第1話 【少年と赤子】
ある寒い夜の事。
月明かりは分厚い雨雲で遮られ、漆黒の闇に包まれていた。辺りを照らすのは度々大きく鳴り響く稲光のみ。大きな雨粒に打たれながら、息を切らせた小さな肩が山道に照らし出された。
時は、はるか昔。魔法使いの王国が在った。魔法使いは、非常な身勝手で己の力で全てを支配しようと、自らを『魔王』と称し、世界を恐怖に陥れた。山を噴火させ、大地を焼き、むき出しになった大地を人間に掘らせては、手下として奇妙な化け物や、武器を作った。魔王は、度々手下を連れて、他国の村々を襲い、人間を捕まえ奴隷にし連れ帰った。捕まった人々は、魔王の国に連れて行かれる途中で、脱走を試みたが、ほとんどが連れ戻されるか、殺されるか、自殺するか。どこへ行っても、人々の遺体がそこらじゅうに横たわり、生きる望みなど、どこにも無い地獄絵図が広がっていた。そして、今ここにも、逃げ出してきた少年が1人。
「クッ!!はぁはぁ…」
年の頃は、まだ6つ。暗い山道を雷に怯えながら、それよりもっと怖い手下から逃げようと必死になっているのだった。雨に濡れたボロボロになった服が、少年の体温を奪い、湯気になっている。逃げる際に負った傷で腕や膝も血だらけ、裸足の皮は破れ赤く腫れ上がった所から血が滲み出している。生死の境をフラフラになりながら走り続けているのだった。
「逃げなきゃ…逃げなきゃ…」
自分を逃がす為、盾となり死んだ見知らぬ大人達を何度も思い出し、少年は走り続けた。
「…生きるんだ…生きるんだ!」
少年は、何度も自分に言い聞かせるように、ただその気力だけで走り続けた。どれだけ走ったか。頭が朦朧とする中、足だけは前へ前へと進める。紫色に膨らんだ重たい足の引きずる鈍い音と雨音と雷が響く中、少年の耳が小さな音を拾った。
「?」
少年の目の前には、今まで何度も見た、当たり前のようになった地獄絵図の光景が広がっている。その中、赤子だろうか。存在を知らせるように泣き声が少年の耳を掴んで放さなかった。
***
薄明るくなる空の下、腰まで伸びた銀髪を輝かせながら長身の男が、森の中を歩いていた。そしてそれを追うように、薔薇のように赤い髪をツンツンに逆上げしたような短髪の少年が目を擦りながら付いてきた。
「眠たそうだな、イサクよ」
「いえ…」
「無理に付き合わんでも良いのだぞ」
「父上を一人にしたら、私が母上に叱られます」
朝露が葉を濡らす中、少年イサクは父親の後を追って森の中へと入っていく。天高く伸びた木々の隙間から、青白く明るくなっている空が見えるが、親子が立つ森の中は、木の影で、まだ薄暗い。薄く霧がかかり、少し肌寒くも感じる。しかも、シダ科の植物や、トゲを持った大きな葉を持つ植物、伸びて只の雑草とは思えないほど大きくなった草が鬱蒼と足元を覆っている為、地から飛び出している木の根も隠れてしまう。この森を知らぬ者は、2分に1回は気付かずに引っ掛かって転んでしまうだろう。そんな森をある目的の為、毎朝散歩している。この親子の暮らす国には、魔王の息はかかっていない。喜ばしいことか、世界に1つだけの安息の場所。しかし、魔王が手を出さない事から、『魔王の実家』という噂が流れ、容易に歩けない森の存在も加わり、他国の人々に嫌われ忘れ去られた国。この国の者以外、誰も近づきはしなかった。魔王から逃げ出し、道に迷った者以外…。
「…今日は、誰とも会わんな…」
「昨夜は、平和だったという証でしょう」
息子の言葉に、うれしそうに父・クロムロフは頷いた。
「このまま、誰にも会わなければ良いのだが…」
2人は再び黙って歩き始め、父は目を瞑って歩いていく。木の根に引っかかる事も無く、小さな虫すら踏み潰さず、目を瞑ってひたすら歩く父の後姿を、息子は静かに見守っているのだった。
「!」
急に、父の動きがピタリと止まった。何を探しているのか、目を瞑ったまま顔を左右に振り、森の動きに耳を集中させた。それを見たイサクは、肩を落とした。
「こっちだ!!!」
突然走り出した父に驚きもせず追いかけた。ぐんぐん小さくなっていく父の背。必死に追いかけたが、今日も見失った。そう、いつもの事。父が、息子の速度に合わせる事は無いのだ。イサクは、いつものように大きく伸びた草をかき分け、大地の肌を出すと、そこに耳を当てた。すっぽりと草に隠れてしまう。しばらく耳を当て、意識を集中させる為、目を閉じる。
「…11時の方向…」
微かに地を伝って聞こえた父の静かな足音を逃さなかった。急ぎそちらの方向へ走る。しばらく走ると追いついた。と言っても、父はすでに、大地に座り小さくなっていた。静かに父の前を覗き込むと、イサクと同じ年頃の少女が父の腕の中で亡くなっていた。先程、天に召されたのか。脈は無いものの、まだ体は硬直していなかった。
「また…また、助けられなかった…」
父は、少女の遺体を抱きしめながら、大粒の涙をポロポロと流した。まるで、我が子を失ったように。
「最後に父上に会えたのです。魔王や魔王の手下でなくて安心した事でしょう。」
息子の慰めも、目の覚めきらぬ森の中に消えていく。
「昨日も、一昨日も、その前も…声が聞こえたのに…助けを求めていたのに…救えなかった…」
毎朝のように、こうして泣く父の姿に「もう、やめましょう」と何度言いかけたか。イサクは、泣きたくなるのを堪えながら、自分より大きな父を抱きしめ続けた。どれぐらい泣いていたのか…突如、悲しむ親子から少し離れた場所に一つの小さな影が現れた。気付いたイサクは、じっとその影を見ていた。父は、気付かず泣いている。
(敵か!?)
警戒する中、影は、右へ左へとゆらりと動いたと思ったら、フッと消えた。
「ッ!!父上!!」
父から離れると、イサクはその影を確認した。影は消えたのではなく、倒れたのだ。影は小さな少年で、少年の口の近くで、若い草が呼吸を報せていた。
「父上!!生きています!生きていますよ!!」
息子の言葉に我に返った父は、少女を木の根元にもたれさせると、息子の近くへと急いだ。イサクが、うつ伏せに倒れた少年の体を起こすと、親子は息を呑んだ。気を失った少年の腕の中には、赤子がしっかりと抱かれ、赤子は安心したようにスヤスヤ眠っていたのだった。
***
森を抜けると、綺麗な白い石畳の道が出てくる。道の両脇には、綺麗に整えられた木々が立ち並び、それらに導かれて道を進むと、大きな庭園へ案内される。庭園には、四季折々の花々が植えられ、真ん中には大きな栗の木が1本どっしりと腰を下ろしている。その横には石造りの円形の噴水が設置され、涼しげに落ち着いた音色を奏でていた。そして、それらを眺める事が出来るデッキが有り、ここにはベンチが置かれている。デッキは、『井』の字のように木製の格子の入った窓が特徴の洋風の白い石レンガの小さな屋敷から飛び出している。屋敷の中は、庭とは逆側の方の玄関から入ると、一番先に目に入るのは、1階の真ん中に設置された螺旋状の階段とホール。そのホールの向こう側の30畳程の大広間から先程のデッキ・庭園へと繋がっているのだ。玄関から左手側には、もう1室15畳程の部屋が有り、この部屋からは、森に直接繋がる大きな掃き出しの窓がある。また、玄関から右手側には、台所と賄い達の休憩室が有り、良い香りが鼻をくすぐり、誰もがその香りに腹の虫が騒ぐ。螺旋状の階段を登ると、2階には20畳程の部屋が1つと、この屋敷の主の書斎、3階には主の寝室と10畳程度の小さな部屋が3つ有った。部屋数を数えても、10室も無い事からこの屋敷が小さい事が分かる。小さいが、この館は、クロムロフを国王とした一国の城であった。この小さな屋敷の1室に少年は居た。虹色に輝くガラスの入った窓からは、暖かい日差しと優しい風が、レースのカーテンを揺らした。風が通りすぎたベッドの傍には、綺麗な栗色のロングヘアーの美しい女性が椅子に腰をかけていた。彼女の手には、あの少年の手が包み込まれるように握られていた。手を離すと、少年はうなされながら手を伸ばすのだった。
「怖かっただろうに…」
妻の悲痛な顔を見ながら、クロムロフは、少年の足の手当てをしていた。腕や膝に有った傷は、不思議な事に、今はもう無い。ゆっくりと、クロムロフが、紫色に膨らんだ足の裏に手を当てると、うっすらと優しい光を放ちだした。
「摩擦で火傷のようになって…あぁ…血が固まっている…こんな足でよく逃げてきたものだ。」
「治りますよね?」
2階の20畳の部屋に、彼らは居た。赤子の寝かされたベッドの横で、イサクが尋ねる。父は、静かに微笑み頷いた。なんとも優しく静かな穏やかな時間。地獄絵図の広がる世界がすぐそこに在る事など想像出来ない程、平和に満ち溢れていた。その日は、ほとんどの時間、皆がその部屋にいた。起きたら腹いっぱいになるほどの食事を用意しよう。寝間着の変えはコレを用意しよう。歩けるようになったら、こうゆう服と靴をあげよう。少年が深い眠りにいる中、親子はそんな事を楽しげに話しているのだった。
翌朝、いつの間に寝てしまったのか。クロムロフは、目を覚まして驚いた。
「ッ!ペリーナ!イサク!起きなさい!」
「…何?」
「…?」
「子供達が居ない!!」
寝ていたはずの少年と赤子の姿が無い。3人は慌てて、城の中、庭と探しはじめた。見張りをしていた衛兵達にも確認したが、誰も気づかなかったのか、慌てて他の衛兵達も集めて、子供達の捜索を始めた。
「きっと、驚いたんだ。国境を越えてなければいいが…」
少年を保護したあの森の切れた所が、国境だ。あの足では、そう遠くまでは行けまい。しかし、万が一、国境を越えてしまえば、魔王の手下が待っている悪夢の世界だ。クロムロフは森へ、ペリーナは城下の民の地へ、イサクは木の陰や洞窟の中などを探した。散々探したが、見つからない。でも、誰も探すのをやめようとはしなかった。そんな彼らを、探している衛兵がいた。衛兵がやっと、3人を見つけ城へ帰ると、子供達が戻っていた。しかし、少年は縛られて、口に詰め物をされている。
「なんて酷いことを!」
慌ててペリーナがその詰め物を取ろうとしたが、衛兵が理由を聞いて欲しいと言う。
「この少年は、ここに連れてきてから何度も舌を噛み切ろうとするのです。だから、詰め物をし、取らないよう手を縛ったのです。」
愕然とした。少年は、警戒した獣のようにペリーナを睨み付けている。
「…死にたいのですか?」
ペリーナは、少年の前に屈むと悲しい顔を見せた。少年の経験した恐怖を、彼女は知らない。理解は出来ても、心の傷はすぐには治せないのだ。警戒心の溶けない少年の横に来たクロムロフは、黙って詰め物を取ってやった。
「ッ!!!」
「貴方!」
取った瞬間、やはり少年は舌を噛み切ろうとした。が、噛めなかった。阻止しようとして口に入ってきたクロムロフの大きな手を噛んだのだ。これに驚いたのは、少年の方だった。
「怖がらなくて良い。私達は、君達を守りたいだけなんだ。」
「………」
噛まれた手からは、血が滲み流れた。
夕方。まだ口を開こうとはしなかったが、少年はやっと自分の名を紙に書いた。少年の名は、リドーと言った。
「この赤ん坊は、リドーの弟ですか?」
リドーは、首を横に振る。
「知り合いですか?」
リドーは、また首を横に振った。
リドーは、自殺を図ることはなくなったが、なかなか心を開いてくれず無言のまま1週間が過ぎようとする頃。
「…ぁ…の……」
小さく呟くような声に、クロムロフは振り返った。リドーの、声は実に幼く可愛い声をしていた。
「…どうしたの?」
クロムロフは、目線をリドーの高さに合わせて、優しくリドーの言葉を聞いた。リドーはどこの村の子で、どう逃げてきて、赤子とどう出会ったのか…
「僕は、もう捕まったら死ぬって思っていて…走るのも疲れて、それでも逃げたくて。何日も何日も山を逃げ続けて…。」
たどたどしく話すリドーの言葉を聞き逃さないよう、クロムロフは「うんうん」と頷いて聞いた。
「寒くて、疲れて…ヘトヘトになって、捕まらなくてもみんなみたいに死んじゃうのかなって思ったの。」
「うん」
クロムロフの優しい瞳に、リドーの恐怖感は吸い込まれていくようだった。
「そしたら…近くに女の人が死んでて、その近くの木の影で赤ん坊が泣いてたんだ…」
「それが、エドルフだったのか」
リドーは、コクリと頷いた。ペリーナに抱っこされたエドルフと名付けられた赤ん坊は、スヤスヤと眠っている。
「抱っこしたら泣き止んだんだ…そしたら…守らなきゃって…死なせたらダメだって…後は夢中で走ってた…んだと思う…」
あまりよく覚えてないと、付け加えた。
「そうか…よく頑張ったね。よく話してくれたね。」
クロムロフは、何度もリドーの頭を優しく撫で強く抱きしめてやった。
「頼もしいお兄ちゃんね」
その後、クロムロフ達は、リドーが生まれた村を探したが、灰となって消えていた。その事は、リドーにも隠さず教えたが、この少年はそれについて泣く事もなく、静かに俯いただけだった。