第1話 退屈な日常《チュートリアル》は、たった今終了しました
「うおおおおッ!! 落ちろォ!! さっさと落ちやがれこの毛玉ァッ!!」
深夜二時。
築三十年の木造アパート、壁の薄さは業界トップクラス。
その一室で、俺の絶叫だけが虚しく木霊していた。
カチカチカチカチッ!!
勢いに任せてマウスを連打しまくる。
画面の中で、レベル98の黄金スライム――通称『金タマ』が、ぷるぷると挑発的に震えている。
こいつを倒せばドロップするのは伝説級の素材アイテム。ドロップ率は0.05%。
つまり統計的には二千回殴れば一個出る計算だ。
現在の試行回数、一九八七回。
「確率論を信じろ......確率は収束するはずだ......!」
出ねえ。くそ、確率論のバカ野郎。お前を信じた俺がバカだった。
......いや、待て。落ち着け永井零士。
ここで熱くなるのは三流のやることだ。
いいか、聞いてくれ。
お前が誰かは知らないが、深夜二時に金タマを殴り続ける男のポエムに付き合ってほしい。
ゲームの世界において、努力は必ず「数値」として裏切らない。
百匹狩れば、百の経験値が手に入る。
0.1%のレアドロップも、千回やれば確率は収束する。
――するはずなんだよ! なんで二千回やって出ねえんだよ!! 運営仕事しろ!!!
......はぁ、はぁ。
取り乱した。すまない。
俺の完璧な持論を台無しにしてしまった。
えー、改めまして。
俺の名前は永井零士。高校二年生。
数多のネトゲをソロで制覇し、百戦百勝......は盛りすぎだが、まあ七十勝三十敗くらいの戦績を誇るソロプレイヤーだ。
現在のギルド所属人数、一名。つまり俺だけ。
ギルド名は『最適解』。メンバーは俺。ギルドマスターも俺。雑用係も俺。
......うん、自分で言ってて悲しくなってきたな。
だが、これには合理的な理由がある。
『損失回避性』って言葉、聞いたことあるか?
人間ってのは、利益の喜びより損失の痛みを倍以上強く感じる生き物なんだ。
要するに、得するより損する方が怖い。
人間関係もそうだ。百日かけて積み上げた信頼が、たった一言の失言で全部パーになる。
期待値がマイナスの投資に、誰が全財産を突っ込む?
――俺はやらない。
少なくとも、現実では。
だからこそ、ゲームは救いなんだ。
何度死んだってリスポーン地点に戻されるだけ。失うのはゲーム内通貨と、わずかな睡眠時間のみ!
リスクは最小、リターンは確定。
このモニターの向こう側でだけ、俺は臆病者の巣窟から抜け出せる。
英雄にだって、神殺しにだって、なんにだってなれる。
――ここでだけは。
......おっと、ちょっとセンチな感じになっちまった。深夜テンションってやつだ。忘れてくれ。
ふと、画面の端のチャットログに目が留まる。
〈ソロでこのエリアは厳しくないですか? よかったらパーティ組みませんか?〉
三時間前に、通りすがりのプレイヤーから届いたメッセージ。
俺は既読スルーした。
理由は簡単だ。期待に応えて、裏切られるのが怖い。
......いや違う。裏切られるのが「怖い」んじゃなくて、「面倒くさい」んだ。
そこは間違えるな。
「......はぁ、はぁ......あと、一匹......」
不意に、強烈な睡魔が脳みそを鈍器で殴りつけてくる。
レベルアップまではあと僅かなのに。
指が動かん。ヘッドセットが鉛みたいに重い。
くっ、意識が泥の中に沈んでいく。
画面の端で、チャットの未読が「1」のまま点滅している。
返事を、打とうとした気がする。
――指は、動かなかった。
(......スタミナ切れ、か......。くそ、せめてレアドロだけは......)
俺は確かに、自室のボロい椅子の上で意識を手放した。
はずだった。
◇◆◇
見上げた先には焦げた空。
大気は鉄と灰の味がして、世界は錆色に染まっていた。
地平線は歪み、天蓋には黒いひびが走っている。
――どこかで見た光景だ。いつ? 知らない。こんなの知っているはずがない。
俺は、折れそうなほど細い身体を、壊してしまいそうな力で抱きしめていた。
少女だった。ついさっきまで笑っていたような気がする。
もう、動かない。腕の中で、秒ごとに冷えていく。
「......やめてくれ」
自分の声じゃなかった。
いや、自分の声なのに、「自分」のものじゃないような感覚だ。
「頼む。全部くれてやるから。心臓も、魂も、未来も。だから――」
血に塗れた手を、ひび割れた空に突き出す。
「――こいつを、返してくれ......ッ!」
全てが白に塗り替わる瞬間──俺はそれをただ眺めていた。
>> Connect: ■■■■■■
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ジジジジジッ――
脳の奥に何かが刻まれる。
解らない文字の羅列。解りたくない情報の奔流。
自分の中に、何かが注ぎ込まれていく。
――契約成立。
◇◆◇
「――っぶあ!?」
ガタンッ!!
世界一カッコ悪い悲鳴と共に、俺は跳ね起きた。
勢い余って椅子ごとひっくり返りそうになる。いや椅子じゃない。なんだこれ。机?
「......は、ぁ......はぁ......ッ!」
心臓バクバク。全身汗だく。
完全にホラーゲームのプレイ後遺症みたいな状態だ。
鼻の奥に、まだ嫌な臭いが残っている。
胸の真ん中が焼けるように痛い。
腕の中にはもう何もないのに、重さだけが消えない。
何に対する動悸だ? 俺は何を失ったんだ? いや、最初から何も持ってなかっただろうが。
「......って、え?」
俺はようやく、自分が置かれている状況を認識した。
目の前にあるのは、モニターじゃない。
見覚えのありすぎる、ハゲかかった中年男性の後頭部。そして黒板に並ぶ退屈な数式。
ここは教室だ。
「......ふぁ!?」
思考が完全にフリーズした。
待て待て待て。俺、さっきまで自分の部屋にいたよな!?
深夜二時にスライムをしばき倒してたよな!?
なのになんで今、制服着て学校の机にうつ伏せてんだ!?
夢遊病か!?
いやいやいや、登校した記憶が1ビットも残ってないんですけど!? 脳のストレージから今朝の全データがごっそり欠落してるんですけど!?
なんだよこれ!!
ネトゲの徹夜しすぎでついに脳味噌がオーバーフローしたのか俺は!!
「――永井。おい、永井!」
「いつまで寝ぼけてんだ」
担任の呆れた声が頭上から降ってくる。
教室中にクスクスと笑い声が広がった。
最悪だ。完全にさらし者じゃねえか。
「ねえ、永井泣いてね?」
「うわマジじゃん。授業中に号泣とかマジウケるんだけど」
女子のヒソヒソ声が、ステレオ音声で耳に刺さる。
俺は慌てて頬に触れた。
......濡れている。
ガチ泣きしてた。
授業中に、教室のど真ん中で、涙と鼻水を垂れ流して寝てた。
なんだよちくしょう!!
これじゃまるで、好きな子にフラれた中学生じゃねえか!!
いやフラれたことすらねえよ! 告白する勇気がなかったからな! 余計惨めだわ!!
脳内の黒歴史データベースに焼き付く黒歴史が、また一つ増えてしまった。
ふと、自分の手を見下ろして、指先が止まった。
俺の手って、こんな形だったか?
何がおかしいのか分からない。指は五本ある。爪も普通だ。
一瞬だけ、この手が「自分のもの」だという確信が持てなかった。
まるで初めて手袋を嵌めた時みたいな――フィットしているのに、どこかが馴染んでいない感覚。
......いや。寝ぼけてるだけだ。
あのイカれた夢のせいで、感覚回路がバグってる。それだけだ。
リブートすれば治る。たぶん。
混乱する頭で周囲を見回す。
いつもの教室。いつもの顔ぶれ。いつもの、誰一人として俺に話しかけてこない日常。
見慣れた光景。退屈で、安全で、俺を必要としていない世界。
さっきの夢の、あの焦げた地獄みたいな光景と、この平和ボケした教室の落差で、いよいよ脳の処理がヤバい。
ゲームで言えばフレームレートが一桁まで落ちてる状態だ。
あの夢はなんだったんだ?
なんで俺はあんなに必死だった?
――そもそも、あの感情は本当に「俺の」ものだったのか?
考えれば考えるほど、頭の中がノイズだらけになる。
分からん。何一つ分からん。
分かるのは、今この瞬間、俺のクラス内の評価が『無害な空気』から『授業中に泣く不審者』にランクダウンしたことだけだ。
致命傷である。
その瞬間。
――ピロン♪
聞き覚えのある電子音が鳴る。
一本の電子音を合図に、教室中のスマホが連鎖した。
数十台の着信音が不協和な合唱となって空気を裂く。
「うわっ、なに!?」
「地震?」
「ていうか、勝手に画面変わったんだけど!?」
ざわつく教室。
俺のポケットでもスマホが暴れ狂っていた。取り出して画面を見る。
真っ暗。操作不能。電源も切れない。
完全に制御を奪われている。
教師のタブレット。隣の席のスマートウォッチ。
教室中のあらゆるディスプレイが、一斉に黒く塗り潰された。
次の瞬間、すべてのスピーカーから同時に、一つの声が流れた。
――『全人類ニ告グ』
教室が、水を打ったように静まり返る。
『現在時刻ヲ以テ、世界ノ更新ヲ開始スル』
......サーバー?
......アップデート?
おいおいおい。何言ってんだこいつ。
新手のサイバーテロか? それにしたって演出が大袈裟すぎないか? B級映画の始まりかよ。
『追加サレル要素ハ三ツ。
第一ニ、能力ノ解放。
第二ニ、ダンジョンノ生成。
第三ニ――』
――ザザッ。
ノイズが走り、第三の項目は潰れて聞こえなかった。
......おい、そこ一番大事なとこだろ。通信環境どうなってんだ。
クラスメイトたちが「なんだこれ」「怖い」「ハッキング?」とスマホを叩いたり振ったりしている。
だが。
俺の目には、そんなものよりもっとヤバいものが映っていた。
視界の端にノイズが奔った。
スマホの画面じゃない。俺の、視界そのものに。
目をこする。何度こすっても消えない。
むしろ、こするたびに鮮明になっていく。
担任の頭上に、文字が浮かんでいた。
【教師】 Lv.1
隣の席の女子の頭上にも。
【生徒】 Lv.1
前の席の男。後ろの席の男。窓際。廊下側。視界に入る全員の頭上に。
ネトゲのネームプレートが、ずらりと並んでいる。
「......ふぇ?」
思わず情けない声が漏れた。
嘘だろ。遂に現実の風景に、ゲームのシステムUIがオーバーレイしてきやがった。
「おい、なんか変なの見えないか!?」
――と、隣の女子に聞いてみたかったが、彼女は相変わらずスマホを叩いているだけだ。頭の上の文字列にはまったく気づいていない。
見えてない?
こいつらには見えてないのか?
俺にだけ、見えている?
心臓の鼓動がうるさすぎて、教室の喧騒が一気に遠のく。
夢の記憶。記憶の欠落。そして今度は、俺だけに見えるシステムUI。
バグが多すぎる。こんなの、即メンテ入りだろ。
だが、これはゲームじゃない。
ここは、現実だ。
......現実、だよな?
その問いに答えるように、網膜に直接刻まれたような青白いウィンドウが展開された。
【個体名:永井 零士】
【存在定義:観測者】
【保有スキル:構造解析】
「......観測者?」
口にした瞬間、脳の奥で何かが弾けた。
不快というより、もっと根源的な違和感。自分の中に、知らない部屋を見つけたような感覚。
そもそも『存在定義』ってなんだよ。勝手に俺のキャラ設定書き換えてんじゃねえぞ。
俺は『友達ゼロのソロプレイヤー』だ。それ以上でも以下でもない。
なのに。
拒否しようとすればするほど、パズルのピースがハマるみたいに意識の奥底でカチリと噛み合ってしまう。
まるで、ずっと前からここにあった歯車が、今ようやく回り始めたみたいに。
クソっ、考えるな。今は情報が足りない。仮説を立てるには変数が多すぎる。
『――生存ヲ推奨スル』
途切れ途切れの放送がプツリと終わった。
その残響が消える間もなく、視界を塗り潰すように赤黒いウィンドウが叩きつけられた。
【メインクエスト】崩壊からの生還
【難易度】S
【失敗報酬】完全なる死
......は?
失敗したら死ぬ?
いやいやいや。待て。落ち着け。
説明もチュートリアルもなしで初手から命賭けろって、どこの即死トラップだよ。
せめてチュートリアルダンジョンくらい用意しろ。レベル1の初心者に難易度Sぶつけてくる運営がいるか。いるとしたら、そいつは史上最悪のゲームデザイナーだ。
今まで何百本とクソゲーを渡り歩いてきたこの俺が断言する。
こんな理不尽なクソゲーは、前代未聞だ。殿堂入りおめでとう。このレジェンド・オブ・クソゲーめ!
だが。
ゲームなら、初見殺しのステージにも必ず攻略法はある。
条件はシンプルだ。最初のターンで、正しいコマンドを選ぶこと。
指が震えている。
怖い。
......怖いって認めるのは、ゲームの中じゃ珍しいことだ。画面の向こうなら、何度死んでもリスポーンすればいい。
だが今回は、コンティニューがない。
それでも。
俺は――ソロプレイヤーだ。
パーティーを組む相手がいなくても、攻略を諦めたことは一度もない。
【クエスト受注:アクセプト】
震える指で、虚空のボタンを叩いた。
赤いウィンドウが、ガラスみたいに砕け散る。
「......ちょっと、永井? なんで笑ってんの? さっきからマジで変なんだけど」
隣の席の女子が、完全に怯えた顔で俺を見ている。
その頭上に浮かぶ【生徒】Lv.1の文字列が、妙に物悲しかった。
教室はパニックのどん底だ。
スマホを叩いて喚く奴。泣き出す奴。担任にすがりつく奴。
全員が「損失」に怯えて、動けなくなっている。
ああ、これだ。
損が怖い。失うのが怖い。だから動けない。
――俺だって、同じだ。
人間関係という投資から逃げ続けて、ソロプレイの安全圏に籠城してきた、筋金入りの臆病者。
だがな。
臆病者には臆病者の戦い方がある。
怖いなら怖いまま、震えたまま、コントローラーだけは離すな。
それが、千本のクソゲーを踏破してきた俺の、唯一の流儀だ。
口元が歪む。笑ってる。なんで笑ってるんだ俺。
......たぶん、本当に怖い時ほど、笑うしかない生き物なんだろう。人間ってのは。
あばよ、退屈で安全な日常。
――ようこそ、クソゲーの世界へ。
レジェンド級の理不尽を、この俺が最速で攻略してやるよ。




