竜を超越されし偶像の祠
遥か昔、海や大陸を渡った多くの飛竜達が、外敵が少ないこの山の頂を住みかにしていた。
だが、後からやって来た大きな竜はこれを許さず、飛竜達を追い払ってしまう。
邪魔者が消えて満足した大きな竜は、そこを縄張りとして住み始める。
すると、そんな竜の姿を見た人々が、口を揃えてこう言う。
『あれが竜神様だ!』
それから人々は恵みを求めるべく、その竜に食べ物や財宝等の献上品を与え始めた。
怠け者な竜は、人々から受ける品々に甘え、何年も、何年も山から離れようとはしなかった。
そんなある日の事、山で寝転がる大きな竜を見たとある神は激しく嫉妬し、その竜を石にしてしまう。
石にされた竜は、二度と動く事は無く、山の中で一生の眠りにつく事となった。
竜の姿を見た人々は、ショックの余り、酷く泣き崩れる。
以降人々は、その竜を祀る為、危険な山に神殿を造り、永遠の恵みと繁栄を願った。
ロペリウス神典 第六十三項
アレクシア王国領の北部に聳える巨大な山脈は、まるで侵入者を拒むかの様に険しく、そして美しい。
天を穿つかの如く伸びた山頂は、雲すら貫き、空高く大地を見下ろしている。
地上から飛べば、一面のっぺりとした岩壁ばかりの断崖絶壁だ。
そんな山脈を、菜の花の如く鮮やかな色に染まった大きな獣が、壁から点々と顔を出す岩場を蹴りながら上へ、上へと目指していく。
獣は軈て雲へと入り、山脈を登り続けていると、それは姿を現した。
「あれが、エリオル神殿……」
一見して顕著に現れたそれは、巨大な建造物の様だった。
大きな獣の背中で目を細めた小柄な少年クロが目的地の特長と照合していく。
槍の男ジルクリードが呟いていた通り、空を白く濁らせる厚い雲の中で山脈とほぼ一体化しているその姿は、不気味そのものだった。
「ファル。あそこで降ろして!」
少年の隣に座っていたエルフの女性リーシェは、目的地である巨大な建造物を視認すると、召喚獣ファルに伝えた。
「クウゥゥゥン!」
リーシェの声を聞いた召喚獣ファルは、大きく鳴くと、その図体からは想像できない俊敏な動きで神殿へと真っ直ぐに進んでいった。
柱の様に伸びた岩の間を抜け、広い足場へと着地したファルから降り立ったクロは、思わず辺りを見渡す。
深閑とした仄暗い空間は何処までも広がり、とても深い。
ここは山脈の岩場とは違って、長方形に成形された大きな鈍色の石が無数に積み重ねられ、一つの神殿という建造物を創造していた。
それは一歩踏み締める度に、まるでここが山脈の中だという事を忘れさせる程に見事な出来だ。
「……?」
召喚獣ファルが再び空間へと帰る中、先に前へと出たクロは、何かに気付くと、その場でしゃがみ込み、地面を見る。
何の変哲も無いその石の床にある微細な砂と僅かな小石、それは何らかの外部的圧が加わり、僅かに傷や痕跡を付けていた。
「……足跡か」
少年はそれが人によるものだと直ぐに判断出来た。床に付着した砂に付く幾人かの足跡は、真っ直ぐに神殿の奥へと続いている。
「既に神殿には来ているみたいだね」
彼等は自らの足を使ってここまで来たのだろうか。リーシェの言葉を聞いたクロは、ふとそんな疑念を抱く。
此方の動きが遅れているのだとしたら、それはもう最悪な結果を招く可能性が高まる事になる。
そんな懸念が徐々に焦燥感を煽ってきた。
「行こう……」
先を急ぐべく、クロが足を踏み出した時、動かないもう気配が一人。
「……ジル?」
振り返ると、そこにはジルクリードが一人、立っていた。彼は、思い詰めた表情で視線を落としながら一点だけをただ見ていた。
「ジルクリードさん。あれは仕方がありませんよ、そうするしか……なかったので」
ジルクリードに気遣おうとリーシェが心配そうに声をかけると、彼は暫くの間の後、小さく首を振り、視線を二人に向ける。
「いや、……俺もファルに運ばれていて目が覚めた気がする」
そしてゆっくりと歩き出したジルクリードは、クロとリーシェを見て頭を掻く。
「その、悪ぃな、心配かけさせちまったみたいで……」
「気にする必要はない……」
あんなジルクリードは見たくない、そう思っていたクロにとって、不器用に謝る彼を見て少しばかり安心していた。
「気を取り直していただけたようで何よりです」
二人の気遣いを受けたジルクリードは、目を瞑り、大きく深呼吸をする。
そして上を見上げ、空気を吸い、そして一挙に吐き出す。
「……まだ何と無くだがな。よし、もう大丈夫だ。行こうぜ」
そう言って陽気な笑みを浮かべながら緊張感を高ぶらせる彼の目は、何処か悲愴に眩んでいた。
一つの間隙も許さぬ精度で造り上げられた神殿は、一歩一歩踏み入れる毎に外気を失い、光の侵入を拒む程に深くなる。
道中分岐のない巨大な一本道が続く為、迷うことは少ないが、道を進む度に深まる闇が不気味さを物語る。
そんな大きな道の終点で顔を出したのは幅広い階段だった。
奈落へと続いているかの如く降りる先は暗闇に染まり、精神的に行動を阻まれる様だ。
こんな暗闇の中では流石にこれ以上の身動きが取れないと感じたリーシェは、ふと光を右手に纏わせ、空中に浮かび上がらせ始める。
すると、闇染まっていた周囲は、見違えるように視認が出来るようになった。
「その魔術は……?」
クロの中にはその業の知識は無い。
リーシェは、クロの質問に対して小さく微笑むと、優しく答え始める。
「これは、正確に言うと魔術ではないの。大精霊の加護を受けた際に得られる『精霊術』と云う力の一部で、光の精霊術と呼ばれるもの……」
「これが精霊術か……。噂には聞いていたが、こうして見るのは初めてだな」
ジルクリードもまた関心の眼差しで目の前に浮かぶ光の玉を見上げる。
「急ぎましょう」
視覚が確保された今ならば躊躇うリスクが少ない。
リーシェは、二人を急かす様に声を掛け、階段を下り始めた。
その階段は、規則的な高さと幅で一段、一段、強固に造られていた。
階段を下り始めて少しばかり時が経つが、魔物の気配どころか、静寂ばかりが続いている。
「なぁ、リーシェ……」
何処までも続く階段を慎重に下りながら、ジルクリードがリーシェに声をかける。
「……どうかしましたか?」
呼ばれたリーシェは振り返ると、丁寧に言葉を返す。
「いや、この神殿について詳しいのなら教えて欲しいんだが……」
ジルクリードが言う。
確かにこの神殿に関する情報は分からない事が多い。
クロはあの時、情報屋での作戦会議後、エルザに神殿について訊いたが、「心配はいらない」との一点張りだった。
会って間もない彼女を頼るのも何だが、他のハウゼン達を始め、リーシェまでもがまるで知っているかの様に同じ様な答え方をしていたのだ。
「この神殿に祀られている竜神って奴を守る為の存在とか……」
ジルクリードは、槍を握り締めながら何時か現れるであろう魔物の存在に、口調をやや尖らせながら警戒心を表していた。
しかし、リーシェから返って来た言葉は、彼にとって常軌を逸するものだった。
「ここには、守護者に値する存在が居なければ、魔物も居ません。ですが……」
そこで口篭るリーシェに対して少しばかり不信感を抱いたジルクリードが首を傾げると、彼女はやや躊躇いながらも言葉を続けた。
「……このエリオル神殿は、厳密に云えば神殿ではありません」
それは唐突な宣告だった。
クロもまた、気にする素振りで伺う中、ジルクリードが動揺しながら問う。
「神殿じゃないって、どういう事だ?」
リーシェは、ジルクリードの問い掛けに対して少々迷いの様子を見せるが、観念した様に再び口を開く。
「……エリオルという言葉は、聖戦時代まで使われていた古代ロメルス語で『竜を司る者』という意味を持ちます。この神殿を築いた人々は、嘗てこの山に居た巨大竜を神として祀る為に造られたものです」
「つまりその巨大竜は、神ではなかったという事か……」
そこでジルクリードは悟ったのか、当時の彼等が言う神という存在は単なる虚像だという事に、リーシェは黙って頷き、肯定した。
ならば、『竜を司る者』という存在は何なのだろうか、様々な疑問が脳内を駆け巡ったジルクリードが更なる質問を重ねようとした時、先頭を歩いていたクロが止まった。
突然の事につられて立ち止まった二人は、クロの様子を伺うと、その表情は酷く曇っており、強張っていた。
「……どうした?」
少年より前へと出たジルクリードが不思議そうに前へと目を凝らすと、光の玉によってそれは照らし出された。
階段の執着地点の先に広がる空間。
闇の奥底へと広がる地面に幾つも横たわるそれは、紛れもない人そのものだった。
「な!?」
既に抜け殻と化したのだろう、その人々からは、外見からして一切の生命反応は伺えなかった。
酷く傷んだその死体は、それぞれに大きな傷を作りながら深紅の湖を作り、独特の血生臭さを漂わせていた。
恐怖と絶望を物語る兵士の表情は、皆苦悶によって崩れており、事の悲惨さを証明している。
「……」
そんな中、呆然とするクロは、ただただその亡骸達を見ているだけだった。
特に感情が芽生える事もなく、虚無感のみが少年の意思を支配する。
それはあの瓦礫と化した街で目を覚ました時からだ。こうして人の死体を前にしても感情が揺さぶられる事が無い。
そして、それをどうにかしようという気も起きなかった。
そんな無頓着さが、次第に少年を空白へと染めていき、虚しさだけが残る。
「大丈夫か、クロ……」
ふとジルクリードが声をかけてきた。
クロが視線を向けると、彼は横たわる兵士の側で膝を折っていた。
何故彼がそんな事を聞いてきたのか、それは彼なりに少年の気持ちを汲み取った故での事だろう。
しかし、大丈夫かどうか、正直なところ、今の少年にとって彼の気遣いは抽象的に感じ、よく分からなかった。
沈黙を貫くクロに、ジルクリードは肩を竦めて軽く息を吐くと、静かに立ち上がる。
「あまり、無理するなよ」
「……あぁ」
気遣いの言葉を掛けた彼は、小さく返事をするクロを見て話を切ると、槍を再び握り締め、腰に手を当てながら彼等の亡骸を一望する。
「……どうやら、この装備からして、ドラノフんところの兵士みたいだな。どいつも大きな刃物の様な物で鎧ごと体を切り刻まれてる」
一体誰がやったのだろうか。
いや、傷口から察するに魔物の類も考えられそうだが、今のリーシェの話からしてその可能性は低いと言える。
それに、何れもその兵士達の傷口は一ヶ所だ。それは、一太刀で絶命している事を意味していると捉えて差し支え無いだろう。
「何れにせよ、この有り様だ。俺達も警戒するに越したことはなさそうだ」
一切の油断は許されない。そんな緊張感ある面持ちで先に行こうと足を突き出したジルクリードの意思は、クロの一言によって止められる。
「リーシェ……?」
少年は、踏み出そうとしないリーシェを怪訝そうに伺っていた。
階段の終点で立ち止まる彼女の表情は、絶望と悲しみによって歪んでいた。
「……おい。大丈夫か、リーシェ」
ジルクリードもまた声を掛けるが、リーシェは苦しそうに胸元を押さえてると、呼吸を荒くしながらその碧眼を強く閉ざした。
「……く、ろ」
苦し紛れに絞り出された彼女の弱々しい声は、確かに自身を呼んでいるものだと、クロは直ぐに理解できた。
何か嫌な予感がした少年は、咄嗟にリーシェへと駆け寄ろうとした、その時だった。
「クロっ!逃げて!」
リーシェが懸命に声を搾り出しながらクロへと叫んだ瞬間、少年の視界は漆黒へと染まった。
「……!?」
今の今まで周囲に居たリーシェとジルクリードの姿とその気配は消え、クロは孤立した。
「リーシェ……ジル!」
必死に体を捻り、辺りを見ながら二人の名を呼ぶが、返事が来る事は無かった。
次の時、クロは何かが接近してくるのが分かった。
恐らく人では無い。
少年はそう直感した。
クロは、次第に強くなる大きな気配に警戒心を高めていると、それは姿を見せる。
不気味な至極色の球体が二つ、淡い光を漂わせながら闇の中でゆらりと浮かんでいた。
「……誰だ」
すると、その球体は答える。
『深淵。魂を喰らいし大鎌を持つ偽りの子』
女の子?酷く声が歪んでいるが、クロには何となくそれが幼い女の子の声であると認識出来た。
『己が使命を放棄、均衡の妨げの礎と成りうる存在』
もう一つの声もまた幼い女の子の様だった。何かを訴えているのだろうか、随分と固い言葉を羅列していて聞き取りづらい。
『創造主たる我が主に、魂の器を再び取り戻さん』
「そなた等は……」
少年は問い掛けた。
だが二つの球体は、応じる事なく言葉を淡々と続ける。
『神の子。闇へと誘い、その手で偽りの子を葬れ』
その時、少年の視界は再び仄かな光を取り戻していくと、そこは、先程まで居た部屋とは異なる場所だった。




