帝国市場
一つの山に築かれた巨大な都。
天空城の如く聳える幾何学模様の頂から広がるのは、紅葉飾る朱の世界だった。
秋を彷彿とさせるその朱色の正体は、どうやら雨や風等から建造物を守る為の無数の屋根のようだ。
王国で見た天地平行の屋根とは明らかに異なる構造をしたその屋根の正体は瓦と呼ぶらしい。
瓦は粘土を素焼きにして拵えており、その全てには、技術者の権威が一つの色として物語り、他国には無い未曾有の傑作が、こうしてここにも光を放っている。
「……朱き不滅の都」
と、少年クロは一人の貴族の言葉を思い返す。
馬車の窓から覗いた時にも驚嘆したクロだが、こうして観察すればするほど彼等が口を並べて誇張する通り、その異彩な光景は言行一致にして一つの世界と捉えられる。
そして次に気付いた事と言えば民衆だ。
多くの国を相手に侵略を続ける程の大軍を有した国の都ともなれば、それは血湧き肉躍る程の厳格な風情が表出ているのだろう……そう思い込んでいた。
だが、意外にも街を行き交う人々は老若男女問わず、皆幸を蓄えたかの様な面持ちで意気揚々としているのだ。
職業や地位の違いか、身なりに多少の差はあるものの、ハウセンの言っていた通り、自由と安泰の言葉は伊達では無さそうだ。
また、驚くことに彼等は一切の武具を身に付けていないどころか、兵士や傭兵の姿ひとつ無く、完全に驚異とは隔離された格差社会の様だった。
「……」
馬車での移動の最中では知り得なかった情報が鮮明となってゆく。
それは言葉では言い表せない感慨深さを覚え、少年を思慮の淵酔へと誘う。
自由とは、安泰とは何なのだろうか……。
だからこそ比較してしまう。
どうして自分はこうも空白なのだろうかと……。
『私が貴殿に伝えたい事……それは待て、という事だ……』
ふと皇城でリグルドが口にしていた言葉を思い返す。
「私だけの話では……留まらない……」
クロは静かに見下ろした。
視線が指し示す先、それは少年が開いた手の指で輝く一つの虹色の石だった。
そう、あの日王宮の前でリーシェから譲り受けた『指輪(御守り)』だ。
|指輪(御守り)はあの日、彼女から譲り受けた時から一切その光を変えていなかった。
「……リーシェ」
何故彼女がこれを渡してくれたのかは分からない。そしてこの指輪の事も……。
クロは、そんな殻に閉じ籠った彼女の思いをただ、ただ大切に、その小さな指へと納めているだけなのだ。
「これも、何かの運命なのか……」
今はひたすらに前へと進むしか無い。進むしか……。
少年は、自分への自問を繰り返しながら帝都の街へと静かに歩き始めた。
多くの人々で賑わう通りの中、クロは外出前の公爵邸の門においてハウセンから手渡されていた物を確認する。
それは袋に入ったお金と、帝都の全域を記した地図の二つ。
先ずはこのお金、金属製の硬貨だ。
この硬貨は、帝国にとって特別なものの一つなのだそうだ。そして、帝国の硬貨は王国の硬貨とは大きく異なり、その価値も違う。
通貨の単位は『レスラ』。
帝国の硬貨では、名を馳せた歴代皇帝が肖像画として画かれており、その価値は功績に応じて『元老院』と呼ばれる帝国の統率等に関して皇帝に助言等を行う組織により、定められているのだそうだ。
硬貨の種類は全部で五つ。
帝国大遠征において巧みな戦術を行使し、帝国領拡大に貢献した皇帝の硬貨。一レスラ。
聖戦時代において帝国領から完全なる神々からの独立を果たしたとされる皇帝の硬貨。百レスラ。
聖戦時代後に進軍した魔王の軍勢を退けた当時の辺境伯にして後の皇帝である者の硬貨。千レスラ。
現皇帝、歴代類を見ない聡明さにして不動の皇帝として名高い人物、リグルドの硬貨。一万レスラ。
そして一番価値のある硬貨は、帝国の建国者である初代皇帝の肖像画が描かれたものだ。その価値は十万レスラ。
そして手元には大きなリグルド皇帝の硬貨が百枚。つまり百万レスラだ。
ハウセンが言うには、これがあれば十日分の生活には困らないらしい。
はたして彼にとっての十日分というのはどれ程の価値観と捉えているのか……それは分からないが、使うには少々抵抗がある……。
「皇帝の硬貨、か……」
全ての種類の硬貨は、それぞれ場に見合った物を選び、使用するのが帝国のやり方なのだそうだ。
正直なところ、いまいち不明確な風習だ。
それ以前に、クロは硬貨に画かれた歴代皇帝について、詳しく知りたいという好奇心の方が勝っていた。
だが、これを身近で一番詳しいであろうメルサスに訊ねようとも考えたが、再び強い主義誇張の下、長い講義が始まる可能性があるとなると、少年にとっての結論は想像に難くない。
「……ふぅ」
その場で肩を竦めたクロは、硬貨入りの袋を懐へと戻し、次に帝都の地図へと目を通す。
山の如く聳えるここ帝都の地図は、皇城を中央に置いて様々な施設が区域の差別無く健在している。
それは地域を問わず、それぞれが望む場所に必要な権力を建たせているのだ。
この地図には主要な施設の名前が細々と網羅されているが、全て散策しきるには一日では確実に不可能な程にとにかく……。
「……広いな」
心の声が漏れる少年が現在歩いているのは、メルサスが居るフォレストル公爵家の敷地を出た先の大きな通り、花園通りだ。
その名の通り、公爵家の敷地を囲む外柵沿いを初め、この通りには色取り取りの花によって飾られている。
「……」
再び少年がこの付近を地図で確認したところ、周辺には『○○邸』と書かれた名前が諸所にある。おそらく名声高き者の住まいと言ったところだろう。
他にも飲食店や宿屋。市場なんかも近くにあり、既に少年の視界に収まる範囲内だけで複数は視認できる。
そして市場に群がる群衆。
帝国の珍物が見られのだろうか。
物欲は……無くはないが、ここは帝国の首都。これを機に帝国の高度な技術品の数々を確認しておきたい。
それに、あの見たことの無い不思議な力を有した帝国の『魔科学』なる存在に近付けるかもしれないのだ。
ならば第一の目標は……。
「市場か……」
考えが纏まったクロは、帝都の地図を巻いて握り締め、目の前で賑わう市場へと向かう事にした。
足を踏み込み、視界は切り替わる。
少年の目に入ってきたのは……。
「こ、ここは……」
簡易な荷馬車ならば百台は格納出来るであろう大部屋に敷き詰められた大量の店舗と、それに狙いを定める大勢の人々。
窮屈そうではあるが、これは帝都散策の初陣としては善い収穫が期待できそうだ。
「……?」
市場の賑わいに圧巻されていた少年が思わず傍観者の如く眺めていると、ふと一つの看板が目に止まる。
『案内板』と書かれた題目の下、そこに記されていたのは、市場に関する説明と配置図だ。
読んでみると、どうやらこの市場は出店形式であり、各小店ごとに国の出店許可証なる物を得て出店しているみたいだ。
次に内部は品物の種類ごとにエリア分けされている。
その種類は、食品、衣類、雑貨、書物、防具、武器等取り扱われている幅は類を見ない広さだ。しかし……。
「……魔科学は、無い様だな」
少年から期待の重荷が一挙に抜け落ちた。
この様な巨大な市場に無いとなると、一般的には流通されていない物なのだろうか……。
「……うぅん」
少年は独り唸る。
市場から足を退こうとも考えたクロだったが、ここで諦めるのも勿体無い気がしたのだ。
そう、帝国の品々は至るところに存在している。魔科学だけではなく、何か帝国についての情報がここで得られるかもしれない。
少しばかりの悩みの末、解れた紐を結び付きながら結論付けたクロは、市場を物色しようと動き始める。
そこからは驚嘆の嵐だった……。
手に取った品物はどれも匠な技術力が物語る程に精巧な作りをしており、平凡では行き着かぬであろう発想の域に達しているのが分かる。
加工法から長期保存に適した食品。
細い糸からその性質を高めた衣類。
生活から着想の極地に達した雑貨。
芸術を重ね合わせた知恵の書物。
数多の異国の魅力がこの市場には集結され、誰もが潜在する欲望が忽ち掻き立てられる……筈なのだが。
「……」
クロは沈黙していた。
品質に間違いは無いとどの店主達も推すのだが、どの品物を見ても財布に手が伸びない、つまり物欲が湧いてこないのだ。
私はあの者達とは違うのか……。
と、目の前で買い物を楽しむ客人達の姿が嫌に輝いて見える。
だが唯一物欲とはうってかわって驚いた事と言えば、書物売り場だ。
帝国の書物で主に用いられる筈の紙は、羊皮紙ではなく『パピルス』という紙を使用しているのだそうだ。
紙単体での販売もあったが、それらもまたパピルスである。
どういう事かと商人を問いただすと、彼は「高価な羊皮紙よりも安価で大量生産出来るパピルスの方が売れるし、そもそも魔術紙なんて今時帝国じゃ使わない」……との事である。
これが文化の違いなのだろうか……。
そうクロは肩を落とすのである。
「そうだ。武具ならば……」
だが諦めるのは早い。そう、まだこの市場には武器や防具を販売する出店があるのだ。
クロは関連性の高い物への欲望を見出だす為、残る希望を胸に案内板が示す目的地へと駆け出す。
期待は予想通りだ。
武具を取り揃えるこの出店は、客足も比較的少なく、品揃えも豊富だ。
そして何よりも興味が注がれたのはやはりその質にある。
一般的に耐久性と威力が求められる剣や矛等の武器には、主に鉄や石が素材の代表例として挙げられる。
だがこれは何だろうか。一見して金属の様だが、明らかに外見や手触りが異なる。
「何か、特殊な金属が使われているのだろうか……」
クロは、呼吸をする事を忘れてしまうかの様な集中力で両手に取った剣の質感を確認していると、そこを赤いバレットとケープを身に付けた商人らしき男が歩み寄る。
「お、そこに気が付くとは坊や、なかなか優れた探究心だね」
「あ……いや。これは……」
ふと声を掛けられたクロは不意を突かれたのか、反応に少々戸惑っていると、商人の男はそれを微笑ましく言葉で撫でる。
「うんうん、若いうちに物への関心を根差しておくのはとてもいい事だ。だけど、帝都で武器を買うには国の認可が必要だよ」
「国の、認可……?」
馴染みの無い国の習わしに、違和感を覚えた少年が首を傾げていると、商人の男は丁寧に話し出す。
「そうさ。帝国では、元老院で定められた法を、皇帝の正式な認証の下で成り立たせているんだ。つまり、その帝国の法の内、帝都条例にこれを則らせると、武器の購入にはその物の購入権を国から審査してもらった上で、購入許可証を発行してもらう必要があるんだ」
人差し指を立てながら教え子を教育する様に説明する商人の男。
帝国の法。
それは屋敷にて、ハウセンが説明の合間に放っていた言葉だ。
クロは記憶の中から情報の欠片をかき集めてみる。
帝国の法の中にある帝都条例とやらが機能し、帝都安泰を具現化している……という事なのだろうか。
確かに、外出する際にはロザリアから授かった騎士の剣リフェリオンを置いていくようクロはハウセンから指示されていた。
だが、残念ながらここで如何なる思慮を尽くそうが、今のクロには購入許可証なる物を持っている筈もなく、必然的に諦めるの選択肢に絞られる事となる。
「分かった。心遣い、痛み入る……」
好奇心が無念へと変貌したクロは、最後に商人の男に感謝の言葉を掛け、他を回ることにした。
武器の商人が居る出店を後にし、他の店舗を当たろうと再び物色を始めたクロは、ある一つの店舗に流れる視線が止まる。
幾つかの店舗を挟んだ先、多くの来客が木箱に並べられた品々へと手を伸ばす無数の邂逅の中に、それはあった。
そしてそれは直ぐに少年にとっても馴染みのある物だと気が付く。
紙だ。
君主等を初め、多くの貴族や富裕層に使われるこの紙は、主に物事を記録するという役目として重宝するが、攻撃の手段として用いられる魔術紙の作成でも欠かせない。
そんな紙が市場の片隅にひっそりと出品されていた。
魔術紙の作成ならば少年も心得ているのだ。
ここは入手あるのみ。
これまで湧き上がる事の無かった物欲に支配されたクロは、早速その出店へと足を運ぶと、そこには店番と思われる栗色の短髪を逆立たせた紅顔の壮年男が一人。簡易な椅子に腰をかけながら少年を睨み付けていた。
そう、特に何をした訳でもなく、此方を睨み付けているのだ……。
右手には液体の入った瓶が一本。
少年は、踏まなくていい尾を踏んだ気がした……。
「なんだ餓鬼……」
鋭く、しゃがれた声が矛先となって向けられる。
もはや門前払いに近い待遇で腕を組んでいるその男は、どうやら少年を客とは思っていない様子だ。
「よ、羊皮紙を買いたいのだが……」
突然の彼の気迫に身を引いた少年は、固唾を飲みつつ用件を話すと、男は大きな溜め息をつき始める。
「はあぁ……客かよ。だったら初めからそう言え……」
何と理不尽な待遇だろうか。
少年にとってこれまでの接客常識が覆された気がする。
だが、何はともあれ一先ずはこれで紙の購入にありつけそうだ。
そう安堵したクロが品物である紙へと視線を下ろす。
するとどうだろうか……。
木箱に敷き詰められた紙の数々、それぞれ小さな木の板が貼り付けられ『時価』という文字が彫られてある。
「くっふっふ……。餓鬼よ、家で作る紙はな、そこらにある盆暗が作った出来損ないの羊皮紙とは訳が違う。そう、質がなっ!」
自己ブランドを誇張し、他を軽蔑するという男の傲慢な態度と軽やかな嘲笑が悪い印象に更なる拍車をかける。
「わ、私は……」
「どうせその正装も公爵様に憧れた節だろ。公爵家にお前みたいな餓鬼なんざ聞いた事もねえ。大人を騙そうとする暇があったら餓鬼同士仲良く成金仮想大会でもしてろ」
何だろう、この釈然としない感覚は……これが不快感というものだろうか。
遠回しに背後のメルサスを貶された気がしたクロは、蟠りを覚える。
しかし男はそんな少年をあしらう様に瓶の中身……即ち酒を呷りながら叫ぶ。
「てな訳で、俺はお目の高いお得意様にしか興味がないんだ!分かったら帰った帰った!……」
「待て、お金ならあるっ……」
ここで身を退けば次は何処で入手出来るか分からない。
そんな不安が心のざわめきを生んだのか、次の瞬間少年は、ハウセンから与えられた袋の中身を適当に掴み上げ、それを男に突き出した。
……。
勢い剰って溢れ落ちる硬貨。
気付けば周囲は少年と男のやり取りを人目見ようと小規模な野次馬達と化していた。
そんな中、クロを一文無しと思い込んだ男がそっぽを向きながら追い払おう手を構えているが、その紅顔に浮かぶ眼球だけは少年の拳で輝く硬貨の山へと一直線に注がれていた。
失念の狭間で垣間それを見た彼の目は、餌を狙う獣の躍動に満ちているのが分かる。
「い、い、い……」
そのまま口の開閉を始めた男は、それから爆発する興奮を全身に奮い立たせながら突然吠え始める。
「一枚五万レスラでどうだ!」
「……!?」
「じゃなかった、一万!」
「いや……」
「ならば五千レスラならどうだ!」
客である少年を差し置いて一方的に話を進めようとする男に、状況が読めていないクロの反応は困惑を極めていた。
しかしそんな少年の様子に手応えが欲しいのか、男は血相を変えながらクロを常連の手駒にせんと両肩を握り締めながら前後に乱暴に揺さぶる。
「千!そう千レスラだ!こんな上等な羊皮紙、こんな値段じゃまず買えないぞ!?さぁ今直ぐ買いたまえ!さぁ!さぁ!」
頭が揺れて気持ち悪い……。
目の前には迫真と迫る男の形相が交渉を持ち掛ける。
彼は精神が不安定なのか、泥酔しているのか、どちらにせよ恐ろしい男だ。
無性に逃げたい……。
男に拘束される最中、少年が脱出の糸口を模索していた……その時。
「お父さん……?」
野次馬達の間から聞こえる女性の声。
「……?」
男に掴まれたままのクロは、ゆっくりと声のした方向へと視線を向けると、そこには同じく栗色に染まった長い髪を束ね、清楚な容貌をした若い女性が困った様子で此方を伺っていた。




