偽りの異端者
そこは広い空間だった。
今までの暗闇が嘘の様に明るく、視界も良い。
足元に広がる八角形の足場には、魔法陣に類似した模様が無数にも重なりながら刻まれ、その存在感を際立たせている。
壁には上り階段を隔てて前後に出入口とおぼしきものが一つづつ確認出来る。
「……ここは」
嫌悪と静寂が支配するその空間に一人立っていたクロは、状況に対する理解が追い付かず、落ち着かずに辺りを見回す。
「リーシェ、ジル……!」
側に居た筈の二人の姿が無い。
不安になったクロが叫んだ二人の名は、孤独な空虚となって返ってくるだけだった。
何故、自分はここに居るのだろうか。
考えれば考える程少年は混乱していた。
あの、声は……。
思い返してみれば、その幼い女の子の様な声は、何処かで聞いたことのあるものだった。
何時の事か、それは思い出すことは出来ないが、昔から知っている気がする。
だが、あの声が訴えかけていた言葉の意味は、よく分からない。
ただ分かる事は、『魂の器』なる物を取り戻して欲しいという事だ。
……偽りの子とは、誰の事だ。
少年は再び考える。
それが善い結果を招くのであるならば後顧の憂いは無い。しかし、それが最悪な結果を招くのであれば……。
「声が聞こえたかと思って来てみれば、いつぞやの神の子ではありませんか……。お一人で乗り込まれるとは、随分と無用心ですね」
突然声が聞こえた。
この聞き覚えのある軽々しい口調。
少年の中で直ぐに声と人物が一致する。
「死神の……ディオル」
クロが視線を向けた先の階段上に、その声の主は居た。
ディオルと呼ばれた人物は、全身を漆黒の衣服で包んだ姿で階段を一段一段ゆっくりと降りきると、軈てクロと対面し、丁寧にお辞儀をしてきた。
「この私めの名を覚えていて下さるとは、大変恐縮にございます……」
相変わらず気味の悪い男だ。
こうして前に立たれただけで独特な嫌悪感が押し寄せてくる。
「……何故、ここに」
今のクロはただ一人。
少年が警戒心を顕にする中で恐る恐るディオルへと問いかけると、彼は淡々と口を開く。
「無論。貴方方を止める為ですよ。ドラノフ様の信ずる未来を実行させるが故の……ね」
「未来……?」
あまり聞き慣れない言葉にクロが訝しげな表情を見せると、ディオルは拒否する事なく答え始める。
「絶対権力者の名の元に統括された世界。ドラノフ様は全ての神々の力を手にして人類を纏め上げ、魔王を討ち滅ぼす……そんな空想主義を持った素晴らしいお方なのですよ」
何か引っ掛かる。
彼の言い方では、まるでドラノフに対する皮肉を吟っているかの様な物言いだ。
「空想……主義?そんな事が可能なのか?」
クロの少し驚いた表情を、何処か滑稽そうにディオルは肩を竦める。
「さぁて、……私は興味がありませんし、知る必要もありません……」
「ならば、何故ドラノフに就く」
「……私ですか」
ディオルの目的が分からなかったクロは、彼の真意を確かめるべく更に問い詰めると、ディオルの雰囲気が変わった。
そう、あの時王宮で一度見せた狂喜に満ちた異質な存在だ。
「……そう、あの方は、私が欲する物を全て提供してくれる……。それは人々の苦悶、魂、そして私に好奇心を奮い立たせてくれる数々の強者達です!」
両手を左右へと豪快に広げながら愉しそうに歓喜の声を上げるディオルを見たクロは思い出す。
神殿の内部で見たドラノフ配下の兵士の遺体、そして少年の前へと現れた二つの声が訴えていたあの言葉。
憶測の段階でしかないが、クロには確信の様なものを感じていた。
「貴様が……偽りの子なのか」
呟きにも感じ取れる少年の言葉は、目の前に立つ死神に電撃を走らせた。
「その言葉を口にするな!」
「……!?」
突然放たれた彼の咆哮は、まるで別人の如く純粋な憤怒に包まれており、空間の中を何度もこだました。
「……フゥ、まあいいでしょう」
あまりの豹変に驚き、唖然となるクロを見たディオルは、静かに息を吐くと、口調を戻す。
「この際、貴方の今の失言は無しとします……」
ディオルはそこで話を切ると、右手を静かに挙げ、漆黒の気配を纏い始める。
異様な雰囲気を感じたクロは、鞘に納められた剣の柄へと手を掛ける。
「その代わりに……」
言葉と同時に振り下ろされた彼の右手からは、あの巨大な鎌の姿が現れた。
「その神の子たる魂を喰らい、永遠に絶望の淵へとその身を閉ざすことになるでしょう」
その瞬間、鎌を握り締める彼からは再び狂喜に満ちた気配が漂い始めた。
「……私も」
今いるのは自分一人。
リーシェやジルクリードが居ない中、頼れるのは自身のみだった。
勝算は無い。
死ぬかもしれない。
そんな恐怖心を決死の覚悟で抑え込み、少年は剣を鞘から抜き放つ。
「引き下がる訳にはいかない……!」
強張るも、剣を握り締める少年の力強い目付きを見たディオルは、高らかに笑う。
「ふふふ、……はあぁはっはっはっはっ!」
彼は嘲笑うかの様な反応を見せると、その大きな鎌を軽々と回しながら昂る高揚感を漲らせた。
「実に見上げた根性です、いいでしょう……」
そして彼は、漂う闇の中で一際その紅玉の瞳を灯すと、大鎌を構えた。
「貴方がこの短期間で何れ程の力を身に付けたか、この私が見定めてあげましょう!」
「……くっ!」
ディオルから放たれる圧力は、瞬く間に全身を犯す恐慌となって滾ろうとする。
以前とは違って条件が悪すぎる。
クロは、剣を両手で握り締めたままディオルの出方を窺った。
「おや、来ないのですか……。ならば此方から行きますよ!」
痺れを切らしたのか、ディオルが一言置いてから瞬きをした次の瞬間、彼の姿は目の前に居た。
それはまさに瞬間移動といっても差し支え無いだろう速さだった。
「……!?」
不意を取られたクロは、間合いを詰めてきたディオルに向けて剣を構える事が精一杯だった。
「鈍いんですよ!」
「……ぐっ!」
少年の身は、ディオルが突き込んだ蹴りによって背後へと吹き飛ばされ、地面の上を転がった。
蹴りとは言えど少年の身を持つクロにとっては彼の今の一撃は激しい衝撃となって肉体へと響いていた。
「さあ見せてください……貴方が持つ、神の子の御業とやらを!」
ディオルはどうやら王宮で自身の攻撃を防いだあの業を期待しているみたいだ。
だが、あの時は槍に念を込めた際に偶然紡がれたものだ。発生の理論なんて解るわけがない。ましてや自分自身が神の子である事にも半信半疑な状態なのだ。
仮に見事その業を紡げたとしても、彼が満足して武器を引っ込めるとは到底思えなかった。
「何故、其ほどまでに戦いを求める……」
無意味な戦い程無駄な事はない。
彼は此方の進行を止めるという名目があるとはいえ、異常なまでの戦闘意欲だ。
誰も傷付きたくは無い筈なのに。
そんな無垢な感情が、クロを疑問で悩ませた。
「魂……」
「……?」
ふと呟いたディオルの意味が分からなかったクロが訝しげに眉を寄せると、彼は言葉を続ける。
「そう、迷える人々の魂が私を常に求めるのです。……我を殺し、その親愛の情をもって浄化せよと」
先程とは異なり、まるで別人の様に喋るディオルに、クロは違和感を感じていた。
そんな彼の言葉は、少年を更なる混沌へと誘っていた。
「この世は悪しき者によって汚されようとしている。私はその者達に救済を与えるべく存在しているのですよ……」
正論を言っている様にも見えるが、クロには憐れな異端者に見えた気がした。
そこで少年は思い出す。
あの二つの幼い声が訴えていた言葉を。
『己が使命を放棄、均衡の妨げの礎と成りうる存在』
『神の子。闇へと誘い、その手で偽りの子を葬れ』
要約すると、それはクロの手によってディオルを殺す事の宣告を意味していた。
だが、勝ち目なんてあるのだろうか。
どうしていいか分からなくなったクロは、視線を思わずディオルから逸らした。
「素晴らしいとは思いませんか?神の子である貴方ならば、この偉大な意味を理解出来る筈です……」
「……」
やはり理解出来ない。
理解したくもない。
そんな拒絶心によって沈黙するクロを見兼ねたディオルは、表情を冷徹なものへと変えていく。
「そうですか、……実に残念です」
その時、気配が狭まる気がしたクロが視線を戻すと、目の前に大鎌を振りかぶるディオルの姿があった。
「……!?」
「やはり貴方は悪しき者です……!」
次の瞬間、鎌を振り下ろすディオルの咄嗟の行動に対処すべく、辛うじてクロが盾代わりにした剣は、衝撃と共に弾かれると、少年の体は宙へと舞った。
「がっ……!」
地面の上で激しく回転し、横たわる自身の体。
朦朧とする中、うっすらと視界に浮かび上がるディオルの姿は、魂を狩る死神の様だった。
「う……ぐ……」
痛みが全身に容赦なく襲いかかる。
起きろ……起きるんだ……。
そう何度も自分自身に言い聞かせながらクロが再び剣を握ろうとするも、その刀身は砕かれ、武器としての機能を失っていた。
剣が……。
絶望感が押し寄せた。
どうすればいいか分からず、混乱した精神状態では次の手段が見出だせなかった。
無様だな……。
熟自分は無知で無力だ。
そんな自虐的感情が、自身の意思を弱くさせていく。
ここまでなのか……。
後悔と無念さの中、少年が覚悟を決めようとした時、それは視界へと飛び込んだ。
「魔術紙……」
光を帯びていない羊皮紙の巻物、それはリーシェから受け取った魔術紙だった。
開いてみると、見たことの無い紋章だ。レスナーと魔術紙作成をしていた時はこの様な複雑な紋章など一度も見ていない。
だが、紋章からしてこの魔術紙の効果は強力である事が窺える。
リーシェ、そうか……。
まだ希望はあった。
クロはあの時のリーシェの言葉を思い出し、魔術紙を握り締めると、ゆっくりと立ち上がった。
……本当に、愚かだな。
「……おや、もう諦めたのですか?」
煽るディオルに構わず、クロは手に握られた魔術紙を前へと突き出し、それに描かれた紋章に意識を集中させた。
意識を集中させ、術式を詠み解く……。
クロが紋章へと意識を向けた途端、紋章に描かれた術式の意味が理解できた。
感じた事の無い不思議な感覚に、動揺する中、クロは術式を詠み解き始める。
紋章に描かれた術式からして属性は恐らく光系、構造はかなり複雑だが解くのは容易だった。
これならば……。
少年は魔術紙の術式を詠み解くと、その紋章を脳内で思い描き、解読した文字を唱える。
「万世へと導く理の光。今こそ聖なる裁きを以て彼の者に断罪を与えん」
その時、体の中から何かがごっそりと抜けていく感覚がした。
突然の出来事に目を見開いたクロが次に目にしたのは、光を放つ魔術紙だった。
「これは、まさか……」
それからは一瞬だった。
僅かに狼狽えるディオルを前に魔術紙は、その光を帯びたまま激しく燃え上がり、消えていくと、少年の足元で大きな紋章となって浮かび上がる。
「……!?」
範囲内を軽く走り回れる程の大きな紋章は、紛れもなく魔法陣そのものだった。
二重となって重なり、幾つもの記号や文字を走らせるその光景は、神々しさすら感じられる。
「おお……、この見事な術式。この神髄たる禍々しい力、これです!」
対するディオルは、目の前の光景に思わず歓喜すると、両手を勢いよく広げながらその感情をうんと顕した。
「……」
何度見ても彼の不気味な姿に慣れなかったクロは、不快感に表情を険しくすると、魔法陣に刻まれた術式の存在に気が付く。
他に真新しい術式が無い事から、恐らくこれが最後の術式だろう。
効果は何れ程のものなんて解らない。
しかし、今やらなくては殺されるだけだ。
「覚悟しろ……ディオル!」
そして少年は、術式を解読し、その魔法の名を口にする。
「エンテリケイト・リデジェクション(神々の裁き)!」
次の瞬間、凄まじい閃光が走り、一瞬視界を一面の純白へと変えると、一筋の光が槍状となってディオルへと向かったのが見えた。
「面白い!このディオル、感慨無量です!」
ディオルは、漆黒に染まった禍々しい闇の気配を鎌へと纏わせて迎え撃とうとした時。
「ぐぶっ……!?」
光の槍は、意図も容易く突き出された鎌を無視し、そのまま彼の体を貫いていった。
声を鈍らせたディオルは、鎌を構えたまま静止すると、一時の静寂が空間を支配した。
「はぁ……はぁ……」
役目を終えた魔法陣が跡形も無くその姿を消す中、クロはふと襲い来る疲労感に肩を上下に揺らしながらディオルを警戒した。
「……ば、かなァ」
渇れきった声で事の顛末に対する皮肉の言葉を残すと、彼は崩れる様にその場で倒れ伏せた。
「……終わった、のか」
クロは、警戒したまま抜け殻の如く動かなくなったディオルを目にし、思わず呟いた。
信じられない光景だ。
今まで勝算なんて考えられなかった少年に、大きな動揺が襲う。
「……!?」
その時、突然横たわる彼の体から霧状の何かが無数に抜け出していくのが見えた。




