第8話 覚醒
深部へ進む。
この狂った空間の中、頼れるのはこの四人だけ。
道中の化け物どもは、素のアナライズと三人の暴力的な連携でかろうじて捌き切った。だが、空気が劇的に変わった。
重い。分厚い。息をするだけで肺が凍りつきそうなプレッシャー。
先頭を歩いていた紬の足が、ピタリと止まる。彼女の顔から、一瞬で血の気が引いていた。
「結衣ちゃんが……いる!!」
濃霧が、一陣の風と共に晴れ渡った。
目の前に現れたのは、直径数百メートルはあろうかという底なしの巨大クレーター。その中心で、黄金の剣が天を貫くように突き刺さっている。網膜が焼き切れそうな神々しさと、禍々しさ。
剣の根元には、光の繭があった。
その中で、人の形をした何かが丸くなって浮いている。顔は見えないが、あれは間違いなく――
「結衣ちゃん! 私だよ、紬だよ!!」
叫ぶ紬を、ガルドが力ずくで引き留める。
「見ろ! あの周辺は空間の歪みが桁違いだ! うかつに踏み込めばバラバラになるぞ!」
その時。
【警告:高密度エネルギー反応、接近中】
「上だ!!」
クレーターの縁、天を衝く剣の切っ先から、ふわりと一人の男が飛び降りてきた。
燕尾服。シルクハット。ステッキ。
何十メートルという高低差を、まるで羽毛のように無視した着地。
冗談だろ。テーマパークのキャスト迷い込んだのか? 必死に現実逃避しようとする脳とは裏腹に、俺の左目はすでに最悪の「死」の予感を察知して激しく脈打っていた。
「――ハンドラ諸君。ようこそ、我が劇場へ」
重力を無視した軽やかな着地。そして、両手を広げての芝居がかった一礼。
「僕はクラウン。この劇場の演出を任されている者さ」
「おい、テメェが……結衣を操ってんのか」
ガルドが殺気を放つが、道化師はくすくすと笑い、ステッキを軽く地面に突いた。
瞬間。ガルドの足元のコンクリートが、分子レベルで『分解』され、サラサラの砂になって崩れ落ちた。
「チィッ!」
ガルドが後方へ跳躍した直後、崩れた砂がビデオの逆再生のように空中で『結合』し、巨大な槍を形成して飛来する。紬が座標を捻じ曲げて軌道を逸らすが、クラウンが指揮棒のようにステッキを振ると、周囲の瓦礫、アスファルト、空気が一斉に分解され、凶器へと再構築された。
防戦一方。
ガルドが渾身の暴風を叩きつけ、小春が最大火力の熱線を放つ。
だが――届かない。
強烈な突風はクラウンの数メートル手前でふっと凪ぎ、太陽のような炎はシュンッと音を立てて、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えた。
「なんでっ……!?」
「どうなってやがる! 俺たちの攻撃が……消えた!?」
俺は血走った目でアナライズを凝視する。だが、視界には赤い【解析不能】の文字が点滅するだけだ。奴が何をしたのか、理屈がまったく読み取れない。
圧倒的な、次元の違い。得体の知れない力で四方から再構築される瓦礫の槍が、ジワジワと俺たちの逃げ場を削っていく。
これだけはわかる。
このまま防戦を続ければ、確実に全滅する。俺たちの命は、あのふざけたピエロにすり潰される。
俺は冷や汗に塗れた震える手をポケットに突っ込み、残っていた薬を二錠、同時に指先で摘み出した。
『まとめて飲むことは想定していない』『脳への負荷が――』
頭の片隅で、ノクスの無機質な警告が蘇る。
知るかよ!
自分の明日を生き延びるためにこいつらを見殺しにするくらいなら、俺がここにいる意味がねえだろ!!
俺は一切の躊躇いを捨てて二つのカプセルを口に放り込み、ガリッと、力任せに奥歯で噛み砕いた。
「零士さん!?」
強烈な薬効が喉を焼く。三秒後。俺の脳髄が、文字通り「爆発」した。
「がぁぁぁぁッ、あああああぁぁぁッ!!?」
激痛。視界が真っ白に飛び、一転して血の赤に染まる。両鼻から血が噴き出し、俺の意識は急速に濁る暗い泥の底へと沈んでいった。
――そこから先は、俺であって、俺ではなかった。
【警告:致死量の毒物が神経回路に侵入】
【安全装置解除: 深層領域 強制展開】
ぐらりと、俺の体が立ち上がる。
左目の青白いインターフェースが、赤黒いノイズに侵食されていく。
「おや、観客席で暴れるのは感心しな――」
クラウンがステッキを振り下ろす。俺の心臓を穿つべく、無数の瓦礫の槍が殺到した。
俺の口が、俺の意思を離れて、無機質な音声を紡ぐ。
「『 Override(上書き): Reject(拒絶)』」
ガィィィィンッ!!
俺に突き刺さる寸前、瓦礫の槍が不可視の壁に衝突したように砕け散った。
「……なに?」
クラウンの笑みが、初めて凍りつく。
俺の、いや「得体の知れない何か」の赤い視界が、クラウンを捕捉した。
「『 Target_Entity(対象): Crown』」
「『 Initialize(初期化): Null_Reference(無効)』」
俺がその記号を呟いた瞬間。
クラウンの足元で再構築されようとしていた空間が、バグを起こしたゲーム画面のように激しく明滅し、ボロリと崩壊した。
「ば、かな……僕の『結合』が、弾かれた……!?」
クラウンが焦ったように両手を振る。だが、彼が分解しようとした空気も、結合しようとした物質も、俺の視界に入る端から赤いノイズに呑まれ、元の形へと強制的に戻されていく。
「『 Access_Denied(アクセス拒否)。権限ハ、此処ニ在リ』」
俺が一歩踏み出す。それだけで、特異点の狂った空間が、俺を中心にして「正常」へと書き換えられていく。
俺の体から噴き出す圧倒的なプレッシャーに、ガルドたちでさえ息を呑んで後ずさった。
「零士……あんた、どうなってるの……ッ!?」
小春の声が、得体の知れない恐怖に震えている。
「零士さんッ! だめ、戻ってきて零士さんッ!!」
俺を繋ぎ止めようとする紬の、泣き叫ぶような悲鳴。
だが、彼女たちの悲痛な声すらも、今の俺にはただの無意味な環境音として処理されるだけだ。
「『 Execute(実行): Force_Quit(強制終了)――』」
クラウンに向けて、右手を掲げた。あの化け物を、世界のバグごと消去する。
だが、その手が振り下ろされる直前。
「いやー、こりゃヤバそうな状況だね!!」
ぜえぜえと息を切らしながら、瓦礫の陰から転がり出てきた影があった。
「ルイス!? なんであんたがここに!」
「やあ、通信が死んだから走ってきたよ……って、ちょっと待て零士くん!? 君、完全にイカれかけてるじゃないか!!」
肩で息をするルイスが、引きつった顔で俺に両手をかざした。スマートさの欠片もない、本気の焦燥がそこにあった。
「まったく……どこまで無茶をやれば気が済むんだ、君は!」
ルイスの両目に、限界突破を知らせる極彩色の光が灯る。
「出力極限! 幻灯!! 頼むから、戻ってこいッ!!」
ルイスの全開の能力が、俺の狂った脳髄めがけて真正面から叩き込まれた。
ガツンッ!! と、後頭部を鈍器で殴られたような衝撃。
赤黒いノイズで塗り潰されていた視界を、極彩色の光が強引にこじ開けた。
そこに流れ込んできたのは、魂の奥底なんて大層なものじゃない。出会ってからまだ日は浅い、けれど俺の中に確かに刻まれた「ひどく温かい記憶」だ。
ガルドが握った美味い朝飯の匂い。小春の生意気なツッコミ。
――そして何より、『零士さん』と呼んで笑う、紬の不器用で優しい顔。
システム化されかけた冷たい思考を、そのささやかな日常の熱が溶かしていく。
人間としての、俺の輪郭。
「……っ、が、はぁぁぁぁッ!!?」
俺の口から、大量の血が吐き出された。
途端に、赤黒いインターフェースが砕け散り、俺の意識が泥の底から急浮上する。
「あ、ぐ……ル、イ、ス……?」
「零士さん……ッ! よかった、よかったぁ……っ!!」
正気を取り戻した俺の胸に、紬が弾かれたようにすがりつき、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「よし、こっちに戻ってきた! ガルド、零士くんを担げ! 逃げるぞ!!」
「チィッ! 目と鼻の先に結衣がいるんだぞ!? ここで退くのかよ!!」
ガルドの悲痛な咆哮に、ルイスが血を吐くような声で怒鳴り返す。
「今の状態じゃどのみち全滅だ! 零士くんが命を削って稼いでくれた隙だぞ!!」
ガルドが奥歯を軋ませる。その時、紬が震える手で俺の服を握りしめたまま、顔を上げた。
「……行きましょう」
視線の先には、光の繭。血が出るほど唇を噛み締め、彼女は泣き出しそうな顔で、それでもきっぱりと言い放った。
「ここで全滅したら! 本当に誰も結衣ちゃんを助けられない……今は、帰らなきゃッ!!」
ガルドが低く唸り、小脇に俺を抱え込む。
クラウンは自身の能力を完全にバグらされた混乱から立ち直れておらず、自分の両手と俺たちを交互に見つめて呆然と立ち尽くしていた。
一陣の暴風となって、俺たちはゲートへと駆け出す。
遠ざかる視界の端。道化師の仮面を剥ぎ取られ、得体の知れない恐怖に顔を引きつらせた怪物の姿が、濃霧の中に溶けて消えていくのを――俺は薄れゆく意識の中で、確かに見た。




