暗躍する戦慄因果
リュッフェンヘリア聖国を治める世界最大の神論組織、エルキア教。
彼等は、天界メルキアの名を『世の創造たる者達の絶対領域』とし、古代テセロニア語で気高く尊厳の意味を持つ『世の唯一たる創造神への帰依』つまりエルキアの名とした。
聖国とエルキア教を束ねる法王を始め、神々を崇める十二の信仰、そして天界の三賢老神に仕える三賢聖帝というものが存在している。
剣聖のヴィルヘイズ・ロードル・ロレクサー。二つ名を断罪の光。
大叡知ニヒト。天使の子にして全知と名高い人物。
そして大魔術師レスナー・レルゴナル。人知を超越した魔術の使い手。嘗ては破壊神の化身とも呼ばれ、恐れられていた老人だ。
彼等三人は、エルキア教の秩序と徳操を維持すると共に、神を継承する者、即ち『神の子』を守護、そして育成するという使命を持つ。
これにより神の子の安寧を初め、世を生きる信仰者達は、神々の教えに従い、生ける人々への恵みと平穏が保たれていた。
しかし、未来永劫とも吟われていたエルキア教も『神罰』と呼ばれる神王の裁きによって分裂し、世界は混沌へとのまれた。
『神罰』によって堕天した神々の世界、即ち冥界と呼ばれる所と、天界メルキアの対立となったこの時代において、エルキア教を新たなる深淵へと誘わおうと現れた存在が居た。
神聖ロマネス教。
天界メルキアの教えを覆す絶対神論なるものを説く彼等は、その奇跡の数々を武器に信仰者を急激に増やし、徐々に勢力を増しながらエルキア教を枯渇させていった。
神々への信仰の衰退が著しくなる中、三賢聖帝もまた、大きな影響を受けていた。その後の行方は未だに分かっていない。
と、そんな事細かなリーシェの説明を聞いていたのだが、神聖ロマネス教が信仰している神とは一体何なのだろうか。彼等の目的とは、何なのだろうか。
そうクロは、自身の中で様々な憶測を飛び交わせる。
「三賢聖帝か……傭兵団に所属していた頃から人間離れした力の持ち主っつう噂は聞いていたが、その内の一人だったあの爺さんが素直に捕まるとは考えづらいな」
ジルクリードの言うとおり、連行しようとするディオル達に対し、力を行使してクロを守る事も容易かっただろう。
だがレスナーはクロと同じく、ドラノフ達によって捕らえられる事を許してしまった。これには何か重大な理由でもあるのだうか。
ただ、どれだけ謎が多くても、これだけは言える。
「レスナーは、決して素直に捕らえられた訳ではない……。このアトリエにドラノフの配下が現れた時も、私を護ろうとしてくれていた」
あの時のレスナーの言動が嘘ならば、とんだ名演技だろう。書き記されたこの日誌の内容に嘘偽りは無い。クロはそう感じていた。
「私も、レスナーさんのクロに対する護る意思は変わらなかった筈です。そうでなければ、この日誌の様には書かないと、私は思います」
どうやらリーシェの考えも肯定的の様だ。
彼女と共感すると、何だかとても安心する。
「美談だな……。まぁ、あの爺さんがそう簡単にくたばるとは到底思えないが」
対するジルクリードもまた、溜め息ながらもあの老骨の性質を認めた。
だが、心配である事は間違いない。
出来ることならば、早くにも居場所を突き止めて助け出したいところだ。
そう思っていたクロが、安否の分からない老人の存在に不安を懐いていると、リーシェが隣から囁く。
「……大丈夫だよクロ。レスナーさんはきっと無事だから」
「リーシェ……」
彼女の優しい言葉には毎度安らぎを与えられる。それが根拠の無い飾りだけの言葉だとしても。
「でもよ。女王陛下が言っていた通り、レスナーの身柄がロマネス教にあるとなると、助け出すのはそう簡単にはいかないぞ?」
捕らえられて以降のレスナーの行方を疑問視していたジルクリードがあの日、リリアンから話をされた情報を思い出すと、難しそうに問い掛けた。
彼の言うとおり、謎多き存在でもある神聖ロマネス教によってレスナーが捕らえられているとなると、居場所が判明しても救出は容易ではない。
「勿論、今すぐには難しいかと思います。ですが今は、それより優先すべき事があります」
生まれる時間の間隔。
そしてレスナーよりも先決すべきと訴えたリーシェは、静かに答える。
「クロを、神聖ロマネス教から護る事です……」
「……」
少年は、この時リーシェの放った言葉に、何か重いものを感じていた。
残酷な運命よりも恐ろしい、何かに囚われた様子で話す彼女の表情からは、その必死さが窺える。
「……そうだな。あんな野蛮な連中だ。捕まったら何されるか分からない」
リーシェに促されたジルクリードが思わず苦言する。
神聖ロマネス教に捕まれば、私はどうなるのだろうか……。
ふと思い返してみれば、あの時王宮で出会した神聖ロマネス教の人々の身なりは、クロが始めに居たイスラという街の残骸に現れた人々のものと一致していた。
それに、クロの存在に対して共通するあの言葉。
『邪神の子』
その言葉が誠のものならば、今、自分はどうあるべきなのだろうか。誰を信じ、生きていくべきなのだろうか。
そう考えると、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される思いだった。
「クロ……?」
「……!?」
突然声を掛けられた少年は、自身を見失いそうになっていたところを呼び戻される。
振り向くと、そこには心配そうに顔を覗き込んでいるリーシェがいた。
驚きと共に呆気に取られていたクロは、気になる彼等の存在を問う。
「リーシェ……神聖ロマネス教とは、一体何者だ?……何故、私を狙う」
正直、訊くのが怖かった。だが、このまま引き下がっているままではいけない、そう覚悟するクロの様子に、彼女は多少の躊躇いを見せるも、静かに口を開く。
「……それは、クロ自身が神の子である事への不安だと思う」
「不安……? 」
疑問の声を口ずさむクロに、リーシェは頷き、言葉を続ける。
「神の子は、文字通り神々そのものの力を有しているといってもいい存在。最初は潜在的なものだけど、引き出されれば魔王を討ち滅ぼす可能性のある、唯一無二の希望なの……」
私が、魔王を討ち滅ぼす……?
とても実感が湧かなかったが、誰もが自身を神の子と称しているからには、信じざるを得ないのだろうか。
クロは、思考の深みから渦巻く疑心暗鬼と葛藤する。
「それ程強大な力を持った神の子が、対立するエルキア教の者となれば、それは彼等神聖ロマネス教にとって大きな脅威に成り得る」
リーシェはそこで、自らの見解を示しながら今のクロが置かれている立場を教えてくれた。
「要するに見方を換えれば、魔王討伐が出来る神の子を始末できるくらいに、連中は自分達の力を過信しているって事なのか……」
リーシェの話から、神聖ロマネス教の狂信的な考えが伝わってきたジルクリードが、改めて憎悪の念を表情に表していた。
「……恐らくは」
頷くリーシェ。確かに、これまで遭遇してきた彼等の行動と照らし合わせれば、ある程度合点がいった。
リリアンが王宮で私を匿うのも納得が出来る。
「本来ならば聖国に渡り、そこでクロを保護したいところなのですが……このままでは……」
不安の表情を見せるリーシェは、神聖ロマネス教の魔の手が及ぼす影響に危惧していた。
そう、クロを安全に匿えるのも時間の問題なのだ。
「……」
本当にこのまま大人しく運命に身を委ねていていいのだろうか……。
確かに相手は底の知れない力を持った大きな存在だ。そんな神聖ロマネス教に、気付けばクロは、裏で暗躍する未知数の脅威に畏怖していた。小刻みに震える自身の手がそれを訴えている。
本来ならば、このまま信頼出来る皆に身を委ねて守られるべきなのだろうが、それがどうしても本当に正しき選択肢とは思えなかったクロは、自然に握る拳に力が入る。
「私の……」
クロは、意を決して声を出す。
二人の視線が注がれる中、少年もまた視線を返した。
「私の影響で……、皆が不幸を被るならば、私は神聖ロマネス教に直接抗おうと思う」
この身を殺す事も、大人しく護られていても、良い結果が生まれないのであれば、その元凶と戦う他ないと、クロは思っていた。
それも少年自身だけでは無い、彼等神聖ロマネス教が本格的に行動に出たのならば、無関係の民を含め、その被害は計り知れないだろう。
「おいおい……」
少年の思いもしない返しに、呆れた様子で髪を適当に掻くジルクリード。
無茶なのは重々承知だ。だからこそ。
「私は皆を、この国へと恩義を返したい。身勝手なのは分かっている。だからこそ、皆の力を借りたいのだ……!」
クロは懸命に頭を下げた。
ロザリアによって鍛練は積まれてきてはいるものの、まだ剣すら握らせて貰えない半端者だ。一刻の猶予も無いのならば、頼めるのはこれまで行動を共にしてきたリーシェとジルクリードだ。
「……確かに、それが一番の良いのかもしれませんね」
「り、リーシェ。クロはまだまともに戦えないんだぞ?力を貸すにしても、これじゃあ効率が悪すぎるぜ。今の今までやってこれたのも、奇跡ってもんだ!」
頷くリーシェに、立ち上がりながら異論を唱えるジルクリード。確かにそれは間違い無い、こうして少年が生きているのも幸運だったに過ぎないのだから。
「確かに、奇跡の連続と言えます。ですが、災いが降り掛かるまでに、必ず勝機は訪れます。それまでの間、私達で時間を稼げれば、或いは……」
一体彼女は何を言っているのだろう。
勝機に対して肯定的な反応を示したリーシェに、クロは少しばかり不思議な違和感を覚える。
「尚も奇跡にすがるのかよ……ったく、つくづく神頼みの宗教ってのは訳がわからねぇ」
理解に困ったジルクリードが、常識はずれの思考に対して詭弁を弄した。
「勿論、私達だけではない……リリアンやエルザにも協力を申し出るつもりだ。ジル、頼む……」
納得のいっていないジルクリードにクロは、自身が考えている行動を話して説得を試みると、彼は少年を少しの間横目に見ては重力に任せて体重を椅子に預けた。
「……はぁ、やっぱりそうなるよな」
大きな溜め息をつくジルクリード。そして彼は人差し指を立てながらその手をクロへと突き出した。
「一万ベゼルだ……」
彼の人差し指に、思わず身を引いたクロが呆然とするが、その意図は直ぐに理解出来た。
「……いいのか?」
「阿呆、自分からお願いしておいてその返しはないだろ」
少年の問い掛けに、呆れた様子で押し退けたジルクリード。隣を見ると、リーシェが穏やかに微笑んでいる。
「いいかクロ。一万ベゼルとなると、最低限一週間分戦いながら食っていける額だ。これが何を言っているのかが分かるな?」
そうだ、彼にも生活が掛かっている。ジルクリードは、クロと共にするとは言っていたが、最低限有機物としての活動を維持する為、傭兵の立場からではなく、ジルクリードという人物として、そう持ち掛けてきたのだろう。
「ああ。……感謝する、ジル」
ジルクリードの意思に、素直に気持ちが和らぐ感覚になったクロは、感謝の意を示した。
「ま、まぁ……そういう事だ。これで交渉成立だな」
クロの顔を注視できなくなったジルクリードは、滲み出るはにかみから視線を逸らしながら頬を掻いた。
「ふふ。良かったね、クロ。ジルクリードさんも、ありがとうございます」
「あんたはクロの保護者かよ……」
嬉しそうに微笑むリーシェに、ジルクリードが突っ込みを入れた。
こうしてクロの判断により、三人は迫る神聖ロマネス教の脅威に抵抗するべく、行動を開始する事にした。
《とある仄暗い地下空間にて》
太陽の日が届かぬ薄暗い空間。
無数の煉瓦状の赭の石が規則正しく建造物を構成するその中には、金色の大きなキャンドルスタンドが無数に並べられている。
それらが囲む中央には、開かれた分厚い本が置かれた祭壇を前に、一人の人物が立っていた。
丈の長い煌びやかなローブを身に纏いながら何やら呟いていたその人物は、両手を小刻みに動かしながら集中している。
「……イオル様。執行の準備は万全に整いました。どうか思し召しを」
ふと背後に姿を現した聖職者とおぼしき男が、ローブの人物に声を掛けた。
「善いでしょう。正義を執行致します……」
上げていた両手を静かに下ろしたイオルと呼ばれたローブの人物は、一切振り返る事無く枯れ果てた死人の様な声を放った。
「深きお慈悲に、心ばかりの感謝を……。胎内なる世界は、偉大なる唯一神にあり」
イオルなる男に言い渡された男は、最後に不可思議な言葉を口にしながらその場を去っていった。
「……いよいよ。万物は世の真意を知る時です」
残されたイオルは、一人空間の中で陰謀を響かせていった。
《晩課。エゼルメッス王宮前》
爽やかな青空から朱色へと変わった空の下、王都ドルクメニルの中核である王宮の門の前には、男女と少年の三人が立っていた。
「……ご同行、感謝する」
少年クロは、ここまで一緒になってくれたリーシェとジルクリードの二人に、感謝の言葉を伝えた。
「いいって事よ。これからのお得意様ってことで!」
そんな少年の堅苦しい態度を、ジルクリードはお気楽に言い退ける。
「王宮に居れば安全だから、あまり無理はしないでね……」
「ああ……気を付ける」
心配そうに注意を促すリーシェに、少年は頷いた。
『クロ様!』『クロ様っ』
すると突然、少年の姿を見掛けた騎士や使用人達が、王宮から慌ただしく駆け付けて来た。
「女王陛下が大変ご心配でいらっしゃいます。直ぐにお戻り下さい」
振り返るクロを、リリアンが憂懼に溺れている旨を騎士の男が伝える。
「心配を掛けて済まない……。直ぐに戻る」
「一人で頑張るのもいいが、たまには彼等の事も必要としてやれよ」
少年と騎士のやり取りを見ていたジルクリードは、ふと声を掛けた。
「必要とする……?」
どういう意味なのだろうか。
負担をかけさせないに越したことはないと思っていたクロは、不思議そうに小首を傾げる。
「ああ、人は誰かに必要とされると、嬉しいもんなんだぜ」
「そういう、ものなのか……」
正直に言うと、理解とは言えない見解だ。
親指を立てながら感情豊かに表現するジルクリードが少し、羨ましく感じる。
そんな二人の会話を、リーシェが微笑みながら眺めると、彼女はふとクロの元へと歩み寄る。
「クロ、これを……」
優しい言葉と共に彼女が差し出してきたのは、一つの指輪だった。
白銀に輝く複雑な模様のリングが飾る宝石の様な石は、虹色の光を帯びていて忽ち目を奪われる程に綺麗だ。
「これは……?」
クロが手の平で光る指輪の存在を問うと、リーシェが答える。
「御守りだよ。この先、必ずクロの力になる筈だから。今渡したいと思って」
どうしてこの時に渡してきたのかは分からないが、彼女からならば受け取っておいて損は無さそうだ。
「……そうか。感謝する、リーシェ」
クロが礼を言って指輪を握り締めると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「またね。クロ……」
「此方へどうぞ……」
別れの挨拶を耳に、騎士達に催促されたクロは、そのまはま王宮へと連れていかれた。
「行っちまったな……。毎度の事ながら、隅に置けねぇ奴だよ」
不安そうに使用人に手を引かれていく少年を、ジルクリードは肩を竦めながら見送る。
「そう、ですね……」
その時、リーシェが囁く様にして放った言葉は、何処か長い時間を連想させる言い方だった。
静まる王都。
時刻はすっかりと闇夜に更け、閑散とした王家の居住区画の大廊下を、クロは一人歩いていた。
「……ふぅ」
少年クロは、疲労の溜め息を漏らす。
疲労といっても、ロザリアとの演練が原因ではない。
そんな様子を、偶然通り掛かった騎士の女性が居た。
「これはクロ様、何やら浮かない顔ですね。先程、陛下が大変ご立腹でいらっしゃいましたが……」
自らの君主の姿を目撃してからなのか、そっと声を掛けてくるロザリアに、少年は視線を向ける。
「ロザリア。……いや、それは私が原因だろう」
そう、昨晩。王室での出来事だ……。
……
……
『クロ様、あれほど忠告致しましたのに、何故護衛の者を手放したのですか……!』
まだ幼さが残る顔からは、溢れんばかりの怒りの感情を剥き出しにしているのは、この国の君主リリアンだ。
『済まない……身勝手な行動だったとは、思っている』
気分を沈めるクロは、視線を落としながら謝罪するも、彼女の気持ちは治まらない。
『身勝手ではありません!反省するまで外出禁止です!』
指を差しながらの突然の外出禁止宣告。無理もない、少年は彼女との約束を破ってしまったのだから。
『陛下。どうか冷静に……』
『これが冷静でいられますか!ロザリアといい、クロ様の為に一生懸命頑張って対策を考えたのに、どうして貴方様は私の言うことを聞いては下さらないの!』
急いで宥めようと周りの使用人が恐る恐る声を掛けるも、彼女は両手を上下に振りながら納得がいかない様子で抗議する。
とても一国の王とは思えない子供っぽい立ち振舞いだ。
『……』
言葉に困る少年は、そのまま異議を申し出る余裕も無く、彼女リリアンの罰をうける事になった。
……
……
「それは災難でしたね……」
少年の話を聞いていたロザリアからは、まさかの同情の声が出る。
王家に遣える近衛騎士団の団長から災難という発言が出ると言うことは、ロザリアもまた、リリアンとの関係が宜しくないという事なのだろうか。
気になったクロは、思いきって訊いてみる。
「……ロザリアは、リリアンとの仲が悪いのか?」
すると彼女は不意を突かれたのか、少しだけ驚いた表情を見せる。
「そ、その様な事は決して……」
何故か頬を染めながら顔を逸らすロザリア。一瞬だけ見せた彼女の動揺とその脅え様には、今だかつて無い何か深い事情がありそうだ。
「……?」
「いえ、何でもありません。忘れてください……」
話を揉み消そうとするロザリアに、クロは少し罪悪感の様なものを懐いたのか、これ以上の詮索はやめることにした。




