二十七歳のフォークボール
西日が差し込む町の練習場。金属バットが球を弾く硬質な音に混じって、ミットが重低音を響かせる。
「水島さん、やはり無理があります。彼はもう二十七歳だ」
毒島武志は、手元のタブレットに表示された無機質な数値を指先で弾いた。眼鏡の奥の瞳には、焦燥と冷徹な分析が同居している。
「球速、回転数、過去の故障歴。どれをとってもプロのスカウトが指名するリスクに見合いません。今のスカウト界において、二十七歳のオールドルーキーは、データ上『死に体』です」
その隣で、水島充は彫刻のような横顔をマウンドへ向けていた。上質なスーツの裾すら乱さぬ完璧な姿勢。彼はゆっくりと扇を閉じ、その先端でマウンドの男――佐伯を指した。
「毒島くん。君の魔法の板には、重力は映っても『重み』は映らないようだね」
マウンドの佐伯は、昼間は精密機器メーカーの営業として頭を下げ、夕暮れにだけこうしてボールを握る。彼が投じた一球は、打者の手元で幽霊のように消え、低く、深く沈んだ。
「見てごらん。あのフォークボールの落差を。若者のそれは、単なる物理現象だ。だが彼の落差は違う。挫折を知り、社会の荒波に揉まれ、それでもなお野球を捨てきれなかった執念が、球をあそこまで引きずり落としている」
水島は、朗々とした声で続けた。
「あれは、彼が積み重ねた歳月の結晶だよ」
翌日、二人は佐伯の勤務先である工場の応接室にいた。並み居る役員たちを前に、毒島は言葉を尽くす。
「彼は、御社にとっても優秀な人材だと伺っています。ですが、彼の右腕には、日本中の視線を集める価値があるんです!」
「夢物語はやめたまえ」と役員の一人が鼻で笑った。「二十七歳の社員に、今さら不安定な世界へ行けと? それが彼の幸せだとでも言うのかね」
毒島が唇を噛んだその時、水島が静かに立ち上がった。彼は部屋の隅に置かれた、見事な枝ぶりの盆栽に歩み寄る。
「……見事なものですな」
その一言で、部屋の空気が一変した。
「若木はただ天を目指し、分不相応に伸びようとする。しかし、厳しい冬を越し、雪の重みに耐え抜いた老木は、その重みを知るがゆえに、地に向かって美しく枝を垂れる。佐伯殿の球も同じ。ここで貴方たちが彼を鍛え、誠実な労働を教え込んだからこそ、あの深く、鋭い落差が生まれた」
水島は役員たちの目を真っ直ぐに見据えた。
「彼をプロへ送ることは、損失ではない。貴社がいかに『粘り強い人間』を育て上げたか、その誇りを全国に知らしめる好機となるでしょう」
数日後、夕闇に包まれたグラウンド。
採用の報を聞いた佐伯は、震える手で自らの右腕をさすっていた。
「本当に、僕でいいんでしょうか。もう、若くないのに」
毒島は眼鏡を拭き、少しだけ口角を上げた。
「私のデータが、一つだけ修正されました。人間のピークは、年齢が決めるのではない。本人が、自らの変化を信じている間は、更新され続けるものです」
毒島は佐伯の手を力強く握った。
「あなたのその『重み』のある一球で、若造たちを黙らせてやってください」
遠くでその光景を眺めていた水島は、満足げに扇で肩を叩いた。
「さて、毒島くん。次はどんな、芳醇に熟成された才能を掘り起こしに行こうか」
二人のスカウトは、夜の帳が下りるグラウンドを後にした。一人は優雅に、一人は熱く、まだ見ぬ誰かの人生の扉を叩くために。




