安寧の柵で
意識が動く……。
だがそれは余りにも微弱で、頼りがいがない。
しかし、意識が覚醒するのと同時に、自分自身がクロであることを認識出来る。
……?
必死に意識を呼び覚まそうとする。すると、体が揺れている様な感覚が始めに流れてきた。
うっすらと開かれた瞳孔から映し出されたのは、横へと流れていく床と何者かの歩く足。そこで少年は察する。
誰かに運ばれているのか……。
しかし、朦朧とした意識の中では周囲の状況を上手く確認することが出来ない。
意識と視界は辛うじて機能するものの、不思議と体は一切動かす事が出来ない。力が入らないのだ。
『……き……か』
ふと声が聞こえてきた。明瞭とは言えないが、僅かに耳へと入るその音は、人の声だと理解出来る。
クロは微かな感覚に意識を傾け、その声へと集中すると、眼下で動く床は軈て止まる。
『……様、……てきました……』
異なる声を持つ者同士の言葉の掛け合い。何やら会話をしている……。
誰だ……。
更に集中力を働かせる。すると、その声はより鮮明に脳へと伝わり始める。
「待っていましたよ……」
太く、やや枯れた男の声が聞こえてきた。
小耳に挟んだ印象からは誠実さを思わせるもの柔らかなものだ。
「私が提供した魔科学の傑作はいかがでしたかな?」
「上出来かと……。理論上、任意の効果時間は見込めます」
不敵な優越感を漂わせながら自慢気に話す枯れた声の男に対して確信と示すもう一人の声は、若い印象を受ける男のものだ。言葉遣いは敬語だが、何処か不穏を思わせる怪しげな奥深さを感じる。
「それは重畳……」
満足そうに返答する枯れた声を持つ男。
会話の内容から推察するに、少年が睡眠状態である事が何となくだが想像できた。
しかしながら彼等の会話とは裏腹に、今の少年には不思議と意識がある……。
二人が交わす言葉に緊張が走る。
クロは、自身の目覚めを悟られまいと全身の力を手離す。
「して、……そちらが例の少年ですか」
「奇妙な模様をした紅玉の瞳、間違いありません、ロマネス教の情報通りです」
何の話をしている……。
朧気な視界の端から、一人の人影が此方へと近付いてくる。
「王都へ逃げ込んだ憐れな聖国の鼠を彼等に明け渡すつもりでしたが、これは思わぬ収穫です……」
彼はレスナーの事を話しているのか?
逃げ込んだ鼠……その言葉に含まれた闇の実情が少年に妙な不信感を持たせる。
「どれ……」
……っ!?
突然顎を持ち上げられ、分厚く堅い指が少年の瞼を強制的に開眼させる。
鮮やかにして深紅の瞳。
奇妙な紋章の如く浮かぶ少年の眼球が向けられる。
緊迫する緊張感。
真っ直ぐと伸びた白毛混じりの栗色の長い口髭。
ゆっくりと覗き込む男の顔は、堀が深くなり始めた中年の顔立ちをしていた。
「……ほぅ、これは上玉。人とは遠くかけ離れた見事な眼をしています……」
眼だと……。
中年の男による眼の指摘。
何故眼を見たのかは分からないが、何か関係性があるのは間違い無さそうだ。
「排除されたと伺いましたが、奇跡というのは起こるものですねぇ」
そう言って中年の男の指から解放される少年。
彼はそれから踵を返すと、背中越しに少年を担ぐ若い男へと語り掛ける。
「ロマネス教が追い求めている存在、これは偶然の賜物……いや、それとも必然か」
聞き覚えの無い『ロマネス教』という言葉。その組織とは、少年を探し続けているのか……それが事実だとするならば、何故……。
何れにしても、それは善とは異なるものに感じる。確かめたいところだが、今の段階では彼等の真意を聞き出せる状況ではない。一体何が目的なのだ……。
「……如何致しますか?指示通り、奴と同等ロマネス教に明け渡しますが」
「そうですね……」
若い男の催促に考え始める中年の男。
少しだけ間を隔てた彼は、それから怪しげな笑いを含ませると、少年の運命を口にする。
「……この子は大変貴重な素材です。彼等に悟られないよう、此方でじっくりと可愛がろうと考えております」
中年の男が下した判断、それは少年が彼等の道具に成り下がる事を意味していた。
何をされるか分からない。
そんな未知への恐怖が少年の奥底で渦を巻き始める。
「では、研究室へ……」
研究室なる場所への移動を促す若い男。
しかし中年の男は、その提案を否定する。
「早速始めたいところですが、目覚めて直ぐでは混乱を招く上、素材の質が落ちましょう。時間は十分にあります。先ずは精神を落ち着かせてからに致しましょう」
何をする気だ……。
クロは、これから始まる事への不安を募らせる。
研究室とは一体……。
様々な負の因子が暗躍する中、中年の男は指示を出す。
「部屋に入れておきなさい」
「畏まりました……」
清々とその指示を賜った男は、少年を担いだまま、再び歩き始めた。
少年に強い危機感を与えたまま……。