7.瞳の奥
「え、また?」
その情報をもたらしたのはノアールだった。一番デジレ殿下の近くにいる猫。
殿下は近々、航海に出るらしい。また国境視察の続きかと思ったけれど、ノアール曰く「それもあるけどメインはそれじゃない」そうだ。
「どういうこと?」
「以前、デジレが悩んでるみたいだって言ったの覚えてるか?」
「ええ……、そう言えばそんなこと、言ってたかもね」
リリーが、猫にも言えないような悩みってどんなんかな、と言ってたあれだ。
「デジレは昔からユーレイとか神様とか信じないようなやつなんだ」
「はあ、それが? 幽霊なら私だって信じてないわよ」
人間が考える創作物は面白いが、幽霊なんてものは感傷の産物だと思っている。
この猫は信じているのだろうか、と思って胡乱な目で見つめる。
しかしノアールは気にせず続けた。
「当然伝承の類も信じてない。何か見間違えとかが、間違って伝わってると思ってるんだ。でも、ここ最近書庫で人魚の伝説をよく調べてたんだよ。つまり、デジレが海に出たがるのは人魚を探そうとしてるんじゃないか?」
「…………」
「陸に戻ってきてからそれを調べて、また海に戻ってくってことだと思うんだ」
「…………」
「……アリス?」
殿下が、人魚を……。
でも、そりゃそうだ。探さない方がおかしいのかも。だってあの時、目があったんだから。いくらなんでも海の中で人間の女の子が泳いでいるわけない。人魚の実在を確信したのはきっとあの時だろう。時期としても辻褄が合う……。
幽霊なんかと人魚を一緒のように扱われるのは納得がいかないけれど。
「殿下は、人魚を見つけてどうするつもりなの?」
「さあ? 知的好奇心を満たしたいだけじゃん? 俺としてはあまりデジレに人魚探しとかしてほしくないんだけどな」
ノアールは、さっきまでの熱が嘘のようにあっさりと言った。
「どうして?」
「デジレの真意はどうであれ、口さがない者たちの中にはさ、いるんだよ。デジレが第二の”人魚の恩恵”を探そうとしているんじゃないかっていう奴が」
「人魚の恩恵?」
聞いたことのない言葉だった。第二の、ということは第一のものはすでに見つかっているということなのだろうか。
「伝承だよ。それがあるからこの国は繁栄しているっていう、割と有名な話なんだ。人魚の恩恵を手にするまでは嵐が酷くて漁にもまともに出られないし、貿易もできない、頼りない農業で何とかやってる、って国だったらしい。ま、どこまで本当かわかんないけどな」
「第二の人魚の恩恵を手にするとどうなるの?」
「デジレは第二王子だから…もし手にしたら、王太子を差し置いて国王に即位できるかもな」
「……殿下が玉座を狙ってるってこと?」
「狙ってないよ。たぶん。でも、あまりにも海の様子を見に行くことが多いとそういうことを疑う奴らがいるってこと。暇な奴らがね。本当にデジレは人魚を探したいだけだと思うよ。デジレが心から玉座を狙うなら、もっと確実なやり方があるだろ」
ノアールはさらりと不穏なことを言う。
本当にただそれだけだと言うのならいいけど。
人魚はそう迂闊に海面付近を泳がないし、殿下が探しても見つかる可能性は低い。でも、私のせいで故郷にいる家族や同族たちが人間に見つかるのは避けたかった。殿下は人魚を見つけたからって害をなす人じゃないと思うけど、同じ船に乗った人たちはどう思うかわからないし、実在が明かされれば良からぬことを企んで人魚を探す人もいるかも。
殿下が本当に人魚を探しているなら、絶対に人魚たちに見つかってほしくない。殿下が探しに行くのを止める方法が思いつけばそれが一番だけど……。海に戻れない私は、人魚たちに直接警告することはできない。海に戻れればいいのに。僅かな時間だけでいいから。
その時、海に魔女がいるなら陸にいてもおかしくないと閃いた。
陸の魔女に頼んで、海の中でも息ができるようにしてもらえばいい。そうすれば警告には行ける。
「ところでアリス、今日はデジレがいないから歌の練習でもしてくれよ」
「悪いけどノアール、今日は……」
もうこの話は終わりだとばかりに切り上げようとするノアールの言葉を聞きつつも、私は勇み足で立ち上がった。今日は歌も歌う気分じゃない。でも、魔女に会いたくても陸の魔女が住んでいるところを知らないと気づく。ノアールがきょとんとこちらを見ていた。
「あの、この国には魔女ってどこにいるの?」
「……お前が住んでた国には魔女がいたのか?」
ノアールが不審そうに見てくる。この国に、魔女はいないのだろうか。
「いた……と思う。なんかこう、不思議な力を持ってる人とか」
「ユーレイを信じないのに魔法は信じてるって? 変なやつだな。魔女じゃないと思うけど、なんか不気味な占い師が城下にいるよ。広場の隣の小さな小屋にさ」
「占い師……」
それは魔女じゃないと思う。でもそんなこと言えなかった。占いも信じてないけど、仕方がない。とりあえず占いで、魔女のいる場所とか占ってもらえばいいんだ。
「仕方ないわね……。とりあえず占い師のところへ行ってみるわ」
ノアールは興味なさげにふーん、と言っただけだった。どの種族でも男は占いに興味がないみたい。
***
祭りが行われていたのと同じ広場の隣に、それらしき小屋があった。地味で目立たないけれど。小屋の内側にはそれっぽくカーテンがはられていて中は薄暗い。
「ごめんください」
中に先客はいないようだ。
「どうぞぉ」
若い女の、間延びした声がする。中に入ると、深くフードを被った女がいた。手で、目の前の椅子に座るように促される。僅かに弧を描く唇は真っ赤で、なんだか不気味だ。声は若いがこうしてみるとそんなに若くもないのかもしれないと思わせられる、堂々とした威厳のようなものさえある。
「恋の悩みかしら?」
女が言う。ドキッとしたが本題はそれではない。
「あの……魔女の居場所を占ってほしいの」
「魔女?」
「ええ」
女は黙ってしまった。
「魔女に会ったら、なんてお願いするつもりなの?」
女が可笑しそうに言う。
「仲間に警告したいことがあるの」
「そう。……海の中のお仲間に?」
女の唇がきつい弧を描いている。
この女は私が人魚だとわかるのだろうか。占いで?
女は私の返事を待っているようだ。
「……そうよ」
「お前は何も分かっていないね。お前は人間になった。人間は、海の生物と意思の疎通なんてできないんだよ」
女は深く被っていたフードを脱いだ。その下に見知った顔が現れる。
深海の魔女だ。
若い女だと思ったけれど、それは声から受けた印象らしい。声は、私のように、誰かほかから貰った声なのだろうか。深海で会った時の魔女の声とは違うものだった。
「どうしてここに?」
「…………」
魔女は答えてくれなさそうだった。
「代償が必要ならまたあげるわ。あなただって人魚なんだから、人間に探されるのは困るでしょう? デジレ王子が人魚を探しているかもしれないのよ……」
「かもしれない、程度なのに代償を差し出すって? 海に暮らす人魚どもにそんな価値がある? お前もしばらく陸で暮らしていたけど、お前と暮らす人間どもは人魚を見つけたら殺そうとすると思うのか?」
「そう言うわけじゃないけど、でも……」
「私に何でも頼るのはやめて、陸にいるなら陸からできる対策をとりなさい。デジレ王子に調査をやめるよう頼むとかね」
魔女は再びフードをかぶると、私に向かって追い払う仕草をした。
「どうして助けてくれないのよ。あなたはどうしてここにいるの? 私が……こうして頼ることも考えてたんじゃないの?」
「はあ……」
フードの下から、魔女の鋭い眼光が私を貫く。意識しなければ、息をするのも忘れそうだった。
「お前はやっぱりお姫様だね。自分を中心に周囲が動いているとでも? 私がここにいるのは私のためだ。お前のためじゃない」
「じゃあ、人魚の恩恵って何のことだか知ってる?」
質問を重ねると、魔女は今度こそはっきりと不快そうに眉をひそめた。これ以上何も言わなさそうだった。腑に落ちない想いを抱えながらも、私は小屋を出た。
暗い小屋を出ると、日差しが目に突き刺さる。太陽の明るさは好きだが、長い間海で暮らしていた私にとって刺激が強いことは間違いなかった。
魔女は殿下に頼めばいいと言ったけれど、こんなことを直接頼むのは気がひける。人魚を探すのをやめてほしいなんて。理由を言うことはできないし。
そういえば今日殿下はどこにいるのだろう。
城に戻ってノアールに聞いてみるべき?
それとも殿下に人魚のことを聞いてみるべきかな。どういう興味の対象なのか、見つけてどうするべきなのか。聞いても教えてくれるかわからないけれど。魔女を頼れない以上一人ではどうすることもできない。
殿下に私から人魚の話をするのは気が引けた。そもそも私は一度人魚の頃に顔を見られているはずなのだ。もちろん夜の海は暗く、明るい船からこちらを見て私の顔がはっきりとわかったとは思い難い。でももし思い出してしまったら、殿下には人魚が住んでいるあたりが分かってしまう。それではやはり意味がない。
気になることがもう一つあった。人魚の恩恵のことだ。少なくとも海にいた頃はそんなこと聞いたことがなかった。けれど”人魚の”とついている以上無視したくない。実体があるものなのだろうか、それとも本当にただの伝承なのだろうか。この国の建国の話をそういえば知らないのだった。書庫にはそういう本が置いてあるだろう。
帰ったら、取り敢えず書庫へ向かおう。私はそう心に決めて広場を後にした。
***
書庫に立ち入りが許されるのは特別なことらしいが、書庫への比較的自由な立ち入りは、殿下が取り計らってくれた。一人で立ち入ることはできないが、少なくともノアールが一緒なら入れる。そして、ノアールはいつもその辺をうろうろしているので、捕まえるのは容易い。
ノアールは書庫に入るとすぐに机の上に丸くなった。
「何を探しに来たんだ? 占い師に何か言われたのか? 帰ってきたと思ったらすぐ書庫に向かうなんて言い出して
」
「この国の歴史を知りたくなったの。建国当初の……”人魚の恩恵”にまつわる話を」
私は”歴史”という文言が入っているタイトルの中でも一番分厚くて厳しい装丁の本を手にとった。詳しそうだ。
「あんな眉唾話、そういう真面目くさった本には露ほどの情報も載っていないよ」
後ろからノアールの声がする。
「じゃ、どういう本に載ってるの?」
「もっと胡散臭い本に手を伸ばさないと。こういうやつ」
ノアールが私の隣で精一杯縦に伸びるが、その手は短くて届かないようだ。
私がわずかに持ち上げてあげると、ノアールの手が一冊の本を示す。
その本は各地の伝承をまとめたもののようだ。
「人魚の恩恵…」
適度に飛ばしつつページに目を走らせていく。
建国にまつわる話はどの国も神話っぽい切り口からスタートするのが常のようで、類似の逸話も散見された。
やがて一人の人魚が青年に光る玉のようなものを差し出している挿絵が目に入った。本でも終わりの方に近い。これだろうか。そしてこの人魚が持っている玉こそが”人魚の恩恵”なのだろうか。
伝承の内容は、こうだ。
一人の青年が人魚の娘と恋に落ちた。青年は人魚に、一緒に陸で暮らしたいと言った。そこで人魚が深海から、願いが叶う玉を持ってきた。その玉に青年はこう祈った。
この土地に恵みを。この土地を取り囲む海に平和を。私たちの血を継ぐ者に永遠の繁栄を。
こうして青年はこの国の王になり、この国は恵み豊かな土地になり、海は静けさを取り戻した。
「……なんか変じゃない?」
「何が?」
「人魚と一緒に暮らしたいって言って、なんで土地の恵みや子孫の繁栄を祈るのよ? 青年は王になったかもしれないけど、人魚がどうなったのか書いてないじゃない。そこは、人魚が人間になるように願ったんじゃないの?」
「人魚と一緒に暮らすにしたってこの土地はとても人が住むには向いていない土地だったんだぜ。取り敢えずこの土地を安定させようって思うのがそんなに変なことかな?」
「でも……」
「伝承だから、その辺は適当なんだよ。いろんな話が捻じ曲がって混ざり合っているのかもしれないし」
「うーん……」
なんだか腑に落ちない伝承だ。
そしてその人魚の恩恵がこの挿絵に描かれているように実体があるなら、それは今どこにあるのだろうか。
「この人魚はその後どうしたのかしら。青年と……結ばれたの?」
もしそうならこの国の王妃には人魚がいたということになるけれど。建国の神話にそこまで書かれていない。もし人魚の王妃がいたとしたら、そんなことを書き漏らすはずがない。人魚はどうなったのだろう。
「人魚がどうなったのか、どの文献にも載っていないよ。でも少なくとも、王と結婚してはいない。家系図に載っている歴代王妃たちは皆由緒正しい家の出身で、出自ははっきりしている」
背後から響く声はノアールのものではなかった。
「殿下……」
書庫に誰かが入ってきたことに気がつかなかった。ノアールがひょいと跳ねて殿下にすり寄っていく。
「アリスが”人魚の恩恵”について知りたいんだってさ」
口止めしたわけではなので別にいいけれど、殿下の前で人魚という単語を出したくなかった。殿下の目が見られなくて思わず俯いてしまう。
「人魚の恩恵、か。懐かしいな。その話を聞いたのは誰からだったかな……」
「人魚の恩恵とは実体があるもの……なのですか」
「うーん、どうだろう」
殿下が曖昧に微笑む。王族の方でも、わからないことってあるのだろうか。でも私も城の宝物庫に何が入っているのかなんて全然知らない。外部の人に聞かれても答えられない。
「人魚の恩恵があったのかどうかさえわからないだろ?」
ノアールが突つく。こうした話を、殿下としたことがあるのだろうか。
「うん、何かの比喩だっていう説もあるね」
「では、城に保管されているわけではないのですね……」
「まあ、そう、かな」
曖昧に言葉を濁すのは殿下らしくない気がする。でもこれ以上聞かれたくないという殿下の気持ちは察せられた。
「ノアールが、殿下が人魚を探しにいくんじゃないかなんていうから、気になってしまって」
やや強引に話題をそらしてみる。
「ああ、そうなんだ。この国の人は人魚を信じている人が多くてね。見たことがあるっていう人はあまりいないけど」
「そうですか……」
「アリスは人魚っていると思うか?」
ノアールが無邪気に聞いてくる。思わず言葉に詰まって、殿下が何か言うことを期待したけれど、殿下も私の言葉を待っているようだ。その瞳はわずかに好奇心に彩られているように見える。私が何と答えるのか、楽しみにしているかのような。
人魚はいる。いるって答えた方がいいのか、いないと思うと言った方がいいのか。いないと力説しても殿下は人魚探しをやめないだろう。
「い、いてもおかしくないと思います」
苦し紛れにそう答える。おかしくない。そう、いるとは断言できないけれどいないとも言えない。嘘はつきたくない。でも本当のことを言いたくもない。
「へえ。意外だな」
ノアールが目を見開いて驚いたように言う。幽霊を信じていなくてこの国の住人でもない私は、人魚なんていないと言うと思ったのだろうか。
対して殿下は驚いてもいないようだった。
「それは」
殿下はゆっくりと口を開いた。
いつも通りの柔らかい声音。
「君自身が人魚だから?」