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3.ワンダーランドへようこそ



 「待ってよ、ノアール」

 ノアールの足は速い。人間になったばかりで走り方が身についていないのか、ノアールが速いのかは分からない。

 「とろいなあ、アリス」

 アリスという名前はノアールがつけた。

 妹にマリーナという人間風の名前がつけられたように、私にも名前がないと不便だということになった。なんでも、『一風変わった世界に迷い込む物語』の主人公の名前らしい。「記憶も何もかもなくしてこの国に流れ着いたお前にはぴったりだろ?」とノアールが言っていた。「その本を読んでみたい」と言うと、「デジレの部屋にあったかな?」と言っていた。デジレって誰だと思ったけど、その時深く追及しなかったのだ。確かにノアールは王子の猫なんだから本棚の中身を把握していてもおかしくない。

 ノアールは海を臨む庭園の端で立ち止まった。


 「何の用なの?」

 「アリス、お前は本当にこの国の人間じゃないよなあ」


 ノアールは確信的な口調ながらしみじみと言う。


 「え、そうね」

 「マリーナの時も思ったんだけど、お前きっと、何処かの国の偉い人の娘だよ」

 「どうしたのいきなり」

 「城の人間は皆それなりに身分が高い。下働きだってな。でも俺は街にも行くから、平民がどういう生活でどんな振る舞いをするか知ってる。お前のふとした仕草とか、話し方とか……教養はまるでないけど、やっぱり平民っぽくないよ。どちらかと言うと貴族っぽい。昔からそんな生活だったんだろうなって思う。だから、何処かの国の貴族だとおもうんだ。もしかしたら、お姫様かもな」


 さすがに最後のはあり得ないと思っているのか、口調が冗談っぽくなった。


 「…………でも本当に何も覚えていないのよ」

 「そっか」

 「わざわざこれを言うために呼んだの?」

 「この国の言語を話す民族はたくさんある。でも字が読めない貴族なんているかな? そういうちぐはぐさを持っている人間にこの短期間で二人も会うなんて不思議だよ。ちょっと不自然なくらい。……よその国では、王太子以外の、王位継承権を持つ王族を幽閉したり殺したりするって聞くし、お前はそういうのから逃れて来たお姫様かもなって、最近考えていたんだ。髪が短いのも、正体をごまかすためとか。そしてもしこの考えが正解か正解に近かったら、マリーナとはきっと血の繋がりがあるんだろうな、とか」

 「私のことを考えてくれていたのね」


 よその国には随分と不穏な風習があるものだと思いつつ、それをノアールが信じてくれたらいいとも思った。

 確かめられたら、困るけど。


 「私もマリーナのことは他人じゃないと思えて仕方ないの。他の人から話を聞くたびに、その思いが強くなる。だから、私とマリーナに血の繋がりがあるかもしれないというのは当たっているかもしれないわね」


 ノアールはう〜んと伸びをした。尻尾まで力が入ってピンと立つ様子が可愛らしい。


 「これを話すか迷ったんだけど……。デジレが国境警備に行く時マリーナの遺品があるかもしれないっていう話をしてたんだ。記憶のないアリスには手がかりになるだろ? 何か持ち帰ったら、お前にも見せてやってほしいし。で、もし記憶が戻って、マリーナと血の繋がりがあるのも本当だったら、お前は記憶を取り戻すのと同時に肉親を失うことになるだろ? 覚悟しておいたほうがいいかなと思って、話した」

 「ありがとう。ノアールが私のことを考えていてくれて嬉しいわ」


 ノアールの気持ちはありがたいが、私は妹が何一つ残さなかったことを知っているし、妹の死を目の前で見ている。ノアールが考えていることは全部杞憂で、すでに終わっていることだ。

 

 その時、城の鐘がじゃらじゃらと鳴り響いた。

 何事かと下を見ると、大勢の兵隊と楽隊が列をなしている。


 「やばい! エレノアと見る約束だったのに」


 ノアールはひらりと塀に飛び乗って、そのままいなくなってしまった。


 「もう」


 エレノアというのはノアールの彼女だ。私も塀から、迎えられる一団を見守る。

 その一団が姿を見せると歓声はより大きくなった。

 一団が近づき、先頭で手を振る人の姿が見えた。

 私は、その人に見覚えがあった。


 

 ***



 ベッドで丸くなっていても、全然眠れなかった。

 髪は夜空の花火の下で見ると燃えるような緋色だった。

 瞳は暗い海を映していたから深海の色に見えた。

 私は何をしているんだろう。魔女と取引をしてまで。

 陸へ来て、陸に馴染むことに精一杯だった。彼を捜すのは陸に馴染んでからだと、そう無意識に思っていた。

 どちらにしろ祝賀パーティーに招かれるくらいだからもちろん貴族だと思ってはいたけれど、まさか王子なんて。

 不安に、涙が溢れてくる。泣くまいとしていても。

 帰りたくなった。

 妹もこんな思いをしたのだろうか。

 いや、妹はもっと辛かったはずだ。

 王太子と王太子妃が隣り合うのをその目で見て。

 私は王太子を好きでもなんでもないけれど、これに恋していたら、その姿を見るのは身が裂かれるほど苦しかったはず。

 生きる方の苦しみ。

 それを聞いても、覚悟なんてできていなかったのかもしれない。

 王子に恋しているなんて、城の誰も応援してくれない。ノアールが知ったら忠告してくるだろうと思った。ああ見えてノアールは理性的な猫だから。身分違いを理由に諭されるだろう。

 ーーお前はやはりあの子の姉だね。

 魔女の言葉が蘇る。姉妹揃って、本当に愚か。




***



 「アリス〜〜〜」


 扉の下の方をカリカリ引っ掻く音が聞こえる。

 ノアールだ。結局昨日は眠ってしまったのか。もう日が高い。

 扉を開けるとノアールが心配そうな顔をのぞかせた。


 「リリーが、泣きながら眠っていたから起こさなかったって言ってた。大丈夫か? 今日は休めってさ」

 「そう。なんだか悪いわ。別に具合は悪くないのに」

 「いいや、休めよ。顔が白いぞ。昨日の話を気にしているんだったら、ごめん」


 ノアールが俯く。一瞬、何のことかと思ってしまった。


 「ああ、ノアールのせいじゃないよ。多分、怖い夢を見ただけよ」


 ノアールは私が昨日の話でホームシックになったとでも思ったのだろう。記憶にない故郷を恋しく思うかは疑問だけれど。しかもあの後、ノアールはすぐ王子に、何かマリーナの物を見つけなかったか聞きに行ってくれたらしい。私は知ってたけど収穫ゼロ。何もなければないで、この猫は期待させるようなことを言ったかもと気にしているのだ。

 私は鏡台の前に立ち、ブラシを手に取って短い髪を梳いた。なるほど、鏡の中の自分はひどい顔をしている。

 その鏡越しにノアールが私をじっと見ているのが分かった。

 こうして自分の髪を梳くのなんてなんでもないと思うけど、私のやり方って不自然かしら。海では侍女がしてくれたから、自分で髪を梳いたのは数える程しかない。こんな簡単なことに育ちが出るなんて思わないけど。

 なんとなく考えすぎてしまって、私はブラシをおいた。


 「ノアール、出てってよ。私、これから着替えるから」

 「え! お前、一度もそんなこと言ったことないじゃん」

 「なんだか今朝は気になるの! よくよく考えたらあなたも男でしょ。着替えたら呼ぶから廊下に出ていて」

 「男って」


 扉を開けながら促すと、ノアールは渋々出て行った。

 

 休日用のドレスに袖を通しながら、その様子を鏡で見る。海では姫という身分だったのだから、高貴な育ちであるというノアールの推測は間違っていない。でも……


 「この不慣れさは服を着たことなんてないから、なのよね」


 人魚が陸に上がったら、私や妹でなくても満足に身支度できないだろう。


 「よし」

 これでも着替えは早くなった方だと思う。


 「ノアール、いいわよ」

 

 扉を開けると、そこにいたのはノアールだけではなかった。


 「! で、殿下?」


 そこにノアール以外の人がいたことにも驚いて反射的に頭を下げる。

 ノアールを抱き上げている男性。確かに見覚えがある。彼の姿を見るのはこれが三回目だ。

 思えば私は彼を見上げたことか、見下ろしたことしかないのだった。

 王子は私が顔を上げてからも、しばらく私の目を見つめていた。

 あの夜と同じように、驚きに揺れる瞳の色。あの夜の暗さと距離では目の色までわからなかったけれど、こうして見ると彼の瞳は遠浅の海のように深い翡翠の色だ。

 思わず目をそらすと、王子もハッとしたように言った。


 「私が留守の間にやって着た客人に挨拶しておこうと思って。女性の寝起きに訪ねるのも失礼かと思って出直そうと思っていたんだ」

 「そんな。お会いできて光栄です、デジレ殿下……」


 海では王族が城の内部とは言え身分が下の者の部屋を訪ねるなんてあり得なかった。でも、この国では王太子さえ平気でその辺を歩いている。警備も僅かだ。海での常識が染み付いているせいで、こんな風に王族に部屋を訪ねられるのはかなり心臓に悪い。


 「そんなにかしこまらないで。君の話をノアールから聞いているよ。アリス。その名前はノアールがつけたんだってね」

 「ええ、おとぎ話の主人公の名前だとか」


 ノアールが得意そうに言った。

 「デジレが帰ってきたから、アリスの本を読めるな!」

 「いくらでもどうぞ。君、本は好き?」


 「えっと。お話を聞くのは好きですが、私は、文字がほとんど読めないんです」

 「なるほど。そう言えばマリーナも最初は読み書きできなかったな。喋れなかったから、読み書きできるようになってからは意思の疎通が楽だってリリーが喜んでいたっけ。アリス、文字が読めれば色々な本が読めるよ。私が暇な時には教えてあげよう。本が読めるように」

 「ええっ、殿下が?」

 「デジレ、お前そんなに暇じゃないだろ」


 ノアールが呆れたように言う。


 「だから時間のある時にだってば。基本的なことはリリーに教わっていると聞いたけど、私の方がたくさん書籍を持っている。アリスの本はこれから読んであげるよ」

 「あ……ありがとうございます」


 王族が、家庭教師の真似事を。

 陸にきて大抵のことには慣れたような気がしていたんだけど。カルチャーショックの連発だ。

 

 殿下は部屋から本を持ってくると言っていなくなってしまった。

 私の部屋で読むのも殿下の部屋で読むのもまずいので(そういう感覚はあるのかと思った)庭園の東屋で読むことになった。

 私とノアールは先に東屋で殿下を待つ。


 「なんだか不思議な気分だわ。ここの王族って気取らない方達ばかりなのね」


  もしかして王子の飼い猫であるノアールは私より地位が上なんだろうかと思いつつ、いつものように話しかける。


 「気取ってるデジレの姿なんて想像できないよ、」

 「お待たせ。誰の噂話?」

 「!」


 ノアールがまだ続きを言いそうだったのに、殿下が到着してしまった。

 まさしく殿下の話でしたとは言えないけど。聞いてたかも、と思いつつ顔を盗み見るけど話を聞いていたかどうかまで分からなかった。


 「結構分厚い本なんですね」


 殿下が持ってきた本を見て言う。

 子供向けのおとぎ話だというからもっとずっと薄っぺらいのを想像していたのに。


 「まあね。でも、字が大きいから。挿絵もあるよ」


 ほら、と言って殿下が適当な挿絵のあるページを開く。

 挿絵には服を着て楽器を持った生き物が描かれていた。白くて、二本足で立っていて、耳が長くてピンと立っている。


 「これは猫、じゃないですよね」


 ノアールと見比べながら言う。ノアールの耳は大きいけれど三角形だ。


 「…………うさぎだよ。この国だとあまり見ない動物ではあるかな? この物語は、普通四つ足で走るはずのうさぎが二足歩行しているのを、主人公のアリスが見つけて追い掛けることで始まるんだ」


 殿下の反応からして、これも猫と同じで知っているのが常識の動物なのだと悟った。


 「アリスは猫も知らなかったからな」


 ノアールがいたずらっぽく笑う。


 「きっと記憶にないだけよ」


 こういうことも忘れてしまうのかどうか疑問だが、記憶喪失は便利だ。


 「猫も出てくるよ。チェシャ猫っていうんだけど」

 「俺と違ってあまり愛想の良くないヤツだ」


 ノアールが張り合うように言う。


 「すごい。色んな生き物が出てくるのね……」

 「空想上の動物も出てくるよ、グリフォンとか。実際にいる動物については出てきたら教えてあげる」


 そう言いながら殿下は最初のページをめくった。

 



***



 「全部、アリスのみた夢だったんですね」


 閉じられる本を見ながら呟く。なんだか変わった話だった。登場する生き物たちはまるでアリスを惑わすようなことを言う。でも、これが夢の話なら納得かも。夢は支離滅裂なことが多いし。


 「続編でも夢オチだからな」


 ノアールが言う。


 「続編があるの?」

 「あるよ。今度は鏡の国に迷い込むんだ」

 「アリスが見た夢かどうかは分からないけれどね」


 殿下が付け加える。


 「??」

 「はは、また今度読んであげるよ。風が出てきたから戻ろうか」


 殿下が本を抱えて立ち上がる。


 「はい。今日はありがとうございます。本を読んでもらったばかりか、色々教えていただけて嬉しかったです」

 「アリスは面白いね。うさぎを知らないのにウミガメを知っているとか……」

 「お、覚えていることもあるのかもしれません」


 しどろもどろになって答える。礼儀作法はともかく、こうした一般常識の話になるとどう誤魔化せばいいのかまだ分からない部分がある。


 「名前の由来がわかってよかっただろ? アリス!」

 「ええ、そうね」


 ノアールが私が世間知らずだという話を広げないでくれてホッとする。

 なんとなく、この陸の世界も夢の中のことのように思った。



 


 

 

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