来るその運命の幕開けへ
一面が灰に染まった世界。
それは木も無ければ水も無い、そんな空虚に近い空間だった。
何もない様に見えるこの場所の中で、風だけが強く吹き付けているが、不思議と肌に感じることは無い。
『……ここは』
孤独と立つ一人の少年は、全身を灰色に染めた姿である一点を見詰めていた。
その一点には、弱々しい光を放ちながらその場で浮遊している。
『君は僕なの……?』
光は、少年の様な幼い声を出しながら、灰色の少年へと訊ねてきた。
『私は……違う……君なんかじゃない』
目の前の人物が誰なのかは分からない。
だが少年は、自分が自分自身であるという事を頑なに信じた。
『ねぇ、どうして君はそこにいるの……?僕は暗くて、おかしくなりそうだよ』
平然と喋り掛ける様に聞こえるその声は、何処か脅えていて、今にも消えてしまいそうな内面を秘めているように感じる。
『教えてほしい。君とは、一体誰なんだ……』
目の前の存在の名前を、少年は訊いた。
するとその光は、途切れ途切れの声で、文字を紡がせる。
『僕はね……ぼ、……くは、誰な、ん、だ……、ろ……、う……』
次の瞬間、世界は灰色から漆黒へと変化した。
『……やめろ。やめ……く』
全て呑み込まれた世界の中で、崩れていく自身の体を見た少年は、悲鳴すら上げる事が出来ずにその暗黒へと身を閉ざしていく……。
少しずつ……。
少しずつ……。
……。
……。
「はっ……!?」
目の前に広がる天井。
闇夜に静まる部屋の中で目を覚ました少年クロは、急いで自身の体を確認した。
白い肌が確かに確認できる。
それから少年は次に、辺りの様子を窺うが、そこは紛れもなく、王宮の一室で間違いなかった。
「……はぁ」
ここが現実世界だと悟った少年は、安堵の余り、大きく息を吐き出した。
気付けば全身が夥しい汗で濡れている。実に嫌な気分だ。
『クロ様!いかがなさいましたか!』
少年の発声を聞いた近衛騎士の一人が、ふと扉越しに訊いてきた。
「……大丈夫。心配は無用だ」
大きく脈打つ心臓が徐々に落ち着きを取り戻す中、少年は扉の先に居る近衛騎士へと報告する。
『……左様ですか。何かありましたら、何なりと申し付け下さい』
「世話をかけさせる……」
近衛騎士の真っ直ぐな忠誠心に、少年は罪悪感を感じつつも、自分なりの謝意を伝えた。
「……君の、名前。私は僕……」
脳内に留まり続ける少年の声との不可解な会話は、クロを更なる深層へと潜らせていた。
今日、何時ものように陽がまた昇る。
しかし気分は優れなかった。
悪夢を見たからなのか、寝不足から来る強い倦怠感に少年は悩まされていた。
それは日常生活を始め、ロザリアが取り仕切る剣技の演練にも同様に影響が出ているという始末だ。
「クロ様。今日は随分と体調が優れない様ですね……」
この日、定時に訪れた近衛騎士団の訓練所において、騎士の剣である『リフェリオン』を背に、放心状態で立っていた少年の様子を見たロザリアがふと声を掛ける。
「……!私なら、……だ、大丈夫だ……」
教官に呼び覚まされたクロは、直ぐ様演練に差し支えがないと訴えた。
するとロザリアは、暫く少年を見据え、静かに答える。
「……いいでしょう。では本日は、剣を使った技術に入ります。宜しいですね」
「ああっ……」
長らく求めていた剣技に至る為、ここまで鍛練を繰り返してきたのだ。この貴重な時間は無下には出来ない。
クロは不調に負けまいと声を張らせながら返事をした。
「基本的な筋力作りは、これまで通り行って頂ければ結構です。ですが、これからクロ様が剣を扱うにあたり、意識してもらいたい事があります」
ロザリアが指を立てながら述べる意識するべき点に、少年は注意を尖らせつつ思慮する。
「……意識、周りを感じる察知能力という事か」
すると彼女は首を振り、否認する。
「それとなく近い回答ですが、それでは誤りです。……クロ様に意識して頂きたいのは『六感』というものです……」
教官から言われた『六感』という言葉。五感ならば理解できるが、そこに来るもう一つの『感』という謎の存在に、少年は更に考えを廻らせる。
「六感……。五感ではない、もう一つの感覚……」
『味覚』『触覚』『嗅覚』『視覚』『聴覚』に仲間に加わるもの。
ロザリアは、視線を落としながら考える少年に、答えを告げる。
「第六の『感』、それは『魔覚』です」
「『魔覚』……」
初めて耳にする『魔覚』という言葉。
新鮮さを漂わせる第六の『感』に、少年の興味は一挙に注がれる。
「この世には『源素』という、世界の源となるものが存在しており、人々はこの源素を利用する事によって魔術を行使しているのはお分かりですか……?」
「何れも初めて聞く名だな……」
これも常識的な知識と考えると、無知な自分が恥ずかしくて仕方がない思いだ。
新鮮な知識の数々に、少年は覚えようと必死に記憶の領域を広げる。
「何もご存じないのですね……。分かりました」
やや呆れ口調でロザリアが合図を後ろへと送る。すると、訓練所の一角に居た近衛騎士団の男が一人、此方へと歩み寄ってくる。
彼の腰には、クロが所持する剣と同等の大きさの剣を腰へと装備されている。体格が大人な分、まるで短剣の様に見えてならない。
「……」
迫る距離と共に来る騎士の男の重圧感を感じた少年は、身を引きながら警戒すると、早速ロザリアが指示を出す。
「クロ様。剣を抜いてください……」
ここで……?
クロは、考えてもいなかった教官の指示内容に躊躇していた。
敵ですらない生身の相手に対して、真剣を向ける事への抵抗感を感じていたからだ。
「……だが」
「失礼致します……!」
剣に手を掛けたまま止まる少年に、騎士の男が突然剣を抜き、それを振り下ろした。
「……!」
鳴り響く金属音。
牙を向く脅威に、気付くと少年は反射的に剣を抜いて相手の攻撃を受け止めていた。
何故反応出来たのか、それはこれまでの危機的状況が少年を育てていたからなのかもしれない。
「今、クロ様が感じられたのは触覚の一部。『殺意の受感』に分類されるものになります……。この世において触覚とは、直接触れたものに限らず、気配を通じた間接的な感覚も含まれております」
気配を感じるという意味も持つ触覚。
確かにこれによって反応は出来たが、今の少年の体勢は膝を大きく曲げながら全身で漸く耐えているといった状況だ。
対する騎士の男は、確かな殺意を出しておきながらも実際には殺傷しないよう、少年の限度に合わせて直前に勢いを殺しているという手慣れた剣の使いこなしだ。
「……くっ!」
少年が剣を盾に一歩下がりながら騎士の男を全力で押し返し、距離を置きつつ構える。
クロは全身で剣を落とさない様支え、それを真っ直ぐに保ってはいるが、やはり今までの剣に比べて格段に重い。
腕力のみの扱いでは限界がありそうだ。
「次に、常に周囲を鋭く観察する為の視覚になります。これは、目に見える物体に限らず、移動する対象を察知する為の『未来の視感』が重要になってきます」
「未来予知……視覚を透して見るもう一つの能力のようなものか……」
何となく、五感に対する理解度が深まってきている気がする。
「その通りです。そして戦闘における視覚とは、環境や距離に応じて変化する音の流れと種類を聞き分け、素早く判断する為の『千里の感性』と『選別の感性』を持つ聴覚があります」
そこで一度話を区切ったロザリアは、更に五感に関する説明を加える。
「また、嗅覚において大きく分かれる二つの能力の内の一つは、相手が持つ特有の臭いを嗅ぎ分け、対象の区別と位置、及び距離を探る『先見の嗅選』と呼ばれるものがあります。これは、敵と対峙する前に必要となる他、戦闘中における敵の情報を得る事にも活躍します」
つまり、五感の一部である『触覚』『視覚』『聴覚』『嗅覚』は、戦闘前から戦闘中において大きな活躍の幅を利かせる極めて重要な能力という事になるみたいだ。
しかしながら、急にこれらを会得するには、相応の鍛練を繰り返さなくては不可能だろう。
「……これらを直ぐに使いこなすのは無理があります。先ずは、一つ一つの感覚に着目点を置いて演練する事を推奨致します。ここまでは宜しいですか?」
ロザリアの言うとおり、先ずは着目点に絞った一つ一つの意識だ。
まだ呑み込みきれていない部分はあるが、実際に演練してみる他無いだろう。
「ああ……」
「ではハリス、頼むぞ……」
頷きながら返事をするクロに、ロザリアは先程剣を交えた騎士の男ハリスへと早速手合わせを命じた。
「了解致しました、団長。クロ様、参ります!」
「……っ、……!?」
展開が早すぎる。
どうやら彼女の演練において心の準備というのは甘えなのだろう。団長の命じに応じる騎士の男ハリスに、再び少年が注意しようと視線を向けると、既にその姿は無い。
何処だ……?
騎士ハリスの素早い動きに目を見開く少年は、急ぎ周囲を観察した。
すると、両目から見える視界の隅に、確かな人影が動くのを一瞬だけ視認する。
後ろ……!?
移動方向からして後ろと予測した少年が振り返ろうとした時、ある小さな音が聞こえる。
僅かに床の上の小石が擦れる小さな音。それは背後ではなかった。
それは音のした方角と、背後を真横に流れる空気の流れがそれを証明している。
あとはもう一つの情報だ。
少年は、微かに漂う独特の皮の臭いと汗の臭いを感じ、全力で剣を左へと振り上げた。
次の瞬間。
「……!」
目の前を拳一つ分の距離で交える二つの刀身。
あまりの距離に、クロは緊張から肩で息をしながら今の状況を目の当たりにした。
そう、あと少しでも遅れていれば、頭部を割られていたかもしれなかったのだ。
「お見事です、クロ様」
教官からのお褒めの言葉と同時に離れる騎士ハリス。
少年は、剣を両手に握ったままその場で足を崩ずしてお尻を着いた。
「……はぁ、はぁ」
手が、震えていた。
死を間近に感じたからだろうか。だが、思えば騎士の男は、確かに彼は直前で勢いを殺していた。それに速さは回り込む時の速度だけで、他の動きはまるで此方が反応するのを待っていたかの様に緩やかだっとのだ。
それでいて戦闘への絶大な恐怖を植え付けられながらも、徐々に力を振り絞りながら立ち上がったクロは、騎士の剣リフェリオンを両手に構える。
「未だに恐怖心が見えていますが、本日はここで辞退なさいますか?」
相変わらず一番求めていない事を淡々と促してくるロザリア。
しかし、それは自身の弱味を把握されている事の教示なのだろう。
辞退するか。無論、答えは『しない』だ。
少年は、静かに深呼吸をしながら気を落ち着かせ、目の前の教官を見据える。
「次を、頼む……」
これまで教わったのは『触覚』『視覚』『聴覚』『嗅覚』の四つだ。
となると、残るは『味覚』と『魔覚』。
「……分かりました。それでは引き続き、お教え致します」
次なる演練を望む少年の姿勢に、ロザリアは何処か満足そうに頷くと、更なる段階へと演練は進む。
「クロ様は、魔術紙をお使いになられるとの事ですが、その際、魔術紙の効果の発動、または魔力の付与において感じたものはありませんか?」
「感じた、もの……?」
突然の質問に、少年は記憶を探る。
アトリエにおいてレスナーの魔術紙作成の手伝いをしていた時、ディオルとの戦いにおいて魔術紙を使用した時。
味覚に関して、意識を集中させていると、とある事に気付く。
「変わった味を、舌で感じた……」
味の強弱はあったものの、少年は確かに魔力が動く際に味を感じていた。それだけではない。
「……臭いもしていた」
「それが『源素』の集合体、所謂魔力の元となっているものです。先程の説明の続きとなりますが、世界を満たす『源素』にも種類があり、それは火の素、水の素、風の素と、その数は多く、魔法の源として数多く利用されています。殆どの種類は味覚と嗅覚で感じられますが、中には例外もある事を頭に入れておいて下さい」
あらゆる『素』というのは、恐らく属性と呼ばれるものだろうか。
これらを魔術として行使できれば、力もより強く身に付くという事だろう。
「使える魔法の幅は使用者にもよりますが、魔法における『味覚』と『嗅覚』は、魔術として行使する当たり、『源素』を如何に感じ、判別するかが大切な鍵となります」
「つまり『源素』を魔法として使う為の感覚、それが『魔覚』か……」
クロは、ロザリアの言わんとしていることを掴むと、その結論を述べた。
「ご理解が早くて善いですね。この魔覚を極める事により、魔術行使だけではなく、魔術行使をする術者が起こす魔法の特性とその威力を分析する事が可能となります。お忘れなきよう」
それからロザリアは、思い出した様な素振りを見せた後、話を付け加える。
「もう一つ補足しますと、『源素』から属性となる多くの『素』を判別する為の『味覚』と『嗅覚』は、人によって異なり、使用できる『素』と使用できない『素』が出てきます。クロ様の場合は、あまり心配はしてはおりませんが……」
どういう意味だろうか。
妙に引っ掛かるロザリアの最後の言い回しを気にしたクロだったが、今は深入りするところではないだろうと身を引く。
「以上が、六感に関する内容となります。本来ならば魔感による魔術行使もお教えするべきなのでしょうが……」
「……? 」
ふとそこで話を区切るロザリア。
不思議そうに首を傾げるクロに、彼女は口を開く。
「どうやらそれは叶えられそうにもありませんね……」
遠くから感じる訓練所内の近衛騎士団とは別の気配。
その場で頭を垂れる近衛騎士の人々が訓練所の入り口へと向けるその先。
全身を鎧で包んだ騎士を左右に連れた、金色の長い髪を装飾で飾るドレス姿の若い女性が一人、階段上から此方を見下ろしていた。
「リリアン……」
粛然と目撃される現場。
この場に居る誰もが視線を注がせる一国の君主の名を、少年は呟いた。
すると……。
「クロ様。今すぐ私の執務室へとおいでください……。重要がお話がございます」
彼女は突然、少年に自身の部屋へと赴く様催促してきた。
その表情は堅硬に満ちており、事の重要さが犇々と伝わってくる程の緊張感を表していた。
「……」
この時、少年は心の内に来る胸騒ぎがした。
だが、その要因が何なのかは分からない。ただ、何か大きな事が始まるのではないかという気がしてならなかった。
生唾を飲み込んだクロは、そのまま静かに頷く。
「分かった……」
彼女の指示に従う事を決意した。
王室の居住区画へと戻り、彼女の部屋へと入った少年クロは、扉の前で立ち止まる。
閑散とした大きな部屋に居るのはクロとリリアンの二人のみだ。同行していた近衛騎士や他の使用人の姿等は一切見当たらない。
少年は、善い話と悪い話の二通りを考えるが、内容は言うまでもなく後者だろう。
「綺麗な景色ですね……」
部屋にぽっかりと大口を空ける窓から王都ドルクメニルの町並みを眺めたリリアンは、ふとそんな事を口ずさむ。
「……?」
何処か遠そうで、切なく弱い彼女の声は、少年に不信感を与える。
「千年以上の歴史を持つこのアレクシア王国が、こうして不動の栄光と正義を維持してこれたのも、神々のお導きの賜物でしょう……」
独り言の様に静かに、そしてゆっくりと話すリリアン。
何故今、この場でそのような事を口にしているのか、その彼女の真意は分からない。しかし、クロにとってその言葉の矛先が自身の心中を痛々しく突いている様に感じられた。
「……重要な話とは、何だ」
本題を訪ねるクロ。
すると、窓から浴びる日差しを背に振り返ったリリアンは、真っ直ぐ少年を見据えながらその重そうな口を開く。
「……申し訳ありませんが」
置かれる時間の感覚。
次に告げられる言葉。
それは、少年クロにとって運命の旅立ちとなる。
「クロ様はもう、この国には不要です……」
その言葉の意味を、少年は分からなかった。
あまりにも突然で、あまりにも重い。
そんな深層心理が、少年の脳内を駆け巡る。
「不要……。どういこ」
あまりの発言に混乱を招いた瞬間、クロは背後から来る何者かの気配が体を伝うのを感じた。
だが、それに気が付いた時にはもう遅い。
少年は、対処をする間すら与えず、それは襲い掛かる。
「……っ…!?」
突如全身の力が抜ける。
リリアンが映る執務室の視界は傾き、一瞬にして地面へと崩れ落ちる。
……。
『……もう、時間はありません』
……。
薄れ行く意識の中、視界の片隅で此方を見下ろしていたのは鮮やかな碧眼の女性……。
彼女は悲しみに暮れた表情で口を開くと、何かを伝えていたが、もはやそれは聞こえることは無かった……。
君は、これまで私を導いてくれた……。
やはり……私では力不足なのか……。
リー……シェ……。
……。
……。




