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ありがとうと、そのうしろ姿に

作者: 三千


幼い頃、私はよく熱を出す子だった。

その度に、病院に連れられる。点滴の時もあれば、注射の時もある。そのどちらも嫌だなあ、病院行きたくないなあと、子ども心に思っていた。

ある日の夜中、突然に高熱が出た。

熱があると息が上がり、喉が渇いてくる。

私はベッドから起き上がって台所へ行き、そして水道の蛇口をひねり、コップで水を飲んだ。

「どうしたの?」

目をこすりながら、母が起きてきた。

「なんか暑くて……」

真っ赤に火照った頬、首をつたっていく汗、その様子を見て、母は察したようだった。

「あら、熱がありそうね。気持ち悪くない?」

少しの吐き気があった。

「ちょっとだけ」

体温を計ると、40度とちょっと。今までにない高熱だ。

身体が重く、一刻も早くベッドに戻って横になりたい。階段をひとつひとつ、ふうふう言いながら上っていった。

母は寝室に戻り、父と何やら相談しているようだ。隣の部屋から、ぼそぼそと声がする。

ベッドに横になると、体が泥のように重い。そのうち胸も苦しくなり、息が荒くなる。このまま、死んでしまうのかと思うぐらい、するすると病状が悪化していった。

「インフルエンザかな。確か学校で、数人出たって連絡きてたよね」

「40度ならそうだろ。明日は日曜日で、どうせ病院もやってない。今から、夜間の救急に連れていこう」

父の声がして、目を開ける。暗闇の中、母の後ろに父のシルエットが見えた。

「マイ、立てるか? 病院行くぞ」

父はもう着替えが済んでいるようだった。そのまま体を起こされて、よいしょとベッドから降りようとした。

けれど、身体が重すぎて立ち上がることができない。体のあちこちに、ぼーんとした鈍い痛みがあって、手足も思うように動かない。

「お父さん、おんぶしてあげて」

母の声が低く、暗い部屋に響く。姉と妹が隣のベッドで寝ているからか、起こさないようにとヒソヒソ声だ。まだ幼い、姉と妹を置いていくわけにはいかない。母が残り、父が私を病院に連れて行くことになったようだ。

「ほらマイ、お父さんの背中におぶされ」

病院は嫌だが、この辛い症状からは早く解放されたい。

私は言われた通り、父の背中に抱きついた。すると父は、ぐうんと立ち上がり、私を背負い直す。

父の背中は、ゴツゴツしていて、腕を回した首の後ろから、父の匂いがした。

「大丈夫か?」

背中を通して聞こえた父の声が、私の筋肉や骨に響いてゆく。そんな錯覚を起こすくらいに、私は父の背中にぎゅとしがみついた。

「うん、大丈夫」

頭をもたせかけると、すぐに眠気がやってきた。

それから、車に揺られたためか、後部座席で眠ってしまう。気がつくと病院に到着していた。そこでも、父がおんぶをしてくれ、中に連れていってくれた。

注射だったのか点滴だったのか服薬だったのかはあまり覚えていない。

けれどその時の父の背中は、とてもよく覚えている。広く、ゴツゴツとして硬く、そして大きな背中だった。


今、私はそんな父の背中を、よく思い出している。

ベッドに座った父の背中は、あの頃とは違って、痩せ細り、丸く曲線を描いている。

小さい、背中だ。

「病院のベッドだと、起き上がるのが楽だなあ」

父が弱々しく笑った。かつての力強かった声は、今では掠れてしまい、所々で息が漏れる。

浴衣を脱がせ、温めたホットタオルで、そんな背中を丁寧に拭く。背中の皮にはシミやシワが張り巡らされ、所々にたるみがある。

(筋肉もずいぶん落ちてしまったな)

私は、心で呟いた。

背中を拭いた後、胸や腹を拭き、そして最後にもう一度そのタオルを反対に返してから顔を拭く。

「あぁ気持ちいいな」

「お父さん。身体拭いたら、お母さんが作ってくれた巻き寿司を食べよう」

パイプ椅子に座った私と向かい合って、昼食をとる。そんな生活が、ここ一ヵ月ほど続いている。

既に余命宣告は受けていて、父も家にいる母も、それを寿命だと、受け入れている。

「もう十分生きた」

父の口癖だ。

食べたいものは何かと聞くと、お母さんが作った巻き寿司だと言う。

「了解」

だから、今日は巻き寿司を持ってきた。けれど、母ではない、私が作ったものだ。

母はすでに父と同じくらい弱っていて、台所に立つのも、難しくなってきている。頭もぼんやりして曖昧で、母が作っていた巻き寿司のレシピを聞き出すのも、苦労したくらいだった。

「美味しい?」

もぐもぐと咀嚼しながら、父が頷く。

「うまい」

「明日はチエが来ることになってるからね」

「そうか」

「リカは来られないけど、仕事だから仕方がないよ」

「うん」

食べ終わったタッパーを貰い、蓋をしてカバンに入れる。

「私が来たら、また背中拭いてあげるからね」

「うん」

そして、疲れた、とベッドに横になった父の姿を確認すると、カバンを持って手を上げた。

「また来るね」

「マイ、ありがとうな」

弱々しい声に元気よく手を振り返し、ドアを出て、しばらくそこで立ち尽くす。

父の痩せ細った後ろ姿が、目に焼きついて離れない。

涙が溢れてきて、次第にその姿が歪んでいった。

父の力強かった背中は、もうどこにもない。時の流れの残酷さと現実とを同時に叩きつけられ、私は溢れてやまない涙を、何度も何度も拭う。

「お父さん……」

ずっと飲食店を切り盛りし、母と共に何度も閉店の危機を乗り越え、働いて働いて働いて、私たち姉妹を育ててくれた。

空腹だったことなど、一度たりともなかった。身体が弱かった私を、何度も病院へと運んでくれた父の背中も知っている。テレビでネグレクトのニュースを見るたび、それが本当に幸せなことなのだと知った。

父の背中を拭くたびに、私は思い出す。

思い出の中の父の背中が、広くてゴツゴツしていて硬く、そして父の匂いがしたことを。その広い背中に頭をもたせかけると、心から安心し、十分に満たされたことも。

「お父さん、また来るね」

父の背中にありがとうを、伝えるために。

父との時間は、あと少しだから。


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― 新着の感想 ―
やさしい娘さんです。 わたしにも二人の娘がいます(現実は小説のようにはいきません。私は体が動かなくなったら、娘に尻をつねられそうです) 本編。 読んで涙が出そうになりました。
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