朱き青年の意志と盲目の少年
大地の形状に合わせつつ不規則に揺れていた馬車は、軈て揺り籠の如く緩やかに揺らめき始めた。
感覚からして整地された場所へと入ったのだろう。即ちそれは何らかの街へと差し掛かったのだと悟れる。
少年クロは、大いに期待した。
そう、理由はただ一つ。
目の前で饒舌と舌を回すメルサスという男の話からようやく解放されるからだ。
「おや、もう着いたのですか。時間というのは実に短期でいらっしゃる」
戯れ言を、此方は随分と長く感じた。
そう、少年の目が覚めてから一体何時間が経過したのだうか。途中睡魔に襲われるが、それをこの男が良しとせず、終わりの見えない話に付き合わされていたのだ。冗談ではない。
この様な男に今後世話されると思うと、戦慄が走る。
「もう良いでしょう。クロ様、窓をお開け下さい」
馬車の位置を察してか、メルサスはふとそう言いつつ、鍵を取り出し窓の鍵を解錠する。
期待しているのかは分からないが、メルサスが嫌ににやにやと口の端々を吊り上げながら此方を見ている。
「……」
彼に従うのは少々抵抗はあるが、外の空気を吸いたいのも事実だ。
そんな複雑な心境になりつつも、クロは恐る恐る窓へと手を伸ばし、その持ち手へと手を掛ける。
すると、これまで開閉を許さなかった馬車の小窓は素直に開かれ、目映い光が少年の目を襲った。
「……っ」
目の前の光景に、クロの中で驚きが一挙に駆け巡る。
一面が朱かった。
朱く染め上げた人工物の集合体が無限の如く建ち並び、種族を問わない様々な人々が溢れんばかりに行き交う様は、まるでこの国の豊かさ誇張しているかの如く、その個々たる満悦を表していた。
「何だ、此処は……」
アレクシア王国とは比較にならない程の絶大さに言葉を失うクロ。
これが、ヒューレンハリア帝国。
「ふっふっふ。……此処はヒューレンハリア帝国の中枢、帝都クレオモリス。それは聖戦時代を迎える遥か昔の竜王期、嘗て世界に猛威を振るっていた多くの古龍達がこの都を滅ぼさんと進撃を始めていました。当時、初代皇帝にして『朱の英雄』の名を持つクレオモリス大帝は、殺戮と猛進を繰り広げる古龍達を撃滅し、そのとこしえへと幕を閉ざしたと伝えられております。そして窮地より救いを与えられた人々は、最後に残されたこの都から彼の活躍を生涯伝え続けるべく『朱き不滅の都』、そう呼ぶようになったのです……」
やってしまった……。
思わず訊いてしまった自分を責める。
こうなってしまっては彼が満足するまでは止まらない。
しかし、正直なところ帝国の歴史に関する部分を丁寧に語ってくれているのは情報として何かしら有利に働くだろう。無論、少年から訊いているわけではないが……。
有難いのか有り難迷惑なのかは分からない。その中間といったところだ。
そんな調子で肩を竦める少年をものともせず、メルサスの容赦ない全力解説は続く。
「そして我等が向かうは先こそ絶対的象徴!第八十七代皇帝、『不動の皇帝』の称号を持つヒューレンハリア帝国が希望の化身『リグルド・ロベリュクセル・ド・バーレンハイス皇帝陛下』その人が今!天下の座へと御身を置かれております其処!それは正に生命の叡智と粋の結晶と呼ぶに相応しき皇城!フォーレンヘゼレクトル城があるのですっ!」
何やら初耳な単語ばかりな語りであったが、結論からして彼は大の愛国者といったところであろう。
全身を駆使した全力誇張に苦悩の末に勝利を手にした英雄が如く、その満悦至極の綻びを此方に向けている。暑苦しい。
「……」
しかし、気になるのは確かだ。
この馬車が皇城へと進んでいるという彼の口実に、少年は窓から見える進路を目線で辿った。
「……あれは」
馬車の進行方向。活気溢れる街道が連なる朱い山の頂に聳える存在に、少年は更なる衝撃を受けた。
朱く奇妙な幾何学模様の群れが結合した巨大な物体は、尊厳性を間借りした絶対や偉大の化身と呼ぶに相応しい佇まいだ。天を掌握するかの如く建つ奇妙な存在は、一切の忌憚も無く、威風堂々と此方を見下ろしている。
「ふっふっふ。どうやら余りの驚嘆さに言葉を失われたようですね」
メルサスに言われるのは少々むず痒いが、驚きを隠せないのは否めない。
距離に応じて巨大化する皇城。
人々が行き交う大通りを堂々と登るメルサスの馬車群は、軈て大きな門をくぐり抜け、一つの大きな庭へと差し掛かると、一斉に動きを停めた。
先程の朱の街並みとは大きく異なり、鮮やかな色彩が彩る花々と見事な彫刻から生まれる純粋無垢な水源が美しい花園だ。
「……?」
そんな庭の出来具合に目を奪われていると、ふと馬車の扉が開かれる。
目を転じてみると、そこには使用人らしき正装を清楚に着こなす人物が手を差し伸べながら少年に下車を促していた。
「クロ様。到着でございます……」
背後からメルサスが言葉で突っついてくる。
「……」
恐る恐る馬車から足を下ろしてみる。
体重に応じて静かに沈む少年の足。
永らく馬車に籠っていたせいか、足から伝わる大地と草の感触が異様に心地よい。
まるで雲の上へと降り立ったかの様な感覚だ。
次に上を見上げる。
遠くから目にした時もその存在感に衝撃が走ったが、こうして間近に立つと、その迫力が一層に際立つ。
あのエゼルメッス王宮と比べてみると、高さだけでも大いに凌駕している事は想像に難くない。
「さて、クロ様。我等が主がお待ちでいらっしゃいます、どうぞこちらへ……」
続いて馬車から下車したメルサスは、次への行動を呆然と立ち尽くす少年に示唆する。
彼が言う主とは、恐らくこのヒューレンハリア帝国の君主、不動の皇帝なる者の事を指しているのだろう。
「……メルサス」
「如何なさいましたか?」
背中越しに居るお喋りな公爵の名を呼ぶと、彼は優しく声を返す。
「私は……どうなるのだ」
クロは、自身との対面を求めているであろう皇帝が少年に何を望んでいるのかが全く分からなかった。
そう、不安で仕方がないのだ。
神の子とは呼ばれていても所詮は人の子だ。名前を借りているだけのまやかし物に他ならない自分の様な盲目の像を、皆はどのように受け止め、どのような価値観を見出だしているのだろう……。
そんな不安だ。
この時、メルサスの目には何が見えていたのだろうか。背後から感じる青年の気配からはその真意は伺えない。
「見ぬ物清し……」
「……?」
穏やかに発せられた言葉にクロは思わず振り返ると、そこには邪心を感じない無垢な笑みを此方へ向けているメルサスの姿が立っている。
「世の中には、見ない方が善いこともあるものですよ」
クロは不思議そうに青年を見据えた。
その言葉の意味には不純な何かがあるように思えたが、彼の朗らかな表情からは一切の雲行きの動きすら感じられなかったのだ。
「……」
思わず息を凝らした少年は、暫くの思考の後、先へと進むことにした。
来る運命の時を迎え入れるように……。




