第2話 チートスキルと共に
帰宅後の自室。
人生初の早退をキメた俺は、築三十年のボロアパートに逃げ帰り、まず最初にやったことがある。
カップ麺を作った。
非常時に何をやっているんだと思うだろう。俺もそう思う。
だが聞いてくれ。人間は極度のストレス下に置かれると、日常的な行動を取ることで精神の安定を図ろうとする生き物なのだ。これは心理学で言う『コーピング行動』というやつで――
――いや、違う。
単純に腹が減ってただけだ。朝メシ食った記憶ないし。つーか今朝の記憶が丸ごとないし。
薄型テレビをつける。
画面の中では、脂汗を垂らした政府の報道官が何やら必死に喋っていた。
『――繰り返します、これは大規模なサイバーテロの可能性が――』
サイバーテロ、ね。
まあ、「世界がアップデートされました」なんて認めたら政府の面子が宇宙の彼方に吹っ飛ぶもんな。そう言うしかないのは分かる。
さて。
俺は冷めかけのカップ麺を机に置き、ひとつ深呼吸をした。
教室で得体のしれないスキルを授かってから、数時間。
帰宅してからずっと、俺はこいつの正体を確かめたくてウズウズしていた。
いくぞ。
左目に意識を集中する。
ズキリ。
眼球の奥が熱くなる。世界がワイヤーフレームに切り替わる感覚。
――【構造解析】、起動。
まずは手近なところから試す。目の前のカップ麺に照準を合わせた。
【アイテム:カップ麺(シーフード味)】
【状態:品質劣化(温度低下・麺膨張率187%)】
【市場価値:無】
「麺膨張率187%ってなんだよ!! パーセントで出すな!! 食欲が科学的に殺されるだろうが!!」
いきなり最悪の情報を喰らった。
いや待て、冷静になれ。これは検証だ。データ収集だ。一つ目のサンプルが微妙だっただけだ。
次。テーブルの上の缶コーラ。
【アイテム:炭酸飲料】
【状態:炭酸残存率12%(実質:砂糖水)】
「実質砂糖水て。正直すぎんだろこのスキル」
駄目だ。日用品に使っても悲しくなるだけだ。
もっとこう、有意義な使い方を――
ふと、テレビに目を向ける。
報道官がまだ喋ってやがる。同じ原稿を繰り返しているのか、一向に新しい情報が出ない。
......試してみるか。
左目をテレビ画面に向け、報道官の顔面にフォーカスする。
解析開始。
【対象:政府報道官】
【ストレス値:限界突破(心拍数143)】
【発言の真相確率:5%】
【特記事項:10分後に逃亡を画策中】
「............」
俺はカップ麺を啜る手を止めた。
5%。
つまり、あの報道官が今しゃべっている内容の95%は嘘だ。
そして10分後に逃げる予定。国民に「落ち着いてください」と言いながら、自分だけ逃走の準備を進めている。
「......最ッ高に人間らしいじゃねえか」
皮肉を言う俺の声が、少しだけ震えていたのは気のせいだ。
テレビ越しの他人のステータスまで読めるのか。このスキル、嘘発見器としてもぶっ壊れ性能すぎる。
俺は麺を啜りながら、ここまでの検証結果を頭の中で整理する。
第一。この目は万能じゃない。
さっきから色々と見てみたが、長時間使うと脳みそがフライパンの上の目玉焼きみたいになりそうだし、複雑すぎる構造物は「解析不能」と弾かれる。教室で窓の外のビル群を解析しようとした時は、情報量が多すぎてマジで鼻血が出た。
第二。ただし、読み取れた情報に嘘はない。
カップ麺の膨張率もコーラの炭酸残存率も、残念ながら事実だ。
そして報道官の嘘も、たぶん事実。
つまり、精度は折り紙つき。攻略Wikiを脳内に常駐させてるようなもんだ。
第三。これが一番ヤバいんだが――
人間の心理状態まで数値化できる。
「嘘をついている確率」「ストレスの度合い」「次の行動予測」。
こんなもん、交渉でもバトルでも、使い方次第で何だってひっくり返せる。
情報の非対称性。
金融の世界じゃ、インサイダー情報で億を稼ぐ奴がいる。ゲームの世界じゃ、データマイニングで最適解を叩き出す廃人が覇権を握る。
俺の手にあるのは、それと同じ――いや、それ以上の切り札だ。
「レベルが上がったら、どこまで見えるようになるんだろうな......」
弱点の看破。行動の先読み。
指先が、少しだけ震えた。
――興奮だ。恐怖じゃない。たぶん。
その時だった。
『――お伝えしている途中ですが、緊急です』
テレビ画面が急に切り替わる。
スタジオの照明が落ちたような暗転。キャスターの作り笑いが、放送事故みたいに硬直した。
『現在、神奈川県上空にて――異常な――』
画面に映し出されたのは、空だった。
ヘリからの空撮。雲の上。どこまでも広がる青い空に、
「それ」が浮かんでいた。
「..................は?」
言葉が出なかった。
「は?」しか出なかった。語彙力が完全に死んだ。
空に、剣が浮いている。
とてつもなく巨大な、黄金の剣。
神奈川の都市風景をミニチュアみたいに見下ろして、物理演算を完全にシカトした状態で、垂直に、静止している。
「......いやいやいやいやいや」
ようやく語彙が帰ってきた。
「なんだよあれ! 映画のCGか!? 実写版ファイナ◯ファンタジーか!? 誰がこんな意味わかんねえもんの企画通したんだよ!!」
ツッコみたいことが多すぎて処理が追いつかない。
まず、浮いてるのがおかしい。剣なのがおかしい。デカすぎるのがおかしい。黄金なのは......いや、それもおかしい。全部おかしい。
ありえない事象。予測不能の衝撃。
ゲームバランスを崩壊させる致命的なバグの、物理的な顕現。
反射的に、解析を試みる。
こいつのHPは。弱点は。属性は。
左目に力を込めた瞬間。
【警告:対象のエネルギー量が測定限界を超えています】
【警告:精神汚染のリスクあり。解析を強制中断します】
「が......ッ!!」
脳の中心に、焼けた釘を打ち込まれたような激痛が走った。
視界が明滅する。左目から何かが垂れた。涙だ。
格が、違いすぎる。
ステータスを覗こうとしただけで、こっちの脳が焼かれる。
このスキルが「見るな」と警告してくるのは初めてだ。
つまりあの剣は、報道官みたいな「ちょっと強い情報」とは次元が違う。情報量が多すぎて処理が追いつかない。
その時。
一瞬だけ、脳裏にフラッシュバックが走った。
罅割れた空。錆びた世界。腕の中で冷えていく温度。
――あの夢の光景と、テレビに映る黄金の剣が、一瞬だけ重なった。
背筋に冷たいものが流れる。
まさか、あの夢は――
考える暇もなかった。
剣が、動いた。
黄金の光が刃の輪郭を奔り、画面が白で埋め尽くされる。
落ちた。
剣が唐突に重力を思い出して。真っ直ぐ、下へ。
テレビの中のヘリのカメラが、その軌跡を追いかけて、追いきれずに――
『――あ』
キャスターの声が途切れた。
画面がホワイトアウトする。
遅れて、衝撃。
ズゥゥゥゥゥゥン......!!
部屋が跳ねた。
比喩じゃなく、物理的に。床が悲鳴を上げ、壁がきしみ、天井から粉が降ってくる。食器棚の中で何かが砕ける音が、やけに鮮明に響いた。
「っ......!」
反射的にデスクの下に潜り込む。
テレビは砂嵐と乱れた映像を交互に吐き出し、断末魔のようなノイズを撒き散らしている。
『大規模な衝撃波が――観測され――』
言葉が千切れて、意味が死んでいく。
画面の端で、真っ赤な速報テロップが呪詛のように回り続けていた。
〈観測史上例のないエネルギー反応〉
〈神奈川県沿岸部との通信途絶〉
〈被害規模は――〉
......通信途絶。
つまり、消えたのか。
神奈川が。丸ごと。
デスクの下、揺れが収まらない暗がりの中で。
俺の手は、震えながらスマホを握っていた。
開いたのは、ネット証券のアプリだ。
我ながら、こんな時に株価を確認する自分の神経が分からない。
だが、これが俺にとっての「現実の体温計」だった。
日経平均。真っ赤な数字。
暴落、なんて生やさしい表現じゃない。
数字が滝のように流れ落ちている。チャートの線が、崖から飛び降りたみたいに垂直に落ちていた。
為替。ドル円。ユーロ。全部壊れてる。
仮想通貨。論外。数字がゼロに向かって一直線だ。
――ああ。
これで確信した。
この退屈でヌルゲーだった日常は、今この瞬間、サービス終了した。
課金アイテムの返金も、データの引き継ぎもない。
強制シャットダウン。全プレイヤーの資産は紙屑。
不思議と、パニックにはならなかった。
ゲーマーにとってサ終は「悲しいけど慣れてる」イベントなんだ。何本もの愛するゲームを看取ってきた経験が、今ここで変な形で役に立っている。
......笑えない冗談だな。
ピロン♪
聞き覚えのある電子音が鳴った。
今度は何なんだ。
いきなり視界に禍々しいウィンドウがポップする。
学校で受注した「メインクエスト」の下に、新しいログが刻まれた。
【ダンジョン発生通知】
【難易度:S】
【名称:時空崩壊特異点・神奈川】
【推奨レベル:50以上】
【攻略報酬:管理者権限の一部解放】
「......推奨レベル50?」
俺、今レベルいくつだっけ。
えーっと。
【現在のレベル:1】
「いち」
声に出してみた。
「レベル、いち」
もう一回言ってみた。
うん、現実は変わらなかった。
推奨50のダンジョンにレベル1で突っ込むのは、裸でラスボスに殴りかかるようなもんだ。
正気の沙汰じゃない。
だが。
報酬欄に、もう一度目を通す。
管理者権限の一部解放。
管理者権限。
つまり、このクソゲーのルールそのものを弄れる立場。ゲームマスターの席だ。
運営に文句を言う側から、運営側に回れるってことだ。
リスクは死。リターンは、世界のソースコードへのアクセス。
期待値の計算なんか吹っ飛ぶほどの、超ハイリスク・超ハイリターン。
......なあ。
ゲームでさ、「このボスは今の装備じゃ絶対勝てない」って分かってるのに、なんか挑みたくなる時ってないか?
勝てないって頭では分かってるのに、身体がコントローラーを握っちまう瞬間。
俺は立ち上がり、クローゼットを開けた。
登山用のリュック。バール。非常用の保存食。
手早く荷物をまとめる。動きながら思考を回す。
水は二リットルしかない。食料も数日分。装備は貧弱の極み。
パーティーメンバーもいない、セーブポイントもない。
ふと、机の上でスマホが光った。
LINEの通知。クラスのグループチャットだ。
「大丈夫?」
「誰かニュース見た?」
「怖いよ」
「永井は? 今日早退したけど大丈夫?」
最後の一件で、指が止まった。
......誰だ、これ。俺の名前呼んでるやつ。
送信者を確認する。名前に見覚えがない。たぶんクラスメイトの誰かだ。たぶん。
クラス全員の名前を正確に覚えていないことに、今さら気づいた。
「永井は?」
画面の中の、たった四文字を見つめる。
返事を、打とうとした。
指がキーボードの上で止まった。
昨夜、ゲームのチャットでも同じことをした。誰かの誘いに返事を打とうとして、打てなかった。
......何を書けばいいのか、分からないんだ。
「大丈夫」は嘘だ。「怖い」は本当だが、それを打つ指が動かない。
一文字目のハードルが、いつだって一番高い。
ゲームの中でも、現実でも。
三秒、画面を見つめて。
俺はスマホをポケットにしまった。
既読はつけなかった。
リュックを背負い、玄関に向かう。
靴を履く前に、ふと、廊下の姿見が目に入った。
映っているのは、見慣れた自分の顔。
寝不足で隈ができた、冴えない高校生の顔。
......のはずなんだが。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ、違和感があった。
鏡の中の自分が、自分を「観察」している気がした。
目が合っているのに、視線の主が違う。
まるで、鏡の向こう側に別の誰かが立っていて、こちらを覗き込んでいるような。
「......寝不足だな」
俺は目を逸らし、スニーカーの紐をきつく結んだ。
気にするな。ストレスのせいで感覚がバグってるだけだ。
外からは悲鳴と怒号が聞こえる。
パトカーのサイレンが途切れなく鳴り続け、どこかでまた何かが割れた。
世界は壊れた。
日常は消えた。
クラスのグループチャットの「大丈夫?」に返事すらできない男が、世界で最初にダンジョンに挑もうとしている。
笑えるだろ?
俺も笑えるよ。
だが、笑いながらでもドアを開ける。
震えながらでもコントローラーは離さない。
それが、ソロプレイヤーのやり方だ。
「――稼ぎ時といこうか」
俺は部屋を出た。
誰よりも早く。
誰にも返事をしないまま。




