秋4
私達は森の中にある蕎麦屋に無事に到着した。
昼にはまだ早い時間で混んではおらず、すぐに店内に入れた。
「早いけど大丈夫?」
和風な店内の木の椅子に座りながら夜に問う。
おしぼりで手を拭いている夜が、
「うん、朝早かったから平気」
「そう……私も」
そう言って笑いあう。
旅行と言う事もあって随分早くに目が覚めたのだ。
夜と同じだった様だ。
事前に調べた情報では、ここの蕎麦は山の湧水を使って作られており、美味で有名なのだ。
毎日昼ごろになると行列ができる様だが……早い事もあってか人の数は多くは無い。
「何食べる?」
夜と一緒にメニュー表を見る。
「何がオススメかな?」
「ざる蕎麦が美味しいって聞いたよ」
「へぇ、じゃあそれにしようかな、紅は?」
「私も……同じで」
夜と同じものを頼んだ。
待ち時間はそう無く、すぐに頼んだものが届いた。
つるりと蕎麦が喉を落ちていく。
「美味しい?」
「うん……美味しいよ」
「そう、良かった」
私が選んだお店なのに、良かった、と言って安心している夜に心が温まる。
蕎麦を食べ終える頃には人が増えてごった返してきた。
「そろそろ行くか」
「うん」
自然な流れで手を繋ぐ。
変わらず、少しこそばゆくて、視線を下に向ける。
店の外に出ると、情報通り行列が出来ていた。
「良かった……混んでない内に入れて」
「うん、美味しい蕎麦だったね」
「ああ、機会があったらまた来よう」
その言葉に頷く。
良かった、夜が少しは元気になったみたいで。
大凶なんて初めて見たからとっても驚いたけど、もう大丈夫だよね。
夜のおみくじの内容を思い出して、少しへこむ。
でも、私の内容が良かったから大丈夫だよね。
この人より他になし、だって……
ちょっと照れちゃうよ。
「この後はどうしようか?」
少し歩いたのち、夜に聞かれ、数秒考える。
この辺りには滝もある。それを見に行ってもいいが、部屋でのんびりするのもありだろう。
そう提案をしようとした時だった。
何かが背中にぶつかって、夜に密着する。
「っ……」
「紅!? 大丈夫か?」
「う、うん……私は大丈夫だけど」
夜に受け止めてもらって、後ろを振り向く。
ラフな格好をした女性が地面に座り込んでうずくまっていた。
「大丈夫ですか……?」
「ハア、ハア……あ……ごめんなさい、あたし……」
女性と目が合った。
その顔には見覚えがあった。
「あなた……神代神社の」
「あ、はは……見て下さっていたんですか? 恥ずかしい……あんな中途半端な舞……」
女性は、神代神社本家で舞っていたあの巫女だった。
夜が会話に入ってくる。
「君……次の舞はもうすぐじゃないのか?」
「ええ……その、」
逃げてきました。
と、ちょっとした失敗をカミングアウトするかのように軽く言うので、夜と一緒に驚く。
「ええっ、今日は大切な日じゃないのか?」
「お祭りですから、大切な日ですよ」
ケロッとそう言うのでさらに驚く。
女性の話を聞くと、業務その他諸々に耐え切れなくなって辞表を出した上で巫女を辞めてきた、と言う事だった。
「そんな……今日じゃなくても……」
夜が戸惑いながらそう言う。
私も同じ考えだった。
いきなり辞められたら困る。
「……うーん……ここじゃ何だし、移動しようか」
夜がそう提案する。
彼女は全力疾走してきたようで息を切らし、地面に膝をつく。
他の人の注目を浴びていた。
「そうですね、はい……」
「立てるか? ほら」
夜が女性に手を差し伸べる。
「どうもすみません」
女性が手を取って立ち上がる。
ずきん……と心が痛む。
夜はただ訳がありそうなこの人に手を貸しているだけ……
この気持ちは、嫉妬だろうか。
会ったばかりのこの人に嫉妬何て……少し自分が馬鹿らしく思えた。
ぎゅう、と夜の手を握る。
「どうした? 紅?」
それに気が付いた夜が同じように強く握り返してくれた。
夜の顔を見上げる。
綺麗で、見惚れる。
夜の瞳は綺麗な秋の空、そのものだった。
「何でも、ない……」
そう言って夜の手を引く。
「行こう、貴方もね」
立ち上がり、ズボンに着いた砂埃をはらう女性に声をかけた。
*****
場所を移動した。
旅館のある町まで戻ってきた。
女性はそこのバス停からバスに乗り山を下って行く参段の様だ。
此処に来るまでの途中、女性の事情を聴いた。
彼女の名前は加奈子と言うらしい。
19歳で高校卒業と共に神社で働き始め、まだ一年経ってはいない様だ。
加奈子はまだ新人で、とても人前で舞を披露する立場では無かったが、とある理由から大抜擢された。
先輩巫女が相次いでやめたのだ。
理由は宮司の息子……夜が苦手としている跡取り息子だ。
彼も夜と同じく家業を継ぐ為、まずは勉強をしているようだが……
彼は勉強をサボっては周りにそのストレスをぶつけている様で、その標的が先輩巫女達だった。
毎日のように罵詈雑言を浴びせられた彼女達は耐えられず、続々と止めてしまい、まともに舞を踊れる人物は居なくなってしまったと言う事だった。
また、本家では舞は完全に分かれていて、一人の巫女が複数の舞を覚える事は無いと言う。これが決まったのはごく最近の事らしく、夜は驚きの声を上げていた。
加奈子は緑想の舞を担当していたが、舞を教えてくれていた先輩巫女が止めてしまったので、覚えるのに相当苦労したようだ。
そして、次に披露されるのは氷美の舞。
あの一番出鱈目で力強い舞だ。
祭りの最後には必ずこの舞を踊るのだと言う。
しかし、氷美の舞を踊れる巫女はすでにやめてしまっていて、踊れる巫女は誰一人としていない。
そこで加奈子に話が回って来たと言う事だった。
「それで逃げてきたのか」
「うん、学んだ事ないから無理」
そう言って加奈子は店で買ったソフトクリームを舐めた。
夜は溜息を吐いている。
……本家の舞の技術が低い理由は分かった。
確かな技術を持った巫女が、それを他の巫女に継承する前にやめてしまっている事が原因の様だ。
そしてその原因を作ってしまっているのが……
「夜……本家の跡取りって……?」
「……うん」
夜のトラウマになっているのは知っているが、そこまで酷いのだろうか?
「あいつは……うん……世界が自分を中心に回っていると勘違いをしているタイプの人間だ」
「お兄さん、知り合い?」
加奈子が夜に問いかける。
「本当に子供の頃、会った事があるんだ」
「へえ、お兄さんの言った通りだよ」
我が儘で高慢でどうしようもない。と加奈子が続けた。
「あたし、神代神社ってすごく好きだった」
お祭りの時にだけ白山に捧げる奉納の舞。
子供の時見て、憧れた。何時か踊って見たかった。
加奈子の憧れの表情は、徐々に暗くなっていく。
「でも、もう続けられない」
寂しそうに呟いた加奈子は視線を下に。
私と夜はそんな加奈子を眺めて、どう声をかけたら良いのか迷った。
「あ、バス来たみたい」
車のエンジン音が聞こえて、加奈子はバス停に走り寄る。
私達は加奈子の後を追う。
加奈子が夜の顔を見た。
「お兄さんの目って綺麗だね」
「……え?」
「鏡みたい」
「あ、はは……生まれつきなんだ」
「そうなんだ……あ、お姉さん」
「なあに?」
「ぶつかってごめんなさい……急いでいて」
「気にしなくていいわ」
そこまで会話して、加奈子は何故急いでいたのだろうと疑問に思った。
バスの時間は余裕があったし……
加奈子の目の前でバスが止まる。
ぷしゅー、と音を出しながら扉が開いた。
「じゃあね」
加奈子はバスに乗り込んだ。
二人で加奈子を見送った。
特に止める事はしなかった。
本家が困ろうが何を思おうが知った事ではないからだ。
バスが走り出す。
曲がりくねった道をバスが通り抜けて、見えなくなるまで二人で見送った。
「……なあ、紅」
車のエンジン音が聞こえなくなって、夜が口を開く。
「あの子は神代神社を嫌いになってしまったのかな」
「……私にも夜にも、そんな事は分からないよ」
「……そうか……そうだよな」
夜は天を仰いだ。
出来れば、嫌って欲しくないのだろう。
私も、同じ気持ちだ。
「部屋でゆっくりしない?」
そう言われたので頷いた。
ドタバタして他の所に行く気力が無くなった。夜も同じようだ。
私は夜の腕に体を寄せる。
夜と目が合った。
……夜の目は益々鏡のようになっていく。
私を視界に入れただけで瞳に黒が混じる。夜の赤い瞳が見たい。お願いしようかな……幸い、ここには赤い物が沢山落ちているから。
旅館に向かう途中、着物姿の人と何度かすれ違った。
「居たか?」
「いや……居ない」
「どこに行ったんだ?」
四十代ぐらいだろうか。
着物の男性二人はそう言い合い、再び別れる。
引き続き何かを探すようだ。
ちらりと夜を見る。
「夜……?」
夜の顔は強張っていた。
「夜? どうかしたの……?」
「あ……いや……」
そう言ったきり、口を閉ざしてしまったので、
「夜……?」
再び名前を呼んだ。
「……さっきの奴らだけど」
「うん……」
「本家の人間だろうな」
「どうして分かったの?」
「見覚えがあったから……」
幼少期のトラウマ。
今、夜はトラウマと戦っているのか。
心なしか顔色が悪い気がした。
「旅館に帰ろう……?」
「……ああ」
旅館に向かって歩き出す。
そう距離がある訳は無く、すぐに到着した。
玄関に入る。
受付の人と、さっきの着物の男性が一人。
男性はこちらに気が付いて、振り向いた。
「お前は……」
男性は夜を見て呟いた。
夜はものすごく嫌そうな顔をして、固まっていた。
「分家の分際で……」
男性はそう言いかけて口をつぐむ。
夜が男性の何に対して嫌がっているのかすぐに察した。
そして、長らく会っていなかった夜を夜と判断した目に、文句を言っているのだろう。
「い、行こう」
夜の腕を無理に引いて、その場を離れようとする。
「待て、神代 香夜」
無視して前に進む。
夜はぎゅっと私の手を強く握った。
「……っ!」
夜の服を男性が掴んだので、私は手を伸ばし、振り払った。
じろりと男を睨む。
「何でしょうか?」
「……何だ、君は」
「私が誰なのかはこの際どうでもよいと思いますが?」
棘のある言い方で、突き放す様に話す。
男性はそんな私を見て溜息を吐いた。こっちが吐きたいぐらいだ、折角の楽しい旅行を。
さらに睨みつける。
「紅、もういい」
「夜……でも」
「何かご用でしょうか」
夜は変わらず顔色が優れない。
またぎゅっと手を握って来たので、私も強く握り返した。
「人を探している」
「……どのような人でしょう」
特徴を聞く。
どうやらやめた巫女……加奈子を探しているようだった。
加奈子はもしかして、追われていたのだろうか。
だからあんなに息を切らしていたのか。
「知りません、そんな人」
「そうか……」
夜がそう嘘を付いて、男性は悩んでいた。
「もういいですか?」
夜がそう言い、立ち去ろうとする。
「待て」
だいぶトラウマが馴染んできたようで、夜の顔には苛立ちが見て取れた。
「お前の所には氷美の舞が出来る巫女は居るのか?」
「……複数居りますが」
「なら呼べ、一人で良い……二十分後だ」
「……は?」
無茶だ、夜の神社からここまで車でどんなに急いでも一時間はかかる。
「無理です、第一何故俺が本家の尻拭いをしなければならないのです?」
「本家に逆らうのか?」
「逆らうも何も、俺には巫女を此処に連れて来るだけの権限がありません。祖父に協力を仰いでください。無理だと帰って来ると思いますが」
「……」
「第一、何故本家に氷美の舞が出来る人間が居ないのです?何かあったのですか?」
既に理由は知っているが、男性に問いただす。
「………」
男性は何も答えなかった。
「もうよろしいでしょうか? 失礼します」
力強く手を引かれ、その場を後にする。
借りた部屋に入って、夜は大きな溜息を吐いた。
「ごめんな、紅……」
「ううん、気にしてないよ」
「俺が気にするよ……」
もう一度深い溜息を吐いた夜の腕を取る。
「ねえ、夜……」
「ぅん?」
爪先立になって、夜の頬に口付けた。
「えっ、ちょ、わあっ」
「ひゃっ」
驚いた夜が倒れてしまい、私はその上に倒れた。
「あ、ごめ……今、」
退くから、と続けられなかった。
夜の優しい腕が私の体を抱き留めたから。
「夜……?」
起き上がろうとしていた体を、再び夜に預ける。
夜の暑い体温が伝わって来て安心する。
さらに抱き寄せられて、
「っ……ん」
首筋に口付けられて、夜の服をぎゅっと掴む。
「あっ……夜……」
「………」
「駄目……まだ、早いよ」
日は下がってきてはいるが、まだ早い。
窓からはさんさんと太陽の光が入ってきている。
ぐっとまた夜に力が入って、体が密着する。
さっきからドキドキが止まらない。
心臓が壊れてしまいそうだ。
「早いって、何が……?」
耳元で低くそう言われ、ぎゅっと目を閉じた。
ああ、はしたない。
自分は何を期待していたのだろうか。
「ひゃあ、ぅ……」
耳をちろりと舐められた後、甘噛みされて上擦った声が出てしまった。
びくりと震わせた体を夜がいなす様に私の背を撫でる。
心臓は、きっと壊れてしまったのだろう。
うるさく脈動したまま、収まる気配がない。
「よるっ……はずかしいよ……」
涙目で訴えるが、今の夜には効果が無いようだった。
そんな恥ずかしいけど、甘い時間を壊す様に、声が届く。
「神代様、いらっしゃいますか?」
この旅館の女性の声だった。
腕の力が緩んだ隙に離れる。
「………」
不満げな視線を投げかけられたが、頬を膨らませる。
「……はい」
意気消沈した夜がふすまを開ける。
「なんでしょうか」
「お客様がいらしています」
夜は眉を寄せ、少し嫌そうな顔をする。
「誰でしょう?」
そう聞くが、察しはついているのだろう。
恐らく本家の人間だ。
「神代 幸成 様です」
夜の不機嫌が最高潮に達する。
その名は何度か聞いたことがあった。
本家の跡取り息子だ。
会う事を拒否するのだろう。夜が不機嫌を隠さずに口を開いた時だった。
「あー! 居た居た!」
子供っぽい声が聞こえて、夜の表情が凍り付く。
ドタドタとわざとらしく足音を立てながらそいつは現れた。
夜とは似ても似つかない顔立ち、作り物の金髪に異物が入った青い瞳、唯一の救いはかろうじて着物を着ている事だが……神社の跡取りとは似ても似つかない風貌だった。
遠慮を知らない幸成に女性が声を上げる。
「困ります……こちらは宿泊のお客様だけの空間で」
「けち臭いこと言うなよな。こんな旅館うちの神社の前じゃあってない様な物なんだから」
「………」
女性は黙った。
助け船を出す様に夜が話し始める。
「それで、何用ですか?」
「ああ、香夜。それはこっちのセリフじゃない?」
「は?」
「なんでここに来たの? ようやくその目を僕に渡す気になったの? 香夜が此処に居るって聞いて飛び出して来ちゃったよ」
「……此処には旅行で来ました。紅葉を見る為です。神代神社とは関係がありません」
「またまた、そんな嘘を」
幸成の手が夜に伸び、それを夜は避けようとしたが、髪を掴まれた。
「っ」
強い力で掴まれたようで夜の顔が歪む。
「僕が欲しいって言ってんだからさ、いい加減分かれよ!」
私は咄嗟に、幸成を押し飛ばした。
「何すんだ!」
「それはこちらのセリフです! ……夜、大丈夫?」
「あ、ああ……」
夜は何度も頭をさすった。
今まで夜の話でしか幸成の事は知らなかったが……想像以上だ。こんなに話が通じない人がこの世には居るのか……本家の教育がおかしくなっている事が窺い知れる。
欲しいと言われて目を差し出す人間が果たして居るだろうか?
「この女、僕に逆らうのか!」
幸成の手が私に伸びる。
「紅!」
心配する夜の声を聞きながら、私はその手を真正面から掴む。
「なっ」
驚いている幸成に告げる。
「ちゃんといい子にしてないと、一人になっちゃうよ」
可愛い坊や。
……えっ?
バチン!
勢いよく手が振り払われた。
ふと見た幸成の顔は真っ赤だ。
「ぼ、僕を馬鹿にしたな!」
「……ぁ」
「み、皆そうだ! 僕を馬鹿にする! 僕が一番偉いのに!」
「………」
「僕は可哀そうじゃない! 僕は……哀れなんかじゃ……」
幸成の瞳に涙の幕が張る。
振り払われた手をさすっていると、夜が間に入ってくれた。
声が聞こえた、白山に視線を投げかける。
『坊や』これは私の感情ではない、白山の思いだ。
ぶつぶつと独り言繰り返す幸成をどうしようかと悩んでいると、
「幸成様!」
先ほどまで加奈子を探していた着物を着た男性が走り寄って来た。
さっき夜と玄関で話した男性とは別の人だ。
男性は夜を見て忌々し気に顔をゆがめる。
「香夜……貴様……」
夜は、もう嫌な顔をしなかった。
代わりに諦めのような表情を浮かべているだけだ。
男性は幸成を庇う様に前に立って、私の顔を見た。
「お前は……何処かで……」
そう言われても少なくとも記憶の中では会った事は無い。
人違いだ。
そう思っていたが……
「そうだ、確か桜祭りの時、」
ぎくりと体を震わせる。
あの時私は、氷美の舞を披露していた。
確かにあの祭りには老若男女沢山の人が来ていた。居ても不思議では無かった。
「……彼女は休暇でこちらに居ます」
「構うものか、娘、本家で舞が披露できるぞ。名誉な事だろう」
「っ、夜……」
夜の背中にくっつく。
嫌だ、都合のいいように利用されるだなんて真っ平だ。
そう考えていた時、夜に手が伸びる。
「香夜、香夜あ! その目を寄こせ!」
「っ!」
幸成が夜の胸ぐらを掴んだ。
「その目は僕のだ! 僕のなんだ!」
「夜っ」
「渡せないと言うなら死ね!」
私と女性、二人がかりでその手を振りほどこうとするが、女性の力ではどうする事も出来ない。
「ゴホッ!」
喉が絞まって夜が咽る。何て力だ。
男性はその様子をただ見ているだけだ。
何故何もしないのかと睨みつけると、
「助けてほしいなら、分かるだろう」
ただ、そう言うだけだった。
夜は確かに強いけど、本家の息子には手を上げられない。
分かっていた。
トラウマもそうだが、立場的に出来ないのだ。
「………分かり、ました」
一回舞うだけ。たった一回……
「紅っ……」
呻く夜に名を呼ばれた。
男性の手によって幸成は引きはがされた。
「ゴホッ、ゴホッ……っ」
「夜っ……大丈夫?」
「娘、約束だ、付いて来い」
……元はと言えばそちらが原因なのでは?
言いかけて、やめる。
遠くから耳に言葉が入り込んでくる。
舞を見せて……あなたの……私に捧げて。
山神様……分かりました。
ゆっくり立ち上がる。
「紅」
「夜、ちょっと行ってくるね」
「っ……俺も行く」
わめく幸成を引きずりながら二人で男を追う。
「ごめんね……夜」
「………」
「本家も困ってるみたいだし……」
「うん……」
それにしても何故、幸成は夜の目に固執するのだろう。
夜は答えを知っていた。
幸成の母親が若くして亡くなっている。
幸成は母親が大好きであったが、ある日冷たい言葉を投げかけられる。
あなたが初代様の目を持ってさえいれば。
その言葉を最後に幸成の母は死んだ。
自殺だった。
夜が目をもって生まれてきてしまったが故に、幸成の母は謂れの無い悪意を持った言葉を浴び続けた。
分家に初代様の目が発現してしまったのは、女の胎が悪いからだ。お前の血筋が悪い。当代様は悪くない。すべてお前が悪いのだ。
すべてを否定され、自らの命を終わらせた。
たった一人の息子を残して。
「……そうだったの」
だからあの時幸成は言ったのだ。同情をされたくなかったのだ。
「ごめんな、紅……俺の為に……」
「いいの……それに山が言うの」
「……何て?」
「私の舞が見たいって」
微笑んで夜を見る。
私の全く悲観していない表情に、夜は安心したみたいで、ほっと溜息を吐いていた。




