幕間 言葉による中傷に対する相互監視社会について
中二ポエムならぬ中二理論(背伸びした感じの)
道徳・倫理による相互監視。しかしてこれは、矛盾をはらむ。善きことを求めるために疑うのは悪徳そのものではないか?
ただし国家に許された暴力装置が、個人間の人格毀損、火傷のようなひきつった痛み、心の闇すなわち言葉による殺人を些事とし言葉に注意深くある者に却って「テキトウに」などと言うならば、その瞬間から言葉の価値は唾棄すべきものに落ちぶれる。
結局のところ相互監視という恐怖こそが最大の抑止なのである。悪を自覚するがゆえの後ろめたさを改めて自覚させ、中傷を悪と知らぬものにその意味を叩き込む。
言葉とは武器である。祈りにも、薬ともなりうるが武器である。伝達手段ゆえ容易に用いられ安易に心をズタズタにする。これほど危険な武器を誰も取り締まらないことこそが驚きだ。
しかし言葉は入れ物である。上部を掬うのは受け止める側の悪意である。
中傷を目的とした悪意ある言葉を恒常的に用い、時に相手の痛みを喜ぶ者を排除するには、文面の証拠だけでも不十分と思われる。
迫害されるものとしての論理を説いたが、自分が加害者となる可能性も考慮せねばならぬ。
それでも、人間を信じられない以上は、もっとも公平なのは監視であり、監視社会とはつまり、不公平という思いを母体とした猜疑心、復讐法、そして、すぐになあなあで済ませようとする在り方との峻別宣言であると言える。




