秋5
神社の裏道を通される。
細い砂利道で、背の高い木々が並ぶ森を抜けていく。
「お前はここまでだ」
男は夜にそう告げる。
「俺はその子の付きそいだ」
「ま、待って」
夜が噛み付こうとするので、間に入る。
「笛の奏者の人数、足りていますか?」
先ほどの舞で気が付いたのだ。
奏者の人数が足りない。
緑想ではあれで十分だが、氷美ではそうはいかない。あの人数では足りないのだ。
「夜は……香夜は笛を奏でられます」
「……」
男が真偽を確かめる様に夜を見やる。
夜は一度頷いた。
「入れ、妙な行動は取るなよ」
中に入ると、神聖な空気が肺を満たす。
やはり此処は、神様の訪れる場所なのだ。
「娘、お前はここで着替えろ」
中に無理やり押し込まれ、戸が閉まる。
広い和室に衣装が積み重なっていた。
……夜は大丈夫だろうか?
後から一人の若い巫女が入ってくる。
年の頃は……加奈子と同じくらいだろうか。
「こちらに着替えてください……あまり時間がありません」
そう言われ、時々手を貸してもらいながら手早く着替える。
鈴の髪飾りを付け、さっと化粧をし、赤い扇子を手渡された。
「あなたは舞えないの?」
そう聞くと、巫女は目を伏せた。
「あなたは、なぜ舞えるのですか?」
「私は、分家の巫女だから……」
「そうなのですね……」
少し間を開けて、巫女が口を開く。
「此処の巫女は大分減ってしまいました……以前なら分家に応援を頼むことなんて無かったと思います」
それっきり巫女は話さなくなった。
原因が原因なだけに滅多な事は口に出せないのだろう。
幸成が巫女に対してつらく当たるのは、母親が原因なのかと思える。幸成の母は元々此処で巫女をしていたから。
そして、理由を知っているからこそ、誰も彼を叱れないのだ。
悪循環だ。
「出ろ、始まるぞ」
戸が開き、男にそう言われる。
遠くで太鼓と笛の音が聞こえた。
夜はもう舞台に立っているようだ。
長い木造の廊下を抜ける。
ちりん
何かが聞こえ、振り向いた。
鈴の音だった。
聞こえたほうにも廊下が続いている。
「どうした」
「向こうには何があるの?」
「本殿だ、立ち入ることは許さん」
もう一度、音の方を見た。
何故か、懐かしい。そんな音だった。
懐かしい音に後ろ髪を引かれながら、前に進んでいく。
男に促され、扇子で顔を隠す。
すり足で少しずつ前に進んで行く。
笛の音がやんだ。
横目で一番端に夜がいる事を確認した。
目が合ったので微笑む。
ドン! ドン!
太鼓が力強く打ち鳴らされる。
こんなに人がいる場所で舞うなんてなかなかない事。せめて、楽しもう。
力強く足を前に出し、扇を閉じ高く投げる。
その扇をとったと同時に、笛の音が再開する。
軽快な笛の音と体に響く太鼓の音。
とてもいい。
気分が盛り上がっていく。
舞うときはいつも楽しい。だから、今も……
夕方の赤い日差しが私に突き刺さる。
ああ、いい色。
そう言えば氷美の舞は時間通りに行えず、今の時間になったと聞いた。いっそ中止にしてしまえば良かったのに。
……いいえ、やっぱり駄目。
白山が望んでいる。巫女が舞う事を。だから舞う。夜がそれを望んでいなくても。
舞台の上から観客を見下ろす。
そう言えば、数時間前、私は見ている側だった。
でも今は、逆の立場。
気分が高揚して不思議と笑顔になる。
ふと裏から視線を感じて、振り付けに支障が出ない程度に振り替える。
ああ、坊や。
可哀そうな坊や。
お前は私を見て何を思い出しているの?
母親の事を思い出しているの?
ドドン!
最後に大きく太鼓が打ち鳴らされ、終わる。
ゆっくりとすり足で舞台から下がる。
終わった。よかった。
「紅!」
舞台から下がって、少しすると夜が走り寄ってきた。
「夜」
ぎゅっと抱きしめられて、安心する。
「良かった、紅」
「……どうしたの?」
必死に夜が私を抱きしめるので心配になって聞いてみる。
「舞っている時、紅が紅じゃない気がして……」
「……舞っている時?」
そうだ、私は気持ちよく舞っていた。
でも……ついさっきの事なのに、記憶が途切れ途切れだ。
楽しかった事は覚えている。
「大丈夫、私は私……」
「……帰ろう、もうこんな所、居たくない」
「うん」
とんでもない旅行になっちゃったね。
ごめん、夜。
着替えるために部屋に戻る。
夜も部屋を与えられていたようで、途中で別れた。
無言で着替え始める。
「……はあ」
一つ息を吐いた。
「……?」
廊下からドタドタとうるさい足音が聞こえてきた。
気にせず着替えていると、
スタン!
と戸が勢い良く開いた。
「っ!」
唐突に空いたので体を隠す。
今の私は下着姿同然だ。
「おい、お前!」
「な、なに」
入ってきたのは幸成だ。
今着替え中なのが見てわからないのだろうか。
「気に入った」
「……えっ」
気に入った? 何を? そんな事より出て行ってほしい。
「明日から此処で働け!」
「えっ」
「いいな!」
何にも良くない。
気に入ったって、私を?
「私は此処では働けません」
「何故だ、分家よりも本家の方がいいだろう!」
「分家だ本家だ何て興味ない」
私が興味あるのは、夜、ただ一人だ。
他はどうだっていい。明日世界が滅ぼうがどうなろうが、私と夜が二人でいる事が出来るなら、なんだっていい。
「夜の傍に居たいだけ」
「夜って、香夜の事か!」
幸成が怒りの表情をもって私に掴みかかる。
「嫌っ」
「いつもいつも、なんで香夜なんだよ!」
「痛っ」
「なんであいつばっかり! 僕の欲しいものを持って行くんだよ!」
最初は髪を掴まれて痛い思いをした。
次に腕を掴まれて押し倒された。
「……!」
息をのんだ。
怖い、怖い。
私は男に押し倒されたのだ。
こんな、下着姿で。
その時、私は何かを思い出した。
昔、こんな風に男に押し倒された事は無いだろうか。
そうだ、雪の上だ。
あの時も、すごく怖くて……それで……どうしたんだっけ?
私は……男を……?
その後、誰か……愛しい人が来て……
これは、誰の記憶?
「紅!!」
着替え終わった夜が、割って入る。
「っ……夜」
痛かった、怖かった。
まだきちんと服も着ていない。
何をされるのか分からなくて、恐ろしかった。
無意識に涙があふれる。
「ひっ、ひっく……夜……」
自分の事で精一杯だった。
必死に夜の背中にしがみついていた。
思い出してはいけない事を思い出した気分だった。
これは、私の記憶じゃない。
「お前えぇえっ!!」
夜が声を荒げて幸成に掴みかかる。
「いい加減にしろよ!」
「な、なんだよっ」
「何時まで子供のままで居るつもりだよ! 無い物ねだりしてんじゃねえ!」
「僕は子供じゃない!」
「言動が子供だって言ってんだよ!!」
夜が幸成を投げ飛ばした。
それを唖然と見つめた。
「母親が死んだぐらいで何だ! 男なら乗り越えろ!」
夜は呆然とする幸成を蹴り飛ばして部屋から追い出し、戸を閉めた。
廊下からは幸成の喚き声が聞こえる。
「よる……」
未だに震える体で夜を呼ぶ。
「紅、ごめん……早く着替えて、ここから出よう」
私は何度も頷いて、着替えに手を伸ばす。
夜は気を使ってくれて、着替えている間背を向けてくれていた。
夜だって、母親の事は知らない。
幸成と違って夜は母親の温もりも声も、どんな人だったかさえ人伝にしか知らないのだ。
一体どちらが、不幸なのだろうか。
着替え終えて、部屋から出る。
廊下に幸成の姿は無かった。きっと誰かが回収していったのだ。
足早に廊下を抜け、外に出た。
外に出ても、夜は怖い顔のままだ。
「夜」
「……ごめん、紅」
「どうして、謝るの……?」
「守ってやれなくて」
夜は悔しそうに、呻くようにそう言った。
「夜のせいじゃないよ」
「でも、俺は」
「何もなかったし、ね? 夜のお陰だよ」
「紅……」
「ありがとう、助けてくれて」
終始、夜を励ましながら、旅館に戻って行く。
私は夜の腕に寄りかかった。
もうすぐ日が落ちる。
赤い時間が終わりを告げる。
私の時間が終わる。
*****
旅館に帰って来た。
夕食は旅館で出た。この辺りで取れた山菜がメインのご飯だった。この季節だとキノコが多い。見た事ない様なキノコが沢山あって楽しかった。
その後に温泉に入った。
弱アルカリのお湯で、効能は書いてなかったが気持ちが良い。
溜息を吐く。
今日の疲れが溶けて行くようだった。
旅館で貸し出している浴衣を着て、部屋に戻ると、すでに夜が居た。
「……夜?」
夜の様子が少しおかしい。
落ち着きがないように見える。
隣の部屋のふすまが少し開いていた。
視線を投げかけると、
「こ、紅、もう寝るのか?」
「まだ早いけど、少し疲れちゃって……横になりたいかも」
そう言いながらふすまをもう少し開け、
「……!!」
ぴったりと閉めた。
温泉で温まった体がさらに熱を持つ。
夜が挙動不審な理由が分かった。
部屋には二つの布団が敷いてあった。
温泉に入っている間に旅館の人が敷いてくれたのだろう。
それには問題はない、何も問題は無い。
問題は、その二つがぴったりと並んでいる事だろう。
私はその場に膝を抱え、うずくまった。
「紅」
気が付くと夜は私の隣に居た。
夜の瞳を見上げる。
色んな色を映す、この世の物とは思えない程、美しい瞳。
ずっと、私だけを見ていてほしい。
そんな欲望に駆られる。
「その……今日はごめんな」
「……夜は悪くないよ」
「うん……それでも、だよ」
夜に手を握られる。
夜の表情は真剣そのもので、私も少し身構える。
「その……」
「……夜?」
「俺とっ……結婚してください!」
「……えっ」
しばらく二人で見つめあう。
顔の赤い夜が恥ずかしいのか捲し立てる。
「俺っ、紅の事守りたい、今日みたいな事から、全部……だからっ」
「……」
「ずっと紅と一緒に居たい、俺の一方的な気持ちかも知れないけど……愛しているんだ!」
「……夜」
夜は、ドキドキしているようだった。
私は、安心させるためにゆっくり微笑んだ。
「断ると思う? 大好きだよ、夜」
夜の腕の中に飛び込む。
上から声が降ってくる。
「本当にっ?」
「……うん」
「家族に相談しなくていいのか?」
「そう言う夜の家は?」
「俺の家は婆さんに至っては紅が嫁いで来るのを待っている状態で……」
「私の家もいいの……私が居ようが居まいが関係ないから」
ぎゅう、と抱きしめられる。
「愛してる、夜……私をお嫁さんにしてくれる?」
「勿論!」
幸せの絶頂、とはこう言う事なのだろうか。
互いにお互いを思いやって、互いを必要として。
未来の話をした。
夜が私の母親に挨拶に行く話、逆に私が夜の祖父母に挨拶に行く話、幸せだった。
何も、恐れる事など無かった。
夜に付いて行けばいい。
それだけで私は、幸せだ。
何度もキスをした。互いの愛を確かめ合った。
そんな必要ないのに、何度も、何度も。
「もうこんな時間か」
夜が呟いた。
もういい時間だった。
「寝ようか」
明日の早朝にまたバスで町へ帰る。
旅行は終わり、現実に帰る。
名残惜しいが、私には未来がある。
夜の妻になると言う幸せな未来。
「うん」
頷いて、布団に入り込む。
夜が電気を消してくれた。
夜も隣の布団に入って、動かなくなった。
寝たのかな。
未だ、冴える頭は眠る事を拒否していた。
目を閉じる。
早く、夜と一緒になりたい。
一向に眠れず、数分が過ぎた所だった。
隣から布の擦れる音がした。
違和感がして、目を開ける。
「……よる?」
夜は私に覆いかぶさり、見下ろしていた。
目が合った夜はバツの悪そうな顔をして、私に問う。
「なあ、紅……駄目か?」
「………」
「駄目ならいいんだ……諦める」
意味が分からない程、私は子供では無かった。
夜の目には欲望が見て取れた。
そんな顔も出来るんだ。
その顔も、好みだ。
「いいよ……初めてだから、優しく、んっ」
言い終る前に唇を塞がれた。
お互い初めてでたどたどしい所もあったけれど、幸せだった。
好きな人と体を重ねる事がこんなにも心地よいなんて……
もう少し早くにしても良かったかもしれない。
全てが終わって、疲れ切った体を夜の腕の中に納める。
そのまま、眠りに落ちる。
幸せの海に、溺れる。
*****
少女が微笑む。
「陽! こっちに来て!」
此処は何時のもモノクロの世界。
俺の夢の中。
夕のお腹は膨らんでは無かった。
「ほら、一緒に遊んで欲しいんでしょ」
目の前には五歳ほどの子供だ。
「お父様。遊んで」
ひとしきりモジモジした後、そう言い、子供は俺に手を伸ばす。
その細くか弱い手を取って、その子供を肩車した。
「わあっ! お母様あ! たかあい!」
肩の上で子供がはしゃぐ。
夕を母親と、俺を父親と呼んで、子供はひとしきり騒いだ。
母親となった夕は子供と、夫である俺を愛しい眼差しで見つめる。
「いててて、髪はあまり引っ張るなよ?」
「はあい!」
子供に髪を引っ張られて、俺が忠告する。
幸せな、家族の一日だった。
このままこの幸せが続く様な気さえした。
俺と、紅の様に……
でも、何時か終わりは来る。
人の寿命なんて、山神からしたら儚い物だろう。
俺は死んで、山神は残る。
一人残った山神は再び白山に帰るのだ。
山神はどんな気分だったろうか。最愛の人はどんどん老いて行く。止める事は叶わない。
どんな絶望を感じただろうか。
いや、やめよう。
俺には、夕の考える事なんて分からない。
誰にも……本人しか分からないのだから。




