批判エッセイ作者様への御提案 のち あべこべ
私は小説家になろう内のエッセイジャンルが好物です。
とても人間臭くて面白いと思います。
その中でも『小説家になろうに関するエッセイ』は、ある意味でこの場に相応しい題材やもしれないとさえ思います。
『小説家になろうにおけるエッセイ』に対する『意見と御提案』として本稿にて公開させて頂きます。
さて。
逃げず
煽らず
偏らず
端的に
正確に
開き直らず
言い訳せず
誠実に
以上を基本としてご説明したいと思います。
逃げず
世間やコミュニティーに意見提示する場合、投げっぱなしの人間の言葉に誰が重きを置くでしょうか。感想欄を公開し、頂いた感想から逃げず対応こそが、反対意見を持つ人たちへの説得力と貴方への信頼に繋がることでしょう。公開快楽プレイを行った上で舞台の後始末もせずにダッシュで逃げる行為は変態チックに見えてある意味素敵だとは思いますがマネは出来そうにありません。
煽らず
タイトルや本文で汚い言葉『○○は糞』や『バカ・死ね・屑・カス』などを使ったり特定作品やジャンルを不当に見下すような表現は眉を顰める行為でしょう。『個人的見解』と『普遍的良識』、そして『誹謗中傷』は異なります。
偏らず
例えば。
「異世界物は全部同じテンプレ・個性がない」だとか「読者の質が低いから」などという意見をあたかも正論のように主張し一部の賛同を得ても意見を異なる人々にはその言葉に客観的な理が無い事には暴論にしか映りません。
その方が嫌悪する事物は、一方で愛する人達もまた当然居るのですから根拠もなく悲しませる必要は無いのです。
端的に
このエッセイのように冗長となってしまうとちゃんと読んで貰えません。これでも削ったんですけどテクが有りませんでした。
正確に
誤解を生む表現は避けましょう。ただ、どんな人間でも万人に対して誤解を生まず完璧な対応など不可能です。まずは言葉を選び、それでも誤解が生まれたならば言葉を尽くしましょう。その上での衝突は川原で目に映る夕日の如く美しいかもしれません。
開き直らず
『エッセイだから何を書いても良い』というお考えの方々もいらっしゃいます。それは仰るとおりではあるものの、権利の行使と因果は別物です。
何かを主張した結果「ここは矛盾するんじゃないか? 間違っているのではないか?」などの指摘が有れば「エッセイだし賛否両論あって当たり前だし」と思考停止して開き直らずに、矛盾や間違いが有れば紐解いて受け止め是正し、投げかけられた指摘に間違いや誤解が有ればそこを解説する・新たに言葉を重ね説明する、という基本的なキャッチボールが何かの主張をコミュニティに投じている人間の人物像にプラスの影響を与える対応ではないでしょうか。その評価と内容、意見の違いは全く別な問題として印象付けられると私は信じております。意見が違うからと言って感情を主成分として争う必要はないのですから。
言い訳せず
前段の通り、矛盾や間違いが己に有れば素直に認め書き記すなどは社会的生物としては基本的な部分であり、人間としての器が見て取れる材料となるのでは無いでしょうか。
間違いを認めることは恥ずかしいことではなくその対応次第によっては『大人だなぁ』と感心される可能性さえあります。多くの人の目から見て明らかに間違っている状況での言い訳こそが最も格好悪く映る光景だと私は思います。
誠実に
これは意見対立をするな、議論するな、ねじ伏せるな、という事ではありません。茶化してくる相手に真面目に答えるのも、同じレベルで茶化すのも私は否定しません。真面目に答える、真面目に茶化す、どちらもそこには誠実さが有ってこそです。誰に対しての誠実さかは置いておいて。
真面目に議論するのも茶化してくる相手に対してカウンターを入れるのも人の趣味にもよりますが楽しもうと思えば楽しめるものです。ただ、真面目に書かれた感想に、茶化すような返信には誠実さは無いと断言致します。
エッセイジャンルでも「炎上」とも呼ばれる現象が起こっているエッセイの場合、書き方の問題も多く感じられます。
「持論」を「普遍的な正論」のように語る場合が非常に多く見受けられます。
そして「持論」を「正論」で飾った場合、本来存在している筈の他の意見を言外で排除した「極論」となり易く、見る人の目から見れば「暴論」に映ってしまうのです。それはまさに悲劇と言えるでしょう。場合によっては喜劇となりますが。
あくまで炎上という現象を意見を提示した側の要因だとするならば、そのエッセイを書いた人が人として未成熟なのか、日々のストレスから思わず感情的に書いてしまったが為の結果なのか、などなどいろいろ考えられます。勿論事情はそれぞれでしょう。
しかしそれはまだ可愛いものです。人は蹴られ叩かれそして逃げなかった者はより強く成長するものです。逃げてもそれはそれで経験値となるでしょう。
失敗を糧にすれば良いのです。素直に受け止めることの重要性をこの小説家になろうのエッセイで学べるのなら非常に有用な事と思います。
ですが炎上にも、上記以外の例外が存在します。
「売名行為」を主目的にしたかのようなエッセイです。
それらのエッセイの感想欄には数多くの感想が寄せられています。
その感想には長文も多く、一生懸命思いの丈をぶつけたのでしょう。しかし感想欄は解放されているものの作者からは放置され、その方の活動報告では「大分名前が売れた」とか「釣れた」とか「チョロい」とか書かれていました。
それを見た時「まぁ↑! 随分と濃いお人が居るんですね!」と驚いたものです。こういう人も居るからエッセイジャンルは見逃せない楽しいジャンルと私は思います。
私からするとピエロ的に見てて楽しいけどお友達にはなりたくないタイプです。まぁお友達になりたくないのはお互い様でしょう。
そこでやっと最後の
誠実に
という言葉に繋がります。
私はこの手の「持論を正論で飾り極論とする」方々のエッセイは好んで読みますが、その方々の小説は決して読みません。絶対読まない、と言っても良いかもしれません。理由はここでは関係有りませんので割愛します。
そして、その手のエッセイが公開された後に、エッセイランキングや日刊総合ランキングでそのエッセイが上位ランクインしていてもその作者の他の小説へのアクセスなどの変化が殆どない、というのがよく見受けられます。勿論全てではありません。一部の熱狂的なファンを得られているケースも有るかもしれません。
全てを観測していない以上断言は出来ませんが、炎上させ悪名だけが飛び抜けて育った彼ら彼女らが本当に見て欲しい小説には影響が殆ど無く、むしろ作者という括りで見ればネガティブな読者を多く抱えるだけではないか、と思うのです。
本当に見て欲しい小説、メインとしている作品へのブクマ件数や評価ポイントといった面でのプラスの影響がほぼ見られないと私は思っています。
ゼロではない、という可能性のみでもって悪名でも名前が広まるのをプラスと考えるべき、という見解もあるかと思います。それもまた事実でしょう。
当方のこの主張は私がそう思うだけでしかなく「持論」でしか有りませんので敢えて記しておきます(こうやって守りを固めるのも一つの方法だと思います)。
余談な上に重ねて持論と嗜好だとしつこく主張しますが「少数の賛同者と多数の敵のバリューセット」は好みではありません。まだ「多数の他人様を単品で」の状況の方が好ましく思います。
狙っていないのに炎上した場合はご愁傷様。めげずに頑張って生きましょう。
狙って炎上した場合「本当に読んで欲しいものや理想とする創作活動にギャップが生まれていないのかな?」と思いつつ、さらに「もっと自分が大事にしたいモノを構ってあげたら如何だろう」とご提案したい次第です。
また、炎上には意図的かそうでないかは別として、誠実さに欠ける場合が多い可能性も有るのではないか、と思うのです。誠実さ、というものに対しても人それぞれ尺度の違いは有るかもしれませんけどね。
全力で読者を煽る、のももしかしたらその作者さんの誠実さの表れかもしれませんが、なかなかハードルの高い話だと思ってしまいます。私は茶化されたらスルーもしくは全力で茶化し返しますがその時の気分にもよるので私は私で誠実とは遠いところに生きているかもしれません。駄目だこんな大人。
このエッセイはひっそりとこのまま沈んで行くでしょう。
まがり間違って誹謗中傷でなく真っ当な議論の上で炎上することがあれば、それはきっと私に「道理」や「言葉」、そして「誠実さ」が足らない証拠であり、反面教師の才能があった、という事だと思います。その時は笑って悪い例として糧にされるのが宜しいかと思います。
つまり何が言いたいか、というと
「皆、価値観逆転あべこべ物もっと書こうよ! 楽しいよ! え? あべこべは趣味じゃない? ちょっと何言ってるか解らないから取り敢えずつべこべ言わず書いてみようよ!」
という事であり、その点だけは当方ブレないのであります。あべこべ最高です。
そしてこういうのを書いてると
「こういうの要らないから早く連載の続き書けよ!」
と言われます。実際過去に読者さんからこういう事書かれたことがあります。
今なら私は誠実さをもってこう答えられます。
「うっせぇ! スランプなんだよ好きなもん書かせろボケェ!」
事程左様に、汚い言葉を使うと非常に印象が悪くなるので良い子は使ってはいけないのであります。