第一章 発端
梅雨の雨がまとわりつくように降り続ける季節に、その殺人事件は起きた。
被害者は、池袋にある某有名私立大学に通う二年生。
名前は、鶴島ひなた。19歳。大学近くのアパートで独り暮らしをしていた。
遺体を発見したのは、彼女のボーイフレンド、長峰健一。発見場所は、彼女のアパート。
6月21日。ひなたは、その日午後一時から、3限の授業の予定だったのだが、教授が体調を崩したとかの理由で臨時休講になった。また、家庭教師のバイトも入っていなかったため、思わぬ時間ができた。
ひなたは、長峰健一にラインで、時間ができたので暇ならどこかへ出掛けないかと誘ってみた。しかし健一は、授業は無いが、次の日に提出しなければならないレポートがまだ完成していなく、今日中に書き上げなければならない。その代わり、レポートが書き終わり次第、ひなたの部屋に遊びに行く、と返信していた。
その後は、二人は特にラインのやり取りをすることもなく、健一は、午後6時頃、やっとのことでレポートを書き上げ、急いでひなたの部屋へ向かった。健一は家を出る前に、ひなたにラインを送ったけれども、既読にならず、返信も無かった。
健一は、ひなたはどうせ昼寝でもしているのだろうと思い、スクーターに乗り込み、ひなたのアパートを目指した。
健一が一人暮らしをするアパートは、池袋の隣、大塚にある。ひなたの家まで、スクーターなら15分程だ。
ひなたのアパートは、一人暮らしの大学生やOLを意識してなのか、おしゃれな外観をした2階建てだ。
各階5室ずつ部屋がある。
ひなたの部屋は、一階の一番端の105号室だ。
健一は、ひなたのアパートに着くと、部屋の呼び鈴を鳴らした。
少し待つが、返事は聞こえてこない。
まだ寝ているのかな、と思いながら、もう一度呼び鈴を鳴らす。
しばらく待つが、やはり返事はない。
コンビニでも行っているのかなと思い、何かラインにメッセージでもきているだろうかと、スマホをチェックする。
だが、ひなたからは、何もメッセージは来ていない。スタンプ欲しさに友達登録したサイトから、広告メッセージが数件入っているだけだ。
おかしいな、と思いつつ、健一は合鍵をポケットから取り出す。
二人が付き合いを始めたのは、去年の夏からだったのだが、お互いの家の合鍵をもつようになったのは、2か月前くらいからだ。
しかし、特に使う必要も無かったので、試しに使った以外は、実質、これが初めての使用となる。
健一は、仄かな緊張感を抱きつつ、合鍵を鍵穴に差し込み、回した。
ガチャリ、と手ごたえがありそうなものだが、鍵は空転した。
鍵は閉められていなかった。
心臓の鼓動が高鳴る。健一は、ごくりと唾を飲み込むと、おもむろに扉の取っ手を回した。
開いた。やはり、鍵はかけられていなかった。
健一は、おそるおそる、ドアの隙間から首を流し込み、部屋を除きこんだ。
部屋の中の淀んだ空気が、おもむろに外に吐き出されてくるような気がした。
ねっとりとした臭いが、鼻腔の中にざわざわと潜り込んでくる。
入り口を入ってすぐ、廊下のような狭いキッチンがあり、その先に六畳ほどのリビング兼寝室がある間取りだが、電気は消えており、ドアの隙間から外灯の明りが差し込むだけで、奥は見えにくい。
健一は靴を脱ぎ、部屋に上がると、まずはキッチンの明りをつけた。
蛍光灯が2、3回明滅してから、部屋の全体が照らされる。
「……!!」
ひなたは、横になっていた。だが、なんだかおかしい。
ピクリとも動かず、目は天井を見つめたままだ。
健一は、ひなたの顔を覗き込む位置に回り込んだ。
ひなたの目が、健一の視線と重なった。
健一は、戦慄を覚えた。
焦点が失われた虚ろな目。生気は感じられなかった。
健一は、その場にへたり込み、動くことができなくなる。
そのまま、何も考えられなくなった。
いや、何も考えたくなかった、と言った方が正確かもしれない。
頭の中で、それを認めてしまったら、受け入れてしまったら、目の前のことが現実になってしまう。
そんな不安と恐怖が、健一の胸の中を、ぞろぞろと蠢いていた。
健一は、ただ茫然と、変わり果てた姿のひなたをみつめ続けていた。