忍び寄る闇の前兆
あの日、リーシェとジルクリードの二人と別れてから何日かが経過している。
依然として、変わらぬ日々を過ごせてはいるが、変化の無い日常というのは、やはり不安を募らせるものだ。
ここは近衛騎士を演練する為の訓練所。
王宮の一角にあるこの施設には、今日も何時も通りに騎士達が汗水を流しながら剣技の鍛練に励んでいた。
彼等の様な精強への土台を目指すべく、同じ訓練所に立つ少年クロもまた、鍛練に励んでいるところだ。
だが、近衛騎士団団長であるロザリアから素養を認められてからは、日に日にその演練は厳しさを増している。
口調こそ敬語ではあるものの、言っている言葉は相変わらず死の宣告に近い内容だ。
しかし、それが少年にとって良い原動力となっているのも事実。
未だかつて知り得なかった知識や技能が少しずつ身に付いていくのだから。しかし、それらを完全に手足の如く使いこなす様になるのには、まだまだ長い鍛練が必要となりそうだ。
「……!」
この日、演練開始の初日に行った素養を見る為の総合的な見極めを、再びやっていた。
全身に滲む汗や傷痕が総てを物語る。そう、初めの頃よりも楽に感じたのだ。
クロは、必死な思いを体に結ばれたロープに込めながら力を掛ける方向を適切に定めて引っ張る。
するとロープで繋がれていた巨石は、少しずつ、少しずつ、止まること無く前へと進み始めた。
いける……!
筋力への余裕。体へと均等にかかる巨石の荷重。成功を確信した少年は、到達地点までその足を何度も左右に踏み締める。
「……良いでしょう」
ついに巨石を目的地まで運搬出来た時、教官から種目認可が下りられた。
「かはぁっ……はあぁっ……」
その場で崩れる様にして体を転がらせたクロの視界は、満天の青空によって染まった。
「クロ様、これまでの鍛練。お疲れ様でした」
全身での呼吸を余儀無くされる中、少年が空を一点に眺めていると、ロザリアが顔を覗かせる。
「……?」
途切れ途切れの反応をしたクロは、残った力を振り絞りながら体を起こすと、ある物が差し出される。
金色のアレクシア王国の国章が入った刺繍が目を引く純白の布が包んだ一つの長い物。それを見て呆然とする少年に、ロザリアは語り掛ける。
「此方を……」
クロは、ロザリアから差し出された布に包まれた物へと静かにその小さな手を伸ばし、それを両手でしっかりと握り締めた。
「……っ!?」
彼女が手を離した瞬間、沈み込む急激な金属の様な重みに驚いた少年は、急いで全身でそれを支え、直ぐに体勢を整えた。
「それは、今後クロ様にとって宿命の証しとなります……」
淡々と述べるロザリア。布の中身を知らされる前に、先ずは自分自身で物を確認しろという事だろう。
クロは、両手に抱えた布の包みを開封していくと、それは姿を現す。
遠目でも視認出来る程のくっきりとした木目を残す、丈夫そうな木製の鞘に施された金属製のフレームと絵柄は、どうやらアレクシア王国の国章の様だ。職人の業が光る彫刻入りの鍔と、何重にも巻かれた紐は、握れば忽ち少年の小さな手に食らい付くかの様に直ぐ馴染む。
「……」
少年は、固唾を呑みながら鞘から刀身を静かに抜いていく。
太陽光の反射と共に徐々に姿を見せたのは、純白に煌めく真っ直ぐに伸びた長い刀身だった。
一切の濁りを感じさせない表面は、滑らかな放物線を描く程に癖が無く、相当に精巧な作りだ。
「我がアレクシア王国近衛騎士団において取り扱われている一級品の剣、名をリフェリオンといいます」
「いいのか……?」
それ程までに高価な剣を手に、クロは驚きに目を少し見開きながらもう一度訊ねると、彼女は清々と答える。
「これは世の栄光、そして善なる正義の為、基準を満たした者にのみ贈られる騎士の称号です。……今後のクロ様を考慮した上での判断故、お受け取りください」
随分と重みのある肩書きだ。
しかし、それ以前にクロは、漸く教官である彼女に認められたという事への激情の方が強かった。
「……そうか」
これが嬉しさなのだろうか、僅かながら報われたという結果に対して、少年は静かにその剣を両腕でしっかり抱えた。
「おめでとうございます。クロ様……」
近衛騎士の人々が団欒と見守る中、ロザリアは教え子の発芽へと祝福の言葉を送った。
時間が過ぎ去るのはあっという間だ。
四六時中余韻に浸っていたからなのか、気付けば王宮内部を、既に無数の灯りが整然と闇を照らしている。
昼間での活気から落ち着いてゆく中、夕食を済ませたクロは、使用人の女性の同行の元、入浴も済ませる為に大浴場へと向かう。
無論、ここからは使用人の同伴はお断りしている。
一人で入りたいという自律心からだというのもあるが、それ以上に過保護すぎる皆の対応に強い抵抗感を懐いていたからだ。
無知な記憶喪失少年とはいえ、自分の身体くらい自分で洗える。
「……」
身体を流したクロは、立ち込める湯気で視界が遮られる中、その小さな体を徐々に大きな湯船へと沈めていく。
今夜は少しばかり温めの湯加減だ。肌を刺さない程度の湯が全身を擦るかの如く優しい。
まるで湖に浸かっているみたく広いこの大浴場は、使用人に訊くところによると、王族が使用しているものだそうだ。
そんな高貴な場所を利用して本当に大丈夫なのだろうか。だが、そんな心配事も1日、また1日と過ぎ去る度に気にならなくなっていく。
「……ふぅ」
今日は嫌に一人が落ち着く。そう感じていたクロは、そのまま肩まで浸かると大きく息を吐きながら全身の力を湯へと預けた。
……すると。
「ご無沙汰しているみたいだな、神の子」
「はっ……!?」
突如聞こえた子供の様な声は、電撃の如く少年の体を弾かせた。
「誰だ……!」
湯船へと身を隠しながら慌てて声の主を探る。すると、目の前で沸き上がる深い湯気の中、うっすらと少年はその姿を視認する。
「それはこっちの台詞だな。私が居ると知っていて入ってきたのだろう?」
悪戯っぽく語りかけてくる声の主、それは褐色の髪を持つ、幼さが残る可愛らしい顔をした少女だった。
端麗にして清潔そうな長めの髪を後ろで器用に束ねている。
「エルザ……!?すまない、わ、私は……」
少女がエルザと分かった途端、両手を前へと突き出しながら戸惑うクロ。
勿論言うまでもなく、今の彼女は一糸纏わぬ姿をしている為、目のやり場に困るといった状況だ。
「ほぅ。無愛想な貴様にも、そういった理性は働くのだな」
対するエルザと呼ばれた少女は、動じぬ素振りで湯に浸かりながら湯船の中で脚を組み、皮肉の言葉を溢した。
「別に気にするな、分かっている……。私も王宮に要があって来ているからな」
要とは何だろう。情報屋である彼女達が王宮と繋がっているとでもいうのだろうか。
「その一つとして神の子。貴様にも用事があるのだ、伝えておきたい事がな」
「……伝えておきたい、事?」
今、この様な場所で?
何処と無く妙な胸騒ぎを覚えたクロは、恐る恐るエルザへと聞き直す。
全裸の少年少女が向かい合うという異様な光景の中だが、確かに漂う緊張感に、クロは息を呑みながらエルザに話を促した。すると、彼女は風貌を一変して話す。
「王国の崩壊の時が近づいている……」
そして言い渡された崩壊という単語。
その言葉に、突如深い懸念を懐いた少年は、内容を掘り下げようと訊ねる。
「王国の、崩壊……どういう意味だ?」
「奈落の天秤にかけられた二つの国の話……、エルキア教が吟う時空の神アルメリウスの予言の書での一文だ」
時空の神アルメリウス……。
クロは、何となくその名前を昔から知っている様な気がした。しかし、何故知っているのかまでは全く思い出せない。
毎度の事ながらはっきりとしない自身の深層心理に嫌気がさす。
「まぁ、簡単に言ってしまえば、二つの王国のどちらかが滅びるという事になる……」
淡々と残酷な結末を物語るエルザに、少年は込み上げる不快感を露にした。
「……」
そんな沈黙するクロを見たエルザは、同情と似た様子で肩を竦める。
「所詮は神頼みの宗教が考えた眉唾物……といいたい所だが、その兆しはあらゆる場面を以て窺え、現実のものになろうとしている」
その王国へと間接的に告げられた運命は、少年の身の周りにおいても、それは示唆されていた。
「兆し……」
最後にレスナーのアトリエへと訪れた時にリーシェが話していた事もそうだ。
神の子である一人の少年、クロへ魔の手を伸ばそうとする神聖ロマネス教に、砦でのヴェリオス王国の不可解な動き。
様々な可能性が考えられるが、これだけは理解できた。
「……アレクシア、王国」
危機的状況に陥りつつあるこの王国の存在に、クロは身を震わせた。
「悠長にしていれば、時の流れは益々犠牲を生む……」
尤もな発言だ。
こうしている間にも、最悪の運命は近付いているのだから。
そしてその運命の前兆は、少年にも振りかかる事となる。
唖然とする少年にエルザが告げたのは、大きな展開への予言となる。
「そして神の子。貴様はこの先、新たな時の揺り籠で大きな運命を辿ることになるだろう……」
紡がれる新たな運命への軌跡。
その言葉は、瞬く間にクロの意思を揺らめかせた。
「私は……。……!?」
突如聞こえる湯が持ち上がり、流れ落ちる音。視線を落としながら考え込んでいたクロは、目の前で立ち上がりながら露出させるエルザの姿に気付き、急いで顔を逸らした。
「さて、私から言えるのはここまでだ。これから来るであろう運命の選択を、自分自身の頭で考えて動く事だな」
「……あ、あぁ」
クロは、顔を背けたまま気まずそうに返事をする。
「またな、神の子……」
流動する湯の音。
少年は、目を瞑りながら彼女がそのまま通り過ぎるのを、待つ。
徐々に縮まる気配。
ふとエルザが近くで静止する。
それは吐息が肌に触れるかの様な距離にまで近付いていた。
訳も分からず身を丸めるクロの耳元で、彼女の息が掛かる。
そして……。
「……妹を助けてくれた事、感謝しているぞ」
彼女は、その言葉を最後にその場を去っていった。
「……エルザ」
これまでとは違う、彼女の本音の部分を聞けた気がしたクロは、一人、過ぎ去った後を見据えていた。
一際異様な光が闇夜に照らす洋紅色の月の下には、広大な平原が大地を埋め尽くしていた。
夜行を好む無数の魔物が、餌にありつけようと徘徊する不気味なその地の上にて、一頭の馬が忙しく蹄を何度も鳴らしているのが聞こえる。
馬鎧を装着した馬に跨がっている人物は、全身を鎧で身を包んだ兵士の様だった。
彼は兜すら被る間も無く、血相を変えながらひたすらに馬を走らせていた。
「急ぎ、急ぎこれを伝えなければ……!」
焦燥感と共に向かうその先には、高い城壁で囲まれた都市から姿を見せる、巨大な砂岩の王宮だった。




