隠し事は、いつものように
~エピローグ~
肌を透く冷たい風に、揺られながら降りしきる雪の粒は、既に2人の肩が白くなるほど積もっていった。
その白い雪を降らせている向こうに目をやると、こんな綺麗な結晶を生み出しているとは思えないような黒雲が広がっている。今はその黒い空も脇役に徹し、雪との世界を彩る白と黒のコントラストを作っている。
そんなモノクロに埋められた、普遍的で、善も悪も塗りつぶされてしまうかのように広がる空が、空気が友美は好きだった。
彼女の横ではぁー、はぁー、と自分の息で自らの手を温めながら、会話の最中に寒い寒い、と挟みながら歩く彩夏とは、高校に進学した時から一緒に通学している。彼女に出会ったのは中学に上がったころで、席替えをしてたまたま隣の席に座っていたのが彼女だった。そこから徐々に話しかけられるようになり、その話の中でどうやらお互いの家の住所が近いことを知り、登下校を共にするようになった。いつも彼女の目には、どんな成分でできているかわからないようなキラキラしたもので溢れており、話すときもオーバーな身振り手振りで、よく言えば大袈裟に、悪く言ってしまえば有ること無いことでっちあげて面白おかしく話してくれた。そんな活発な彩夏はクラスでもよく目立つ存在だった。
一方、友美は彩夏と比べるまでもなくそれほど目立つ人物ではなく、本人もあまりクラスで目立つことを良しとしない性分だった。といっても、毎日コツコツと勉強をし、テストで良い点数を取っていることはクラスに知れており、テスト前期間になったときに友人からノートをせがまれたり、得意の教科を教えたりするような、いわゆる真面目ちゃん的立場にいるような存在だった。
友美は彩夏に対して憧れる部分はあったが、それでも本質は違うような、平行線を辿っているようで、自分とは正反対にいる人間のように思えてならなかった。
今でこそ学校への通学路を並行して歩いてはいるが、きっとこの足跡は交わることはないのだろうと、何となく友美は思っていた。しかし彩夏はいつも友美のことをお姉さん的存在ね、と慕ってくれている。というのも、彩夏はその明るい、いや、明るすぎる性格からか、後先考えずに行動したり、無計画に勢いだけで突っ走るので、その危なっかしい彩夏を見るたびに、待て待て。となだめてから正しい方向へと導いているからだろう。
彩夏はそういう友美の性格を理解したうえで、思いついたことはまず友美に話すようになった。そして友美はその意見に耳を傾け、相談を受けるたびにより良い方向へと導いてあげていた。
でも、と友美は思う。
でも、彩夏はきっと知らない。
今までそうして彩夏の隣にいた私が、一体何を思っているのか。
白と黒とにハッキリと別れているように見えるモノクロの世界にも、
どこかでその白と黒の境目が曖昧になっている事も。
いつまでも正反対で、どこまでも平行線で。
交わるはずのないこの気持ちが、どんな色をして映っているのかも、きっと彼女は知らないままなのだ。
……友美がふと空を見上げると、雲の切れ間に青空が見えていた。
~1~
「ねぇねぇ、友美は明日チョコ渡すの?」
「え?う、うん、作ろうとは思っているけど……」
放課後を知らせる鐘の音が、生徒達の息づまっていた空気を一斉に解き放った。
教室の時計を確認するついでにふっ、と窓の外を確認すると、遠めに見える街灯の灯りは降りしきる雪を照らしていた。この時だけは、道路に塗り固められた、どんな色にも勝る黒でさえも、一面に広がる雪景色には叶わなかった。
同級生達はそんな窓の外で起きている変化には目もくれず、ロッカー横のハンガーに掛けてある自分のコートやジャケットに身を包み、帰り支度を始めていた。
そんな中、友美は外の景色をぼんやり眺めていたので、すっかり身支度が遅れてしまっていた。急いで身支度を済ませ、廊下で待たせてしまっていた彩夏と合流した。
「遅かったね。さ、友美早く帰ろ。でも、外寒そうだねぇ」
「もう二月だからね。そろそろ雪もやんで暖かくなると思うよ」
「でもでも、その前に好きな人にチョコをあげる、一足先に春を感じるビッグイベントが待ってるよ! 」
「そ、そんな大袈裟だよ……」
「何言ってんの。今年こそは成功させようよ、二人でさ」
彩夏は冬の寒さなんて感じさせないくらい燃えているようだった。というのも今年は高校二年生で、来年には受験やら志望校やらで忙しくなるから、チャンスは今年しかないのだという。
「で、さっきの話なんだけど、友美はどんなチョコ作るの? 」
「うーん、大切な人にあげるなら、生チョコなんか美味しそうで良いかなって思うな」
「生チョコ!? 友美、そんなの作れるんだ・・私、チョコ溶かして型にはめるので十分だと思うけどなぁ」
「どうせあげるなら美味しい、って喜んでもらえる方がいいじゃない」
「バレンタインに必要なのは技術じゃないの!愛情よ! 」
彩夏はグッ、と握りこぶしを突き上げ、友美に言って聞かせた。友美はそんな彩夏を見てぷっ、と思わず笑ってしまった。
「ちょっとぉ、今の笑うところじゃないよー 」
「だって可笑しかったんだもん、彩夏変わらないなぁと思って」
変わらないって何よ、と半ば怒ったように彩夏は言ったが、友美はまた楽しそうに笑った。
「で、彩夏はその愛情たっぷりのチョコを、誰に渡すの? 」
「皮肉が入っているように聞こえるけど、今はおいといてあげる。友美に言ってなかったっけ? 今年こそは海斗君にチョコを渡すんだ」
「あぁ、まぁ聞かなくても解ってたけどさ」
彩夏は高校1年生の冬、それもちょうど二月ごろに、同じ学年の山崎 海斗という男子に恋をしたらしい。きっかけはというと、学校の自動販売機で飲み物を買おうとしていたときにちょうど同じジュースのボタンを押しそうになった、というありふれたラブコメ的な展開から始まり、それから海斗の姿を目で追っている自分に気づいてしまった、と一年生のときに長々と聞かされた。あれから特に進展は無かったそうだが、まだその恋心は冷めないようだ。
「好き、というか気になるってだけよ。あんまり話したこともないし」
「気になってるってくらいで一年も片想いできないでしょ。彩夏ってホント、恋愛には奥手なんだねー」
友美は茶化すように彩夏の耳元で囁いた。途端に彩夏の頬が雪も蒸発してしまうくらい真っ赤になった。あまり触れてほしくないことらしい。
「そ、そういうあんたはどうなのさ!まだ私に好きな人教えてくれてないじゃない! 卑怯者! ずるいぞぅ、人の恋路を邪魔する魔女め!! 」
「だっていっつも彩夏は自分の話ばっかりするから、私の好きな人になんて興味ないのかなーと思ってたよ?あや夏は自分が話してすっきりできたらいいのかな、って思ってたから」
「ま、まぁそれもあるかも・・・てか、私をそんな風に思ってたのね」
「ふふ、でも応援してるよ、彩夏」
「うん、任せといて!もう帰ったら速攻チョコ溶かして愛情を一日中注いで作ってくるから!」
早速自分の話にすり替えられていることに気づかない彩夏は、もうすっかり頭の中がチョコと海斗君でいっぱいになってしまった。友美は好きな人の話を振られると決まって、こういう風に会話を流して言わないようにしていた。でもそれを知ってか知らずか、敢えて核心に迫る部分を掘り返そうとしない彩夏とは、一緒にいてとても居心地が良かった。
友美が彩夏と別れ、家に着いた頃には時刻は十八時と半分を回っていた。あの会話の後に「それでさぁ」と彩夏が切り出したかと思うと、明日どうやってチョコを海斗くんに渡せばいいか、という作戦を考えてほしい、と頼まれ話し込んでしまった。幸い海斗くんに効果的なチョコの渡し方を知っていたのでそのことを教えてあげると、彩夏は「できるかなぁ」と心配はしていたが嬉しそうな表情を浮かべていた。しかし、自分の作るチョコの時間を彩夏に割いてしまったのは失敗だ。明日友達に作る分と、家族に渡す分、それと好きな人にあげる分のチョコを作らなきゃ、と友美は急いで脱衣所で服を脱ぎ、いつもは長風呂をするのが好きなのをこらえ、カラスの行水とは言わないまでも、普段の三倍くらいのスピードで浴室から出て、髪を乾かし、部屋着に着替えキッチンへと向かった。
「お母さん、明日渡すチョコ作りたいから、キッチン貸してね」
「あら、友美もそういう年頃になったのね。なんだかいつもより女の子らしく見えるわ」
「お母さん。それ私が中学の頃から毎年言ってる」
いつものようにからかってくる母からの承諾を得、晩御飯を食べた後に、明日渡す分のチョコを作ることにした。
去年も作っているから、失敗はしないはず。
友美は普段から母の料理の支度を手伝っていたのもあって、料理は基本的に得意だった。その甲斐あって、友美の作るチョコは美味しい、と去年は友人達の間で評判があったくらいだ。
人数分のチョコを作り終え、冷蔵庫に仕舞い、ラッピング用のリボンと派手にデザインされた用紙を準備し、明日の朝にラッピングをして持っていこう、と途中で作業をやめた。チョコ作りにすっかり夢中になっていたが、もう二十一時を越えていた。そして時間感覚を取り戻した友美は普段の眠っている時刻を体が覚えていたために、なんだか頭がぼうっとしてきた。
「お母さん、もう私寝るから、お父さんとお兄ちゃんに食べられないように言っておいてね」
「はいはい。うちの男共には作ってやらないの?」
「作ってあるけど、ちゃんと渡したいでしょ」
「そう。じゃあちゃんと伝えておくから、もう寝なさい」
はぁい、と母に促されるままに階段を上がって自分の部屋へと戻り、布団に入って明日来るであろうバレンタインをイメージしてみた。
彩夏、ちゃんと渡せるかなぁ。
あ、でも私も頑張らなきゃ。
自分で自分を引っ込めていたことに気づき、なんとか主観的に戻すことができた。
「ワールドイズマイン!」と言わんばかりの彩夏と一緒にいるせいかもな、と友美は思い返して笑ってしまった。馬鹿にしたわけじゃないよ、彩夏。
顔を真っ赤にして騒ぎ立てる彩夏の顔が、そこにあったような気がした。
~2~
時刻がすっかり明日に回った頃、なんだかソワソワして眠れなかった友美の携帯に、着信が入った。「もう、こんな夜中に誰よ」と眠っていた体を半分だけ起こし、確認してみると、山崎海斗からであった。
なんなのよ本当……と思ったがいつまで待っても携帯のバイブが鳴り止まなかったので出ることにした。
「あ、友美。もしかしてもう寝てた? 」
「そりゃこんな時間にもなれば誰だって寝るでしょ、あんたぐらいよ、こんな時間に元気に電話してくる奴なんて」
「いやぁ、なんだか急に友美の声が聞きたくなってさ」
はぁ。
ため息が漏れる。海斗はいつもそうだ。小さいころ仲良く遊んでいた時から、平気で普通の人間なら躊躇ってもいいような、口説き文句じみたことを言う。私はそれを最初はうれしく思っていたが、中学、高校にあがるにつれ、その口説き文句は彼にとって挨拶のようなものだと知って以来、一切喜ぶことも咎めることもしないと誓った。
「で、何か用があってかけてきたんじゃないの」
「ん? あぁ、用事、ねぇ」
海斗はうーん、と考え込むように唸る。
「……さっき言った通りなんだけど、だめかな」
「うん、だったら切るよ? 」
こんな幼馴染に貴重な睡眠時間を割いてまで電話の相手をしているのが馬鹿馬鹿しいとさえ思えてきた。
「ああちょっと待って! 」
切ろうとしたときに海斗が呼び止めるので、仕方なくもう五分くらい、いや三分でいいや、相手になってあげる事にした。
「明日ってバレンタインデー、でしょ? 」
「そうね、それがどうかした?」
「いや、友美は誰に渡すのかなって」
「そんなの、毎年ありとあらゆるロッカーやら靴箱が埋まるくらいチョコをもらえる海斗さんには、関係のない話だと思いますけど」
「そんな言い方するなよ。あれはあれで苦労するんだぜ、もらう身としてはさ」
もらっておいてひどい事を言うやつだ。こんな奴に愛情を込めてチョコを作ってくる女の子がごまんといるのだから同情したくなる。この会話を録音してこいつにチョコを渡そうとしている女子に聞かせてやりたかった。だがそんな事をしてしまえばその女の子達の夢を壊すことになりかねないし、第一その女の子の中には彩夏も混じっている。
今回は見逃してやるか。
「せめてもらったものにはちゃんとお返しするとか、お礼するとかはしなよ。チョコ作ってくるのって思ってるより大変なんだから」
「はいはい、わかったよ。女の子想いの友美に免じて、チョコをくれた女の子全員に熱い抱擁をお返しするとしよう」
「ごめん、私が悪かった。だからそれはやめて」
「あはは。しねぇよ、そんなこと。まぁでもホワイトデーのお返しはしっかり考えておかないとな」
「そんだけ自分を好きになってくれる人がいるって分かってるのに、彼女いないあんたも変な人だよね」
「恋愛はそういうもんじゃねぇんだよ」
軽く達観したような物言いをされてムッとした。
「あぁそう。さすが変人の考えることは違うわ」
「ありがたいお言葉どうも。じゃ、友美は何回聞いてもチョコ誰に渡すだなんて教えてくれなさそうだから、ふて寝するわ。また明日な、おやすみ」
「はいはい、おやすみ」
海斗の言葉も話半分にして促されるまま電話を切った。
今の会話の中から思い出すようなことなんてないように思ったが、彼の言った「恋愛はそういうもんじゃねぇんだよ」という言葉だけが繰り返し頭の中で響いている。
その言葉だけが引っかかって抜けないのだが、それに答えを付け足せる程に頭は回らなかったので、起した身体をもう一度布団に身を委ねることにした。
~3~
目が覚めたときにはまだ外は暗く、ブルドーザーが威勢よく鳴らすエンジン音が騒がしかった。雪国の朝は、早朝からわざわざ除雪をしてくれる人たちがいるからこそ成り立っているのはよくわかっているのだが、あの音はもう少し何とかならないのだろうか、とやり場のない不満を抱いてしまう。
セットしておいたアラームより一足先に起きてしまった友美は、早くあれをラッピングして準備しないと、と目覚ましを解除してからすぐにキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開けると、昨日作ったチョコは自分の思ったとおりの仕上がりになっていた。
星型に分けておいたのはお父さんとお兄ちゃんの分。友達の分はそれとクッキーも一緒に入れよう。あと、生チョコは大切な人に渡すようだから、私のお気に入りの袋に入れて、と。
よし。
友美は思っているより早く準備ができてしまったなぁ、と手応えのなさ、というか手際のよさが少し物足りなく感じたが、いつも朝ごはんを作ってくれるお母さんのためにも、みんなのご飯も作ろう、と決めた。これはいつも頑張ってくれているお母さんにちょっとしたプレゼント。
もう朝食の用意が出来上がろうという時間になって母と父が起きてきた。すると母は、
「あら、友美ったら朝ごはんまで作ってくれるなんて。一体誰に似たのかしら」
と開口一番にどこかベクトルのずれた褒め言葉をかけてくれた。
「友美の作る料理は美味しいからな」
と、父がまだ起きていない目をこすりながら言う。だが母の視線に気づいたのか、「母さんに似て、な」と補足した。母は朝から満足そうだ。
「今日私いつもより二十分くらい早く学校行くから、これ作って食べたらすぐ行くね」
「あら、わかった」
「それと、はい、お父さん」
最後の一品を作り終えた後に、用意していたチョコレートを手渡しした。
「う、うぅ。友美、朝早くに起きてまで用意してくれたのか。幸せものだなぁ。ありがとう、大事にしまっておくよ」
「いや、チョコと私のためにも食べてあげて」
夫婦そろって朝からボケかましてくるのもやれやれ、という気持ちがないわけではないが、これがいつもの我が家の朝だった。今日はたまたま私が朝食を作った、ということ以外は普段となんら変わらない、普通の一日のように思えた。
「あ、もうこんな時間。お兄ちゃんの分はもし起きてきたら渡してあげて。それと朝ごはんも」
「はいはい。あんたもちゃんと作ったチョコ渡してきなさいよ、愛情たっぷりのやつ」
「もう、からかわないでよ」
玄関に見送りに来た母と父は笑っていた。その笑顔はいつもより子供っぽくも見えた。
「行ってきます」
外にはもう眩しい程、太陽が顔を出していた。
「あ、おはよー友美! 」
彩夏はいつもの待ち合わせ場所で、今日は二十分早いにも関わらず先に待っていてくれていた。やはり気合が入っているのか、いつもより鼻息が荒い。
ここから十五分程度の距離を二人で歩いて学校へと向かう。彩夏とは、雨の日も、晴れの日も二人で登校してきた。初めは慣れない学校での事や家庭の事、兄弟の事なんかを話したものだが、それも今はもう彩夏の独壇場で、海斗くんへの愛情をただ私だけにばら撒くのみである。
私のことなんて、全く興味がないのだ、この女は。あくまで消極的観測だけど。
「どうしたの? 友美。何か元気ないみたいだけど」
「え? なんでもないよ、ちょっと今日眩しいなって思って」
「あぁ、そっか、友美は雪降ってる方が好きだもんね」
「まぁ、そうとも言う」
普段どおり。良かった、今日も大丈夫そう。
これから、彩夏の「そんなことよりさぁ」から、延々と惚気話を聞かされるはめになったのは、言うまでもない。
彩夏の惚気話がもうそろそろ終わるか、という頃、学校の靴を履き替え、教室に向かう途中、女子生徒達の黄色い声がちらほら聞こえてきた。この上ずった声が作る甘ったるい空気が、友美の気持ちをすぐに取込んでいった。そして、その甘ったるい空気の中心には、やはり海斗がいた。
今の今まで惚気話をしていたご本人が登場とあらば、彩夏はもう今にも溶けてしまいそうな程、顔を真っ赤にしていた。
「お、友美じゃん、まいったなー、これじゃあ外靴いれらんねぇや」
彼の靴箱であろう場所には、可愛くラッピングされたハート型のチョコが溢れんばかりと入っていた。
「これも俺のって事でいいのかな」
と、海斗は真下にあった長方形の箱に「山崎君へ」と書かれたそれを拾い上げる。
溢れんばかりに、は訂正だ。溢れていた。
「昨日はあんなこと言ったけど、さすがにこの数を返すのも大変ね」
「だろ? 俺の苦労をわかってくれるとはねぇ」
ぎゅうぎゅうに詰まった愛情に手を焼いている海斗をよそに、いまにも焼きあがりそうな彩夏が何か言いたげな顔をしている。
「あ、あのややややややままやま、や、や、やまじぇし」
たかが自販機の前で手が触れたくらいで一年片想いしてしまう女の子だ。本人を目の前にしてまるで口が回っていない。彼女こそ録音機でいつもの会話を録音して、その様子を海斗に聞かせてやるべきだった、と友美は何だか後悔した気分になった。
「あぁもうこれ持って帰れないし、やっぱ悪いけど返しに行こう」
海斗は自前の紙袋に靴箱のチョコを掻き込み、三袋分も持って「じゃな」と行ってしまった。
あーぁ。渡すチャンスだったのに。
チラッと彩夏の方を見ると、既に灰になってしまっていた。
「燃え尽きるのは早いよ、彩夏。早く教室行こ。彩夏? ねえ彩夏! 」
呼びかけても反応がない。
「……海斗くん教室に向かったよ! 」
「はっ、行かなきゃ!!! 教室に行かなきゃ!! 」
いつもは助けられる彼女の能天気ぶりにも、ここまで来ると呆れてしまう。
浮ついたバレンタインの空気も、授業が始まると無かった事のようにどこかへ行ってしまった。友美はこの方が安心する、としっくり来る感触があった。
しかし、普段気を張って集中している授業が今日は安心するなんて、考えても妙な気分だな。
さっきまで死んだ魚のような目をしていた彩夏も、時間が経って潤ってきたようだ。
「さっきは渡せなかったから、昼休みに渡してくるよ! 」と意気込んでいたし、ちゃんと渡せたら、上手くいくはずだ。
彼が、海斗が靴箱のチョコを返そうとしていたのは、決してお返しが面倒だから、とか、一人じゃ食べきれないから、という理由ではない。恋愛に人一倍こだわりを持つ彼は以前、
「チョコは手渡ししてこそ、初めて愛情込めた意味が生まれるんだよ、そう思わないか? 」
と訳の分からないポリシーを語ってきた。
そのため、彩夏には絶対に手渡しするように、と再三再四忠告した。靴箱に入れた初心な女子には申し訳ないが、彼を好きになるのはそれなりに険しいものなのだ、という良い経験になるだろう。
その点を間違わずに、忠告どおり手渡ししようと試みている彩夏は、それだけで幾多もの恋敵よりも上手に出ているといえる。だからちゃんと思いさえ伝われば、大丈夫。
毎日惚気話を聞いてきた私が保証する。彩夏の恋は。
~4~
四時限目のチャイムが鳴り、均衡を保っていた空気も次第にまた朝の甘い雰囲気に変わっていった。
女子は友達同士でチョコを交換し合っている。だが彩夏の姿がない、もう海斗の元へ向かったのかな。
行く時は言ってね、とあれほど言ったのに。きっとそんな余裕などなかったのかもしれない。
また一人では話せずじまいで帰ってきてしまうと思い、友美も教室を出た。
海斗は二つ向こうのクラスだから、そこにいるだろう、と思って、一番奥の自分の教室から廊下を挟んで向こうにある、海斗のいる教室を覗いてみる事にした。
すると教室を確認するまでもなく、海斗が教室から出て行くところだった。
でも彩夏がいない。どこ行ったんだろう。
「あ、友美。俺、話しがあってお前のとこ行こうとしてたんだ」
違う、私は友達の彩夏を探しにきたの、と言うべきだったのだろうが、そんな会話が似ないような、さっきの甘ったるい空気とはまた違う雰囲気になったことを察した。
「わ、私は別の人に用があって……」
「大丈夫。すぐ終わる」
いつもはおどけてみせる海斗が、この時は真剣に私の目だけを見ていた。
何だか恥ずかしくなって、まともに顔を見れたものではなかったが、とにかく言いたいことを言ってもらうしかこの場を収める方法がないことを悟った。
「な、なに」
「あのー、さ。えーと……あれ、いつもは言えるんだけどな。もういいや、はっきり言うわ。」
だめ。言わないで。
「俺、中学の時から、友美のことが好きだった」
私の目の前に、真っ直ぐな目をした海斗がいる。
反らしていた目を合わせた途端、胸の鼓動が早くなる。
意識していないのに、呼吸が早くなる。見つめあっていた時間は3分かそれくらいだったとは思うのだが、まるで時間が止まって見えるようだった。
突然のこの状況の中で、なんて言ったらいいかなんて解らない。
こうなった以上中途半端な事は言えないし、かといって海斗に全てを打ち明ける訳にはいかない。
「えと……ごめん、私には、海斗の気持ちには応えられない」
本当は嬉しいはずの告白は、あまりにも窮屈な自分では、素直に受け取れるはずもなかった。
そう言われた後の海斗の表情は、自分を隠し続けてきた私にとっては見ていられるものではなかった。
「私、海斗とは友達でいたい。だから……ごめんね」
私はまたも隠し事をしている気分になった。
海斗は何も言わなかった。
振られた理由も、私の好きな人は別にいるかどうかも、これまで通り友達同士でいようとも。
……何も言わなかった。
もしかしたら、涙をこらえているのかもしれない。こんな私なんかの為に。
そう思うと、海斗の顔を見ることができなかった。
だって、見たら私も泣いていただろうから。
教室で普段のように振舞う為には、昼休みの事を忘れないまでも、せめて家に帰るまでには頭の片隅に追いやってしまわなければならないことはわかっていたが、そんな器用なことはできなかった。
今まで、相手の思いを眺めているだけで十分だったのに。
自分の気持ちなど、誰も知らなくていい。知りたいと思っている人もいないのだから。
自分を隠し、他人の気持ちを眺めているだけだからこそ、器用に振舞うことができていた。そのはずだった。
彩夏は言っていた。「これが最後のチャンスなのだ」と。
蔑ろにして聞いていたこの言葉が、今になって特別な意味を持っていたことを知った。
しかし、たとえそれが特別な意味を持っている、と気づいたところで、私にはそれを叶えてやる事ができるはずもなかった。
できるはずもないのだから、今年も普段と変わらないのだ。
そう結論に至ったときには、既に下校時刻が近づいていた。
「友美、なんか調子悪そうだったから代わりに掃除当番やってきたよ」
「うわっ!!」
気づいたら目の前に彩夏がそこにいて、思わず驚いてしまった。
「私といつも一緒にいるのに、こんな事でびっくりしないでよ、もー」
「いつも一緒でも慣れない事だってあるの」
上がる息を抑えながら、乱れた呼吸を整え、何とか自分を取り戻すことができた。
「さ、友美。帰ろ」
「あ、でもチョコは? ちゃんと渡せたの? 」
何だか自分で言っていて気分が悪かった。彩夏も海斗の事を一年以上思っていた訳だが、それよりもずっと長い間、海斗は。
こんなことを誰に打ち明け、誰に向かって謝ればいいというのだろう。
だが、彩夏はそんな気持ちを他所に、嬉しそうに話した。
「それがさぁ、さっき藁にもすがる思いで突撃してきたの。そしたら、ありがとう、来月ちゃんとお礼するよって言ってくれたの! まぁ、それで嬉しくなっちゃってダッシュで帰ってきちゃったんだけど」
そういうと彩夏は恥ずかしそうに頭をかいた。
なんだ、渡せたんだ。
少しホッ、としたが、それでも自分の心の中の感情を押し殺し、毅然と振舞うことで精一杯だった。
「告白までは行かなかったけれど、十分脈あり、って言ってもいいんじゃないかな! これも全部、友美のおかげだよ、ありがとね」
そういうと彩夏は屈託のない笑顔でそう言った。
--今年が最後のチャンスじゃ無かったのか。
まだまだ続くんだ、彼女の恋は。
いつもなら茶化してやれるのだが、そんな彩夏の純粋で一途な恋を、一言で打ち砕いてしまえる脆さを知った今、そんなおどけた仕草を見せる余裕すらなかった。
「私のこともいいけど、友美はちゃんと渡せたの? 今年くらい教えてくれてもいいんじゃない? 友美の好きな人」
そうだ、私のこと。
「あ、そういえば彩夏にまだチョコ渡してなかったよね」
友美は一つだけ作ってきた、お気に入りの袋に入れたリボンつきのチョコを、カバンから取り出し、彩夏に手渡した。
「えー、いつもありがとう! でもなんか、今年のはいつもと違うね」
「そうだよ、今年はね、生チョコ作ってきたんだよ。最後だと思って」
それを聞いた彩夏は、生チョコかー、とキラキラした目で赤いリボン付きの袋を眺めていた。
――いつも通りの彩夏だ。これからも私は、彩夏とは交わることなく、平行線を歩いていくんだろうな。でも、平行線でもいいから、少しでも長くそばにいてね。……本当は気付いてほしかったけど。
やっぱり彩夏には、本当の事は言わないでおこう。
玄子 承 (くろこ しょう)といいます。
もし小説を読んでのコメントなどありましたら是非お願いいたします。