冬1
深く沈んだ意識が浮上する。
真っ暗。
周りには何もない。
私以外、何も。
何もない空間にただ、漂う。
この夢は何度も見た事がある。
ほら、来た。
「こんばんは、〈私〉」
その少女は何時も私を見下ろす。
死に装束の様な白い着物を着て、私を膝枕する。
私は少女を膝から見上げた。
艶やかな短い黒髪に、血を垂らしたような赤い瞳。
その瞳からこの世の物ではない存在である事が容易に想像できた。
少女は、人でもなければ幼くもないのだ。
「もう冬ね……嫌な季節だと思わない?」
ただ、少女の話を聞く。
この夢の中で私が話す事も動く事もできない。
この空間は少女が作ったものだから。
私が声を上げる事など出来はしないのだ。
「雪は全てを飲み込んで行く……生も死も、平等に」
「………」
「あの人が死んだ時も、雪が降ったの……覚えてる?」
少女が私の目を覗き込む。
こうやって目を覗き込まれるたび、恐ろしくなる。
少女はすでに壊れていた。
人ならざる赤き瞳のさらに奥。
彼女の心。
悲しみ、愛情、絶望、狂気。
……狂愛。
何か……誰か……一つの事に執着して愛し続ける。
この愛は永遠だ。
全てを犠牲にしてでも。
貫くだけ。
「まあいいわ。〈私〉の舞はとても良かったから、少し猶予が出来たの」
舞? 秋に本家で披露した物の事だろうか。
少女は舞う様に両手を動かした。
……美しい仕草。
「でも、もう待てない」
少女は私の頭を撫でた。
少女らしからぬ仕草で、妖艶に息を吐く。
「〈私〉は今幸せね? 良かった、幸せになれて」
少女は頭を撫で続ける。
「でも、ごめんね、〈私〉」
「………」
「〈私〉が幸せになればなるほど、つらくなるのは分かっていたのに……」
何の、話?
少女は変わらず、一方的に会話を続ける。
「私は〈私〉、もう一人のあなた」
「………」
「あなたに入り切れなかった、あなたの心と記憶」
「……」
「何時かは全てを思い出すの、幸せな〈私〉」
幸せは、もうすぐ終わる。
少女はそう呟いて、目を細めた。
慈愛を持って、私を見つめる。
「それまでは、どうか良い夢を」
「………」
「彼との幸せな、有り得ない未来を」
私は、目を閉じた。
「〈私〉は幸せにはなれない。決まっている事なの」
*****
体が芯から冷えていた。
今のは、夢?
そうだ、私は夢を見ていた。
目の赤い少女。
既視感。
〈私〉は私。
彼女は……私?
起き上がって、窓から外を見た。
さあ、いらっしゃい。あなたの居場所は此処だよ。
白山が私を呼んでいた。
今年の春ぐらいからだろうか。こうして呼ばれるのは。
頻度は高くなっていく。
私は何時か、あの白山に帰る運命なのだろうか。
私は、一体……少女は……
頭を振る。
考えたくない。
私は夜と一緒に居るの。ずっと、ずっと……
「っ……」
いきなり耳鳴りがして、布団を強く掴む。
声が、聞こえてくる。
『ずっと一緒だと思っていた。でも、違った。
永遠なんて何処にも無かった。
私の世界にも、陽の世界にも。
何処にもなかったの』
何かを思い出したかのように言葉が頭に入ってくる。
嫌! 違う! どうして!?
私じゃない! 私の記憶じゃない!
頭痛がして頭を抱える。幻聴が聞こえて耳をふさぐ。
『あの人は言った。
迎えに来てくれるって。
だから、私は幸せだった。
冷たい世界に何百年、一人残されても平気だった。
約束があったから』
「嫌!!」
『でも、その約束は、』
「いやああぁあああっ!!!!」
周りの物を手当たり次第に投げる。
聞いていたくなかった。
誰の記憶なの、誰の感情なの?
私じゃない! これは私じゃない!
心に悲しみと絶望が深く突き刺さる。
立ち直れない、もう、前を向けない……壊れてしまう。
彼は、迎えに……
「うっ、うぅ……陽……」
私は知らない誰かの名前を呼んだ。
ボロボロと涙が溢れ、止まらない。
彼は迎えには来なかった……だから、私は……
「紅葉……!」
視界に女性の姿が写った。
女性は慌てた様に私を抱きしめてくれた。
「どうしたの? 何があったの?」
そこで、ようやく、その女性が自分の母親である事を思い出した。
途端、涙が止まる。
私は私。他の誰でもない。
「私は私……」
「紅葉?」
「大丈夫、怖い夢を見ただけ」
ゆっくりと立ち上がる。
すっかり散らかってしまった部屋を一瞥する。
仕事に行こう。
「紅葉……今日ぐらいはお休みしたら?」
母親を睨みつける。
「行く」
母親を睨みつけた事なんてなかった。
初めての事で母親は動揺しているようだった。
私は私。
何度も繰り返す。
夜、夜……早く会いたい。
怖かった、恐ろしかった。
自分が自分で無くなるような気がして……今まで大切に思っていたあの白山が怖いものに見えてしまう。
早く、早く……私を感じて……夜……
「もう、一人にしないでっ……」
最後に呟いたのは、本当に自分の言いたい事だったろうか。
それすらも、もう分からない……
*****
神社に来た。
ふらふらと参道を歩く。
私は、私は……?
私は誰なの。
私は、紅……雪森 紅葉。
夜の幼馴染、恋人で、婚約者……
未だに震える手で巫女服に着替える。
きゅっと目を閉じる。
本当に? 私は夜の婚約者?
都合のいい夢を見ているだけ?
「はっ……夜……」
夜の元へ急ぐ。
私を、私を教えて。
お願い、このままだと私……
「あ、紅!」
夜は私を見るなり微笑んだ。
不安だった気持ちが一気に拡散する。
「おはよう、って、どうしたんだ?」
夜の胸の中に飛び込んだ。
幸せな気持ちがどんどん溢れてくる。
そうだ、私は今、とっても幸せだ。
彼ともうすぐ結ばれる。
永遠に……
『忘れたの? 永遠何て何処にも無いんだよ』
耳をふさいで、夜にすり寄る。
「紅? 本当に、どうしたんだ?」
「何でもない……何でもないけど……傍に居て」
夜はそれ以上何も聞かずに抱きしめてくれた。
幸せだ。
不安も何もかも考えなくて済む。
大丈夫、今までの事は私が夜との結婚に不安を持ってしまっていたから……
誰かの声が聞こえた訳じゃない。
そう思うことにした。
そう思わないと、壊れてしまいそうだったから。
夜、本当に大好き。
心に刻むように何度も何度も繰り返す。
『その感情は、本当にあなたのものなの?』
今日は大掃除の日だった。
年末はまだ先だけど、分家と言えど広い神社だから。
時間をかけてゆっくりやるのだ。
夜は本殿の中の片づけをやっているようだった。
私はいつも通り庭を掃いてから何処かの掃除を手伝う事になるだろう。
もう冬と言う事もあり枯れ葉はあまり落ちていなかった。
生も死も平等に、飲み込んで行く……
頭の中の声を思い出した。
明日、雪が降る予報だ。
此処は豪雪地帯。あっという間に町を飲み込んで行く。
空はすでに雪が降る事を予告しているのか、鈍色の雲が厚くかかっている。
どうしてあの濁った雲から真っ白な雪が落ちて来るのだろう?
子供の頃、空を見上げて、変なの。と思った記憶がある。
雪は自分で作る物なのに。
ぎゅっと箒を握った。
今の記憶は……私の……?
違う。私の記憶じゃない。そんな事思うはずが……
ひゅお、と冷たい風が吹く。
吹いた先には白い山があった。
寒くもないのに腕をさすった。
何故か、胸騒ぎがした。
掃き掃除を終えて、私は掃除では無く社務所に立った。
他の巫女が鼻風邪を引いて参拝者に不快な思いをさせてしまわないように配慮した形だ。
目の前にはお守り、破魔矢、絵馬などが並んでいる。
思えば、私は風邪を引いた記憶が一切ない。
夜は体が弱い訳では無いが小学生時代はよく風邪を引いていた。寝込むほどではないから心配はしなかったのだけど。
私は暑さも寒さもそれほど感じない。
暑くてもそんなに汗はかかないし、冬は特に……寒いと感じない。
だからなのか風邪を引く事は無かった。
思えば私は手のかからない子供だった。
風邪を引かない事に加え、親に対して反抗期なども無く、ただ言う事を聞いていた。
片親だから? 父親が蒸発して母親に苦労を掛けまいとして?
違う。
ただ、興味が無かった。
親に対して興味が全く持てなかった。
一緒に暮らしている母親も、居なくなってしまったと言う父親の事も。
家の事など心底どうでもいいと思っていた。
何の感情も持てなかった。
何時だって私の世界の中心は、たった一つ。
夜。
それだけ。
夜だけしか見えていない。
「……すみません」
声をかけられて、はっと相手を見る。
その手にはお守りが握られている。
「これを下さい。素敵な巫女さん」
「……瑞樹?」
春以来、メールのやり取りしかしていなかった瑞樹が目の前に居た。
女装はしていない。
寒いのが苦手なのかモスグリーンでモコモコのダウンコート着ていた。
女装をしていない状態で会うのは初めてなので顔をまじまじと見てしまった。
確かに可愛らしい顔はしてはいるけれど、恰好が良い顔に入るだろう。
「気が付いたんだ。ばれないと思ったんだけど」
「声と目元で気が付いた。300円になります」
お金を受け取って袋に入れたおまもりを渡す。
縁結びのお守りだった。
瑞樹には恋人が居たはずだけど……
「今日はとっても寒いね。明日は雪だって」
「毎年のことでしょう?」
「はは、そうだけどさ。嫌だなって思うぐらいいいだろ?」
瑞樹は屈託なく笑った。
……何をしに来たのだろう?
お守りを買いに来ただけでは無い気がする。
「そのお守りは誰かにあげるの?」
寒いためか他に参拝客はいない。
瑞樹と話をする事にした。
「これ? 自分用だけど」
「……恋人、居たんじゃ」
「別れた。つい最近だけど」
そう言って瑞樹は寂しそうに微笑んだ。
メールでは楽しそうだったのに、どうしてだろう?
興味があった訳じゃなかった。
ただ何となく、聞かないといけない気がした。
「どうして?」
瑞樹は重苦しい曇り空を見上げた。
そしてぽつりと呟いた。
「この町を出る事にしたんだ……もう戻っては来ないだろう」
「……それで別れを?」
「ついて来てって言ったら無理だって言われたんだ。彼女は閉鎖的なこの町から出る気は無いんだろうさ」
周囲を山で囲まれた閉鎖的な町。
これと言った特産品も無く、誰の記憶にも残らない町。
唯一の文化と言えば、この辺りに多くある神代神社と、白山信仰のみ。
春には桜が咲き乱れ、夏には祭囃子が鳴り響き、秋には紅葉が色付く。
毎年の事。毎年の繰り返し。何度見てきただろうか?
「最後に挨拶に来たんだ」
「夜に?」
「いや、君に」
瑞樹は微笑んだ。
そしておどけた様に、
「君の恋敵は大人しく消えるとするよ。どうかお幸せに」
と言って、笑いながら去って行った。
私はその後ろ姿をただ見ているしか出来なかった。
瑞樹との最後の別れだと言うのに、寂しさも悲しさも感じなかった。
私の心は、何処にいってしまったの。
冷たい風と共に過ぎ去ってしまったの?
何も感じない事を虚しいと思う事さえも……もう、私には出来ない。
*****
私の心には何時だって大穴がぽっかりと空いていた。
穴が大きすぎて形を保っては居られないほどだった。
その穴を埋めてくれる唯一の存在が夜だった。
だから夜は心の拠り所だった。
一緒に居ないと、心が壊れてしまうから。
壊れて、砕け散って、バラバラになって……
嫌だ、そんな事、考えたくない。
夜に依存して、今まで生きてきた。
私にはどうしても夜が必要だった。
でも、どうして夜でないといけなかったのか。
ずっと分からないまま……
「紅!」
昼休憩後、本殿に行くと、入り口外に乱雑に色々な物が積み重なっていた。
そして、夜が重たそうに何かを運んでいた。
「ちょっと持ってくれる?」
「……うん」
「ありがとう」
一度、頑丈そうに作られてある木箱を外に出した。
ふう、と夜は一息ついていた。
箱の中を覗き込むと、色々な物が詰まっていた。
がらくたの様に見えるかも知れないそれに興味を引かれて一つ取り出してみた。
勾玉の付いた古い首飾りのようだった。
埃で薄汚れてはいるが、磨けば綺麗になるだろう。
「夜……これなに?」
「箱の中の物? 昔からある物で使う用途が分からない物が入ってるんだ。捨てるには惜しいような物だよ」
「へえ」
捨てるに捨てられないから箱に一纏めにしているのか。
首飾りを箱の中に落とした。
かしゃん、と底に落ちた音がした。
「……?」
一瞬、首飾りが光って大きな箱の底が見えた気がした。
やけに、見覚えのあるような物。
見えた物が気になって、手を再び入れる。
「紅? 何してんだ?」
声を聞いて手を引っ込めた。
夜は箒を二つ持っていた。
「あ……掃除? 手伝うよ」
箒を受け取って、本殿の中に入った。
余計な物が運び出された室内は少し埃っぽかった。
夜と一緒にマスクをして埃を掃き出した。
最後に床と壁を綺麗に拭いて、一時的に外に出していた物を再び運び入れた。
「あー……疲れたあ」
「お疲れ様」
重い物は全部夜が運んでくれたから私はそんなに疲れなかった。
ふと、空を見上げた。
太陽が見える事は無かったが、夕方である事が分かった。
明日は雪が降る。
冷たくて痛い。
閉鎖的な町に痛みが下りてくる。
「紅もお疲れ様」
夜の笑顔に自然と笑顔になった。
「あ、そうだ夜」
「ぅん?」
「これ、見つけたんだけど……」
差し出したのはがらくた入れの木箱から見つけた一枚のお札だ。
薄汚れている上に赤く描かれている文字も消えかかっていた。
夜はそれをまじまじと見た。
「見た事あるような……」
「やっぱり? 私も見た事あるような気がして……」
「うーん……ちょっと調べてみるよ」
そう言って札を夜に渡した。
ほっと一息ついた。
私は、夜と一緒に居ないと人間である感覚すら忘れてしまいそうになる。
だから、ずっと……
『永遠を望めば望むほど、壊れて行くだけなのに。
どうして繰り返そうとするの?』
耳に届いた言葉。
何度も聞こえてくるもう一人の私の声。
白山に居る私と夜の隣に居る私。どちらが本当の私なのだろうか。
「紅?」
心配そうに呼ばれ、瞬いた。
夜の優しい手が私の頬を撫でた。
びくりと体を硬直させた。
「体調悪いのか?」
「ううん、悪くないよ」
「そう? でも……何時もと違う気がして」
今日は声に苛まれて考え事をしている時間が長かった。
それを体調が悪いと思ったのか。
優しい夜。私のたった一人の人。
「たいした事じゃないの……声が聞こえて……」
「声……?」
思わず、白山を見た。
年中雪の降っている白山は、明日の雪を喜んでいるように感じる。
「白山は何だって?」
「……分からない」
「え?」
「何を考えているかなんて、もう……」
分からない。
「……夜?」
「まあ、そんな日もあるって。気にすんな紅」
夜はいつも通り私の頭を撫でてくれた。
私は自然と夜に体を預けた。
綺麗な瞳。
普通とは違う、人の理から外れた全てを反射する瞳。
もっと、
「紅?」
もっと私を見て。私を映して。
そのまま、抱き着いてさらに近く。
私はこの眼に見初められる為に生まれてきた。
共に生きていくために。
私がこの先も存在していけるように。
あなたが、何時までも迎えに来てくれないから。
「早く迎えに来て……」
「……紅?」
「……」
「紅? どうかしたのか?」
「……」
「紅」
「……あ、夜……? 私……?」
「大丈夫か?」
「うん。だい、じょうぶ……」
その後もぷつりぷつりと何度か意識が途切れた。
自分の体を誰かに乗っ取られている様な気がして怖かった。
気持ちを紛らわそうと夜にキスをねだった。
夜はすぐにしてくれた。
キスをすると暖かい気持ちになれた。
壊れかけの心が一瞬だけ形を取り戻す感覚。
満たされていった。
とっても幸せだった。
「夜……? それは?」
帰り道、夜が小さな小箱を持っている事に気が付く。
歩きながら箱を開けてくれた。
中に入っていたのは手のひらサイズの水晶玉だった。
「雪が降る季節なったら風通しのいい場所に出しておくのが毎年の事なんだ」
「そうなの? 知らなかった」
「今までは爺さんがやってたんだよ」
すぐに箱の中にしまわれてしまったが、透明で透き通っていた。綺麗な水晶玉だった。
明日、まだ見せてもらおう。
そう思い来た道を戻って行った。




