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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

公式企画参加してみた ② 秋の歴史2023 食事

吉法師さまの握り飯

作者: モモル24号

 元々わしらの暮らす村は海神さまや龍神さまの棲む土地だったそうだ。ずっと昔に火の神さまがやって来て、わしらのご先祖さまも住むようになったとか。


 領主である御屋形さまも昔は安食(葦敷)さまがいて、山田さまがいた。いつしかお名前を取って、安食郷(あじきごう)と呼ぶようになったとか。長母寺の僧が安食の信仰のあつい仏さまにあやかって福徳に改めたという。

 

 吉法師さまと初めて会ったのはまだ幼いころだ。たしか福徳村の火除け神を祀る社だったと思う。変わったお方で、皆の衆にはうつけと呼ばれている。どうやら新しく御領主どなられた御館の若さまだと言う。わしらはその吉法師さまが村の子を集めて、相撲を取らせると聞いて集まった。相撲を取れば握り飯をやると知らされたからだ。


 吉法師さまは時々そうして遊びにやって来るようになる。城から来る大うつけの子供に「御領主さまのお子だからと難癖をつけられてはかなわんわ」 そう言って大人や年寄り達は近寄らなかった。


 子供達は逆だ。吉法師さまが来ると飯が食える。相撲を取って、勝てば勝つほど握り飯を食わせてくれるから、みんな必死で取り組む。


 この頃は龍神さまが暴れる年が続いていて、お天道さまがお隠れになる日も多かった。懸命に育てた稲も、大水にやられて腐って食えなくなるなんてしょっちゅうだった。


 そうした中で以前の領主さまは年貢と称して、収穫したものを取り上げてゆくもんだったからろくに食えなかった。いつも飢えていた子供達は、飯が食えるだけで集まったものだ。


 男も女も関係なく、身体が大きかろうが小さかろうが、籤を引かせて戦わせる。勝ったものは握り飯を食うことが出来て真っ先に褒めてもらえる。


 ただこのお方が変わっているのは、勝っただけでは終わらせない所だろう。

勝てばいっぱい食えるからと言っても、食い過ぎて負けることもある。


「意地汚く食べ過ぎるからだ」


 げらげら笑いながら、吉法師さまは強者を倒したものを褒める。それに負け続けたものにも知恵を出させる。


「どうしたら勝てると思うか述べてみよ」


 そう皆に問うのだ。相撲のはずなのに、吉法師さまに褒めてもらいたくて、負けたもの達は口々に、勝てる方法を考えては吉法師さまに伝える。


 意見を聞くと御自分で必ずお試しになる。そして身体の大きな子や力のある子を全力で倒しておしまいになるのだ。


「そなたらの言う通りであったな」


 そう言ってお笑いになる。


「見ての通り、わしは強いぞ。どれ、お前達全員でかかってまいれ」


 吉法師さまは勝てないものや、小さな子らにそう呼びかけて皆に一斉に相撲を取らせる。いくら吉法師さまが強くても勝てるはずがないのに、必死な吉法師さまの様子がまた楽しい。


 土埃で汚れた身体を近くの川から汲んだ水で洗い流し、吉法師さまに勝った皆に握り飯を食わせる。こうしてつわものも負けたものも、皆が飯を食うことが出来るのだ。


「どうじゃ、うまかろう」 


 そう言って一緒に握り飯を頬張る吉法師さま。腹を空かせて動いて食う握り飯は確かにうまかった。わしも村の子供たちは夢中で頬張るので気づいてなかったが、貴重な味噌がちょびっと入って塩気がまた染みるように旨いのだ。


 あの方は、うつけだと言われる。でも、ああして学なきものからも知恵をかり、答えを探そうとしていた。敗けたものの意見をじっくりと聞いていた気もする。勝てないなら戦わないなんてうつけな意見にも「そうであるか」と、なんだか頷いていた。


 最後は大体「どうしたら皆が飯を食っていけるのか考えよ」と問う。そう言って、貧しい村人の子供達を相手に大真面目に言うのだ。おかしな方だ。


 吉法師さまはいつもそうして物事の疑問について問うてらっしゃる。うつけと言われるが、知りたくてたまらないのに知った風に誤魔化すのが嫌いなのだと、わしらにはよくわかった。


 吉法師さまは、御屋形様になられてからも、若い衆を引き連れては村の者たちと相撲をしたり力比べをしたり駆けっこをしたりした。昔と違って握り飯を与えてくれるだけではなくて、勝ったものが望めば信長様に使える足軽になれた。

 お武家さまでなくとも話しがうまいとか、縫い物が得意というだけで召し抱えていった。御屋形様になられても、吉法師さまは変わらない。


「御屋形様は子供の頃と変わんねえだな」


 そう言って村の衆が失礼なことをほざいても「そうであるか」とお笑いになる。寛大なお方だ。そして、言うのだ。


「飯が食えるのは誰のおかげか考えよ。神さまやら御仏さまやら、わしのおかげなどとつまらぬ事を言うなよ」


 お天道さまは陽を、龍神さまは雨を恵む。わしらがそれを神さまとして崇めるのは良いが、飯は作ってくれないと御屋形さまは言いたいのだ。土を起こし種を植え、水をやり雑草を抜くのは誰だ。ハッとして、御屋形さまを見ると、吉法師さまのお顔に戻って楽しそうにお笑いになるのだ。


「さあ、食え。おまえたちが丹精込めて作った米じゃ。これはな、都に伝わる酢の飯を真似たものじゃ」


 御屋形さまがおかげで、わしらもだいぶ食えるようになっていた。昔のように相撲はせず、最近は新しい食い物を見つけては、わしらに試させる。反応を試しながら、いつも悪そうにお笑いになる。この握り飯も匂いでわかる。竹の皮でわざわざ包んでいる。


 御屋形さまは短気と言われるが、それは少し違う。あれもこれも知りたくてたまらず、御自分のお時間がいつも足りないと嘆いていたくらいだから。あまりわしらが躊躇って待たせられない。うぅ、わしも食べたくない時はあるのだ。


「がはっ⁉」


 匂いから酸っぱい。ええぃっと、口に放ったのはいいが咽て吹いてしまった。


「わはは、飯一粒のために争うておるもの達もいると言うのに、罰当たりじゃと、坊主が騒ぐぞ」


 吉法師さまは本当にうつけだ。咽て涙をこぼすわしに、竹筒に入ったお茶をくれた。


「それは試したものでな。これを食うてみよ」


 少し落ち着いた後に、御屋形さまがもう一つの包みを開いて握り飯のようなものを食わせてくれた。匂いは同じ気がする。警戒しながら頬張る。


「!!」


「どうじゃ、うまいか」


 同じようにニタ〜ッと笑う御屋形さまにわしはコクコクとうなずく。後の時代に「早ずし」と呼ばれる原形を、御屋形さまが作らせ試させたのだ。酸っぱいのにほのかに甘い、うまい。


「······で、あるか」


 満足気な御屋形さまは家臣達と慌ただしく帰ってゆく。これがわしらと御屋形さま、信長さまとの最後の飯になった――――――――




 ――――――――同郷の村人から話しを聞き、筆を取るのは信定、後世に太田牛一と呼ばれ「信長公記」を書いた人物だ。自分自身も含めた信長公の逸話を集めては記録している男だ。幼少期の逸話は、信長公の本当の姿が垣間見えて面白いが、記録としては残すのは難しい事を彼は良く知っていた。

 権勢を握った秀吉(サル)が信長公のお姿すら歪めている様を見ていれば、公の偉業を褒め称える記録などは全て焚書されるだろうとわかる道理だ。

 だから、この逸話は残せない。村人達に語り継がれ、いつかあの方の本当の姿が分かってもらえることを願うばかりだ――――――――




 ――――――――時代はさらに進む。江戸のとある通りでは、「握り寿司」なるものが流行りだす。半田の粕酢なるものを使い、活きの良い江戸前の魚を使った握り寿司は安い、旨い、早いの「早ずし」とも呼ばれ、せっかちな江戸っ子の間でたちまち人気の屋台となる。


 なんでも早いことの好き、鉄砲の早撃ち、湯漬けの早食いで有名な織田信長が、熟れ寿司の出来上がりを我慢出来ずに考案したんじゃないかと囁かれている。


 織田家に対して思うところのある御上には言えない公然の秘密というものだが、幸せそうに握り寿司を頬張る姿の中には御役人達も大勢見られたという。





◇◇◇


・屋台の握り寿司


 与兵衛鮓の主人、初代華屋与兵衛が大成させたと言われる。考案者は不明。信長時代の背景を考えると、原形、原点は尾張の地にあってもおかしくないのではと思い、物語としてみました。


◇◇◇


・安食三郷について

 福徳、中切、成願寺。中切の地名は、福徳と成願寺に挟まれた真ん中から来ているとされる。この三郷が安食郷(あじきごう)と呼ばれる。平安時代末以降は安食一族がこの地をおさめていたそう。


 成願寺は745年頃行基により、天台宗聖徳寺末寺である成願寺が創建。成願寺の元の名は「常観寺」で、その後の士豪である山田・安食一族の菩提寺でした。成願寺は『信長公記』の著者として知られる太田牛一が育った寺でもあるそう。又助、信定とも。


・福徳村の火除け神


 秋葉社。福徳村の火除けとして祀られたのが始まりだったとされる。作中の当時は大雨に洪水か、地震による津波などの水害があった模様。


・信長の呼び方


「三郎様」「上総介様」「御屋形樣」などで、官職を叙任された後は「弾正少忠様」など。信長自身が自分のことを何と呼んでいたか定かではないものの、作中では農民が信長を呼ぶ時は「吉法師さま」「若さま」「御屋形さま」てし、信長自身の呼び方は「わし」としました。


・握り飯のはじまり (おにぎり)


 弥生時代後期に石川県中能登町で「おにぎり」の化石が発見されたとのこと。お供えものとして使われていたのではないかと言われてますが、それはお供えものだから当然でしょう。

 食べたらなくなるので、普段の食事のおにぎりが化石になって見つかる確率は凄く低そう。


 奈良時代の風土記には握り飯(にぎいい)、平安時代では、兵士に配る蒸したもち米を握り固めた屯食(とんじき)強飯(こわいい)(またはこわめし)など、食べ方や用い方はどの時代も便利、簡単、食べやすくて、美味いは共通のようですね。海苔を巻くのは江戸時代あたりから。


・おにぎりとおむすび、意味や語源の違い


 鬼を切ると書いて「鬼切り」 

 鬼退治に握り飯を投げつけた民話もあるようで、鬼を切るで「おにぎり」の言葉ができた説も。鬼退治の道具として、魔除や厄払いの効果があるそう。おにぎりの化石を見るとあながち間違いではなさそうですね。


 おむすびの「お結び」は、人と人との良縁を結ぶという意味から縁起が良いもの。『古事記』に「むすびの神である高御産巣日神 (たかむすびのかみ)」という神様がいます。万物の生みの神とされ、この神樣の名前が由来という説もあります。


・形の違いが呼び名の違いか


 俵型のおにぎりと三角の山型のおむすび説も。


・酢飯の握り飯


 いわゆる酸味のあるお酢のお寿司のこと。ご存知の方が多いと思われますが、流行したのは江戸時代中頃あたりから。お寿司の原形は、酢は使わないもの。ご飯は食べず発酵のために使い、酸っぱくする保存食「発酵ずし」


 お酢は川魚の生臭みをとりのぞき、保存もできて、魚を風味よく食べることができる調味料の一つでもある。


 因みに······


・尾州早すし (ネット記事より抜粋)


 江戸時代の握りずしの作り方を、ミツカン創業時の粕酢を使って現代版にアレンジしたのが、「尾州早すし」とのこと。酢飯に粕酢を使っていることや、一貫の大きさが現在の二・五倍ほどの大きさであることが特徴。

 公式企画、秋の歴史三作品目となります。織田家にまつわる話しは人気なので、題材が被ったかもしれませんが、お読みいただき楽しんでもらえればと思います。

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