酒場の男 【1】
コーレはその日、至極上機嫌だった。
馴染みの店に出来上がったばかりの銀細工を納めに行くと、滅多に褒めることのない店主が珍しく手放しで出来を褒め、いつもより買取金額をはずんでくれた。
それに付け加え、丁度来店していた男がコーレの作品をことのほか気に入った様子で、納めた品とは勝手は違うが夫人を彩るための装飾を作ってくれないかと依頼された。
店主は扱いが違うから仲介に入らない、自分を安く売るなよとコーレに耳打ちして楽しげに笑う。
あれよあれよという間に商談は成立し、契約金として思いがけない金が手に入った。
仕事は上向き、懐は暖かい。
これで上機嫌にならないわけはない。
久しぶりに女でも買おうかと考えてもおかしくはなかった。
折角王都まで出向いたんだ、名の知れた娼館にでも行ってみるか。
コーレは期待を胸にダリーン特別自治区の門をくぐる。
朱色に塗られた大門をくぐればそこは別世界が待っている。
街路灯には煌々と明かりが灯され、まるで昼間のように通りを照らしているがそうではない。
日の光とは違う揺らめく光が人を妖しく誘い、男も女も色気を帯びて一夜の夢に酔いしれる。
いくら懐具合があたたかいといっても最も栄えある繚乱通りの娼館の女を買えるほどではない。
二流どころと呼ばれる千花通りの適当な館に目星をつけて、気に入った女を見つけることにした。
明くる朝遅く、コーレはベッドで死んだようにぴくりとも動かない女におざなりな別れを告げて娼館を後にした。
そろそろ大門に差し掛かろうかというときに、折角ここまできたのだから物見遊山ついでに繚乱通り随一と名高い娼館でも拝んで帰ろうかと思い立ち、体を向きかえた。
高級娼館が立ち並ぶ繚乱通りとはいえ、朝は静かで人通りも少ない。
時折横を通り過ぎるのは、今夜の宴に向けて準備を整えるべく動き回る下働きたちだろう。
本来なら夢を求めに来ている客に見せるべきではない幕の内側を見せつけられたように思うのはお門違いだ。
くくっと喉の奥で一笑すると、今度は店構えや街路灯、休憩所の設えを見て回る。
意匠の参考になるかもしれないと考えたからだ。
気に入った意匠があれば立ち止まり、いつも持参している紙にさらさらと描き写す。
通りのあちこちで立ち止まって無心に描いているうちにそれ以外の意識が遠くなったのか、どんっと体に何かがぶつかった。
「すまない」
ぶつかったものを確かめもせず謝ったのは、自分の不注意に他ならないとわかっているからだった。
さて自分は何とぶつかったのかと確かめようとさらさらと描き写している手を止めて見てみると、そこには真黒な頭巾を被って不気味に曲がった体をさらに曲げて蹲って呻いている男がいた。
「大丈夫か。怪我は?」
見た目の不気味さはさておいて、痛みに唸っているだろう男を放っておけるわけもない。
「だ、大丈夫でございます。どうぞこのまま捨て置いてください」
「いや、そういうわけにもいかないだろ」
きょろきょろとあたりを見回しても誰も通りを歩いていない。
これはしまったと思いながらも、男が言うように本当に放っておくわけにもいかない。
男のそばには箒が転がっているところから、この一角の娼館の下男だろうと当たりをつけて扉を叩いた。
まさかそこが繚乱通り随一といわれる娼館の扉だったとは、このときコーレは全く気付かなかった。
「なに用でしょう」
「すまない。ここの下男とぶつかって怪我をさせてしまった」
しばらくして中から現れた女はお仕着せの清楚な服装がひどく背徳感を感じさせてしまうほど淫らで艶めかしい色気を漂わせいていた。
繚乱通りともなれば、女中すらこれほどまでに色気を持っているのか。
コーレはごくんと唾を飲んだ。
その間にも女はコーレとそのわきにいる顔を上げようともしない男を交互に見比べて、真っ赤な紅をひいた薄い唇の端をにぃと釣り上げた。
「たしかにその男はここの下男に間違いはございません。
貴方様にはご迷惑をおかけしたようで大変恐縮ではございますが、もう少しお力をお借りしてもよろしいでしょうか。
こちらの突き当りを右に曲がった一番奥の部屋までその男を連れて行っていただきたいのです。
その間に必要なものを持ってまいりましょう」
いつの間にか現れた童女が道案内をいたしますとコーレの先を歩く。
絨毯の深い毛が足をとるが、それよりもコーレは廊下の装飾に驚きを隠せない。
コーレは銀細工師だ。
もともと人よりも美しいもの、細やかなものに興味がある。
だがこの館の装飾は、コーレが今までみた館のどの形式にも当てはまらない不思議な紋様をしている。
見たこともない不思議な意匠、けれども非常に豪華で壮麗。
コーレは苦痛に歩みを遅らす男を気にしつつも、陶然とあたりを見回した。
案内された部屋の中に足を踏み入れると、そこは廊下の華麗さなど霞むほどの絢爛で優雅な設えの部屋だった。
部屋の中にもさらに扉があり、その扉の向こうには寝室があると童女は言う。
たかだが下男の怪我の治療をするだけでどうしてこんな場違いな部屋に通されたのか、案内された部屋が違うのではないかと童女に問うたが、首を横に振るばかり。
仕方がないので男を長椅子に座らせて自分は帰りますと伝えたが、童女がそれを断るように扉を外側から静かに閉めた。
気まずい。
どうしようかと後ろを振り返ると長椅子に座らせた男が唸りながら痛む足を椅子に上げようとしていた。
あわてて足置きを長椅子の前に持っていき足を乗せ換えてやると、男はふぅぅと詰めていた息を吐き出した。
黒い頭巾が苦しそうに動く。
コーレは頭巾に手をかけて取ってやろうとしたが、男は機敏に察知したのか、手で頭巾を押えて脱がされまいとした。
「息苦しくなるぞ。どうせここには俺しかいないんだ。脱いだって誰も驚きはしないさ」
そう言って何度か頭巾をとろうと試みたが、男も執拗に拒んで外そうとしない。
そこまで顔を見られることを嫌がるとは、どれほど酷い傷を負ったか、それとも見苦しいほどの醜男か。
どちらにしてもこの美しすぎる娼館に相応しくないと被らされているのだろう。
そうでなければ一人しかいない場所で息苦しい頭巾を外そうとしない謂われはない。
どうしたものかと思案していると、軽いノックの音とともに先ほど玄関で対応した女が清潔な布と水を張った盥を携えて入ってきた。
「どのような具合でしょうか」
「ひねった足首を見ても酷く腫れた様子はないから冷やすだけで充分だと思うが……息苦しくなるから頭巾を取った方がいいといっても頑なに外そうとしない。もしかしてこの館では外してはいけない決まりなのか」
「まさか。そのような決まりはございません。あれはあの男自ら望んで外そうとしないのです。けれども……そうね、そのように思われるとはなんとも面白いこと」
別段面白いことなど言った覚えがないというのに、女はくすくすと笑って長椅子の男に目をやった。
頭巾男の表情は読めない。
けれどもなぜだか体が異様なほど震えびくついている。
やはりここの花たちが男の容姿をひどくからかっているのだろう、彼の震えはその怯えに違いない。
コーレがそう判断するにはさほど時間がかからなかった。
自然ときつくなる視線に女は怯むことなく、ことさら楽しげに笑うだけ。
そうしてコーレのしかめっ面にちょんと白い指で突っつくと真っ赤な唇をコーレの耳元に寄せて誘うように囁いた。
「楽しいお話を聞かせてくださったお礼によいものを差し上げましょう。あの男の手当てが終わったころに持ってこさせます。残念なことに花たちはもう夜に最も美しく咲くように休ませていただいておりますが、今日は一日このクロンキストの中でも私が最も愛するこの部屋でお楽しみいただけることと思いますわ」
女の言葉にコーレはしばし茫然とする。
クロンキストだって?
ここが繚乱通り随一を誇るクロンキストだっていうのか。
まさかそんなと思いながらも、男を怪我させたことで焦って周りをちゃんとよく見ていなかったが、思い返してみれば明らかに他とは一線を画した門構えを入り、重厚な扉を叩いていたことを思い出すと、ざああと自分の血の気の下がる音を聞いたような気がした。
衝撃が強すぎたせいで他にも何か女が話しているようだったが意味を掴むことが難しかった。
けれどもその中でも唯一、男の怪我の手当てを任されたことだけは何とはなしに理解したコーレは、童女が部屋を出た女を見送った後に閉めた扉の金属音で我に返り、慌てて頭巾男の足に水を絞った布をあてた。
まずい、非常にまずい。
いくら案内係の女にとはいえ、クロンキストの人間に物申すなど、このダリーンでは命を落とすようなものだ。
コーレはさっさと手当を終えて帰らせてもらおうと必死になって布を絞っては腫れた足に当てる作業を繰り返した。
そうして何度か繰り返した頃、肩で息をしていた男の強張りが明らかに緩み、コーレもほっと息をついた。
カチャと扉が開く音が聞こえたのは最後にしようと布を絞り直していた時だった。
恐る恐る顔を上げると、女ではなく童女が台車を引いて入ってきた。
台車には有名どころの酒が数種類と杯、軽いつまみが乗せられている。
クロンキストで酒を飲むとなればどれほどの料金を吹っ掛けられるかわかったもんじゃない。
長椅子の前の机の上に丁寧に並べられていくそれらを見ながら、ああこれがあの女に口を訊いた代償かと己の浅はかな行動を呪った。
ところが童女が意外な言葉を告げる。
「お客様、これらはわが主からの感謝の印です。今日は一日この部屋を貸切にしておりますのでお楽になさってくださいとのことです」
恐ろしいとはこのことだ。
クロンキストの主人にまで話が通り、あの女が言っていた最も愛する部屋を貸切にしてコーレですら名を知る酒を感謝の印として出されたのだ。
この不気味なまでの幸運はきっとどん底まで落ちる何かの前触れに違いない。
だいたい感謝されるいわれもない。
どうやって逃げ出そうかと言い訳を考えているうちに扉は閉まり、外側から鍵をかけられた。
やはり何も言わずに逃げればよかったのか。
これから何が起こるかわからない恐怖にコーレは怯えた。