歪み行く戦い
神暦1618年
あの希望に満ちた日からどれ程の月日が経っただろうか。
あの日見た平穏の面影はもはやどこにもない。帝国と西側諸国との国境線である街には、数々の怒りと哀しみの暴力に染まっている。石甃は鮮血に染まり、血管の如く流れ落ちるのが嫌に生々しい。
焼き尽くされた木々、崩れ落ちた城壁、燃え上がる火の粉、全てが運命に嘲笑われているかの様にその皮肉を物語っていた。
至るところに横たわる人々には、逃げ遅れたと思われる民達もいた。彼等は当に絶命しており、もう息を吹き返すことはない。
血生臭さと燃え上がる炎の熱気の中、もはや生きる者が存在しないかと思われたその街で、幾つかの影が駆けるのが見える。
軍馬に股がった二人の軍人らしき影は、周囲を見渡しながら瓦礫と化した建物の間で馬を走らせる。
「閣下!ここはもう手遅れです!間もなく帝国による次の攻撃が始まるとのこと。我々も今一度駐留地へ帰還し、態勢を建て直すべきです!」
後ろに続く軍馬に股がる一人の部下らしき軍人が吼えるように訴えかけた。前を駆ける高位の軍人らしき人物は、兜で頭部を覆った姿でも分かる程その憎悪を漂わせる。
「これが帝国の切り札だと言うのか……。過剰なる攻撃とは、既に勝者気取りだな。ヴェリオス王国軍は何処へ行ったのだ!」
兜から叫ぶ声は若い男性のものだった。部下の軍人は困惑した様子で報告する。
「分かりません。合流地点には、既に姿がありませんでした」
部下の軍人の返答に舌打ちをした若い男性の軍人は、握る手綱に力が入る。
これではまるで我々が誘き寄せられた鴨ではないか、一体どういうことだ……。
若い男性の軍人は一瞬沈黙した後、軽く振り返った。
「生存者を即時に把握し、共に駐留地へ戻るぞ!」
「はっ!」
命令を承諾した軍人が軌道から外れていくのを見送ると、若い男性の軍人は、軍馬を走らせたまま歯を噛み締める。
失踪したヴェリオス王国軍に帝国軍の新たなる兵器、何が起きている。なんだ、この胸騒ぎは……。
彼は一人呟きながら、亡骸と瓦礫の間を抜けながら城塞を後にした。
この日、アレクシア王国の王宮では、オルクバルト国王を始め、国を支える高位の者達が大きなテーブルを囲いながら壁一面に広がる大陸西部の地図を睨みつけ、不穏な雰囲気を漂わせていた。
地図を背に立つ軍人は、伝令が持ち寄った報告書を片手に読み上げ始まる。
「ゼロノス城塞では、現在帝国軍と思われる未知なる攻撃により、街に住まう民を含め、我が軍は数千もの壊滅的被害を受けております。併せて合流予定であったヴェリオス王国軍の姿は無く、一切の報告はありません」
その報告に目を丸くした者達がそれぞれに動揺の感想を洩らす中、一人の軍人が声を張る。
「西側諸国防衛の要であるゼロノス城塞を放棄するということは、ノルマン地方一帯を帝国に明け渡すという事だ!その様なことはあってはならん!直ぐにでも増援を現地へ送り、少しでも帝国を牽制させる必要があるぞ!」
その言葉を聞いたもう一人の軍人が頭を片手で支えたまま首を振る。
「しかし、ヴェリオス王国軍が不明な中では、我が軍にはもはや増援を出せる程の兵はおらぬぞ」
「兵が無ければ民兵を動員するか、滞在中の傭兵団を雇えばよいではないか!」
報告を筆頭に言葉の殴り合いが始まった中、部屋に鎧姿の伝令が血相を変えながら流れ込む様に入ってきた。
「何事だ!」
突然の乱入に部屋の者達の視線が一斉に向けられる中、伝令は息を切らしながら声を絞り出した。
「ほ、報告します!ヴェリオス王国が……ヴェリオス王国が両国間の国境であるヴィッツェイラ砦を襲撃!駐留中の我が軍被害多数!増援を直ちに要請するとのことです!」
伝令の報告を聞いた誰もが驚きに自らの耳を疑った。
「なんだと!?どういう事だ!」
室内は更なる動揺に包まれる中、部屋の奥に座る杖を握った白髪の老人、オルクバルトが静かに伝令を見据える。
「被害状況を教えよ」
オルクバルトの冷静な問い掛けに少し落ち着いたのか、伝令は報告書を読み上げる。
「は、はっ。陛下、駐留中の我が軍およそ五千人の内三千を越える兵が死傷、現在もなお、攻撃を加えるヴェリオス王国軍と応戦中です!」
開いた口が閉まらなくなる程の状況に軍人達の中で、オルクバルトは続けて伝令に問い掛ける。
「その軍は、ヴェリオス王国で間違いはないのだろうな?」
「はっ、かの軍が掲げていた軍旗には、英雄神の鎧があり、ヴェリオス王国軍のもので間違いありません。しかし……」
伝令はそこまで言うと困惑しながら報告書を何度か見直すと、オルクバルトは、眉間に皺を寄せながら伝令に声をかけ直す。
「どうした。ありのままを話すがよい」
「こ、攻撃を加えるヴェリオス王国軍は、何れも統率力を失った状態で、まるで自らの意思を持たない操り人形の如く我が軍の兵に次々と襲いかかっているという状況であります。その上、異形の魔物を率いているという情報すらあるとのこと」
伝令の声は震えていた。彼が報告した内容には疑いを持ち始まる者、困惑を隠せない者、戦意を掻き立てる者等場を一層混沌にする。
「しかし、増援を求めるにしても、傭兵団や民兵では心苦しいな……」
オルクバルトは、事態の深刻さに表情を曇らせたその時、部屋の隅に立つ一人の騎士姿をした女性が前に出た。褐色の瞳に褐色の長い髪を大きな一つの三つ編みにして肩に掛けているその女性は、討議する空間に構わず間合いに入る。
「失礼致します。その件、我が近衛騎士団に一躍を務めさせていただきたく存じます」
突然名乗りを上げる騎士の女性に辺りの空気が揺らめく中、一人の臣下が睨み付けた。
「ならんぞ!今ここで近衛騎士団を出すなど、己の使命を忘れたか!」
臣下に怒鳴られた騎士の女性は反応一つ見せることなく、口を開く。
「お言葉ですが、我が近衛騎士団は王家を御守りするのがその務め、ならば、王家を脅かす存在を絶ちに赴くのもまた重大な務めであると考えております」
騎士の女性はそこまで言うと、何か言いたげな様子の臣下を構うこと無く、視線をオルクバルトに向ける。
「陛下、どうかこの近衛騎士団に、一躍を務めさせてはいただけませんか?」
騎士の女性の要望にオルクバルトは、沈黙した。
「そなた等は信用している。目を奪われる程にな……」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせているかの様に静かに呟かれていた。そして、オルクバルトは杖を握り締め、判断する。
「……よかろう、一部を残し、近衛騎士団を動員させる」
「正気ですかな!?一部とはいえ、今ここで精鋭たる近衛騎士団を向かわせるなど、王政を揺るがす事態に発展する恐れがありますぞ陛下!」
異議を唱える一人の臣下にオルクバルトの声に力が入る。
「私は判断を変えるつもりはない。長きに渡り民を愛し、そしてこの地の安泰を保たれたのも、英雄神の導き故であると確信している」
「理論ではなく、あくまで宗教論で判断されるおつもりですか」
オルクバルトの言論に、悪態をつきそうになった臣下は、徐々に拳を握り締めていくと、勢い良く立ち上がる。
「陛下が仰られている事は、単なる理想郷であります!それでは……」
「善いではないですか」
臣下の言葉を断ち切るように声を放ったのはあの貴族風の身なりをした中年の男性、ドラノフだった。ドラノフは顔の前で両手を組ながら感情を向ける臣下を見上げる。
「数百年もの間、このアレクシア王国の平和が護られてきたのは、英雄神の信仰があってこそのもの。でしたら、今後もその教えに従い、死力を尽くすのが道理でしょう」
「ドラノフ、貴様……」
不服そうに顔を歪ませる臣下にドラノフは続けた。
「信仰厚きこのアレクシア王国の地でその教えに背く者は、孤立し、何れ立場が失われますぞ」
奥底で嘲笑うかの様なドラノフの表情の無い顔に、臣下は感情を圧し殺した様子で強張ると、やがて全てを投げ棄てたかの様に、重力に身を任せて席に腰を落とした。
静まり返る空気の中、結論が出たと判断したオルクバルトは一人佇む伝令に伝える。
「ヴィッツェイラ砦の兵に伝えよ、これより近衛騎士団の一部を向かわせる。それまでの間、何としても国境線を守り抜けと」
伝令はオルクバルトの命に従い、敬礼をして慌ただしく部屋を去っていった。
そんな伝令を見送ったオルクバルトは、騎士の女性に視線を移す。
「ステファング近衛騎士団長よ。王家の為、そしてアレクシア王国の為、見事にその務めを果たすがよい」
「御意に……。このロザリア・リンデブルム、我が命に代えても王家とアレクシアの地をお守り致します」
彼女は片膝をつきながら頭を垂れ、その意思を示すとオルクバルトはゆっくりと頷く。
「頼んだぞ……」
国王の願いを受けたロザリアは、頭を垂れたまま短く返答すると、直ぐ様立ち上がり、踵を返した。
「ステファング殿」
その場を後にしようとするロザリアをふと呼び止めたのはドラノフだった。ドラノフは、立ち止まるロザリアを横目に見ると
「あまり出すぎた真似は感心しませんぞ、目上に忠実であるそなたらしくない」
ロザリアは、ドラノフの指摘に暫く振り返ること無く立っていると、再び歩きだし、部屋を出ていった。