酒場の男 【2】
逃げよう。
そう考えるのに時間は必要なかった。
ここは一階、扉が駄目なら窓がある。
コーレはずっしりと重いカーテンを開け放つと窓に手を掛けた――――が開かない。
鍵がかかっているのではなく、嵌め殺しだったのだ。
ぞっとしたコーレは勢い、寝室に駆け入ってカーテンを開ける。
やはりそこも嵌め殺しの窓で開くことはなかった。
残るは先ほど目の前で閉じられ、鍵を掛けられた扉のみ。
コーレはよろよろとよろめきながら扉の前に戻る。
鍵がかかる音を確かに聞いたのだから無意味な行為だとわかっていても、もしかしたらと期待をかけて扉の取っ手をがちゃがちゃと音を立てて捻ってみる。
結果は火を見るよりも明らかだ。
コーレは開くことのない扉に背を預けて、諦めたように天井を仰いだ。
どのくらいそうしていたかは分からないが、ふと目線を下げると部屋の向こう側にある長椅子に頭巾男がコーレを凝視しながら体を縮こませて震えている。
どうしてこんなことになったんだ。
ぶつかってしまって怪我をさせたのは申し訳ないと思いつつも、繚乱通り随一の娼館に気味の悪い男と二人閉じ込められる謂われはない。
繚乱通りに行くのならクロンキストを拝んでこい。門をくぐれれば幸運、部屋に招かれれば天に上り、夜を明かせたら楽園の住人となる。
酒場で誰もが夢見るように謳うクロンキストで、コーレはその恩恵を与えられるどころか不幸のどん底まで落ち、のたうち回っている。
自分が不注意にぶつかったと自覚はあったとしてもこの男だって周りをちゃんと見ていなかったからこそふらふらと歩く自分に当たったんだろう?
怪我の半分は本人のせいじゃないか。
恨みがましく頭巾男を見れば、びくんと体を強張らせてあからさまに萎縮された。
なんだというんだ、まったく。
コーレは自棄になっていた。
怪我をさせたお詫びにちゃんと部屋まで運んでやった。
水で冷やしてある程度は回復もさせた。
ちょっとばかり頭巾男が不憫になって案内女に意見した。
たったそれだけでいきなり部屋に閉じ込められるとはどういうことだ。
ぐるぐると部屋を野生の動物の様に歩き回っても扉の鍵が開くわけでも部屋から出れるわけでもない。
くそったれ。
どっかりとテーブルの前に座ったコーレは、童女が運んできた酒瓶を掴んで持ち上げた。
どうなったって知るもんか。
コーレは栓を開けると用意された杯になみなみと注いで一気に飲み干した。
つまらない。至極、つまらない。
コーレは肩肘をつきながら残りわずかとなった酒瓶の底をみつめていた。
いくら上等の部屋で上等の酒を飲んだからと言って、正直なところ自棄酒を美味しいとは感じれないし酔うこともできない。
普段であれば見事な設えの部屋に入れば隅の隅まで堪能してその意匠を脳裏に焼き付けるというのに、その気が全く起こらない。
こんなことはコーレの人生において初めてのことだった。
おまけに。
ちらと横目で長椅子に座る男を見る。
怪我が随分と良くなったのか、椅子の上に上げていた足を下ろした男は相変わらず縮こまってはいるものの、頭巾の奥から見える双眸がコーレの前にある酒瓶に熱く注がれて、コーレは更なる苛立ちを募らせる。
「あんたも飲むか?」
何度もそういっているのに頭巾男は首を横に振るばかりで、そのくせ酒に熱い視線を向けるものだからやってられない。
それならそんなに物欲しそうに酒を見るなよ。余計に酒がまずくなる。
口から言葉が零れ落ちる前にコーレはくるんと体の向きを変えた。
一日だとあの女は言っていた。
閉じ込められてからどれほどの時間がたったかはわからないが、まだ数時間に違いない。
それまで一人で自棄酒をあおっていてもつまらない。
目の前にはあと数本も目玉が飛び出るほどの高価な酒がある。
少しは本当の味を楽しみたいものだと、コーレは新しい杯に酒を注いで頭巾男の前に置いた。
「せめて口を付けるくらいの付き合いがあってもいいだろう?」
どんなに頼んでも頭巾はとらない、酒も物欲しそうにするくせに飲もうとしない。
そんな男と同じ部屋にいるだけで豪華な部屋も粗末に見えるし、滅多に飲めない高級な酒も泥水の様になる。
段々と苛ついてきたコーレは、ほれほれと杯を怯える男の手に杯を押しつける。
「飲めるんだろ?だったら飲めよ。俺一人で飲んでもこんだけの酒だ、全部飲めるわけもない。あんただってこんな酒、滅多に飲むことはできないだろ。大酒飲みかはたまた酒乱か、あんたが飲まないでいる理由は知らないが、どうせ一日ここに閉じ込められたんだ、この部屋を出るころには酒も抜けるだろうよ」
震える指先に合わせるように揺らぐ酒を見続ける男はごくんと大きな音を立てて唾をのみ込んだ。
「さっさと飲めよ!」
強めの口調は頭巾男の最後の枷を無理やり外したのだろう、ぶるぶると大きく震えると頭巾の中に器用に杯を入れて一気に呷った。
ごくり。
ごくり、ごくり。
先ほどとは明らかに違う喜びに満ちた音で喉を鳴らす。
けれども自分の行いに呆然自失としているのかぴくりとも動かない男に、してやったりと笑うコーレは手に凭れたままの空の杯に今度はゆっくりと見せつけるように酒を注ぐ。
「一杯飲めば二杯も三杯も一緒だろ?」
ほら、飲めようまいだろうと焚き付けると、今度は言われるがまま素直に杯を口につける。
空になればすぐ酒を入れてやり、その度に飲むように促してやる。
初めの抵抗が嘘のようにコーレの言葉通りに酒を飲み干す男は、頭巾の奥の瞳がとろんと溶け始め、酔いが回り始めたのか体をゆらゆらと揺らし始めた。
こうなればしめたもの。
無抵抗の酔っ払いと化した男の肩に腕をまわし、顔を近づけ囁いた。
「なあ、息苦しくないか?せっかく旨い酒を飲んでいるっていうのに頭巾なんて被ったままじゃあ酔いも早まり沢山飲めなくなるぞ。有名どころの酒がこれほどあるんだ、飲まないでどうする。それ、頭巾を取りな。ここには俺しかいないんだ。あんたがどんな顔だって、誰も驚きはしないさ」
さあ頭巾を、外すんだ。
素晴らしい誘惑に男は溶けた瞳でコーレを見る。
熱い、息苦しい、辛い、もっと、どうして、私が―――――。
頭巾の奥でぶつぶつ呟きはじめた男は、だんだんと声高々となり、とうとう意味不明の言葉を叫び始めた。
「そうだ。どうして私がっ!いや、だからあのおん……?グリュー……ね!あい、…て、たのだ。私がいったいな……っ!!あああっくるしいっ!くや……いっ!」
がりがりと細く皺だった首をかきむしりながら、男は叫び続ける。
なるほど、こんな風になるとわかっていれば酒を飲みたくはないだろうなと、今更ながらにコーレは思ったが後の祭り。
男は首に赤い筋を何本も作り、息苦しそうに顎を上げ、そしていきなり頭巾をかなぐり捨てた。
なんだ、普通の顔じゃないか。
素顔を晒した男の顔は女たちが目を背けたくなるほどの醜男でも大きな傷を負っているでもない、人混みに紛れればどこにいるのか探すことも難しくなるような、平平凡凡の顔つきをしてた。
ただ唯一、瞳の色だけは素晴らしく、磨き抜かれた黒曜石の様だった。
頭巾を被ることでその瞳の色をわかりづらくしているくらいだろう。
だがそれも頭巾を被るまでもなく前髪を下ろせば目立たない程度のもので、わざわざ煩わしい頭巾を被る必要もない。
だとすれば残るはなんだ?
コーレは初めて頭巾男に疑問を抱いた。
「あ、あ、あ、あ、あああっ!!
私がなぜこのようなものに縛られなくてはならない。このように不快なものを被り続けなければならない?
私がいったい何をしたというのだ。汚らしい頭巾を被り、人の目を避け、薄汚れた仕事に従事なくてはならないのだ。このような場所で落ちぶれ果てるいわれなどまったくない。あの強欲な男が!私の金を奪い、土地を奪い、地位を奪って、女を奪った!嗚呼、私の愛するグリューネ!どうして私の前からいなくなったのだ……っ!」
わあっと大きく振りかぶって机に突っ伏した男は、許せない許せないと呟きながら固く握った拳を繊細な彫りで装飾された机に何度も何度もぶつける。
そのたびに酒瓶がぐらぐらと揺れ、ぶつかり、転がろうとするのをコーレは慌てて引き寄せて守った。
「おいおい、いい加減にしろよ。瓶が割れるだろう」
突っ伏したままの男にコーレは呆れて声をかけると、男はぴたりと動きを止めて唸るような声を上げた。
「……貴様、誰に、物を、言っている?」
「はあ?いったい何を言ってんだ?誰ってあんたに決まってるだろ」
返事が気に入らないのか、突っ伏したままの体に首だけをコーレに向けた男は、ぎっと音が鳴りそうなほど強くコーレを睨みつけた。
「私を、誰だと、思っている? 誰に、物を言っている?」
どんな酒だよ。
泣き上戸に笑い上戸。酒乱にぐだまき、すぐ裸になりたがる奴や相手かまわずキスをする奴。
いろんな酒を見てきたが、ここまで豹変する奴は初めてだ。
飲ますまではネズミよりも臆病だった男はいずこへか、今は高圧的に見下す貴族のようになった男にコーレは少し逃げ腰になった。
「貴様ごときが私をあんたなどとふざけた呼び方で呼ぶことを許されるとでも思っているのか。平民風情が私を見下すことなど許されぬ。……ああ、流石はクロンキストのアルベルティーナ。なんと気の利くことよ。そこの平民。その手の中にある酒はまさしくアルベルティ―ナが私のために用意した酒。貴様などがおいそれと飲める代物ではない。さっさと渡さぬか」
「何を言ってんだ。これは俺が貰った酒だ。あんたのじゃない」
「馬鹿が。貴様程度の人間がクロンキストの特別貴賓室であるこの部屋に通されるとでも思っているのか。私だからこそ、この繚乱通り一の花であるグリューネを身受けした私だからこその待遇よ。貴様など、この部屋を一時間借りる料金すら払うこともできないであろうよ」
馬鹿が馬鹿がと何度も嘲笑う男はコーレから酒瓶を奪い取ると、まるで水を飲むような勢いで飲んでいく。
ああ、俺の酒が。
コーレは滅多に飲むことのできない酒が見る見るうちになくなっていく悔しさと、哀れと思っていた男に見下される悔しさに何かが切れる音を聞いた。
気が付くとコーレを馬鹿にした男は酒瓶を握り締めたままコーレの足元に倒れていた。