迷える少年の修練
王都郊外の砂漠を南下すると、荒廃した大地が見えてきた。
時は既に日没を越えており、淡い茅色の荒野からは日の光は消え、月の光へと移り変わってゆく。
徐々に低下する気温の中、高所を目印に大きく跳躍する巨大な獣の姿は、もはや跳躍ではなく飛翔という言葉が近いだろう
。
人影ひとつ見当たらない魔物の地で一際目立つその三つの尾の獣には、人の姿が三名確認出来る。
「おい!本当に坊主は大丈夫なのかよ!」
銀灰色の髪の男ジルクリードが、落ち着かなさそうに獣の体毛に掴まりながら目の前で眠っている黒髪の少年クロを見て叫んでいた。
「応急処置は行いました。後は安全な場所で休息をとりましょう!」
その内、獣の首根に掴まっていたエルフの女性リーシェは、そうジルクリードへと返し、上空から大地を見下ろしながら待避出来そうな場所を探していると、軈て砂岩を多く含む荒野からぽつりと物寂しげに立つ小屋を一件視認する。
「ファル、あそこで降りて!」
ファルと呼ばれた三つの尾の獣は、リーシェの指示を聞くと、速度を上げて小屋へと一直線に向かう。
気付けばもう月夜だった。
目的の小屋を前にリーシェは、ファルの頬へと手を添える。
「……無理をさせてごめんなさい。ゆっくり休んで」
「クウゥン……」
ファルは静かに目を瞑って鳴くと、リーシェが展開した魔法陣の中へと消えていった。
「その獣、ファルっていうのか……」
クロを背負っていたジルがふと訊くと、リーシェは振り返りながら答える。
「正しくはファルビウスといいます……。とても心優しい子ですよ」
リーシェは、両手を後ろで組ながら微笑むと、ジルクリードは意外そうな反応を見せる。
「へえ……。召喚獣ってのは、どれも力だけがものを云う様な存在だと思っていたんだが、ああいうのも居るんだな……」
ジルクリードの中で抱く召喚獣の印象と違っていたのか、感心した様子で言う。
「……召喚獣は、契約者である主のみに遣える存在ですが、決して従属や奴隷ではありません」
リーシェはそんな彼に対し、穏やかに頬を緩ませながら言葉を返すが、その表情は少しばかり悲しみが含まれていた。
「……すまん。そんなつもりじゃないんだ」
ジルクリードは、そんな彼女の表情に同様したのか、慌てて自分の発言を撤回しようと手を左右に振る。
「あ、いえ。気にしないでください。私の独り言ですから」
対するリーシェも、謝られるとは思わなかったのか、ジルクリードへと返す。
「そうか……」
「……えっと、もう暗いですし、魔物が集まる前に中へ入りましょう?」
それとなく納得して呟くジルクリードに、リーシェが語りかける様に促すと、二人と共に小屋の中へと進む事にした。
小屋は随分と使われていなかったのか、建造物として構成している粗末な木製の板が腐食し、今にも壊れてしまいそうだ。
然程広くはない屋内の片隅へとクロを静かに寝かせたジルクリードの顔からは、深刻さが伝わる程表情を固くしていた。
……神の子、か。
ジルクリードはあの時、王宮広場でディオルが言っていた『神が生んだ子』という言葉が頭から離れない。
自ら選んで連れ出した少年の存在に、彼は自身の中で迷いを生んでいた。
「クロ……」
深々と呟くリーシェ、ジルクリードはふと視線を向ける。
「……クロ?」
不思議そうに首を傾げる彼に、リーシェは静かに寝息をたてる少年を見守りながら答える。
「そうです。クロです。この子の名前なんですよ?だから、坊主なんて呼び方は駄目です」
丁寧な小声で叱るリーシェの表情はとても清らかな優しさに包まれていた。
「クロ、か……」
少年の名を復唱するジルクリード。
リーシェは沈静としながら何処か寂しそうに声を細くし、膝を抱えた。
「ですが、この子はまだ自分が何者なのか分からないんです。……だからいつも迷っている。どうしたらいいんだろうって……」
それはまるでもとからクロの事を知っているかの様な言い方だった。
彼女が何者なのかは気になったが、ふと詮索に抵抗感を感じたジルクリードは、今感じている事を彼女に訊く。
「なあ……」
「……?」
彼女はジルクリードの呼び掛けに黙って耳を傾けた。
「俺は今、こいつに何をしてやれるんだ?」
迷いが導きだしたその言葉には、真剣さと深みがあった。
まだ全体を把握出来た訳ではないが、状況は思っていたよりも深刻であった事への責任感を、ジルクリードは感じていた。
「優しいのですね……」
そう言って彼女は、驚くジルクリードに微笑みながら答える。
「深く考えず、貴方が思う信念のままで大丈夫ですよ」
それは優しく、力強い言葉だった。
そして彼女から放たれる微笑みは、不思議とジルクリードの心を穏やかにさせてくれる様な気がした。
「信念のまま、か……」
その言葉は違和感ひとつなく、彼の中へと入っていった。
そしてジルクリードは考える。
自身自信を見つめ直そうとした。
「ふぅ……」
息を吐きながら静かに立ち上がったジルクリードは、槍を担ぎながら踵を返した。
「ちょっと見張りに行ってくる……」
一人になりたくなったジルクリードは、不寝番を盾にそう伝えると、小屋を出ようと歩き出す。
「あのっ……」
背後からふとリーシェが呼び止めた。
「……」
そして彼女は、振り返らないまま止まるジルクリードへ伝える。
「クロを助けてくれて、ありがとうございます……」
ジルクリードは軽く手を上げて返事を返すと、そのまま小屋を出ていった。
それは心地好い感覚だった。
負を一切許さない洗練されたその感覚は、永遠の安らぎを得たかのように全てを手放したくなる。
「……」
徐々に覚醒する意識の中、クロは静かに目を開いた。
目の前に広がる空間。
見たところ、どうやら古ぼけた屋内の様だ。
しかし感触がおかしい。
「おはようございます。クロ」
ふと聞こえてきた柔らかく、穏やかな女性の囁きに視線が行くと、そこには微笑ましそうに笑顔を向けるエルフの女性が一人、此方を見下ろしていた。
一瞬どういう状況か理解出来なかったが、クロは直ぐに彼女の膝の上で目を覚ましていたことに気付く。
「……!」
状況を理解した途端、クロは反射的に体を起こしてリーシェから離れる。
「ふふ、可愛らしい顔で寝てましたよ」
揺るがない彼女の眩しい笑顔がクロの心拍数を上昇させ、混乱を引き起こす。
「お、随分と目覚めがいいな……って、何してんだお前ら」
小屋の中が賑やかな事に気付いたジルクリードが後から顔を覗かせると、目の前には笑顔で正座をするリーシェと彼女に対して身構えるクロの姿といった構図であった。
「クロの意識改革です」
リーシェは笑顔で即答した。
彼女は自身に何をしようとしていたのか分からなかったクロにとっては恐怖の対象だった。
「意識改革だと……」
クロに未知の戦慄が走る中、やや震え声で呟くと、ジルクリードが笑いながら軽くあしらう。
「そりゃあお前、遊ばれてんのさ。お前みたいな純粋そうな奴はいい的だろうよ」
「そ、そうなのか……。!?」
想像とは違う意見に驚いたクロは、更に困惑し、思考に溺れていると、お腹が空腹を訴える。
「お腹が空いているのね。食糧はあるから一緒に食べよう?」
そんなクロの様子にリーシェはくすりと笑うと、何処か嬉しそうにしながら食事に誘ってきた。
「……あ、ああ」
警戒しながらも、空腹には勝てなかったクロは、素直にリーシェの申し出を受け入れることにした。
「あ、それから坊主……じゃねえ、クロ……だったか?。腹ごしらえが終わったら、表に来いよ」
唐突のジルクリードの呼び出しに振り向く。用件は不明だが、気軽に誘う彼に悪意は無いのはこれまでの付き合いでも明らかだろう。
「……分かった」
クロは迷うことなく頷き、返事をした。
小屋を出ると、そこは広い広い荒野だった。見渡す限りの荒れた大地は日に晒され、至る所に陽炎を生み出している。
そして突き刺す日の光の中、クロは目の前に立つジルクリードの側まで歩み寄る。
「よう、腹一杯食ったか?」
何時もの陽気な雰囲気で訊いてきたジルクリードに、クロは頷く。
「ああ。……それで、用件というのはなんだ?」
クロは気になっていた疑問を訊ねると、ジルクリードは何も言わず、黙って一つの物を此方へと投げてきた。
「……?」
高い金属を上げながら地面へと落ちたそれは、一本の剣だった。
見たところ、特に装飾が施されている訳でもないただの剣の様だ。
「小屋に転がっていたもんだ。この先何が起きるかも分からねえのに、丸腰じゃあ不安だろ?」
ジルクリードの言葉にクロは足元の剣を静かに手に取る。
とても重い。
金属製であるその剣は、ずしりとクロの手に重量かかる。
あの時のジルクリードの槍とはまるで重さが違った。
「よし、持ったか?。なら構えろ」
彼は次に指示をする。まだ意図が掴めていない様子のクロに、ジルクリードは言葉を続ける。
「俺流だが、簡単に剣の施しをしてやるよ」
そう言うジルクリードが手に持つ武器はいつもの槍ではなく、木の枝を整形しただけの木の棒だった。
「……ジルは、槍を使わないのか?」
クロは疑問を抱く。
しかし、その疑問は彼の失笑によって直ぐに打ち砕かれる。
「お前阿呆か、子供相手にそんなもん使えるかよ。こいつで十分だ」
ジルクリードはそう言って目の前で木の棒を軽やかに回して見せた。
「そっちから来いよ。遠慮なんて要らないぜ」
この時、クロは迷った。今では関わりの深い間柄と言える彼に対して敵意を向けることになるのではないのか、そんな意識が少年の行動を躊躇させた。
「来ないならこっちから行くぜ!」
「……!?」
迷っている余裕は無かった。
咄嗟に間合いを詰めるジルクリードが振り下ろした木の棒に、クロは反射的に剣を横に支えながら衝撃を受け止める。
クロは彼の攻撃を受けきれたと認識した次の瞬間、視界は地面へと転がった。
「ぐっ……」
剣を片手に横たわるクロをジルクリードが木の棒で肩を叩きながら見下ろす。
「ほらどうした。全力で来いよ!」
次に彼は木の棒を両手に握り締めながらクロへと突き下ろす。
「……!」
今度はジルクリードの攻撃が見えていた。先程よりも動きが遅いと感じたクロは、木の棒が落ちる前に身を捩りながら持っていた剣の樋で彼の突きを弾き、距離を取った。
「お、いい反応だな」
目の前の彼は余裕そうに軽く振る舞うが、振り回す度に腕への負担が掛かるクロにとっては一撃一撃が重く感じる。
「……だがそんなんじゃあ戦いは疎か、足手まといになるぜ」
「……っ」
これ以上みんなの足を引っ張りたくは無かったクロは、彼の一言が重くのし掛かる。
この時少年は、今の状況に対する意識の変化を感じていた。
「これ以上他人には迷惑をかけたくはない……!」
クロは思わず沸き立つ言葉を言い放つと、ジルクリードは揚々と気分を昂らせる。
「お、その意気だ。なら次行くぜ!」
次の攻撃が来た。
剣を両手に身構えるクロに対し、ジルクリードの木の棒が真横から振り払われた。
「……!」
クロは身を低くして木の棒の軌道を剣で上へと流そうと構える。
「その手は乗らねえぜ!」
クロの行動を予測していたのか、木の棒の軌道は剣に触れることなく急激に変化し、反対から走らせてきた。
ここだ……!
クロはこの瞬間、ジルクリードの死角を視認すると、前へと滑り込み、木の棒の軌道の下へと潜った。
「……!?」
一瞬、驚きの表情を見せたジルクリードに構わず、クロはその重い剣を全力で振りかぶる。
「……!」
次の瞬間、木が撓る音が聞こえ、強い反発力がクロを襲った。
一瞬だけどうなったか不明だったが、直ぐに自身の攻撃が押し返された事が分かった。
「……っ」
弾き飛ばされ、バランスが崩れそうになったクロは、空いた片手で地面押さえて身体の推進力を殺すと、急いで剣を構え直す。
「ふっ、やるじゃねえか……」
「……?」
息を乱しながら戦闘に集中していたクロは、ふと彼の呟きに意識を傾ける。
「その感覚だ」
対して、クロの攻撃を受け止めていたジルクリードはそう言ってふと嬉しそうに口元を緩ませると、親指を立てて少年の戦いを称賛した。
「感覚……。?」
彼の助言を受けたクロは、呆然と呟くと、ふと我に返り、今の戦闘を見直した。
「いいか坊主。何事も目的意識を持つことが大事だ。そうすりゃあ、自分の行動に価値観を見出だせる……」
「……価値観」
クロはジルクリードを見た。
言われてみれば物事に関する価値観を意識した事が無い。その言葉は、クロの中へと強く響き渡っていく。
「だからお前はもっと柔軟になる事だな。俺みたいにとは言わねえが、取り敢えずそれが俺からの最初の要望事項だ」
「……分かった」
クロは、彼の言葉を受け止め、そして頷いた。
「よし!教育が終わったところで、もう一回戦と行くか!」
「……ま、まだやるのか?」
完全に戦闘から意識が離れていたクロは、張り切るジルクリードに思わず訊き直した。
「当たり前だ!俺がいつ終わりって言ったんだよ!」
「……確かにそうだな」
「そうと決まったら構えろ!」
……
……
そして二人は、荒野の中央で再び修練の音を響かせ始めた。
明日のヴィッツェイラ砦の侵入に備えて……。