秋1
秋
神社に生えている沢山の木々が色づいている。
赤の紅葉、黄色の銀杏。
時折秋の冷たい風が吹くと何枚かの葉がはらりと落ちる。
秋が過ぎればあっという間に冬が来るのだろう。
冬になったら色付いていた木々から色が消え、鈍色の雲から雪が降る。ここは豪雪地帯、あっという間にすべて飲み込まれてしまうだろう。
「夜」
紅が庭の掃き掃除をしていた。
この時期の庭掃除は大変だ。掃いても掃いても木から降ってくる。量も沢山で、毎年枯れ葉が溜まると爺さんがそこに火を付けて焼き芋を作るのだ。これがまた美味しい。
焼き芋は神社に居る全員に配られる為、皆毎年楽しみにしている。
「見て」
紅から差し出されたのはまだ落ちたばかりの綺麗な紅葉だった。その葉は赤く、混ざりっけ一つない。
普通、少しは黄色が混ざっていたりするものなんだが……とても綺麗だ。
「綺麗でしょ?」
「そうだな……とっても綺麗だ」
紅から受け取ったその葉を太陽に透かして見る。薄い葉は太陽に透けてキラキラと輝いた。
その様子を紅がじっと見てくる。隣に座り、控えめに寄りかかって、俺を見つめてくる。
とても紅葉を楽しむ場合では無くなる。
「どうした? 紅?」
赤い葉を見るのをやめ、優しく紅に問いかけつつ視線をやると紅は残念そうな顔をした。
俺何かしたかな……?
「夜……」
名を呼ばれ、紅の黒い瞳を真っ直ぐに見つめる。紅の頬に赤が注した気がして、その赤が見たくてもっともっと見つめる。
すっと視線を逸らした紅を残念に思いながら声に耳を傾ける。
「夜の目が、赤になったのが見たくて……」
なるほど。心の中で頷く。
紅葉を指先でくるくる回しながら理解した。
俺に紅葉を渡して来てくっ付いて来たのはそう言う事か。
可愛いな、紅……言ってくれればすぐにやるのに。
きっと何時ものパターンで迷惑かもって考えてたんだろうな、そんな事全くないのに。
「いいよ、はい」
言葉を聞いて一も二も無く実行する。
紅から貰った紅葉を目に近付ける。この位近ければ俺の目はこの紅葉と同じ色になるだろう。
紅はまた俺にぴったりくっ付いて俺を見上げる。
少し興奮しているようで頬が上気していた。
「すごいっ、すごいっ」
「目の色が変わるなんて何時もの事だろ?」
「そうだけど、でも、夜の目が赤いのが好きだから」
少し興奮気に紅は喋る。毎年、この時期はこんな事を繰り返している。紅は何故か俺の目が赤くなるととても喜ぶ。理由は分からない。何にしても紅が喜ぶと俺も嬉しい。
「良かった」
「……夜?」
「最近、紅に元気がないような気がしたから」
「……」
言葉の通り、紅に最近元気がなかったような気がした。
毎年の事だが、冬になると紅に元気がなくなる。病気になるとかそう言うのではなく、心に元気がなくなるのだ。理由を聞いても、本人にも分からないのでどうしようもない。
一つだけ分かっているのは、紅は雪が嫌いだと言う事だ。
「ごめんね、夜」
「紅?」
「最近、変な事が頭に思い浮かぶの」
「変な事?」
「うん……でも、もう大丈夫だから」
そう言って紅は何時ものふわりとしたあたたかい笑顔で俺を見る。すっと音を立てずに立ち上がり、再び箒を手にする。
「掃き終しちゃうね」
「うん」
「夜、ちゃんと勉強してね」
「分かってるよ」
紅は庭を出て行く。きっと違う所を掃除しに行ったのだ。
俺は文献を開く。今年中に俺はこの神社を継ぐことになる。別に嫌では無い。決められたレールの上を進んでいる様な気はするが、それが本来の俺の道なのだろう。
重く溜息を吐く。継ぐとなると本家に行かなくてはならないし、呼び出しがあったら顔を出さなくてはならないだろう。気が重い。本家は苦手だ。特に俺と年が近い本家の跡取り……何かにつけて因縁つけて来るから出来れば会いたくはない。
それに……
俺は文献を開く。そこには初代が扱っていた式神の名が記されている。
烙炎、緑想、水光、雷歌、空凛、蘭陸……そして氷美。
氷美、初代によって最後に作られた氷の力を操る式神。
文献よると山神の力を再現した式神の様だ。
俺は、この氷美に会った事がある。場所は、そう……本家だった。
子供の頃、本家に行った際、散々嫌がらせを受けた俺は茂みに隠れ、子供の暴力をやり過ごしていた。こんな目無くなればいいと思っていた時の話だ。
情けなくも俺は半べそだった。あんな風に一方的に嫌われる事は滅多にある事ではない。
ぐずぐず泣いていたら、音が聞こえた。
りーん
甲高い鈴の音。耳の中で反響する安らぐ音。
りーん
音は近付いてきた。俺はその音を何故か懐かしいと感じていた。何故かは分からない。不思議と涙は止まっていた。
ふと見た視線の先に、そいつは居た。
半透明で実体は無い、全体的に白くて少し青がかった水色。
そんな色の、猫だった。
りーん
音の正体は猫の首に着いた大きな鈴だった。
猫は近付いてきた。そして、すり寄って来た。勿論、猫に実体は無かった。すり寄られている気がするだけだった。
「慰めてくれるの?」
ふと猫と目が合った。
ああ、そうだ。なんで氷美の事を思い出したのか……氷美は目が真っ赤だったからだ。綺麗な赤……この赤も懐かしかった。
猫は、俺を見て、
「だあれがお前なんか慰める物か」
と言った。
急に話し出した猫に驚いた俺は固まって、凝視した。
空耳か? 聞き間違いだよね?
「あたしの事も忘れたか、このポンコツ!」
「!?!?」
当時、幼い俺は何が何だか分からなかった。どうして知らないところに来て子供に虐められなければいけないのか、正体不明の猫に罵られなければならないのか。自分の不運を呪った。
俺は子供の頭で必死に考えて猫に話しかける
「忘れたも何もっはじめてっ」
「はあ? 初めましてなわけないでしょ? ほんとに脆弱な魂ね!」
「猫さん勘違いしてるよ! 僕は初代様じゃないよ!」
「あたしは猫じゃないわ! 氷美って美しい名前があるんだから!」
猫はぷんぷんと可愛らしく怒る。続けて氷美は吐き捨てる。
「それにあんたと他の人を間違えたりしないわ!」
「勘違いしてるよぉ」
「してないわよ、あんたがあたしを作ったんだから!」
やっぱり勘違いしてる。そう思った。
俺には何の力もない。初代様の様に妖怪や幽霊と言った類いのモノは一切見えないし、勿論退治するなんで夢のまた夢だ。氷美の事は本家で噂になっていたから、幼い俺でも知っていた。式神を呼び出すためには憑代となっている札が必要なのだ。札は本家で数枚見つかっているが呼び出すことは不可能。しかし、本家では氷美のみ、何とか呼び出すことに成功した、と言う話だ。
「君はここの人に呼び出されたの?」
「君じゃないわ、氷美よ」
「氷美はここの式神?」
「あたしはあなたと主の式神よ」
訳が分からなくて首を捻る。
俺と主の? 主って誰?
恐らく、泣きそうな顔をしていたようで、氷美が眉間に皺を寄せ、牙をむき出しにして叫ぶ。
「泣くな! わたしの主人だろ!!」
「わかんないよぉ」
「情けない声を出すな!」
子供に厳しい? いや、多分俺限定で厳しいのだろう。氷美は何故か、俺に対して怒っているようだった。
「なあんにも覚えてないのね」
「猫さん……」
「次に猫って言ったら殺すわよ」
空気が一二度冷えた。氷美は名の通り氷を操る力を持つと言われている。おそらく本気だ。
「あたし、久しぶりに人と話してるの」
「……えっ? 呼び出した人は?」
「あたしを呼び出せるのはあんたと主だけよ? あたしはね、もうずうっと此処に居るの、主が此処を守ってって言ったから、ずうっと」
つまり氷美はその主に呼び出されてから何百年もここに居るようだった。此処に縛り付けられているようだった。
本家の人間が呼び出したと言う話は、どうやら嘘のようだ。
どうしてそんな嘘を? 今思えば、本家の名声を高めるだけのパフォーマンスだったのだろう。それに、誰も氷美を見る事が叶わないのに、呼び出したことがどうして分かるのだろう。
「もう此処は駄目、守る価値なんか無いわ」
「え? ど、どうして?」
本家は呼び出した氷美に守られているから永遠に繁栄する、と偉い人が言っていたような気がした。氷美に見限られたら本家はどうなるのだろうか。
「子供のあんたには難しいかも知れないけど、もう誰もあたしの姿が見えないの。分かる? まだあんたの家に行った方がいいわ」
「そしたら沢山の人が困っちゃうよ……」
「構うものですか! でもね出て行きたいけど、いけないの。主に縛られているから」
主、また出てきた単語。
氷美は久しぶりに誰かと会話が出来て上機嫌の様だ。ぺらぺらと子供の俺では分からない会話をしていった。それをさえぎる様に質問する。
「ねぇ氷美……」
「なによ?」
「主って誰?」
「………そう、主の事もやっぱり忘れているのね」
「……」
「あの白い山よ、あそこに居たの……少し前までは」
「少し前?」
「今は……どこかに行ってしまったの。あたしには分かるわ」
聞いても、よく分からなかった。
しばらく時間が経った。俺はよく分からない氷美の話を聞いているだけ。それでも氷美は満足していたようだった。
久しぶりに古い知り合いに会って、話が止まらなくなる、そんな状態。俺はたまに相槌うって聞いているだけ。
途端、そんな饒舌だった氷美が口を閉ざした。
「あなたのおじいさんが、あなたを探しているわ」
「えっ」
「取り敢えずここまでね」
「……うん」
「ねえ、陽明、これだけは覚えておいて……」
約束を守って。
それだけ言って氷美は去って行った。
俺は陽明ではないと言う隙もなかった。
甲高い鈴の音が耳に深く残った。
少し時間が経って、ガサガサ、と草木を掻き分ける音が聞こえて、音の方を見る。
「香夜……! こんな所にいたのか」
「じいちゃん」
「姿が見えなくて心配したよ」
「ごめんなさい」
「いいんだ……嫌な思いをさせて悪かった、香夜、ごめんな」
ぎゅっと祖父に抱きしめられて涙が出た。同じ年頃の子供に虐められても、変な猫に暴言を吐かれても……ちょっとは涙が出たけど、泣かなかった。
この事がトラウマでそれ以来、本家には行っていない。
氷美……
今度会ったらもう少しちゃんと話を聞いてもいいかも知れない。出来れば会いたくはないが……
まだ縛られているのだろうか。俺は陽明ではないけど、話位は聞けるだろうから。
文献を適当に開くと、氷美の事が書いてあるページだった。
普段は成猫のあわい空色の体、空気を冷やし、氷を生み出し魑魅魍魎を薙ぎ払う。七体の中でも戦闘能力が高く、荒っぽい性格をしている。戦闘時には何十倍もの大きさになる。初代様と山神にしか懐かなかったと言われている。無理に触ろうとすると痛い目を見るだろう。
……俺は痛い目を見なかったからまだマシなのだろう。
紅から貰った紅葉を見た。
綺麗な赤、自然な美しい赤。
氷美の赤は、少し妖しかった。この世のものではない、向こう側の……魑魅魍魎の世界の瞳だった。
山神も、そんな瞳の色をしているのだろうか。
そんな妄想をしながら本のページを撫で、貰った紅葉を本にでも挟んで押し花にしようかと考えた。
*****
掃き掃除を終えた紅が帰って来た。
今日、あまり参拝客はいないようだ。
紅は掃いても掃いても葉っぱが落ちてきて大変だった、とぼやいた。毎年の事だった。
そして紅は綺麗な紅葉を沢山拾ってきた。そして、俺の周りにばら撒いた。一瞬掃除が頭をかすめたが、後で掃除するのは紅だから紅が良ければ問題は無い。これも毎年の事だった。
紅に瞳を見つめられ、見帰す。紅は不満げに口をゆっくり開く。
「まだ、足りない……?」
「何が?」
「赤が……夜の目、赤茶色だもの」
赤が足りないって、そう言う事か。
「増やさなくったって……ほら」
一枚の紅葉を手に取り、さっきと同じように目の近くに持ってくる。
「これでいいだろう?」
「……駄目、それじゃ夜がお勉強出来ないもの」
確かにこの状況じゃあ勉強はできないだろうけど……
俺は立ち上がり、草履を穿いた。
「夜? どこに行くの?」
俺は枯れ葉が集まっているとこに向かう。枯れ葉はゆくゆくは焚き火をするのに使うため一か所に集められていた。
掃いたばかりの新しい落ち葉が山になっていた。
そこに俺は躊躇無く寝ころんだ。
勢いよく横になったせいで赤い紅葉も黄色い銀杏もふわりと宙に舞った。はらはらと落ちてくるそれを確認して、驚いている紅に声をかけた。
「これなら大丈夫?」
紅は寝ている俺にゆっくりと近付いて、俺と同じように隣で寝ころんだ。
「汚れるぞ」
「いい、別に……それよりとても綺麗」
紅がうっとりとしているのを確認して、持ってきた文献に目を通し始める。
この場所は、参拝客はおろか、滅多に人が来ない場所だ。だから落ち葉集めの場所になっている。それにここは立派な紅葉の木が木陰を作っていた。秋とはいえ、日がある時間帯は少し汗ばむ陽気。日陰は丁度良かった。
文献から目を離さずに紅に問いかける。
「今、俺の目は何色?」
「うん……あのね、」
紅は少し興奮気味に答えてくれた。
「赤と黄色が混ざっているの! 初めて見た! すっごく綺麗!」
「混ざっているのか」
「うん! 右と左で少し違うの」
ぱらりとページをめくる。
「今まで二色って無かったよな」
「うん、そうだね」
俺の目は一色しかはね返さないと思っていたけど違ったのか。この状況だと黄色より赤が多いから赤になると思っていたのだけど……
「俺の目ってちょっと変わった?」
「……そう言えば、ここ最近は二色とか三色になっている事があったかも」
「え? そうなの? 教えてよ」
「夜は知っているのかと思ったから……」
紅がしゅんとした表情になって少し慌てる。
「ごめん、紅のせいじゃないよ……気にしないで」
「……うん」
「俺の目……ますます鏡みたいになって来たな」
どんどん、人の目じゃ、無くなって来ている様なそんな気がして少し落ち込む。
そう言えば初代様の目について、文献には確か……
鏡の様にすべてを見透かし、映し、全てを見抜く目。普通の人には見えない様々な者たちを暴き、悪さをするものを成敗した。本来人が持つべきモノではなかった瞳。
幼少期から妖怪が見えた初代様は両親から不気味に思われ、わずか12歳の時に捨てられる。初代様には兄弟が沢山居た、いわゆる貧しい家の出だった。初代様はその目のせいで人の心の裏側まで見えてしまっていた。人は苦手だったようだ。それに、初代様はその力故か、体があまり丈夫ではなかったらしい。普通にすごしている分には問題ないが、家を追い出され旅をする際にはとても苦労したようだった。
「紅」
声をかける。未だに紅は俺の目を見つめていた。
「俺が突然、妖怪が見え始めたら、嫌いになる?」
紅はじっと俺を見つめる。そして、いつもの顔で柔らかく微笑む。
「ならないよ」
「……本当に?」
「初代様の目の事、心配しているんでしょう?」
「……そうだけど」
紅はゆっくり目を閉じて、俺を諭すように断言した。
「夜が夜であるならば……私はずっと夜の側に居るよ」
前に、こんな目気持ち悪いだろ、と紅に聞いたことがあった。
もうずっとずっと前の話だ。
と言うのも当時、友人だと思っていた奴に目の事を指摘され、とても傷ついた。
気持ち悪い目、そんなだから母親が居ないんだよ。その目のせいでお前の母ちゃん死んじゃったんじゃないの?
子供の喧嘩の延長だった。どうして喧嘩をしたのか、全く覚えてないけれど、言われたことは今だって思い出せる。
人の悪意は、心の何処かに残ってじゅくじゅくと膿を出し続けている。二度と直らない傷跡。
俺の目は変だ、幼い頃はほんの少し普通と違うだけで仲間外れにされた。その時喧嘩をした奴は、そんな俺を仲間に入れてくれた奴だった。いい奴だと思っていたが、蓋を開ければ皆同じだった。
ただ、その中で、紅は違った。
紅だけは違った。
紅は人とはあまり接点を持ちたがらなかった。その可愛らしい容姿で男子には人気を博していたが、誰とも友人にはならなかった。
沢山の人と話すのが苦手だと紅は後でそう説明した。
俺と違って友達になりたい人が沢山居たのに、誰とも友人にならず……弾きものの俺とばかり話をしていた。
どうして?
と聞くと、
その目をずっと、見ていたいから
紅は俺の目が好きだった。ずっとずっと前から……
あの日から俺の中心は紅だった。紅の事を好きに……いや、愛してしまっていた。
そんな時、紅に聞いてしまった。
紅は好きって言ってくれたけど、
こんな目、気持ち悪いだろ?
と。
誰だ! そんなこと言うのは! 何も知らないくせに!
紅の怒りは尋常では無かった。紅は俺がきちんと説明していたから知っていたのだ。俺が神社の跡取りで、遠い先祖に俺と同じ目をしている人を。紅は決して俺を責めたり、怒ったりはしなかった。周りだ、その怒りは周りに及んだ。
そうだ、こんな日だ。
日中はまだ暑い日に、雪が降ったのだ。
あの日は、とても良く晴れていたのに。
そして、俺の目を悪く言っていた奴らが相次いで怪我をした。
軽い怪我の場合もあったが、重い怪我をした奴もいた。
一番大怪我をしたのは、俺にその目のせいで母親が死んだと言い放ったあいつだった。
紅は言った。
夜を悪く言ったりするからよ……きっと天罰が下ったの
紅はなんて事のない、はさみを使っていたら怪我をするのは当たり前でしょう? と軽く言っている感じだった。
紅が怒っているのを見るのは、あの日だけだった。
怪我はなるべくして怪我をしたのだろう。紅が怒ったから皆怪我をしたなんてありえないだろうから。
例え妖怪が見えるようになっても、紅ならそばに居てくれる。
それだけ分かれば十分だった。
「紅」
「なに?」
「ありがとう」
紅は軽やかに、鈴の様に笑う。
「私が夜の隣に居るのは、当たり前なの」
そう言って、腕にそっと抱き着いてくる。
「大好き、夜」
「俺もだよ、紅」
言って抱き寄せる。額に唇を落として、紅の温もりを感じた。とても暖かで、幸せな気分になった。
しばらく俺は文献を読んで、紅は隣に居た。
紅葉した葉に埋もれる。穏やかな日。
「あ、そうだ……紅」
「なあに?」
紅はずっと俺の目を見ていたようで、紅を振り向けばすぐに目が合う。少し気恥ずかしいような、照れくさいような気持ちになる。
「今度の旅行の事だけど……」
「……うん」
紅が春の祭りで貰った旅行券。
「都合が合う日があったから予約したんだ」
「そう、楽しみ」
「俺も楽しみだよ」
微笑む紅に安らいだ。
紅葉の時期だから混んでいるかと思ったがたまたま一部屋空いていたようだ。運がいい。
旅行先はこの町のはずれにある山の上。そこにも町があり人が生活している。観光地としてそこそこ栄えていてホテルや旅館が多いのが特徴。
泊まる先は旅行券で指定があった為選ぶ事は出来なかったが……
「いつ予約したの?」
「平日になっちゃってさ……」
「えっ? 仕事……」
「ああ、大丈夫、婆さんにはもう許可取ってあるから」
それを聞いた紅は安心したようで胸を撫で下ろしていた。
何故かその日しか開いてなかったんだよな……
「温泉もあるから。好きだろ?」
「うん、温泉好き」
紅は綺麗好きでお風呂が好きだ。
温泉に入るなんてどのぐらい久しぶりだろうか。そこまで温泉に興味がない俺でも期待してしまう。
ふと紅を見遣るとにこりと笑って返された。
すっと立ち上がった紅は、
「ちょっと仕事してくるね」
「……分かった」
「夜の部屋は戻って来てから掃除するね」
紅葉が散らされた部屋を思い出す。
あの状態だと婆さんに大目玉くらいそうだ。
「俺がしておくよ」
「え? でも……」
紅が戸惑う。
そして言いにくそうにぽつりと言う。
「夜……掃除苦手でしょ?」
苦手、ではないと思う……紅が少し綺麗好きなだけで……
紅の目を見る。ああ、駄目だ、この分だと俺が掃除した後に紅が掃除する事になりそうだ。
「分かった、紅が掃除してくれる?」
「うん、いいよ」
俺がお願いする時、紅は何時だって笑顔だ。俺の願いを叶えるのが楽しくて嬉しいみたいだ。
そんな紅の様子を見て、欲が出てくる。
「抱きしめていい?」
一瞬にして赤くなった紅を見て、やっぱり言うんじゃなかったと後悔した。無駄に紅の心を乱す事はしたくない。
「ごめん、やっぱり」
無しで、と言い終る前に紅が胸に飛び込んでくる。
ぎゅっと抱き着かれて、それに答える為に背に手を回す。
「ねえ、夜……私もお願いしていい?」
「いいよ」
「夜……」
キスしてほしい。
耳元で、そんな魅惑的な言葉。
耳に入った言葉を脳が理解して、体温が上がって行く。少しクラクラしてきた。
紅と視線を交わすと、紅は恥ずかしそうに目を伏せ、今度はこちらを向いて、ゆっくりと目を閉じた。
桃色の唇が誘っている様にしか見えなかった。
「……………」
唇を重ね、離れる。とても名残惜しかった。
事を終え、
「それじゃあまた部屋で」
「うん……じゃあね」
手を振り紅の背中を見送る。
紅の頬は未だに赤い。同僚に何して来たの? と言われてしまうかもしれなかった。
「……?」
ふとその背中が、何かにダブって見えたような気がした。
一瞬で、よく分からなかった。




