英雄の失墜
天から見下ろす世界というのは無限の可能性と数多の希望に満ちている様に感じる。
漆黒の海に一際その姿を主張するこの世界に心を奪われてからどれ程の時が動いたか。
我々はこの風光明媚な星を舞台に、人なる命と神と子の盟約を結び、必要な知恵を与えて発展していった独創的な世界を見て、終始興味が途絶えることが無かった。
数々の恵みを与える事によってその力を確信した彼等は、より物請いをするようになった。
我々は、我々への信仰をするのと引き換えに彼等の望みを叶えて見せると、彼等は迷うこと無くその信仰心を高めていった。
信仰は我々にとって存在を維持する為の恵みであり、力を行使する為の根源となる。
神王は、人と我々の関係を不変のものとし、世界潰えるその時まで栄光を約束した。
しかしながら、人の欲望というのは時に破滅を導くという事に気が付いた頃には既に世界は歪んでいた。
人は、進むべき道を間違えたのだ。
事態に天は口論を交わしたが、解決の一途を辿る事はなく、対立が始まった。
人という存在価値に溺れた何よりの証拠だ。
かつての栄光の姿を失ったこの世界に希望があるのだろうか。いや……。
「私は、私の役目を果たすまでだ……」
一人の人影が呟いた。
容姿からして男である彼が身に付けている蒼白の鎧からは、あらゆる闇を退け事を物語るかの様な光が帯びており、その容姿は柔軟性と可動域を獲得している。そして彼の腰に下がる黄金色の剣は、神々しい存在感を放ちながら周囲の空間を制圧していた。
それら英雄神の武具を持つその三つ編みの男は、クロイツェルなる神の名を持つ。
クロイツェルが下界なる世界に降りた時には既に夜、歪んだ空間から太陽の如く放たれた眩い光は、大地を覆う広大な雲海をいとも簡単に貫き、歪んだ視界から時を刻むこと無く雲海を抜けると、広大な砂漠と荒野の上へ出た。
「何だこの気は……」
雲海から一筋の光柱の降りる先から大地を見下ろしたクロイツェルは、目的地から確かなものを感じとりると、砂漠と荒野の狭間に聳える巨大な勝色の建物へと降り立った。
光を纏わせながら稲妻の様に着地したクロイツェルは、静かに立ち上がると沈黙したまま周辺を見渡す。
「まだ信仰の力を感じるな」
砦から漂う己を信仰する力を感じたクロイツェルは、右手を上へと翳す。
すると翳した右手から眩い光が生まれ、曲線を描きながら波紋の如く砦を通り越えながら広がっていった。
「奥か……」
静かに右手を下ろし、砦の奥から異色の気配を感じ取ると、彼は一点に視線を向けた。
「誰だ貴様!」
クロイツェルが足を踏み出した時、背後から吠える声がした。
黙ったまま吠えた声の主を横目に軽く振り返ると、そこには鎧と剣に武装した兵士が三人いた。
「……」
彼は一言も兵士の問い掛けに応じること無く、僅かな間を置いて再び歩きだした。
「もしや邪教の信者か?」
兵士は、自ら発した言葉に歩みを止めたクロイツェルに構わずそれぞれ剣を構え、けらけらと笑った。
「ならば死を以てその罪を償うがいい」
「やむを得ないな……」
クロイツェルが体ごと振り返りながら右手の平を向けた時、斬りかかってきた兵士三人の体が宙に浮き上がった。
「少し眠ってもらうか」
何が起きているか分からない様子の三人にそれだけ言葉を与えると、右手を横に振り払った。
「がはあぁっ!?」
三人の兵士は状況を理解する間も無く、壁に打ち付けられて地べたを転がった。
「邪教……」
意識を失った事を確認したクロイツェルは、兵士が発した言葉に意識を傾けた。
「馬鹿な……」
クロイツェルは考えられる要因を挙げていくと、軽く首を振った。考える度に浮上する可能性に不信感を覚えると、真っ直ぐ歩き始め、横たわる兵士を背後にその場を後にした。
アーチ状の簡易な門を潜ると、大きな砦の全景が闇夜を背後に視界いっぱいに広がった。
クロイツェルは地面に突っ伏す二つの異なる鎧を身に付けた兵士の亡骸の間を通りながら歩みを進めていくと、やがて壁に塞がれていた片方は広い空間に出た。
城壁から見下ろす中庭らしき広場からは、燃え上がる炎の灯りが揺らめいていた。
「これは……」
中庭に注意を向けたクロイツェルの視線の先には何人かの兵士と何匹かの魔物の姿だった。
クロイツェルは城壁の隅に寄り、ゆっくりと膝を曲げながら中庭に意識を向けると、話し声が聞こえてくる……。
「これで全てか?」
中庭の中、踊る様に燃え盛る炎の中へと兵士の遺体が次々と放り込められる中、一人の兵士が同じ鎧を着た兵士等へと問い掛けていた。
「ああ、これで殆どだと思う」
炎を見据える一人の兵士の答えに、問い掛けた兵士が落ち着きがない様子で同じ場所を歩き回る。
「邪教信者は一人残らず浄化しなくては、いつまで経っても我々に真の救済はないんだぞ!いいからもう一度探し出せ!」
「おい!新たに複数の影が砦に侵入してきたぞ!」
二人の会話を断ち切るようにして兵士が一人、砦の中から走って来ると、中庭にいた全員が振り返った。
「なんだと!?」
「掲げている国章をみる限り、アレクシア王国で間違いない」
報告を聞いた兵士たちはそれぞれに意見を交わし始める中、一人の兵士が身を震わせていた。
「おお……自らの過ちを認めて救いを求めてくるとは、なんと……なんと儚い事か……」
朗報と受けたのか、その兵士は思わず祈りの構えをとりながら天を見上げた。
「直ぐに行動に移る!憐れな命に救いを与えようぞ!」
何人かの兵士は一人の発声と共にそれぞれが歓声を上げながら魔物を引き連れて砦の中へと突き進んでいった。
「誰への信仰だ……」
兵士達の会話の一部始終を聞いたクロイツェルは、胸の奥底から唸る不信感を抱いていた。
「この先か……」
信仰を受けている存在を捜し出す為、異色の気配を感じる方向へと視線を向けると、砦から伸びる巨大な塔が此方を見下ろす様に建ち塞がっていた。
クロイツェルは気配がする方角へと進んだ。炎の灯りが届かない足元の悪い地面を容易に視認しつつ、塔へと繋がる連絡橋を駆け抜けていく。
新たな信仰だとすれば、これは到底見過ごせる教えではないな……。
新たな信仰の教えによって生起した事態に懸念を持ちながら連絡橋の中腹に差し掛かった時、塔から感じた異様な気配は二つになった。
唐突な出来事に足を止めて二つの気配に集中した。
二つの気配の内の一つは、間を置くこと無くクロイツェルへと距離を詰めた。
「近い……。!?」
危険を感じたクロイツェルが背後へ飛び退いた時と同時だった。道を形成していた筈の目の前の通路は、爆発音の如く鳴り響く轟音と共に消え失せた。
クロイツェルは、柔軟な位置を求めるために連絡橋の屋根に飛び移り、一つの気配の正体を見上げた。
暗闇に映る影は、周囲一帯の砦を軽々と望む程に大きく、一見亜人の様に見えるが、漆黒に染まった巨体から発する闇の妖気は魔物とも言い切れないただならぬ気配を飾っていた。
何の惜しみも無く突き出した腹部を持つ巨体の頂上には、大きな角を生やした豚の様な頭部を持ち、紅い瞳を揺らめかせながら右手に持つ巨大な棍棒を構えながら見下ろしてきた。
クロイツェルは、身体中に突き刺さる巨大な剣や槍を見て直ぐに何者なのかを確信した。
「魔皇族だと……、何故ここに!」
クロイツェルが目の前に立ち塞がる魔皇族なる巨大な影に驚く間も許さず、巨大な棍棒が空気を殴りながら振り下ろされた。
「くっ……!」
再び後ろに飛び退き、目前に落ちる棍棒に危険を感じたクロイツェルは鞘から黄金色の剣を抜いた。
「貴様が下界に存在する事は許されない、直ぐにでも消えてもらうぞ!」
クロイツェルの叫びに反応する事無く、魔皇族は棍棒を横に振り払った。
「……!」
横の一撃を避けながら振り払う棍棒を持つ手に飛び乗ったクロイツェルは、その場で跳躍して魔皇族の腕に剣筋を走らせると、腕はいとも簡単に落とされ、大地の上へと転がった。
「逃がさん……!」
失った腕の断面を押さえる魔皇族の首へと今度は剣筋を走らせた。首に光が走った瞬間、その首は黒い液体を撒き散らしながら巨体の頂上から弾き飛ばされた。
崩れた連絡橋の上へと着地したクロイツェルは魔皇族の様子を窺った。腕と頭部を失った魔皇族は倒れることはない、断面から吹き上がる黒い煙の様なものは液体が沸騰したかの様な音を出していた。
「やはり下界では本来の効果は望めないか……」
クロイツェルの呟きと共に、力無く立つ魔皇族の切断面は再び失った一部を瞬く間に形成した。
腕と頭部を取り戻した魔皇族は、足元に転がる自らの手が握っている棍棒を取り上げると、クロイツェルを見下ろす。
「下界で目立つ事は避けたいが、やむを得ないな……」
目を瞑り、息を吐いたクロイツェルは、それだけ口ずさむと、眩い光と共に身体を浮き上がらせ、辺り一帯を覆う立体的な図形を幾つも形成した。
自身を覆う程巨大な図形の集合体に落ち着き無く見回す魔皇族にクロイツェルは、片手を大きく振り下ろした。
「終わりだ……」
周囲を閃光が支配した時、上空に展開された大きさの異なる魔法陣の中心を貫く様に巨大な光の剣が魔皇族の巨体に落ちた。
「……っ!?」
魔皇族は声にならない悲鳴を上げながらその場に崩れ落ちると、攻撃の光を帯びた巨体は徐々に光の粒になって上空へと昇っていく。
「せめてもの救済だ。眠れ、安らかに……」
地面へと降り立ったクロイツェルは、横たわりながら目をギョロつかせる魔皇族に最期の言葉をかける。
魔皇族は、やがて静かに目を閉じ、光となって天へと消えていった。
「魔皇族がここに存在していたのは偶然ではないな。一体誰の仕業だ……」
クロイツェルは消えていく魔皇族を見送ると、塔に見上げた。二つになっていた気配は一つ消え、残る気配は、見上げる塔から感じ取れていた。
「私の子を狂わせた事を必ず報いをもってその身に受けさせてやるぞ」
貫く様な目で見上げたクロイツェルは、塔へと進んだ。
気配は近くなっていく。砦の全体が見渡せる程の高さに来たクロイツェルは、静まり返る塔の中を歩いていた。
やがて目の前に立ち塞がる扉を押し開き、視界全体に一つの空間が広がる。
奥に置かれている大きな執務机の上は、乱雑に物が散らばり、血痕が地面から机に至るまで不規則に続いている。
静寂な部屋の中、クロイツェルは、自身の足音のみをこだまさせながら気配に意識を向けるが、その根源は見当たらない。
奇妙な感覚に警戒心が一層に増すと、黄金色の剣を構えながら更に一歩一歩踏み締めた。
「この感覚は……!」
部屋の中心に来た時、全身に稲妻が走ったかの様な刺激に襲われた。力を入れようとするが肉体は拘束されたかのように動かず、その場で膝をついた。
「ぐっ……」
身体中が痙攣する中、こつこつともう一つの足音が近付いてきた。少しずつボヤける視界に影が来るのを確認したクロイツェルは己の目を疑う。
「流石は天界の宝珠。十二神さえも押さえ込んでしまうとは……」
「エルクリノス……!」
目を見開くクロイツェルに、エルクリノスと呼ばれた影は、深々とお辞儀をした。
「これはこれは、クロイツェル様。お久しぶりでございます。随分と情けない格好でいらっしゃいますね」
真っ直ぐに肩を通過する金色の髪を持つ顔に灯る紅い瞳が嘲笑を浮かべていた。そして彼の背中には純白色の十二の翼が規則的に左右へと堂々と開かれる姿は、神々しさすら感じさせる。
「何故……ここに……!その宝珠は、貴様が手にしていいものではない……」
困惑した様子のクロイツェルに、エルクリノスは、嘲笑を崩すこと無く、膝をついているクロイツェルを見下ろした。
「いろいろと気になる様子みたいですが……。そうですね、陰謀の実現、とでも言っておきましょうか」
「陰謀……だと……?」
「現在まで冥界といがみ合う中、徐々に衰弱していくエルキアには、もはや滅びの道を突き進むのみとなった。従って、栄えある未来の布石は、なんとしても打っておかなくてはならないのです。そして、それを実現させる為には……」
エルクリノスはそこで言葉を止めると、クロイツェルの目の前で片膝をつき、顔を近付ける。
「あの老い耄れ神王を消し、エルキアに新たな支配を築き上げる必要があるのです」
「つまりは貴様が……エルキアを掌握するということか……それは、無理な話だな……」
皮肉を交えたクロイツェルの発言に、エルクリノスは、ふと笑い、立ち上がった。
「さて、それはどうですかね。もう後が無いのは、貴方達であることをお忘れなきよう。……まぁ、直に消え行く存在に弁明は不要ですけどね」
そう言ってくすくすと笑ったエルクリノスは、ふと何かを思い出した素振りをしながら手を叩いた。
「そう言えば僕の協力者の紹介がまだでしたね。貴方の始末に協力してくれたのは他でもないアルテなのですよ。さあ此方へいらっしゃい、アルテ」
「……なん、だと……?」
聞き覚えのある名前が出た。クロイツェルは自分の耳を疑いながらもエルクリノスの奥から現れる人物に驚きを隠せなかった。白銀の髪に幼い容姿、そして背中から広がる大きな翼は紛れもないアルテの姿そのものだった。
「アルテ……。どういう事だ……!」
クロイツェルの問い掛けにアルテは、やや俯きながら表情を押さえ込んだ様子で答えること無く、ただ頷いた。そしてゆっくりと自らの隣に立つアルテに、エルクリノスは我が子を褒め称える様にその頭を優しく撫でた。
「よくやりましたねアルテ。君がクロイツェル様をここまで引き寄せてくれた功績は、とても大きいですよ」
「エルクリノス……貴様……!」
そう言って笑うエルクリノスをクロイツェルは睨んだ。エルクリノスは余裕の表情で、再び向き直る。
「さて、今の私の役割は貴方を始末すること。エルキアを再生する為には、貴方の存在はとても邪魔ですからね」
クロイツェルの拘束する魔術の様なものは、深紫の光を放ちながら槍状の塊を無数に作り、次々とクロイツェルの身体を貫いた。
「うっ……ぐあぁっ!」
激痛と共に更に薄れていく視界の先に見下すエルクリノスの姿は、まるで全てを握った支配者の様に見えた。
「さようなら……」
エルクリノスは最後に短くそれだけを与えた。
「える……くりの、す……。ある、て……」
もはや発言する力すら奪われていた。そして、クロイツェルの身体は深紫の光の中、無数の光の粒となりながら散っていった。
「さて、時間が惜しい。アルテ、続けるとしましょう」
静まり返った空間の中、エルクリノスは穏やかな表情を浮かべながら隣に立つアルテを見ると、彼女の身体は小刻みに震えていた。
「エルクリノス……さま……」
アルテの表情は、嘆きで歪んでいた。エルクリノスは、己を見上げるアルテに、微笑んだ。
「救済には犠牲はつきもの、これは定めなんですよ、アルテ。僕はクロイツェルを始め、犠牲になってもらうヴェリオス王国、そしてこれから犠牲になる者達に深く感謝し、前へと進んでいくのです。安心してください、僕に忠誠を誓えば貴女の身は保障し、永遠の富を約束しましょう」
「永遠の……富、ですか?」
やや戸惑う様子のアルテに、エルクリノスは、更に言葉を続けた。
「ええ。行きましょう。エルキア、そして下界に再び繁栄を掴むために……」
一人の天使の陰謀は、十二神の一人、英雄神クロイツェルの消滅と共に大きく時を刻み続けていく。
全てを救う、天使の意思の赴くまま。