忍び寄る影
昨日はとても楽しい時を過ごせた気がした。
リーシェはその日のうちに帰り、二人となったクロはレスナーと晩餐を過ごして早めに寝床についた。
楽しさを感じれたあの時から今日となった今でもその余韻が気持ちを穏やかにする。
クロはそんな気持ちを心の底に留めながら何時ものように朝食をいただくと、再び与えられた魔術紙の製作作業を続けた。
「……」
黙々と二人が作業に入る。
今日は今までとは違って豪雨が激しく王都を襲っていた。
アトリエの屋根を打つ音が幾多も室内に響き渡る。
この天気では外出を控える者も多いのか、外から感じる筈の人の気配は無い。
作業中、巻物へ描かれた紋章に魔術を付与したレスナーが軽く息を吐く。
「手を休めろ、少しばかり休息だ」
ふとレスナーは、仕上がった魔術紙を完成した物が差し込まれている籠の中へと入れ、ゆっくりと立ち上がった。
「紅茶を淹れてくる。そこで待っていろ」
「分かった……」
レスナーに言われ、クロも手を止めると、羽筆を机上に置く。
本来は此方が淹れるべきなのだろうが、紅茶が好きなレスナーには拘りがあるようだ。出る幕ではない。
レスナーが部屋の奥へと消えていき、一人になったクロは大人しく椅子に座り、雨が落下する音を静かに聴いていた。
暫く聴いていると、激しい豪雨の音の中で僅かに木の板を叩く音が聞こえる。
「……?」
黙ったままその音に反応したクロは、玄関扉を見据えた。
この様な天候の中で尋ね人とは珍しいと感じつつ、玄関扉に近付き、その取っ手に手を掛けた。
「リーシェか……?」
クロはゆっくりと取っ手を引いた。
そして扉が開かれた瞬間、何人かの人の影が背景の光から映し出される。
よく見るとその人々は鎧姿であり、何れも国章の様なものが刻まれている。
想像とは違った光景にクロが呆気に取られていると、背後から物音がする。
鎧姿の人々の先頭に立つ男は、物音を立てた人物を見ると、口を開いた。
「レスナー・リーゼンド・ヴェロスナクであるな……」
鎧の男に名前の確認をすると、レスナーは鎧姿の人々を睨み付ける。
「何の様だ。納品期日にはまだ早いぞ」
クロが振り返ると、そこには何時にも増して険しい表情をしたレスナーが立っていた。その瞳はまるで敵を見るかのように強く、鋭い眼光だ。
「貴方は国家反逆の罪に問われている。直ちに王宮へと出頭してもらおう」
鎧の男は軽々しい口調でレスナーを招いた。
鎧の男が被る兜からその全貌を確認する事は出来ないが、とてつもない気配を感じる。少なくともただの兵士ではない。
「理解できん。言った筈だ、契約外の命じは一切従わぬと」
お互い圧をかけ合う中、クロが二人を見た。
「どういう事だ……」
動揺するクロの側で鎧の男は一歩前へ出る。握られた右手を漂う空気が突如揺らめく。
「拒否するか……ならば」
次の瞬間、鎧の男から発せられる気配を感じ取れたレスナーは、急いで注意をクロに向ける。
「クロよ!そやつらから離れろ!」
レスナーに怒鳴られたクロは反射的に鎧姿の人々から距離をとる。
「おやおや、私はまだ何もしていないよ……?」
やはりこの男は弄んでいた。
ふざけた口調で手のひらを返した鎧の男は、やれやれと業とらしい溜め息をつく。
「それにしても、貴方程の人物がのうのうと子守りとは……。……!?」
軽く嘲笑した鎧の男がそう言って離れたクロを見た瞬間、目を見開く。
その目は一瞬強い敵意を放っていたが、直ぐに見開かれた目が戻ると同時に治まる。そして背後にいる部下らしき人物に伝え、レスナーに向き直る。
「やはり情報は正しかった様だね。これは都合がいい、君も来てもらおうか」
そう言って後ろから一人の兵士をクロへと向かわせると、素早くその手を掴んだ。
「よせ!その少年は関係なかろう!」
レスナーは冷静さを失うほど焦りと怒りを表していた。
逃げ遅れたクロは手を掴まれ、抵抗するもその力量差は歴然だった。
「王宮へと来るのだレスナー。断ればどうなるか分かっているな」
「お主、何者だ……」
規律と誠実を兼ね備えた兵士とは似ても似つかない鎧の男に警戒するレスナーから汗が滲む。
「ん?私はただのいち兵士だよ?過大評価は困るねえ……」
鎧の男が気の抜けた口調でレスナーの反応を弄ぶように返した。
「私は行く……」
「うん……?」
鎧の男が振り向いた。
恩義に報いたい。そういう一心だった。
例えそれがレスナーの望まない結果だったとしても、これが最善だと頑なに信じた。
「私は行く……!そこで好きに私を使えばいい!だから、レスナーは見逃してくれ!」
「何だと!?」
レスナーが驚きの余り言葉を失った。
クロの答えを聞いた鎧の男は黙って俯く、そして。
「ふふふ、はっはっはっ!聞いたなレスナー!これがこの少年の答えだ!」
「クロ!お前自分が何を言っているのか分かっているのか!」
クロは真剣だった。身勝手な判断とは分かっていても、この状況を見過ごしたくはない、そういった思いでレスナーを見た。
「お前さん……まさか……」
レスナーは唖然とクロを見張る。
そんな二人のみやり取りを鎧の男は笑いながらクロに言う。
「いいだろう!望み通り、この少年を連れていく。ただし……」
鎧の男から不適な笑みが浮かび上がった。
突如目の前に魔法陣が展開された途端、紫紺の線が幾つもの束となってクロを襲う。
「……!?」
クロの視界は一瞬にして真っ暗になった。
そして崩れるように力を失ったクロの体を兵士が支えると、そのまま肩へと担ぐ。
「クロ!」
見慣れない業に驚きを隠せない中、レスナーは少年の名前を叫んだ。
「レスナー……貴様を見過ごす事は容認出来ない」
「く、この恥知らずめが……」
目の前の人物が何者なのかが分からない為、迂闊に手をだせなかった。
レスナーは、苦虫を噛み潰した様子で鎧の男を睨む。
「レスナーを捕らえろ!」
クロは、兵士に担がれたままアトリエから姿を消していく。
そんな様子を呆然と見ていることしかできなかったレスナーは、鎧の男の命と共に背後から中へと流れ込む兵士達によって取り押さえられる。
「無様な姿だなレスナー……。かつて三賢の大魔術師と呼ばれていた存在とは思えん」
軽口を叩く鎧の男をレスナーは鋭い目付きで睨み付けた。
「あの子に少しでも手を出してみろ、後悔するぞ……」
「脅しのつもりか……?」
鎧の男はレスナーの言葉を鼻で笑い、一掃した。そして兵士に命令する。
「目標は捕らえた。直ちに王宮へと連れていけ!」
鎧の男の命のもと、兵士達は拘束しているレスナーを強引に歩かせる。
お互いを分かち合った二人は、鎧の人々に連れられたままアトリエから姿を消していった。
そして激しい豪雨の中、一筋の希望は絶望へと変わろうとしていた。