朱き創生の記し
フォレストル公爵邸の内部にある巨大な書斎。
そこで導かれる様に喋る本なる奇妙な存在『メト』と出会すこととなったクロは、共に書斎の内部をゆっくりとした足取りで周っていた。
まず、一言でいうと、メトという本は随分とお喋りだ。
男女の判別がつかない本の多弁っぷりに耳を貸しながらその内容を伺っていた少年は、少し疲れた様子で視線を落としていた。
『さっき君が見ていた本はこれだね。試しに読んでみてよ』
文字の勉強でも始めようというのか……。
クロが先程読もうとして諦めた本の側を横切ろうとすると、メトはそれを読むよう促してきたのだ。
読めない字だ、今からでは正直乗り気では無い。
「……見たことの無い字で綴られていた。読むのは不可能だ」
『いいからいいから!』
と、此方の発言を押して退けるメトに不審感を露わにしながらも、少年は目の間の本を手に取り、それを開く。
「……っ?」
するとどうだろう……。
先程読めなかった筈の未知の言語が、「エスティア語」へと姿を変えていたのだ。
『どう?それでも読めないかな?』
これはメトがやったのだろうか、厚みある羊皮紙の束からはその表情は確認できないが、何となくこの喋る本の奥底からは、目論みに満ちた悪戯っ子の様子が容易に想像出来た。
「『朱き創生の記し』……読める。これは、メトがやったのか?」
驚きを隠せない様子で、本に綴られている文字に、視線を走らせながら音読する少年の姿が面白かったのか、メトは得意げに笑いながら話す。
『僕にかかればこれくらいの悪戯はお手の物さ!ささっ、お厚いうちに!』
このお喋りな本は只者ではない。
先程の気配といい、この能力といい、メトにはまだまだ秘めた何かを隠し持っていそうだ。
と、少年は確信する。
「せ、急かさないでくれ……」
「おや、クロ様。この様な場所においででしたか」
すると、二人の会話を遮るかの様に、扉の開放音と共に老いた男性の声が間合いに入ってきた。
「……っは、ハウセン」
ふと書斎へと姿を現したのは、この屋敷の執事を任ずる老人ハウセンであった。
唐突な彼の登場に不覚をとられたクロは、少々萎縮した様子で思わずメトを手放す。
『がふっ……』
「……申し訳ございません。驚かせてしまったようですね」
一瞬鈍い悲鳴の様な声が聞こえた気がしたが、今のクロにその様な余裕は無かった。
そんな少年の驚く様子に非礼を感じたハウセンは、深い謝罪を告げてくると、落下の衝撃で床の上で開かれたままのメトを静かに拾い上げる。
「本をご所望の様ですが、何かお気に召す物がお有りでしょうか?」
ハウセンは温かな眼差しを此方に送りながら手に取ったメトを優しく、丁寧に手渡してくると、クロはそれを両手で無意識に受け取る。
「いや。……まだ、来たばかりで。その、すまない、勝手に立ち入るような真似をしてしまった」
メトを抱き抱えながらも、少年は無断で立ち入った非を詫びた。
「とんでもございません。これは書斎へのご案内を怠った我々の怠慢であります、どうかご容赦を……」
対してハウセンは、罪悪感の籠もった表情を浮かべた謝罪を申し出てきた。
実に目を凝らす程に律儀で誠実さ溢れる態度だ。
「そんな事は……」
『はぁ、もういいでしょう?彼は自分の行いを戒めようとしているんだから、君はその誠実さを素直に受け容れるべきだよ』
「メトっ…?」
ハウセンを前にしてふと声を投げてきたメトに目を見開いた。
そう、メトという喋る本を第三者が知らない可能性がある故の反応だ。
『安心して。さっき言ったように、君は適合者なんだから。僕の声は他の人の耳には届かない』
「……」
再びメトが発する声に、ハウセンが得に反応を示さない事に何となく納得したのか、肩の力が少し抜けたクロは呆然とメトを見詰める。
「どうかなさいましたか?」
ハウセンが不思議そうに声を掛けてくる。
少年一人しか認識していない老人の反応は至極当然なのだが、二人を同時に相手をするクロにとっては目の前に立つ執事が嫌に冷静でならない。
「……いや、何でもない」
そこからクロは、話題を切り替えようと模索する。変に怪しまれるのは避けたい。
「ところで、この書斎は……メルサスの趣味の一環なのか?」
『敬称くらいはつけましょう』
「……ぁ、フォレストル公の趣味なの……だろう、か」
ふとメトの鋭い指摘を受けたクロは、歯切れの悪い口調で言葉を再構成する。
「ははは、どうかお気遣いなく……。これは皇帝陛下と公爵様のお計らい故、普段通りのお言葉遣いで結構でございます」
少年の改まった態度を意外そうに感じたのか、僅かに目を見開いたハウセンはその後、優しげに笑みを浮かべながらクロの敬意に対して、今一度深い一礼を送った。
「……さて、此方の書斎に関するご質問でしたね、単刀直入に申しますと、公爵様は公務上、本をお読みになる程度であり、趣味としてのものではございません」
「では、この数の書物は一体……。どれも年季が入っている物ばかりだが……」
ハウセンの話から推察するに、書斎の書物は、メルサスの趣味の一環で集めた物では無いようだ。
ならばフォレストル公爵家に古くから継がれてきた物だろうか。
「そちらにつきましての経緯は、少々長いお話となりますが、宜しいでしょうか?」
そこから段階を経たハウセンは、周囲に並ぶ書物の数々を見渡すと、内容が長尺である旨を伝えてくる。
答えは「はい」だ。
老人の気遣いに、クロは黙ったまま頷いた。
すると少年の返答を認めたハウセンは、軽く一礼すると、粛々と話し始める。
「それでは、クロ様が先程お読みになろうとした本『朱き創生の記し』の順を追ってお話致しましょう……」
……。
……。
……。
時は神暦467年。
それは帝国が誕生するよりも昔。
神々の教えを信じ、絶対信仰の熱きこの暦の最中において、世界は冥界と天界が対立する混沌の時代と化していた。
当時、世界の覇権を握っていたリュッフェンへリア聖国には、神王ベゼルドを主神とした、十二の啓示を司る神々、即ち『十二神』の存在があった。
それぞれを……。
栄光を啓示し、正義と救済を齎す。
英雄神クロイツェル
友愛を啓示し、情愛と幸福を齎す。
慈愛神イリアテール
学問を啓示し、知恵と教導を齎す。
叡智神メルキオーヌ
理を啓示し、運命と善導を齎す。
時言神ノクトル
豊作を啓示し、恵みと寵愛を齎す。
豊穣神オルキーネ
礎を啓示し、大地と大海を齎す。
創造神へポロン
服従を啓示し、平等と絶対を齎す。
龍神グラドキアス
宿命を啓示し、魂に死と生を齎す。
幽明神ヘトロス
審判を啓示し、罪と罰を齎す。
断罪神ロクティノス
戦法を啓示し、匠と命運を齎す。
戦神レオール
予言を啓示し、均衡と滅びを齎す。
破壊神べリオル
浄化を啓示し、払拭と戒めを齎す。
冥府神ヘリオトリス
とし、これを信仰する『十二信仰』と言われる信仰派閥が大司教を主導として存在している。
しかし、そんな強い信仰時代の中、神々の教えに反する者達による独立運動が勃発する。
騒動が起きた当時の聖国の都市テラキオルの名を得て『テラキオル独立運動』と名付けられた。
当時この運動の主導者であるクレオモリスは、若くして聖国騎士の身でありながらも、神々という足枷から独立するべく、仲間と共に立ち上がった事が転機となった。
絶対信仰を唱える聖国側の激しい追撃を受けながらも、新たな新天地を目指した彼等の大移動は、実に三十年以上にも及んだ。
苦悩の末、様々な犠牲を出しながらも、最後の砦としてクレオモリスが仲間と共に抵抗の地に選んだ場所は、無慈悲な激戦の地となった。
その地こそが、現在の帝都クレオモリスである。
そして時は神暦501年。
多くの犠牲を出しながらも、世界で初めて神々からの独立を果たした彼等は、ここに新たな国の創設を宣言した。
その国の名こそが、ヒューレンハリア帝国。
それは決して神々の操り人形ではない、自らの創造と技術で未来へと進む新たな人類の形そのものの始まりであった……。
……。
……。
……。
「そして初代皇帝へと君臨されたクレオモリス大帝は独立の際、リュッフェンへリア聖国から情報を集めるべく、持ち出された書物が此方になります。ですが、それも今ではもはや風前の灯火……」
暫くの話の後、ハウセンは書斎に収められている書物について触れ始める。
どうやら帝国と聖国は、お互い相反する対立国同士であり、それは今も変わらないようだ。
「……風前の、灯火」
まるで尽きかけているかの様な発言だ。
怪訝そうに見上げる少年の眼差しに、ハウセンはやや遠い目を向けながら答える。
「……。書斎の一部、三割程は帝国が記したエスティア語の書物になりますが、聖国より持ち出された残る七割の書物には、古代テセロニア語及び解読不能な言語で構成されてあります」
つまり、完全解読に至らず、千年以上の年月を経て今に至る……という事だろうか。
だとすれば、その様な重要となりうる場に、何故クロの立ち入りを黙認しているのか……。
帝国にとって、少年の存在は神の子。聖国寄りの人物であると認識されていてもなんら不思議ではない筈だ。
だが、今の帝国の目論見が不透明な以上、疑問は尽きない。
「今、クロ様がお持ちのそちらの書物も、解読不能判定を受けた物になります」
「解読不能……」
ハウセンがそう言って視線を注ぐメトに、クロも同様に視線を落とす。
『いやぁ、そんなに二人で見詰められると照れるなぁ。どうしても中身を覗きたいっていうなら考えないでも……』
「この本、暫く私に貸しては貰えないだろうか?」
解読を餌に煽り始めるメトの発言を推し退けるかの様に言葉を重ねるクロがハウセンへと懇願してみる。
何処かの聴覚で「ムシスルナー」と聞こえた気がしたが、そんな事よりも、少年の集中力はハウセンへと注がれていた。
するとハウセンは、僅かに思考を凝らす。
「……畏まりました。現在、書物の管理はこの通り、皇城から此方へと移管されておりますので、認可につきましては公爵様へと手配させていただきます。ですので、此方の書物に限らず、書斎にあります書物はこのままお持ちになって結構でございます」
訊いてみるものだ。
ハウセンは僅かな思考の後、その粋な計らいによってクロの申し出を容認してくれたのだ。
すんなりと持ち出せる事に多少の不審感を覚えるが、常にメトを側に置けるのは心強い。
「感謝する。ハウセン……」
「滅相もございません」
少年の言葉に、老人は穏やかに微笑んだ。
これでメトという可能性を掴めた。
謎だらけな存在だが、何となく信頼出来る。
理由は分からないが、この先必要になるのは間違いないと、少年は心の中で意思を固める。
例えそれが帝国の掌であろうとも、クロは事の真実を突き詰めようと動き出す。
こうしてメトというお喋りな本を手にしたクロは、新たな活路を探るべく、再び帝都の街へと出る事を決めた。




