自動販売機
自動販売機の奥からくぐもった機械音が聞こえてくる。
缶コーヒーが落ちてくるまでの、ほんの数秒。自動販売機が光り輝いているように見える。
みかは、ため息をついた。
夕方の学生ラウンジにはもうほとんど人がいない。もう期末テストの時期も過ぎたため、あとは冬休みに入るのを待つだけなのだ。みかがそのままソファの方に戻りかけると、ゆうが「おれのコーヒーは」と声を上げた。
「ああ、ごめん」みかはあわてて自動販売機に駆けより、コーヒーを取り出した。
「どうかしたのか」
「ううん、別に」
二人は同じ文学部の友達で、今日はたまたま図書館で会ったのだ。
ふだん、それほど話す仲でもないので、しばらく二人とも黙ってコーヒーを飲んでいた。備え付けのソファはどことなく悪趣味な感じのする緑色で、座るものを弾き返すような、いやな弾力だった。
「この前の期末テストできた?」
「まあまあ」なんだ、ありがちな話題だと、ゆうは思った。
「日本文学史のさ、あれ。何だっけテ-マ忘れちゃった。これこれについて論ぜよ、とかいうのあったじゃない?あれなんて書いた?」
「覚えてないよ」
「何か書いたんでしょ」
ゆうは面倒くさそうな顔を示してから、すこし考えた。
「ああ、そうだ。つまり日本の、何とかのミコトみたいな神話が、それだけいろんな文献やら資料やらで確認されているんだから、それなりの重要性があったんだろうって書いたのさ」
「そんなのでいいの、本当に?」
みかが、あまりに真剣な顔をするので、ゆうはおかしくなった。
「多分だめだね、説明になってないからね」
「やっぱりね」みかはむしろ安心したような口調でそう言った。
「でも、赤点にはならない」ゆうはきっぱりと言った。
「はいはい」
「みかは何て書いたんだよ」
「だから、分からなかったの」
「何か書いたんだろ」
「ううん、何も書いてない」
「ふうん」ゆうはそれ以上聞くのはやめた。
ざわざわと外の枯れ木やすすきの間を風が吹いている。大学といっても周囲は畑に囲まれて、それが色あせた山の方へどこまでも続いている。窓から外を見渡すと、今にも空のグレーが落ちてきそうに見えた。こらからどうしようか、とゆうは考えていた、というのもほとんどの友達は実家のほうに帰省してしまい、文字通り、いまは退屈なのだ。自分は、すぐそばの家に帰るだけの話だ。それでも夕日に照らされた広いキャンパスやグランドや図書館を見ていると、時間がただ茫々と流れていくようで、ゆうはたまらなくなった。
いつのまにか、みかが横に立っていた。窓のむこうを眺めながら、「何もないよね」と言った。
「うん」
「私、大学の勉強って合わない気がする」
「そう」
「うん、ここにいると時間が速いのよね。別にレポートに追われるとかいう意味だけじゃなくて、誰にだかわからないけど、とにかく急がされているような気がするの」
ゆうは視線をみかの方に向けた。みかはどっちかというとパッとしない女の子だった。それほど可愛くもないけど、バカでもない、控えめで、いつも何か考えている、そんな感じの子だ。
「わたし、今まで順調な人生を歩んできたんだけどね」
「順調な人生ってなに?」ゆうは笑ってしまった。
「だから、わたし馬鹿じゃないから、高校もこの大学もストレートで入れたし」
「ふうん」だから何なんだ、とゆうは思った。
みかはしばらく黙っていた。
ゆうはコーヒーを片手にソファの周りを歩いた。それから、掲示板に張り付いたサークル勧誘のチラシや昔のポスターなどを順々に見ていったが、何も意味のあるものは無かった。そして緑色のソファは袋小路のように二人を取り囲んでいた。みかが突然、思いついたように言った。
「ねえ、私たちのクラスの子達ってどう思う?」
「誰の事?」
「誰でもいいけど、とくに女の子」
「別になんとも思わないよ」
ゆうは飲み終わった缶コーヒーの缶をゴミ箱に向かって投げた。缶はゴミ箱のふちに当たって跳ね返り、そのまま落ちた。わずかなコーヒーの残り汁が、床に小さく広がった。
「ああ、こうなるとコーヒーも汚くなるんだよな」ゆうは始末をしながら、そう呟いた。
「どうして?」みかが言った。
「え?」
「どうして何とも思わないの?」
「ああ、なんか色々うちのクラスって噂が多いしさ、特に女の子って評判悪いよ」
「どんな評判?」みかは、知らない事が、さも重大事であるかのような顔をして聞いた。
「言ってもいい?」
「別に、全然かまわないけど」
「つまりさ、そのデキたとか、堕ろした、とかそういう話だよ。まったくさ、それくらい注意すればいいのにさ」ゆうはいささか気まずそうに言った。
「ああ、そういうこと」みかは表情を変えずに言った。
ゆうは立ち上がって、もう一度、窓の外を見た。夕日はすでに地平線とかさなって、真っ赤な一本の線と化していた、そしてその上の空には、星がつぎつぎと現れ、不思議な淡い光を発していた。夜が学生ラウンジを取り囲むように、すぐそばまで来ているような感じがした。そろそろ帰るかな、とゆうは思った。自動販売機にコインを投げ込んでから、ゆうは再び缶コーヒーを取り出した。
「おれ、これ飲んだら帰るけど、みかはどうするんだ」
みかはうつむいていた。それからゆっくりと顔を上げると、みかは笑っているような泣いているような不思議な表情を見せた。
「ねえ、私も堕ろしたって言ったら、驚く?」
一瞬、部屋中の空気が一変に凍りついたような気がした。
「え、そうなのか」ゆうは自分でも驚くほど、大きな声で言った。思いもよらない話に、頭が激しく混乱し始めた。
みかはゆうのそんな様子を見て、面白そうに笑った。
「うそ、うそ」
「なんだ」
だが、ゆうにはそれが嘘なのか本当なのか、よく分からなかった。もっと冷静になれば、そもそも関係ない話というくらいには判断できたかもしれないが。
「軽はずみだよね」
「ああ、そうだね」ゆうはぼんやりと答えた。
みかは自動販売機で、3本目のコーヒーを買った。自動販売機はさっきよりも、苦しそうにうなりながら、新しい缶コーヒーを吐き出した。
「おい、腹こわすぞ」
ゆうの言葉は無視して、みかはコーヒーを自動販売機の中から、つかみ上げた。
「ねえ、私の兄がねえ、ガラスの工房で働いているの」みかは急に明るい口調に変わって、そんなことを言った。
「へえ」
「どういうところか知ってる?」
「あれだろ、ガラスを鉄の管とかで吹いて、回したりするんだろ」
「そう」
「それで」
「前に、そこでものすごく不思議な光景を見たの。兄に言わせれば、そんなの珍しくないんだって。でも不思議だったよ」
ゆうは何も言わず、話の続きを待った。
「それはね、ガラス工房が閉まった後に、私が一人で兄の忘れ物を取りに行ってあげたときのことなの。私はがらんとした工房の中に一人で入っていったの。もちろん他に人はいないし、火も消えていたけど、辺りにはその前までの熱気のようなものが、まだあふれていて、古びた窯とか、いろんな道具が、キンキンキン、とか乾いた音をたてるのよね。それがなんだか神秘的で、とてもわくわくしたわけ。だから兄の忘れ物を見つけてからも、しばらくそこにいて、ボーっとしていたら、いきなりガラスのはじける音がしたの」
「誰か他に人がいたの?」
「ううん、そうじゃないの。ガラスがね、自分からはじけ飛んだの」
「どういうこと?」
「うん、私も不思議に思ってね、音のした方に近づいていったら、たしかに、粉々になったガラスがあったわけ。でもそれよりも、驚いたのはね、ガラスの塊が工房の床のあちこちにあって、光っていたの。それがとてもきれいで、どうしてなのか分からないけど、ガラスの中で光が動くの」
「光が動く?」
「そう」
ゆうは、ソファに深く体を沈めながら、ぼんやりとみかの話を聞いていた。みかはゆうに背中を向けて立っていた。それから広い天井を見上げた。向こう側の自動販売機からの人工的な光が、白い天井に複雑な陰影を映し出し、二人のいる場所に届いた。外はすでに闇に包まれていた。風もいつのまにかやんでいて、辺りにはなんの物音もなかった、そんなしっとりとした闇の中で、ただ自動販売機と二人の姿だけが、浮かんでいた。
「そのガラスは、みんな制作中に失敗したときのガラスのかけらや、カットされた透明なガラスの塊なんだけど、光はまるでそのかけらに捕われてしまったみたいに、いつまでも弱まらないの。でも、あんなにきれいな光は、私はじめて見た。いろんな種類の光が凝縮されたみたいに、静かに光っているの。幻想的で。口じゃうまく言えないけど」
「うん、でも何となくわかるよ」
「本当?」
「まあね」
「そう、でもね、それが結局、一つ残らず割れてしまったの、最初のガラスのように、はじけて、粉々になってしまったの」
「なんで?」
「兄に聞いたらね、ガラスと空気の温度差とかのせいなんだって。生まれたばかりのガラスは何十時間もかけて、ゆっくり冷やさないとすべて割れてしまうんだって」
みかは、いかにも悲しそうにそう言った。
「私ね、結局全部のガラスが割れてしまうまで、それを見てたの。継ぎ目のない、なめらかなガラスなのに、割れた瞬間に、みんなギザギザになって、壊れてしまうの。もう絶対に元には戻らないの。それをじっと見てたの」
「なんだか、そういうのも暗いね」
「そう?」
みかは、遠くからゆうを見つめていた。
「私はね、ただもっと時間がゆっくり進めばいいのに、と思ったの。それだけ。ゆっくり時間をかけて、すべてのことが流れていけばいいのに、ただそう思っていたの」
ゆうは最後の缶コーヒーを飲み干すと、またゴミ箱に向かって投げた。缶はゆるやかな放物線を描いて、ゴミ箱に吸いまれた。それから、ゆうはゆっくりと帰り支度を始めた。




