そのなれ果てに
目の前に浮かび上がった霧状のものは、突然襲い掛かって来た。
為す術なく、少年はそれを真っ向から受けると、幾つもの人の声が頭の中へと呼び掛ける。
『……誰か、助けて』
『あぁ、赦してくれ』
『暗い……怖いよ』
それは何れも苦悩に包まれ、赦しを請う者の声、救いを求める声といった負の感情が無数の束となって少年の心を抉る。
「ぐ…ぁ…」
胸が張り裂けそうな程の猛烈な苦しみは、まるで他人の感情を共有しているかの様な感覚だ。僅かでも気を緩めれば今にも自分自身を見失いそうだった。
怒濤の如く押し寄せる無数の負の感情が嗚咽となって少年を咽び立てようとしていた時……。
『……偽りの子、未だ……え、ぬ』
再びあの少女の声が聞こえた。
少年はふと聞こえてきた声に耳を貸すと、突然その苦しみは刹那にして跡形も無くその存在を失った。
ふと苦しみから解放された少年は、慌てて周囲を見渡すと、軈て自分自身がクロであるとを思い出し、何度も自身の体へと触れた。
……今のは。
目の前には倒れたまま動かないディオルの姿がある。
クロは、高まる心拍数に胸を押さえながら必死に興奮する自分を鎮め、今の状況を整理する。
「そうか……早く、ドラノフを止めなくては……」
そして少年は再び歩きだした。
武器はもう無い。だが、まだ希望はある筈だ。
そう考え、全身に負った傷口から来る痛みを引き攣りながら、階段を一段、また一段と登る。
動け……動くんだ……。
自棄に体が重い。
傷は多いがそう深手は負っていない筈だ。なのに必死に進もうとする体は、何かに押さえ込まれているかの様に動かない。
「……!」
クロはその時、背後に立つ異様な気配の存在に気付いた。その瞬間。
「ザンネンでしたね」
耳元で囁いてきたのは倒れていた筈の彼の声だった。
「……がっ」
そして少年の体は後ろへと強引に引かれ、全身を打ちながら階段を転がった。
「クフフフ……先程のはとても効きましたよ」
不気味に笑い、称賛する声。
階段下へと落下し、方向感覚を撹乱されたクロは、此方へと歩み寄ってくる姿を黙視すると、それは紛れもなくディオルだった。
「があぁ……!」
床へと伏せた瞬間、クロの体に彼の足が落とされる。
「ですが、……貴方は実に甘い、甘いのですよ!」
ディオルは、悲鳴を上げるクロの体を何度も踏みつけた。
何度も、何度も。
「いいですか……?」
「ぐ……っ……」
力無く地面に突っ伏すクロの髪を無造作に掴み上げ、ディオルが顔を近付ける。
「戦いにおいて、情けほど愚かな事はありません……。貴方は怠惰という名の過ちを犯したのです」
ディオルの言葉は、今となって犇々と少年の脳内を廻っていった。
そうか、本当に私は愚かだな……。
少年は自分を嗤った。
どうしようもなく愚かで、主体性に欠けていたという事を。
その結果がこれだ。
「もう諦めなさい、貴方の命はここで潰えるのです」
首筋に巨大な鎌の刃がなぞる。
死への恐怖が襲った。
このままでは無惨にも殺されるだけだろう。だが……。
「わたし、は……」
クロは、押さえ込もうとするディオルの手に抗い、声を絞り出した。
「おや、この期に及んで命乞いでしょうか?」
違う……私は……。
滑稽に笑うディオルへと視線を向け、少年は声を張る。
「私は決して諦めない……!何が善で、何が悪なのか、それは私が決める事だ!」
活路は自分で導きだす。
神の子以前に、クロという一人の少年として。
「それが貴方の遺言ですか……。今さら無駄な事です」
ディオルの反応は実に冷徹なものだった。
それは不快害虫を見るかの如く無慈悲で、無機質なまでに……。
「さらばです……敢え無い最期でしたね、神の子!」
「……!」
そして首筋に走る大鎌の刃を目にした。
クロは迫る終焉に目を閉ざした。
……。
……。
……。
……痛みが、無い。
それどころか、意識さえもある。
「……?」
気付くと、少年は誰かの腕の中に居た。
誰だろうと視線を上げると、そこに居るのは見覚えのある女性が一人、此方を心配そうに見ていた。
褐色の髪に褐色の瞳を持つ鎧の女性、間違いない。
「ご無事ですか?クロ様……」
「ロザ……リア……何故此処に」
驚く少年を、鎧の女性ロザリアが優しく支えながら後ろへと視線を向ける。
「リーシェ殿達が、私をここまで案内して下さいました……」
振り向く彼女が差す視線の向こうには、金色の髪を持つエルフの女性に、銀灰色の髪の男の二人の姿があった。
「クロ……!」「クロ!大丈夫か!」
二人は、ロザリアに支えられているクロを目にすると、真っ直ぐに駆け出す。
「リーシェ、ジル……」
呟く少年に側に寄り添うリーシェとジルクリードの二人は、何れも憂慮の面持ちで此方を見詰めていた。
「良かった……クロ、本当に……良かった」
中でも特に悲しみに表情を歪ませていたのは、他でもないリーシェだった。
何度見ても慣れる事の無い彼女の歎きは、胸中の痛みとなって少年の中を廻っていた。
出来る事ならば、彼女にこれ以上辛い思いをさせたく無い……。
「どうやら、感慨に耽るのはここまでの様です……」
そこでロザリアがふと注意換気を促してきた。
全員が反応する中、彼女はクロをリーシェに預け、部屋の奥へと警戒を向けると、漂う闇の奥底で佇む男が一人。
「ふふふ、これはやられましたね……」
不気味に笑いながら囁く彼の左脚部、そして左腕は失っていた。
それを見たクロは、それがロザリアによって切り落とされたと直ぐに気付く、だが……。
「私も少々、貴殿方を侮っていた様です……」
そう言って自らを戒める彼の失った筈の手足の断面からは、漆黒の影の様なものが現れる。
「なっ……」
驚きの声も束の間だった。出現したその影は、瞬く間に手足という原型となって再び元の姿を取り戻していった。
「あの能力は……」
手足を象る漆黒の異形の姿を目にしたリーシェは、思わず口にする。
「おや、誰かと思えば……いつぞやの純血種のエルフではありませんか。懐かしいですねえ、見れば見るほど、実に本能が煮えたぎる思いです……」
リーシェの声に気付いたディオルは、ふと不気味に笑いながら凝視し、言う。
「まだ、生き残っていたとは……」
「……!?」
そしてリーシェはふと思い出す。
あの時、そう、あの時王宮でクロとジルクリードを助け出す際に、彼は私に向かって言っていた。
『あの時の記憶が甦ります……』
その瞬間、リーシェの中で計り知れない程の胸騒ぎが始まる。
「……そんな、貴方は」
沸き上がる涙腺で訊ねるリーシェの声は、酷く震えていた。
「ええ、あの時……」
「ディオル!貴様それ以上喋るな!」
楽しそうに答えようとするディオルに、ロザリアの声を張り上げながら阻止を試みるも、その答えは紡がれる。
「エルフの里で虐殺をしていたのは、私です……」
「……ぁ」
その突然の宣告は、激しい嗚咽となってリーシェの中を掻き乱していった。
「おいリーシェ!奴の言葉に耳を貸すな!」
ジルクリードが慌ててディオルの言葉に遮るよう促すも、死神の言葉は淡々と続いていく。
「ふふふふ、あれは実に傑作でした。無垢で柔順なエルフ達の断末魔の数々、思い出しただけでもゾクゾクしますね……」
「……どうして、そんな……酷い事を」
狂おしい程の悲しみに犯されたリーシェは、歪んだ碧眼を向けながら訊くが、それをディオルは幾度と無く笑い退ける。
「無論、彼等の様な汚れなき魂は貴重な存在ですからね……私はその……」
「黙れ……」
冷徹に染まったロザリアの目は、凍てつくかの如く、ディオルの言葉を抑止させた。
何時もとは明らかに雰囲気が違う。
クロが視線を向けると、そこには怒りを顕にするロザリアの姿があった。
「……」
他人の為にこれ程怒れるものなのだろうか、少年の中には不思議な反面、羨ましさが渦巻いていた。
「ジルクリード、クロ様とリーシェを頼むぞ……」
「俺もやれるぜ!」
守護を託されたジルクリードは首を振り、加勢しようと声を上げる。
「私一人で十分だ……」
そう言って槍の男の手を斥けたロザリアは、真っ直ぐにディオルへと歩み始める。
「その目付き、その威圧感……懐かしい。こうして久々に会話が出来て嬉しいですねぇ……鮮血の魔将殿」
「基、これ以上貴様と会話をする余地は無い……」
へらへらと彼なりに諂うディオルを、ロザリアは容易く言葉で切り捨てると、剣を鞘から抜く。
「これはこれは、寂しいですね。ですが……」
演技だろうか、ディオルは悲しげに声を落とすと、右手に握られた巨大な鎌を担ぐ。
「貴女と血を交えるのでしたら、後顧の憂いはありません!」
「……!」
ロザリアは、漆黒の影を残しながら迫るディオルを見て構えた。そして……。
「……」
耳を突くかの様な甲高い音の後、静寂が流れた。
「……」
誰もが戦いの行く末を見守る中、見えたのは背中合わせに立つロザリアとディオルの姿だった。
「……くっ、ふっふっふっ」
鎌を振り下ろした体勢で狂った様に笑い始めたディオルは、口元から血を滾り流す。
「力は潰えた、……怨むがいい」
冷静沈着に皮肉を向けるロザリアに、ディオルの態度が一変する。
「そんな筈は無い……私は何時だって、勤勉に使命を果たしたのです……使命を……」
激しく痙攣する体を力で押さえ込みながら声を絞り出す。その表情は徐々に生気を失い、強張っていた。
「そっ、そうです……」
「……!?」
そして彼が此方を見た時、クロは思わず息を飲んだ。
「アナタが……アナタガイナケレバあぁ……」
人ならざる異質の気配を纏いながら少年を睨み付けたディオルの紅い瞳は、鮮緑の瞳へと変わり、力無くその場で倒れた。
「……やはり、偽善信仰者。偽りの子の話はまやかしではなかったか」
共に床へと転がった巨大な鎌は、所有者を失い、漆黒の炎となって消えていく中、ロザリアは倒れたディオルの目を見て悟る。
「偽善、信仰者……?偽りの子って……」
訝しげに眉を寄せるジルクリードに、ロザリアは踵を返しながら答える。
「神々の教えに反しておきながら、自らを正しき信仰者と信じ、曲がった使命を追及する者だ……」
「……曲がった、使命か」
答えを訊いたジルクリードがそう呟き、視線を落とす横で、ロザリアはリーシェを見る。
「……すまないリーシェ。私が居ておきながら」
「……」
一番気に掛けるべきはリーシェだろう。
責め所の無い背徳感に捕らわれたロザリアの謝罪に、リーシェは沈黙していた。
彼女の故郷であろうエルフの里を襲った張本人亡き今、リーシェの中には何が写っているのだろうか?
どう言葉を掛けてあげたらいいのだろうか?
悩んだクロは、ただただ、震える彼女の手をそっと握った。
「クロ……」
振り向いたリーシェの顔は、嘆きの雫で濡れていた。
「……私が、力不足なばかりに」
そうだ。
私に力があれば、リーシェの心に傷を作る事は無かったのだ。
「……?」
自身を責めるクロの頭を、彼女はふとその小さな手でそっと優しく添える。
「ううん。私こそごめんなさい、何時もこんな感じで……」
「リーシェ……」
微笑む彼女の表情は、何処か悲しげに見えた。無理をしているのだろうか。
少年は明瞭としない不安に苛まれた。
「大丈夫なのか……?」
ロザリアとジルクリードもまた、心配の眼差しを向けて来る中、リーシェは立ち上がる。
「はい、ご心配をおかけしました。私はもう大丈夫です……」
「あんまり、無理すんなよ」
肩から力を抜いたジルクリードが、気遣いの言葉を投げる。
「……行くぞ。ドラノフは恐らくこの先だ」
暫くリーシェの表情を窺っていたロザリアは、静かに意思を部屋の先へと向ける。
目的地は近いだろう。
この先の運命を変える為に、クロを始めとするリーシェ、ジルクリード、ロザリアの四人は、一国の王族を救うため、再び走り出した。
四つの足音が聞こえなくなった今、ここでは生命の息吹きは何一つとして存在しない。
そう、一人の人影も残さず。