろ!」
夜に揺さぶられて、ようやく我に返った。
安心すると同時に、怖くて涙が溢れた。
「夜っ……ごめんなさい……」
「どうして謝るんだ?」
「私、おかしいの……誰かに体を乗っ取られて、っ……」
「誰かに……?」
私は思わず、窓ガラス越しに白山を見上げた。
白山は今日も、私を呼び続けていた。
「怖い! 私は何時かあの山に帰らなきゃいけないの! 嫌、ずっと此処に居たいのに! 帰りたくない!」
夜には私の言葉の半分も理解は出来なかっただろう。
戸惑いが顔に現れていた。
でも夜は、微笑んだ。
私にはそれが太陽のように見えた。
「紅が山に帰るなら、俺も山に行くよ」
心臓を素手で鷲掴みにされた気分だった。
ぶるぶる、がたがた、体は小刻みに震え、涙は溢れて止まらない。
「ほん、と……に?」
「うん」
「行ったら、死んじゃうかもしれないのに?」
白山は死の山として有名で、登った者は二度と戻ってこない。
それでも夜は山に行くと言うのか。
「死ぬかどうかは関係ない。紅と一緒に居たいから」
「こわく、ないの?」
「怖いよ、普通に。でも、紅と離ればなれの方がもっと嫌だから」
「よ、る……!」
声を上げて泣いた。
ずっと不安だった。
誰にも話せなかった、悩み。
きっと安心させるために夜はそう言ってくれたんだよね。
それだけでもすごく嬉しい。
私、山になんか行かないから。約束だよ。
「体も温まったね」
「うん……ありがとう、よる……」
「悩みがあったらすぐに相談しろよ? 紅はすぐに抱え込むんだから……」
「うん……ごめん、心配かけて……」
夜の手を借りて、起き上がった。
そのままぴったりと夜にくっ付いた。
大好き、夜。
私のたった一人、愛している人。
「降るのは夕方からだったか」
夜は重たい曇り空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「明日は朝から雪掻きか……気が重いよ」
「あんまり降らないといいね……」
天気の話をしている最中、机に目が止まった。
昨日、私が拾ったお札と、水晶玉が入っている木の箱だ。
「あのお札、何か分かった?」
「いや、調べ途中……そういや何で見覚えがあるように感じたのかな? 良く考えれば見た事ないのに」
「……そう言えば私も……不思議だね」
見覚えがあったはずの札は、良く考えれば見た事無いような気がしてくる。不思議な感覚だ。
次に水晶玉の方を見た。箱は開いていなかった。
「水晶玉は開けなくて良いの?」
「まだ大掃除中だからいいかなって思ってさ。気になるの?」
水晶玉がこの部屋に有ると認識してから、ずっと気になっていた。
何故かは分からない。
一度見た水晶玉が綺麗だったから、もう一度見たいのかもしれない。
夜は何も言わずに箱を空けた。
透明な、何の変哲もない水晶玉。
「これさ、面白いんだ」
そう言って夜は水晶玉に触れた。
「わあ」
水晶玉が虹色に輝き出した。
驚いていると夜が教えてくれた。
触る人によって色が変わるんだって。
どう言う原理か分からないみたいだけど。
「虹色に光るのは長い歴史でも俺だけだって。やっぱり目のせいかなあ」
「ふふ、水晶玉も見る目があるんだね」
「水晶玉に好かれても嬉しくは無いかな」
夜が、目の前に水晶玉を置いた。
「触ってみる?」
「え……でも……大切な物なんでしょ?」
「触るくらい平気だって。ほら」
促されて、改めて水晶玉を間近で見た。
綺麗だ、と思うと同時に妙な既視感を感じた。
札と同じで、何処かで見た事がある……?
これに、私は触れなくてはいけない。
使命感のようなものを何故か感じた。
「じゃあ……」
手を伸ばし、人差し指でそっと、優しく触れた。
……はずだった。
「あっ!」
一瞬で水晶玉が白く濁り、凍った。
人差し指を伝い、白い冷気が腕を駆けあがってくる。
声を上げる事は出来なかった。
そして、水晶玉は弾けた。
粉々の破片になって辺りに散らばる。
私は、そのまま倒れた。
体に力は入らず、気も遠くなっていった。
何かが私の中に入って来た。それだけは理解できた。
最後に聞こえたのは夜が私を呼ぶ声だった。




