来たる晩課へ
随分と長く書斎に居た様な気がする。
それは体感的な話にしかすぎないが、少年にとってメトという存在との出会いは、それくらい大きいと感じているのかもしれない。
帝都の街へと出てみると、丁度三時課の鐘が鳴っていた。
ところで帝国では、時刻を知らせる鐘というのを鳴らすのに人を用いていないというが、その伽羅倶梨は魔法の類だろうか。
と、そんなハウセンから聞いた小話から帝国の鐘楼の仕組みを考察していると……。
『ふあぁ!久し振りの外は気持ちがいい!やっぱり陽の光は偉大だねぇ』
ふと背後から欠伸と共に明るく、愉快な声が少年の耳に入る。
その声の正体は喋る本。
本と言ってもいっぱいに広げた大人の手二つでも収まらないくらいの大きさだ。厚みなんかは少年の小さな握り拳でも届かない。
そんな巨大な本を、少年はその小さな背中に背負い、落ちないよう革製の荷締め用ベルトにしっかりと固定している状態だ。
相当な重量感であるのは否めないが、機会を得るためならばそれも案外苦じゃない。
メトと名乗るその本は、存在自体が不明であると同時に、性別すらも不明だ。正体が気になるところだが、それはあまり訊かない方が安全だろうと少年は自分自身に釘を刺す。
まぁ、メトならば、此方の意思すらも容易に読めているのだろうが……。
と、少年は観念の息を心の中で吐く。
「メトは、どれ程あの書斎にいたのだ?」
ところで久し振りとこの本は言うが、どれ程の年月をあの部屋で送っていたのだろうか?クロは質問を切り出す。
するとメトは、簡単に出てくるであろう引き出しを、態とらしく勿体振りながら考える振りを始める。
『うぅん。ざっと887年になるかなぁ』
声を出してみれば随分と桁外れな数字だ。
その時点でメトは人では無い事を確信してしまう、既に本ではあるが……。
「887年……」
短くメトの言葉を復唱する。
887年という時間に対し、素直に驚く事は無かった。
だが記憶喪失な上、無機物に毛が生えた程度の知識だ。実感がわかなくて当然かと、クロは内心自分に言い聞かせるも、少しばかり虚しさを覚える。
『保管というよりは放棄かなぁ。世代を経てあらゆる人が僕の解読に挑んできたんだけど、中身を見られるのが嫌だったから彼等の頭を撹乱させてやったんだ。そうしたら『なんて不気味な本なんだ!』って言ってきてようやく匙を投げてくれてね。それっきり、他の本と仲良く公爵邸の書棚送り……ていう感じかな?』
メトはまるでつい最近の出来事かの様に話す。
なんだか此方の時間感覚が麻痺してしまいそうだ。
「……」
しかし、今のメトの話を聞いて妙に感じた事が一つある。
それは不気味と称され、帝国に放棄されておきながらハウセンは何故その事を話さなかったのかという点だ。
危険視されているならば、注意喚起くらいはしてもいい気がするのだが……。
『おや、思慮深いですなぁ。まぁ僕を危険視するのも仕方無いけどね……』
意思を覗かれていた。
「……か、勝手に私の意思を読むなっ」
これには思わずクロは抗議の声を上げる。
何故自分自身こんな事を言ったのかは分からないが、無性に抵抗感が込み上げてきたのだ。
『そうそう、そうやってもっと心を柔らかくしないと!』
対するメトは、全てお見通しと言わんばかりに上目線で宥めてくる。……楽しそうにだ。
やはりこの本の前では下手な考えは出来そうにもない……。
「……」
調子が狂う。
まるで潜在意識を引き上げられているような感覚だ。
『そんなに気になるのならば少年にちょっとだけ話してあげよう。
この国の人達はそれなりの理由があって君に委ねているんだと思うよ』
抑揚のあるメトの言葉。
それなりの理由とは何だろうか、それも帝国の思想とやらの一環だとでもいうのか……。
そして今のメトの僅かな情報から考えたクロは、ある一つの結論へと辿り着く。
「それは私が、神の子であるという事だからか……」
だが。
メトは何も答えなかった。
メトの反応に違和感を覚えた途端、少年の中で得たその結論が自分自身という名の答えへと奥深く張り付いた。
やはり否定をしないと言う事は……。
自分と重なる神の子なる存在に、クロが思い詰めた表情で俯いていると……。
「クロさん……?」
「……?」
微動とする瞳孔、無機物に灯る紅玉瞳が向けるその先へと立っていたのは、あのライオレル工房の娘、メリッサであった。
彼女は、そんなクロの視線に一瞬萎縮した様な素振りを見せたが、直ぐ様表情を柔らかなものへと戻す。
「大丈夫ですか?少しお疲れの様ですが……」
純粋な少年を案じる彼女の視線が注がれる。
疲れてはいない、疲れてはいないのだが、妙な胸中の違和感が抜けないのだ。
いや、今は忘れよう。
これ以上何かを考えるのは無駄だ。
少年は纏わり付く不要な意思を払拭しようと意識をメリッサへと戻してみる。
「……心配いらない、私ならば大丈夫だ」
すると、彼女の両手には何枚かの手紙らしきものが握られているのが目に入った。
手が混んでいて朱く派手な便箋。
誰か貴族のものだろうか。
少年のふとした好奇心は、興味の視線となってメリッサの手紙へと注がれていた。
そしてその視線に気づいたのか、彼女は徐ろに手紙をクロの目の前へと差し出す。
「これですか?これは、エルヴェイン伯爵様からの戴いた招待状です」
そう言う彼女の表情は、やけに豊かな綻びをみせていた。
何だかとても嬉しそうだ。
「……エルヴェイン」
しかし記憶に新しい名前が聞こえてきた。
それも今日の記憶だ。
あの特徴的な手紙の送り主の名は、容易にも少年の脳裏から引き出される。
リンドル・ド・ロン・エルヴェイン。
爵位からしても、間違いなく今朝ハウセンから預かった招待状の送り主と同一人物だ。
「本来、私達のような平民が直接お逢いする事は無いのですが、伯爵様は地位を問わず平等に民と接して下さる事で有名なお方なんですよ。毎晩のように大規模な催物場を設けては沢山の人を集めて、そこで国民の声を聞いてくださるんです!」
この胡散臭さが払いきれない感じは何だうか。
今のメリッサから聞くエルヴェイン伯爵の評判から察するに、毎日の様に会談の場を設けているという事なのか。
『人は一度満たされた欲を手放すことは難しい、道楽師ならば際限なし……。大方彼女はハクシャク様に気に入られた節があるよねぇ』
背中でメトが状況を解析している。
しかし欲か……。
自ら欲望を抱いた事が無いと考える少年にとっては瞬時に出てこない感情だ。
「平民が貴族と接するというのは、それ程までに喜ばしいことなのか……?」
これはメリッサ本人にとって……いや、常識的に愚問となるかもしれないが、理由は聞いてみて損は無いだろうと少年は訊ねる。
すると彼女は、期待に満ちた歓びの表情で答える。
「勿論です!全ての帝国民にとって帝国貴族とは、あの皇帝陛下の側に遣える誉れ高き存在。接する事が出来るはとても名誉な事なんですよ。……ですが、本当に嬉しいのは……」
そこでふと言葉を止めたメリッサは、静かにその手紙を胸元へと添えながら続ける。
「私達ライオレル工房の稼業を上位の方々に知っていただける絶好の機会だという事です。今は廃れてしまいましたが、再び羊皮紙による製法の素晴らしさと、その利便性を伝え、理解して欲しいんです。必ず成功させる……お父さんと、約束しましたから……」
約束……。
夢と憧れを追い求める様な彼女の瞳は、とても澄んでいて、清らかなものであった。
嘘偽りの無いその姿は、純粋で……これが人を思うという事だろうか。
親子……。
何だろう……少しだけ、羨ましく感じる……。
孤独を感じているのだろうか。
分からない。
『ところで君も招待状貰ったんだし、彼女を誘ってみたらどうかな?』
そんな少年の状況を顧みず、メリッサとの同伴を後押しするメト。
これには少年も同じ事を考えていたのだが、こうしてメトに催促されてしまうと、嫌に抵抗感が沸き上がってしまう。
尚、原因は不明だ。
しかしながら誘う理由は至って単純で、未知の場へと足を運ぶ上で、一人よりは顔見知りである彼女メリッサと二人以上である方が安心するのは間違いないからだ。
つまりそれから来る第一声はこうだ。
「私も、今朝エルヴェイン伯爵から招待状を預かった……」
そう、行くならば共にだ。
だがそんな素直に誘うだけの事を躊躇ってしまったクロは、遠回しに自身も招待状を受けたという旨で留まらせてしまう。
『朴念仁……』
今、何か背中から聞こえた気がするが、あまり気にしない事にする。
「クロさんも招待状を?こんな偶然、あるんですね!」
そんなクロとメトの会話の干渉を一切受けないメリッサは、実に嬉しそうに表情を操る。
その典型かつ無垢な感情の表現は、少年には持っていない何かを秘めていたのだ。
そうは思っていても無機質である少年の表情筋への変化は無い。それは今更な事だ。
「時間はラボリアの晩課ですよね。また会場でお会いできる事を楽しみにしています!」
どうやら、そうこう考えているうちに機は過ぎ去ったようだ。
取り残された感覚に陥ったクロは、胸にぽっかりと穴が空いた感じがした。
「……あぁ」
呆然とした様子で返事をするクロに、彼女はにこっと邪気一つ感じさせない眼差しを向けてきた。
「私、この後お父さんに羊皮紙造りの手伝いを任されているので、これで失礼しますね。また何時でも遊びに来てください」
メリッサはそう言い残すと、軽やかな足取りで踵を返すが、そこで彼女はふと何か思い出した様に再び少年へと振り返る。
「……あ、そう言えばつい先程、家の工房に見慣れない女性の方が訪ねて来ましたよ?」
工房に訪問者?
それを態々伝えてくるということは、少年とは無関係ではなさそうだ。
ふとそんな事を話すメリッサに、クロは怪訝そうに首を傾げる。
「変わった身なりをしていて、瑠璃色の髪の毛が印象的でした。『神子様』という人を探していて……恐らくはクロさんの事ではないかと思うんですけど……」
「私か……?」
身に覚えが無い……。
『神子様』という呼び方からしてリーシェやジルクリード等である可能性は少ないだろう。だとすれば、一体何者だろう……リュッフェンへリア聖国の関係者……いや、ロマネス教の人物である事も視野に入れる必要がありそうだ。
「凄く必死だったみたいですけど……」
「その者は、何処へ……?」
朝の出来事を思い出しながら困った様子を見せるメリッサに、少年は行方を訊ねる。
「……『他を当たります。見つけたら教えて下さい』と言って何処かへ行ってしまいました」
どうやら情報はここまでの様だ。
少年を探している……。
とても気になる内容ではあるが、尻尾を掴めないのでは事に対してこれ以上触れようがない。
背中のメトも特に語り掛ける様な気配がない事からして、そこまで重要ではないのだろうか。先程から沈黙しているばかりだ。
「……分かった。情報、感謝する」
倦怠感を覚える様な事ばかりだ。
メトの存在もそうだが、帝国に来てからのものの、妙な接触者が多い気がする。
何れにせよ、警戒しておいた方がよさそうだ。
自分の身を守るためにも……。
クロは、晩餐会への参加を決意する反面、不透明な未来への不安を募らせていた。
帝都クレオモリスを一望する白夜の讃歌。
それはある一つ区画にして活力に溢れており、昼夜を問わない『眠らぬ街』であった。
誰もが時を忘れ。
誰もが欲を求める。
そんな聞こえのいい夢のような場所が、この世には存在しているのだ。
見事なまでに磨き上げられた純白の石床から伸びる漆箔が飾る巨大な銅像。
凛々しくも威厳を宿したそのとある男性の銅像の側には、似ても似つかない同一人物らしき人物が居た。
彼は宝石の様に綺羅びやかな杯を片手に一人専用の椅子へと腰を下ろしていて、全身の無地な毛皮のローブが目を引くが、樽のような体型がそれを完膚無きまでに破壊する。
因みに頭から髭に至るまでの全てが飾られたかの様な銀色に染まり、綺麗に手入れがされているが、何処か頭髪の靡き方がいささか不自然である。
「ちょっとぉ、お返事はまだこないの!?」
女声を演出するも、濁りを払拭しきれない野太い声が室内に響き渡る。
そんな声の持ち主は紛れも無く椅子に腰掛ける白毛の男だ。
「申し訳ありません、エルヴェイン伯。彼の方は、公爵様の手にあります故、返答は個人による選択となってしまいます……」
対して頭を垂れるのは、長身で誠実そうな風貌を持つ顔の整った若い男だ。黒樫の様に深いその頭髪に散らばる白髪からは、本人の苦労が見て取れる。
「せっかく誠意の籠もったお手紙書いたというのに、忌々しいわ……清く、可憐な陛下に纏わり付く分不相応な青二才め……」
隷属と思わしき男の言葉に、ふと何やら誰かの悪態をついたエルヴェイン伯と呼ばれた銀髪の男は、その場に立ち上がり、杯を片手に歩き出す。
「結果を残せないのであれば、それは食う資格の無いただの乞食。帝都の街は今日も人の為、己の為に労を費やしているというのに……。」
決して乱暴とは言い切れない毒舌が彼の隷属としての意思を撹乱させる。
そして頭を垂れたまま不動の姿勢を保つ彼の耳元にエルヴェイン伯爵はその厚めな唇を近付けると、静かに言い放つ。
「深夜、部屋においでなさい」
「……!?」
その言葉は、雷の様に彼の全身へと駆け巡る。
それはまるでこの世の絶望をその身に体感したかの様な表情であり、今にも嗚咽の出そうな程の悪夢そのものへと染まっていた。
「……連れて行ってちょうだい」
エルヴェイン伯爵は、彼の様子を見る事も無く、軽く手を叩くと、奥の扉が開かれると、そこから現れた使用人が手際良く男を拘束した。
「お待ち下さい!わ、私は大変に反省しております!ですからっ、それだけはっ!エルヴェイン様ぁっ!」
地獄への狼煙に抵抗を始める隷属の男の訴えも虚しく、彼は使用人の人々によって退室を強制されていった。
「……まったくもう、我儘な子なんだから」
泣きじゃくる子供の様な男の去り様を、エルヴェイン伯爵は我が子を見る母親の如く見届ける。
「エルヴェイン様、ご息女の入湯が終わりました……」
部屋に残る一人の使用人は、開かれたままの扉の先を確認しつつ、エルヴェイン伯爵へと一礼する。
それを聞いたご息女なる言葉に、エルヴェイン伯爵はまるで別人の様に笑顔を浮かべ、両手を合わせた。
「まぁっ!待ち兼ねたわぁ!さ、早くその可愛らしい姿を見せて頂戴!」
期待と歓喜が入り混じる熱い視線をその先へと送るエルヴェイン伯爵。使用人はその意思に応じる様にして、ご息女なる存在に入室するよう促す。
こつこつと小さな鼓動の如く響く二つの足音。
開かれた扉から姿を見せた二人の影。
小さく、華奢な身体にその低い背丈からして子供である事は間違いない。
流れる空気に委ねられた漆黒の髪が妖艶と揺れ動くその様は、人とは掛け離れた美しさを持ち、目にした者の視界を奪う程だ。
その小さな二人は、互いに手を繋ぎながらエルヴェイン伯爵の元へと来ると、闇に灯った紅い瞳を向けながら無機質な笑顔を向けた。
「只今戻りました。リンドルお父様」
「只今戻りました。リンドルお父様」




