善なる闇、悪なる光
磨かれた砂岩が鏡の如く煌めく絶大な空間には、一歩踏み締める度に幾つもの足音となって交響する。
一人だけではない、無数の足音だ。
見渡す限りの視界を砂漠の世界に染めるここはアレクシア王国の中枢、名をエゼルメッス王宮。
先程のドラノフの屋敷とはまるで全てが異なり、顕揚と偉大さに満ちた場所だった。
そして目の前を歩く貴族風の身なりをした中年の男ドラノフ。このアレクシア王国の重臣を担う人物らしいが……。
「今回、貴方から極めて重大な判断材料を得ることが出来ました。感謝しておりますよ」
拘束状態のまま兵士に歩かされていた少年クロがドラノフの背中姿を怪訝な表情で見据えていると、彼はふと此方へと喋りかけてきた。
不透明な彼の三面六臂な発言が不信感を際立たせる。
「……何が目的だ」
彼には訊きたいことが山ほどある。
疑念の絶えない少年の意思は、目の前で歩く得たいの知れない男へと向けられた。
するとドラノフは、間を隔てる事なく直ぐに答える。
「私が目指すものは、目的等という廉価物ではありません。新たなる思想の実現です」
ドラノフが独自に持つ思想……。
其れ程までに彼が野望として懐いている象とは一体何だろうか。
「新たなる……思想……」
不可解な造形に、少年は辛辣と感情の渦を蔓延らせる。
「えぇ……。それは即ち、奇跡と科学が織り成す究極の理想郷です」
自身が持つ未来への概念を誇示するドラノフ。
彼の理想郷とやらの実現の為に、レスナーやリアンネを手に掛けたというのか。
「この様な事……王が認めているとでも言うのか」
クロはこの王都を歩く活気に満ちた人の数々を目にしてきたつもりだ。
それはリーシェを始め、レスナーやエミル、そして商人の男もそうだ。
彼等の原動力が仮にこの男、ドラノフによるものだとしても、君主である王族は裏で牛耳る彼の行動を容認しない筈だ。
だが……。
「王……?あぁ……貴方はあの小娘から悪い影響を受けていたのでしたね」
クロは更に混乱する。
何故目の前にいるこの男はこうも穏やかな笑みを浮かべているのだ。
唖然と見ているだけの少年に、ドラノフはそこで立ち止まる。
そこは巨大な柱が支える神秘の空間。
謁見の間。
聳えるに等しいその象徴的な玉座の前で躍動的に振り返った中年の男は、両手を広げながらこう述べる。
「貴方が今目にしているこの私こそが、王なのです!」
響き渡る男の満悦至上主義。
共に歩いていた兵士達は、目の前の君主に対して膝を付き、頭を垂れ始めた。
少年の目に映るドラノフという名の男は何を悟ったのだろうか。
理解の出来ない不安因子が幾度となく頭の中を掻き乱す。
そう、少年は何が正しいのかが分からなくなっていたのだ……。
「……王、そなたが……王だと」
考えれば考える程に増す混沌思考。
そんな俯きながら呟く少年の姿に、ドラノフは玉座へと優雅に腰を掛けながら口の端々を吊り上げる。
「左様……あの愚かな小娘は、この世界の要でもあるクロ殿を利用し、逆賊をこの王都へと送り込んで国家転覆を企てていたのです」
リアンネが、このアレクシア王国を?
俄には信じ難い証言だったが、それが真実だとすれば少年は大きな悪行を働こうとしていた事になる……。
それに、ドラノフが口にしていた言葉。
「世界の要……私が……?」
それは気になっていた事だった。
アトリエで対面したレスナーの反応もそうだ。自分自身が何者なのかが知りたい、そういった本心が、クロの意思を突き動かす。
「教えて欲しい、私は一体何者なのかを……」
一瞬、僅かにドラノフが今までの笑いとは異なる笑みを見せた気がした。
暗躍と優越の隠る、そんな表情だ。
「よくぞ訊いて下さった。……クロ殿、貴方こそが、神々より選ばれた偉大なる神の子その者なのです」
この瞬間。少年の中でざわめく何かが過った気がした。
私が……神の子……?
神の子とは何だろうか……。
私は何をするべきなのだろうか……。
盲目の使命感が、蒼然と交差する。
「この神暦、世界は混沌に満ちています。そう、人々は魔王の支配によって苦しめられ、秩序を失い、深い悲しみによって暗黒の黎明期へと誘われようとしている」
悲壮感に支配されたドラノフの表情が懇願するかの様にクロに語り掛ける。
「……」
「幸溢れる王都の人々をご覧になった事でしょう。神々の奇跡と科学の神秘こそが、世界に新たなる秩序を築き上げ、多くの人々を救い、導くのです……」
困難からの克服を示唆するドラノフの教示。
そうだ、彼の言っている事は間違いではない。
レスナーが少年に思い描いていたものとは、こういう事なのだろう。
だが、ここで疑問が出てくる。
初めにドラノフとあの怪しげな男の会話を聞いていた際、レスナーをまるで罪人の様な振る舞いで話していた。
レスナーとドラノフ、二人のクロに対する考えには一貫性なるものを何となく感じるが……。
「……何故レスナーを襲った」
少年の問い掛けに、ドラノフはその長い口髭を弄りながら肩を竦める。
「あの者はリアンネ同様国を脅かす人物。温情を餌に貴方を匿い続け、王宮への申告を拒否したその罪は重い。これは世界の財産であり、希望でもあるクロ殿に対する彼の価値観が生んだ犯行です」
だから、レスナーを国家反逆罪にしたのか。私の影響で……。
どうすればいいか分からない、そんな不確かな意志が、盲目と罪悪感を際立たせる。
「何も気落ちする事はありません。どうかご安心を、貴方に手を出す罪人は私が除去致します。そう、今や世界は貴方の力を必要としています。我々と協力さえすれば……安寧と栄光の未来への一歩が始まるのです」
視線を暗く落とす少年を、ドラノフは優しく慰め、希望へと繋げてくる。
その言葉と共に彼が差し伸べた手が異様に光に満ちているのを感じる。
「今こそクロ殿が心に決め、世界に救済を与えるべく、私の手をお取りください、さぁ……」
判断を催促するドラノフ。
もう後に引けない。
静かに拳に力が込められる。
何を信じるか、信じないか……それはもう、決まっている。
そう、答えはただ一つだ。
深閑と答えを待つ最中で、少年は目の前で手を差し伸べるドラノフの表情を見据え、口を開く。
「断る……!」
少年の判断は、瞬く間に謁見の間を響かせていった。
そう、クロはリアンネを信じたかったのだ。
真っ直ぐに向けられた子供の眼差しは、弱くも何処か力強いものに満ちる。
そんなクロの答えを受けたドラノフは、差し伸べた手を静かに下ろす。
「奇跡を有していても、やはり子供ですな……噛み砕いた説明が必要のようで……」
「必要無い。……それにそなたの善意ぶった言動、本質とは思えない」
自身の説明不足を叱咤したドラノフの更なる教示を、クロは断ち切った。
《善なる本質は悪の本質をかぶらない》
それはこれまで逢ってきた皆が教えてくれていたからだ。
温情には見返りを……。
誰かのために力を尽くす意思に、本当の悪意は潜んでいるのか。
少年が出逢った人々からは、その様なものは感じられなかったと断言出来る。
だからクロは、ドラノフの誘いを断れたのだと思った……。
「……貴方はまだ若い。故に世の理を知らないからなのです、少しずつ……少しずつ私が養育して差し上げますので、ご安心を……」
そう言ってクロの容姿を指摘してきたドラノフの目付きは、鋭い猛獣の如く昂っていた。
明らかに先程とは様子が異なる。
「……!?」
次の瞬間、クロの体は控えていた兵士によってその自由を奪われた。
「よせ、どうする気だ……!」
抵抗しようともがくクロ。
身動きの取れない状態を強いられる中、少年はドラノフへと叫ぶ。
「……近いうちに解りますよ。それまでじっくりと、じっくりと」
質疑を許さぬまま、連行を余儀無くされたクロは、遠退くドラノフの姿を頑なに睨み続けていた。
「待て!せめてレスナーを、リアンネだけでも解放してくれ……!」
少年の訴えは、掬われる事なくただただ謁見の空虚へと消えていった。
図りにかけられた二つの匙は、暗黒の天秤となって奈落へと沈み行く……。
光を見失いながら……。




