漆黒の鼓動
地平線を描くが如く広がる砂漠と、不規則な大地を形成する荒野の境にそれは聳え立つ。
磨かれた岩石が草臥れた鉛色を帯ながら一つの砦として国境の上でその存在感を漂わせていた。
かつての耀かしい歴史を持つ砦は、今ではその面影はない。
短期間に渡り、数々の死者が出た砦には腐敗と焼け焦げた臭気が広まり、不快感を際立たせる。
昼間にも関わらず、内部に入るとやけに薄暗く、人気は無いに等しかった。
不穏を感じさせる空間に、先頭を進んでいたジルクリードが眉間に皺を寄せる。
「くっ、ひでえ臭いだな。鼻が曲がりそうだ……」
内部に広がる空間には、無惨な兵士の遺体が点々と横たわっている。
「酷い……」
事態の生々しさに、リーシェも思わず声を漏らす。
暫く砦を歩いていると、クロはふと僅かに響く足音に耳を傾けた。
「何か聞こえる……」
クロの呟きに、ジルクリードが少し活気が戻った様子で視線を向ける。
「でかしたぞ坊……じゃねえ、クロ」
「何があるか分かりません。気を付けて行きましょう」
急ごうとするジルクリードにリーシェが注意を促すと、少年の情報を頼りに奥へと突き進んで行った。
歩く度に強まる無数の足音に、ジルクリードは訝しげに目を細める。
「この音、大勢居やがるな……」
奥から響く無数の足音は、一つの方向へと向かっていく様子が感じられた。
先に見える広い空間を前に、三人は柱の陰に身を潜ませながら足音の正体を伺う。
「ヴェリオス兵か……」
ジルクリードが見据える対象は、ヴェリオス王国の国章が刻まれた鎧姿の兵士だった。彼等がそれぞれに隊列を組みながら一方方向を進むその横で、指揮官らしき人物が何かを叫んでいる。
耳を傾けるも、距離と雑音で聞き取ることは到底出来ない。
「ちっ、何言ってるか分からないな。どうする?」
煮えを切らしたジルクリードが次の対策を練ろうとする中、クロは指揮官に集中し、耳を研ぎ澄ませていた。
集中力が対象へと集まるに連れて、徐々に指揮官の声が耳へと入り始める。
『第一小隊は二連隊と合流!第二小隊はこのまま王都へと帰還する!急げ!』
指揮官が大声で指示を下す内容は、この砦からの離脱を示唆しているものだった。
事態は急変したのだろうか、クロは妙な警戒心を擽られる。
「……離脱しているのか」
ぼそりと呟くクロに、ジルクリードが感心した様子で軽く目を見開く。
「凄いな、あの距離で聞こえるのか。俺にはさっぱりだ……」
「あれ程の数の兵士が離脱となると、何か大きな事が起きている可能性はありますね……」
クロの言葉を手がかりにして推測するリーシェに、ジルクリードが話の進展に嬉しそうに陽気な笑みを浮かべる。
「奴等が居なくなるとなりゃあ、こっちも動きやすい。さっさとロザリアを見つけて戻ろうぜ!」
二人はジルクリードの催促に同調すると、兵士の気配が消えたのを見計らって一斉に進み始めた。
あの兵士の姿を確認して以降、砦の中では無人を貫き続けていた。
内部では三人だけの足音が至る所で響き渡り、残るは静寂のみが広がる。
「ああ、何処なんだここは!歩いても歩いても同じ様な所だ!」
ジルクリードは二人が歩く側で進捗の停滞に頭を掻きながら嫌気を差す。
「おかしい……」
対するリーシェは、自分たちが進む進行経路に対して景色が変わらない事への違和感に懸念を懐いていた。
そしてクロは、変化の無い長い廊下の先から感じる大きな気配に気付く。
「……この気配」
すると同時に大きな鼓動音が廊下の中で共鳴しながら聞こえてくると、ジルクリードは気味が悪そうに顔を顰める。
「……何だ、この音」
進むに連れて聞こえてくる低い鼓動音は、同じく気配がする砦の奥からだった。
「……」
クロは何と無く誰かに導かれているような感覚を覚える。
誰かが仕組んだかの様な、そんな感覚。
「……これは」
音と気配を頼りに前へと進むと、長い廊下は軈て正方形を象った大きな広場へと出た。
クロは広場の中央へと目を向けると、そこには禍々しい光を帯びた漆黒の球体が浮かび上がっていた。
「……何だありゃあ」
リーシェと共に後から来たジルクリードは、不自然な広場に動揺しつつ、クロの視線に合わせるように目線を向け、その対象を見て思わず口走る。
「……あの球体は」
リーシェは中央の球体を目にすると、記憶の中に引っ掛かりを覚えた。
上手く思い出せないが、善によるものでは無いのは明らかだろう。
「見るからに危険な香りがするな……」
リーシェの隣に立つジルクリードが得たいの知れない球体に不快感を強める。
「うっ!?」
三人は広場へと足を踏み入れていると、突然クロの体に電気が走ったかの様な衝撃を受け、あまりの激痛に胸を握り締める。
「クロ!なっ!?」
唐突のクロの反応にジルクリードが駆け寄ろうとした時だった。
何もなかった筈の地面は、眩い光を帯びた巨大な魔法陣によって瞬く間に広場全体を埋め尽くした。
「この魔法陣は……!?」
リーシェは展開される魔法陣に、霞んでいた記憶が甦る。
次に彼女の中で激しい危機感と焦燥感が暴れ出す。
「だめ!離れて!!」
リーシェの叫びとそれは一緒だった。
広場の中央に浮かんでいた漆黒の球体は鼓動を早めながら不規則に回転を始める。
その後、広場を埋め尽くす巨大な魔法陣からは、粒子状の漆黒の物体が無数に球体へと集まり始め、徐々に一つの存在を形成していった。
「……!?」
突然の出来事に後退るクロを、ジルクリードは急いで捕らえて距離を置く中、目の前で形成される物体は次第にその大きさを露にしていく。
「おいおいおいおい!なんなんだよこりゃあ!」
見上げる程の巨大な物体に、ジルクリードは仰天を隠せない様子で視線を上げていく。
そして三人を前に無数の粒子状の物体が造り出したものは、剰りにも大きな存在だった。
漆黒の巨体から放たれる禍々しい妖気。
上部に生える豚の様な頭部からは、大きな角が左右に二つ。
闇に歪む巨体には大きな剣や槍が幾つも突き刺さり、その生々しさを物語っていた。
紅い瞳を揺らめかせながら握るその右手には暴力を象徴させるかの様な巨大な棍棒が握られていた。
「……弱っているのか」
リーシェとジルクリードの二人が警戒する中、クロは目の前の巨大な存在からは僅かに弱っている様子が見て取れた。何者かがそうさせたのだろうか、理由までは分からない。
「魔皇族……冥界が生み出した魔王の遣いです。どうしてここに……」
その大きな影に見覚えがあったリーシェは、怯えと恐怖で震えた。
見ているだけで全てを奪われそうな、そんな威圧的存在。
「オオオォォォォォ……」
魔皇族なる豚の巨人は、クロを見据えると深く、重い唸り声を響かせながら棍棒を振りかぶる。
「まずい、来るぞ!」
ジルクリードは危険を感じ、透かさず注意を促そうと叫んだ瞬間、怒涛の如く迫る轟音と爆風が三人を襲った。
「……ぐっ!?」「きゃっ!」「ぐわぁっ!?」
豚の魔皇族が振るった棍棒は、地面を破壊しながら広場を一瞬にして混沌へと導いた。
想像を越える速度が引き起こした暴風に、リーシェとジルクリードは方向感覚を失いそうになりながらも、自身の体勢を維持しつつ、それぞれに受け身を取る。
「……くっ」
一方で剣を杖に衝撃を殺そうとしたクロは、体を回転させて地面へと転がった。
「クロ!」
ジルクリードが豚の魔皇族を警戒する中、リーシェは急いで少年へと駆け寄る。
だがクロは体に傷を作りながらも直ぐに立ち上がる。
「リーシェ。大丈夫だ……」
少年は彼女に言葉を返し、自身の無事を示すと、素早く巨人へと注意を向ける。
三人の前に立ち塞がる巨大な影に灯る紅眼の光は、静かに揺らめきながらその不気味さを物語っていた。
「なんだよこいつは、化け物ってレベルじゃねえぞ!」
感じたことの無い異質の存在に、ジルクリードは困惑を隠せない様子で槍を握り締めると、広場全体を見渡す。
「どうやら閉じ込められちまったみたいだな……」
展開された魔法陣は、広場全体を覆い、退路を完全に断っていた。
もう戦う他ない。
ジルクリードは決心すると、今の状況から出来ることを洗い出し、背後に居るクロへと語り掛ける。
「おいクロ、俺が教えた戦いの基本を覚えているな……?」
昨日ジルクリードから教わった剣術の基本は今でも鮮明に記憶していた少年は、迷わず頷く。
「心得ている……」
クロの返答に何処か嬉しそうににっと口元を吊り上げたジルクリードは、言葉を続ける。
「よし。リーシェ、奴の弱点とか分かるか?」
彼の質問にリーシェは、記憶に残る対象の弱点を伝える。
「先程の黒い球体があの大きな身体の何処かにある筈です!、それを壊せば……」
「黒い球体だな、分かった!」
彼女から弱点なる情報を聞き取ったジルクリードは、槍を回転させて柔軟性を高めると、距離を詰めてきた豚の魔皇族を睨む。
「クロ!俺が攻撃を煽る、隙が出来たらあのでっけえ鈍器を持ってる奴の手を切り落とせ!リーシェはクロを全力でサポートだ!」
ジルクリードは手短に二人へと指示を送ると、槍を構えた。
「ああ……」
「分かりました!」
「行くぞ!」
二人の返答を受けたジルクリードは、それを合図に地面を蹴ると、豚の魔皇族との距離を詰めた。
「オオォォォ……」
接近してくるジルクリードを見下ろした豚の魔皇族は、唸り声を響かせながら正面から棍棒を振り下ろす。
「正面だ!」
上部から落ちてくる巨大な棍棒を見たジルクリードがクロへと情報を流した。
「分かった……!」
「イーラヴェゼリクス(光の過重)……!」
ジルクリードが攻撃の軌道から回避すると、リーシェが魔法を発動させた。
仄かな光を帯びた棍棒が地面を殴ると、瓦礫や衝撃が拡散する事なく大地へと沈んでいった。
「エリクトヴェゼジット(織り成す牙)!」
リーシェが巨人に駆け寄るクロの剣に魔術を加える。
そしてクロは、沈んだ棍棒を引き上げようとする巨人の右手首に近付き、刀身を走らせた。
「グウゥゥゥ……」
激しく飛散する黒い液体。
棍棒を握っていた巨人の手は、綺麗な切断面を見せながら地面へと落ちた。
豚の魔皇族は呻き声を響かせながら失った自身の右手の部分を見始める。
「狙うは胴体!」
攻撃手段を著しく失った豚の魔皇族が右手に気を取られている隙に、予測される球体の位置を信じてジルクリードが巨人の胴体目掛けて魔力を込めた槍を突き出したその時。
「グオオォォォォォォッ!」
突然巨人は声を上げた。
それは空気を押し返すが如く凄まじい衝撃と轟音となって周囲へと広がる。
「うわっ!?」
予想外の出来事にジルクリードは、成す術無く声の衝撃によって吹き飛ばされた。
彼は地面に接触する手前で落下の衝撃を逃がし、体への負荷を減らすと、豚の魔皇族の様子を伺う。
「グウゥゥゥ……?」
三人が警戒する中、巨人は無惨に失った左手を見据えながら低い鳴き声を響かせ、頭を傾げた。そして……。
「な、何だよそれっ……!」
ジルクリードは目を見開いた。
クロが落とした筈の巨人の手は、黒い煙を上げながら少しずつ元の形を取り戻していっていた。
「どういう事だよ!再生したぞ!?」
失った身体の一部を再生する様子を見たジルクリードが混乱の言葉を吐き出す。
「嘘……こんなのって」
リーシェにとって想像を絶するものだったのか、驚異の再生速度に驚愕しながら緊張感を高める。
「オオオォォォォォ……」
豚の魔皇族は再生した右手と棍棒を確認すると、透かさず声を轟かせながら横に攻撃を加える。
しかしその攻撃は、以前に比べて大幅に速度を増していた。
「まずい!逃げっ」
ジルクリードが二人へと促そうとする頃には遅かった。
既に視界全体に広がった棍棒は、抵抗を感じさせる事の無い早さで三人を大地と共に凪ぎ払った。
次に全身の感覚が突然消失する。
直前に構えた防御も虚しく、砕かれた瓦礫と共に三人は広場の四方八方へと吹き飛んだ。
そして閉ざされる視界。
体内の臓器が押し潰されるかの様な激しい衝撃は、全身の神経を一瞬にして殺した。
自分が生きているか死んでいるかも分からない。
「……ぅ……がぁ」
ジルクリードは積み重なった瓦礫の山に身を預けた状態から、残された筋力で上体を起こす。
口から溢れる鮮血。
彼は僅かに戻る視界の光を頼りに、足へと力を入れて立ち上がると、直ぐに二人の様子を見た。
「……はぁ、はぁ」
地面へと横たわる二人の体。
ジルクリードは絶望感に精神を壊されそうになった。
「死ぬ、な……待ってろ、俺が」
彼は覚束無い足を一歩一歩踏み締めながら二人との距離を詰めていくと、大きな足音が近付いてくる。
「……守ってやる」
ジルクリードは足音に気にも止めず、歩き続けていると、崩れるようにその場で倒れた。
「オオォォォ……」
ジルクリードをまるで小物を見るかの様な目付きで見下ろす豚の魔皇族。
状況は絶望的だった。
俺は……、誰も守れずに……、死ぬのかよ……。
意識が薄れる中、ジルクリードは悔しさのあまり、自身の無力さに嘆いた。
そして死を覚悟しようと身を地面に委ねる、その時だった。
「……?」
ふと近くで聞こえる物音。
ジルクリードは全力で微々たる神経を尖らせると、目を見開く。
巨大な豚の魔皇族を前に立ち塞がる小さな体、それはクロだった。
全身を伝う血液や傷口からは想像できない堂々とした後ろ姿は、どんな存在を前にしても揺るがない勇ましさを象徴させている。
「……く、クロ」
ジルクリードの中で衝撃が走り、悟った。
今、自分が目の前に居る存在が誰なのかを。
「……誰も」
痛みが全身を襲う中、クロは口を開く。
「死なせ、……ない!」
クロは両手を広げ、そして腹の底から力の限り叫んだ。
「ウオオォォォ……」
しかしそれでも巨人の意思は変わらない。
人ならざる魔皇族にとって、人の意思とは全く無意味であり、無価値なものだからだ。
豚の魔皇族は、行く手を阻む小さな少年を前に、棍棒を振り上げた。
こんな状態では抵抗一つ出来ないのは分かっていた。
それでも意思だけは揺るがない。
「……!」
そして棍棒が振り下ろされようとした時、少年は覚悟を決めて目を瞑った。
そして時が止まったかの様な感覚が流れる。
突然の状況に何が起きたか分からなくなったクロは少しずつ目を開く。
ぼやける視界の中、身を引く巨人を前に立つ女性が一人。
褐色の長い髪を三つ編みにして前へと流し、その瞳にはまた褐色の光が宿る。そして騎士の風貌を漂わせるマントには一つの剣を象ったアレクシア王国の国章がその存在を際立たせていた。
『目標を包囲、一斉に行動力を奪って撃破する!』
朦朧と音がこもる中で、彼女が何か指示を下すと、複数の鎧姿の人々が豚の魔皇族を囲むようにして現れる。
「……だれ、だ」
クロは見知らぬ人々の出現に、力無く呟くと、全身から力が抜け、静かに意識を閉ざした。
……
……
……
『……急いで運ぶぞ!』
声が遠く聞こえる。
幾つもの足音の中、近付く一人の人影。
どうやら体を動かされている様だった。
消えていく巨人の姿を前に移り変わって行く景色。
そう、状況は終わっていた。
少年は、鎧姿の人々に運ばれる二人の姿を最後に、静かに目を閉ざしていった……。




