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よろしく守護霊

 神崎要、二十三歳。

 オレはいま、人生最大のピンチを迎えている──ような、気がする。


「聞いているの?」

 オレのすぐ目の前で、彼女はそう問いを重ねた。

 そう、目の前で、だ。

 できるだけわかりやすく状況を説明しよう──昨日は三月末尾だったから、オレの身に超常現象じみたことが起こっていなければ、今日は四月一日、火曜日。昨夜、オレは好物のキツネうどんを食べ、最近凝ってるブランデーをグラス二杯分飲んで、やっべ飲み過ぎたとちょっと後悔して、風呂にも入らずにベッドに潜り込んだはずだ。確か、寝たのは日付が変わる少し前。

 で、いま。

 ベッドに寝転がるオレの隣に、どう考えても初対面の女性がいる。

 正面で目がばっちり合ってる状態だから、彼女も横になってるってことだ。ちょっと待て、ちょっと待て──オレは頭をフル回転させた。けど、寝起きということもあってか、考えがちっともまとまらない。

「ねえ」

 しかし、相手は待ってくれそうにはなかった。改めて彼女を見る──オレよりも年上のようだ。大きな黒い瞳と、染めた様子のない長い髪。どちらかというと知的な顔立ちで、さっきからオレに話しかけてくる声に、甘い響きは一切ない。学校の先生か、または仕事一本のキャリアウーマンを彷彿とさせる、紺色のスーツを着ていて…………

 …………紺色のスーツ?

そこまで考えて、やっと一つの可能性を排除することに成功した。酔った勢いで見知らぬ女性とどーの、ってことではないらしい。着衣の乱れは皆無だ。

 しかし、ほっとしたのは一瞬だった。

「聞いてなかったわね」

 言葉の出ないオレを見て、そう解釈したようだ。そりゃ、聞くどころじゃない。少しだけ怒ったように、大きな目を細めるようにして、彼女は最初の問いをくり返す。

「あなた、私にさわれる? って聞いているの。これってどういう意味か、わかる?」

 ────────うおおお。

 わかりますが、わかりません!

 これはどういう状況でしょうか!

 いや、罠か? 罠なのか? ドッキリか?

 頭の中で心臓が鳴っているような状態で、オレは完全に混乱してしまっていた。ゆ、ゆーわくされているのだろうか。まったく状況がわからない。

「お兄ちゃん」

 軽いノック音が響いて、オレの身体は完全に固まった。妹の声だ。いつもなら、ばたばたと階段を上がってくる音で気づくのに。

やばい。この状況はやばい。いや、やましいことなんかまったくないけどやばい。

「ちょ、ちょっと待て!」

 オレは声を張り上げる。なんとか取り繕おうと、慌てて身体を起こした。ベッドに手をついて降りようとして、ナゾの女性がいる分、感覚がいつもと違うことに気づく。が、気づいたときにはもう遅い。焦りも手伝ってか、彼女の腰のラインすれすれに手をついたものの、バランスを崩してそのまま倒れ込んだ。

 ──これは!

 まるっきり少年漫画的な展開だ!

 気が動転して、そんな阿呆みたいなことが頭をよぎる。オレは、紺スーツの女性の上に覆い被さるような体勢になっていた。きっちりとしたスーツを通しても隠しきれない、女性特有の柔らかい感触が伝わってきて、よけいに混乱する。冷静になるまでもない、この状況は明らかに危険だった。

 はたから見れば、朝っぱらから女性に襲いかかってる男、の図だ。

「お兄ちゃん、電話だよ」

 しかし、オレの慌てぶりなど伝わるわけもなく、妹はあっさりと戸を開けた。その手には、オレのケータイが握られている。ブルブルと絶賛震え中だ。ああ、そうだ、昨夜居間に置いたままにしちゃったんだっけか──

「はい」

 妹は、いつものようにずかずかと入ってきた。うつぶせに倒れるオレの背中に置いて、そのまま退室する。

 パタム、と戸が閉められた。

 …………おかしい。

 きゃーフケツよ、なんてハレンチなの、的なものを想像していたのだが。

 まるで、見知らぬ女の姿なんか見えていないような、あの反応。

「嬉しいわ」

 オレの下で、スーツの女性はそういって微笑んだ。オレは急いで飛び起きる。その拍子にケータイが落ちたが、そんなことはどうでもいい。

「あ、あんた……」

 だれなんだ、といおうとした。しかし彼女は、オレに右手を突き出した。制止の合図だ。思わずオレは黙ってしまう。

 彼女は、わざとそうしてるんじゃないかってぐらいにゆっくりと起きあがった。すらりと長い足を突き出すと、ベッドから降りる。思ったよりも背が高い。さっきまで寝転がっていたにしては、皺一つない紺色のスーツ。それから黒のパンスト。さらに、ヒールのある革靴…………いやちょっと待て、靴?

 やっと、オレは気づき始めていた。明らかにおかしい。

 どうして靴を履いているのか。どうして春になったというのに、冬使用のスーツ姿なのか。どうして、髪一つ乱れていないのか。そして、どうしてあんな質問をしたのか──

「さすがね、神崎要クン。私はミズキ。今日からあなたの守護霊です。どうぞ、よろしく」

 ……あああ。

 一日が始まったばかりだというのに、オレは完全に疲れ果ててしまった。

 差し出された右手を握り返せるわけもなく、そのままベッドに突っ伏した。



 オレはいわゆる、高霊媒体質だ。死んだばあちゃんがそうだったらしいから、遺伝なんだろう。霊が見える、しゃべれる、さわれると三拍子揃っている。

 これを聞いて、わぁ羨ましい、とかいうヤツはまずいない。いたら殴る。まあそれ以前に、話したところで、ばかにされるだけだ。それでもガキのころは、友人だと思ってた相手に話したりしたもんだが、いまではだれかに話そうという気にもならない。

 霊が見えるからって、いいことなんか一つもない。

 基本的に、ふつーの霊は人間と区別がつかないから始末が悪い。うっかり話しかけて、周囲から白い目で見られることなんてしょっちゅうだ。ふつーじゃない霊はっていうと……要するに、悪霊の類はもっと最悪だ。見えているということがばれると、向こうから襲ってきやがる。おかげでこの時代に、オレは木刀を肌身離さず持ち歩く剣道野郎だ。

「いつまで怒ってるの、要クン」

 青いジーンズにシャツ、という日々変わりばえのしないスタイルに着替え、顔を洗い、朝飯の納豆メシを食べている間、むっつりと口を開かないオレを見かねてか、ミズキさんが顔をのぞき込んできた。

 ちゃっかり、食卓の隣に座っている。妹はどこかに出かけたらしい。両親は、表の店──うちは昔から酒屋を経営している──に出ているのだろう。

 こうして、ダイニングに二人でいると、やはり錯覚してしまいそうだ。霊だなんてとても思えない。それに、今朝のあの感触……いや、それはいいとして。

オレは、カラになった茶碗を持って立ち上がった。

「怒るに決まってるだろ。いたいけな青年のベッドに潜り込むなんて、どういう神経してんだよ」

「いいものね、神経を問われるなんて。霊になって初めてだわ」

 真剣な顔をして、どうやら本当に感動しているようだ。オレは流し台に常備されているオケに食器を突っ込んだ。

「あんたみたいなタイプは、生前にいくらでも神経問われてたんだろ、どうせ。オレのトキメキを返しやがれ」

「ときめいたの?」

 すかさず聞き返されて、オレは言葉に詰まる。そんなに素直に驚かれると、冗談だと返しづらい。

「でも……そうね、謝るわ。自分でも、どうしてベッドに入っちゃったのかわからないのよね。疲れてたのかしら」

「なんだその理由」

 呆れてものもいえないとはこのことだ。霊って疲れるのか?

「だいたい、守護霊ってなんだよ。オレ、守護霊なんか見たことねぇよ。しかも今日からとかって、いかにも嘘くせぇ」

「前任が腰痛で大変だっていうから、ピンチヒッターなの。本来なら、要クンの守護霊はあなたのお婆さんよ。いまごろ、のんびり温泉でも行ってるんじゃないかしら」

 ……突っ込みどころがありすぎて言葉が出ない。

 前任って!

 腰痛って!

 ピンチヒッターって!

 温泉って!

 とりあえず心の中で力一杯突っ込んでおいた。むなしい。

「守護霊を見たことがないっていうのは、あたりまえのことなのよ。人間に見える霊っていうのは、漂っている霊だけなの。守護霊みたいに拠り所のしっかりしている霊は、その本人と一体化してしまっているから、見ることなんてできないわ。感じることは、できるけどね」

 服装どおりのきっちりとしたしゃべり方で、淡々と語る。改めて見ると、二十代後半ぐらい、といったところだろうか。化粧気はほとんどなく、長い黒髪もうなじあたりで束ねられただけで、手を加えようという気概が感じられない。どちらかというと、地味だ。ただ、その地味さ具合が板についているというかなんというか……うまい表現が見つからないが、だから魅力的でない、ということでは決してない。

 そうだ、顔を見たときにも思ったが、知的、という言葉がいちばんしっくりくる。もしかしたら、生前は教師だったのだろうか。

「何か質問は?」

 心の声が聞こえたわけではないだろうが、そんなことをいってきた。見透かされてるみたいで、気分が悪い。

「じゃあ、なんであんたのことは、見えるんだよ。守護霊なんだろ?」

 当然の疑問を口にした。できのいい生徒を見るように、ミズキさんは目を細める。

「ピンチヒッターだからよ」

 ……ああ、なるほど。

 一体化してないんだから、見えるってことね。

「ねえ、それより、要クン」

 返事もなく台所から去ろうとしたオレを、急に心配そうな目をしてミズキさんは呼び止めた。

「なに」

「あなた、自分が食べた食器を自分で洗わないの? そういうことしっかりしとかないと、ろくな霊になれないわよ」

 ……ろくな霊って。

「適材適所ってものがあるだろ。オレは、食器洗いには決定的に向いてない」

「そうなの。じゃあ、お仕事は? 今日は平日でしょう?」

「…………」

 オレは返答に窮した。

 適材適所なんてかっこつけた言葉を使ったことを、すぐに後悔する。

 大学を卒業して、もう一年が経ってしまった。

 就職活動をしてなかったわけではない、してなかったわけではない、のだが──!


「──要するにあれだ、日本の企業ってのは、いまだに終身雇用が主流だろ。そうすると、会社に居着く霊ってのがいるんだよ。面接ともなると、そういう霊が平然と面接官の中に混じってるわけだ」

『仕事場』に移動して、それでもしつこく聞いてくるミズキさんに、オレはそう説明してやった。

 そういう、やっかいにも本気で会社を愛するアツい霊たちのせいで、オレの面接は負け続き。そりゃそうだよな……いきなり明後日の方向を向いてとうとうと語り出すヤツなんて、オレだって不採用にする。

「結局、学生時代からやってるこの仕事一本だ。あとは週に三日のコンビニのバイト。文句あるか」

 オレは開き直っていた。いつもどおりの『仕事着』を頭から被った状態で、隙間からミズキさんの表情を盗み見る。仕事着──いわゆる、黒いフードつきの魔女的マント。

 ばあちゃんの形見だ。

 オレが座る机の上には、水晶なんかが置かれていたりする。これもばあちゃんの。

「それで、こんないかがわしい占い師まがいのことを? なんて嘆かわしい……。日本の未来はどうなってしまうのかしら……!」

 ミズキさんは、本気で泣きそうな顔をしていた。

 オレが傷つかないとでも思ってるのだろーか。

「いいんだよ、これはこれで商売なんだから」

 そういってみたが、ミズキさんはご丁寧にポケットから白いハンカチを出して、目に当てている。ひどい。

 オレの家が経営している『神崎酒店』は、地元では比較的大きい商店街の一角に店を構えている。ご近所の酒屋がこぞってコンビニへと変貌していくなか、うちだけは頑なに酒専門店だ。で、その酒屋にくっついている、黒い布で覆われた小さなスペース──やはり布がかけられた入り口に、『占』の文字が掲げられたこの場所が、ばあちゃんが若いころからずっとやっていたという占いの店だ。それなりに有名で、雑誌に載ったこともあるらしい。

 オレが大学に上がると同時に、ばあちゃんは老衰で死去。それから、代わりにオレがやっているというわけだ。

「要クンには、占いの才能が?」

 ……どうしてそういうこと聞くかなー。

「ある、といえばある……霊感の一種だろーな。ぼんやりわかることがある」

「ああ、守護霊の気配を感じているのね。なら、詐欺ではないわね」

 守護霊の気配、なんだろうか。なんとなく、『見える』ことがあるのは確かだ。

 詐欺、とかそういう言葉を使わないでいただきたい。

 ばあちゃんの時代には有名だったとはいえ、代替わりしてからは、さすがに客足は減った。一日に一人も来ないことだってあるぐらいだ。オレだって、他にすることのない日はこうして待機してるが、毎日詰めているわけではない。

 することもなく、肘を突いてぼんやりすること数分。いつもなら本でも読むんだが、あいにくいまは読むべき本がない。仕入れに行きたいところだが、金もない。どうせ客も来ないだろうから、戻ってテレビでも観るか──腰を上げようとしたそのときに、ジーンズのポケットに入れてあった携帯が震えだした。

「忘れてた……」

 そうだ、今朝も着信があったはずだ。着替えるときに無意識にポケットに入れただけで、着信の確認などすっかり忘れてしまっていた。

「なんて小さな電話。私の時代にはこんな便利なものはなかったわ。でも、だからこそ、待ち合わせなんかはどきどきしたものよ……」

 ミズキさんが遠い目をしている。そのエピソードを深く追求したいような気もするが、いまは電話が先か。

 ディスプレイには、『着信 下滝洋介』の文字。オレは通話ボタンを押した。

「悪い、忘れてた」

 向こうから声が聞こえてくる前に、まず謝罪を口にした。しかし、あまり功を奏さなかったようだ。

『おまえな、取れないだけならまだしも、着信あったらふつーかけ直してくるだろーがよ! 友だちなくすぞ、ばーか!』

 低次元な雑言が飛び出す。オレの頬が思わずゆるんだ。洋介とは、中、高、大と同じの腐れ縁だ。卒業してなかなか会う機会がなくなっても、こうして連絡をよこしてくるのはこいつぐらいのものだ。ヤツは院生だから、それなりに時間があるっていうのもあるんだろう。

「悪かったって。ちょっといろいろあったんだよ。で、何?」

『何、じゃねーよ。おまえヒマだろ、ちょっと付き合えよ。総ちゃんのプレゼントの買い出し委員長に任命されてさ、もうぜんっぜん思いつかねぇんだけど』

「……プレゼント?」

 思わず聞き返した。洋介の声は大きいので、ケータイに耳をつけなくても聞こえるのだろう、ミズキさんも身体を寄せて黙っている。

 総ちゃん、というのは、世話になった高校教師の呼び名だ。オレと洋介は三年のとき同じクラスで、そのとき担任だったのが総ちゃん──山頭総一郎。好々爺を絵に描いたような、柔和なじーさんだった。

『学校辞めるっていってたじゃん、こないだの三月で。3Aの連中でお疲れパーティするって話あったろ。そんときに渡すヤツ』

「ああ……そういわれれば」

 あった、かもしれない。

『冷たいヤツだなあ。いいから付き合え、な? いまからそっち行くから──』

 正直なところ、面倒だ。そういうのは女子がやればいいものを。今年退職した老教師に何を贈れば喜ばれるかなんて、見当もつかない。

 天の助けか、そのとき、入り口に掛けてあるベルが音をたてた。──客だ!

「悪い、いまからオレ仕事だ。じゃーな」

『あ、おい、コラ──!』

 一方的に電話を切る。ミズキさんが、悲しそうな目でこちらを見ていた。

「いまので、友人を一人、なくしたわね……」

「そういうこと、真剣にいうなよ」

 ちょっと心配になるじゃねーか。

 遠慮がちに布がまくられ、客が入ってくる気配。オレは慌ててケータイをポケットに戻した。フードを深く被り直し、姿勢を正す。若い男だということは、できるなら気づかれない方がいい。イメージの問題だ。

「あの……占って欲しいんですけど」

 入ってきたのは、高校の制服を着た女の子だった。こういう年代の子は複数連れ立ってくることが多いが、この子は一人で来たようだ。オレの母校、私立館丘高校の制服。昔ながらの、地味なセーラー服だ。

 オレは、あれ、と思った。最近、館丘の生徒がよく来る。偶然だろうか。

「どうぞ、お座りください」

 できるだけ威厳ある声を作る。いかにも沈んだ顔をした女の子は、オレの向かい側に用意されている木の椅子に座った。ボストンバッグを床に下ろす。春休み中だというのに、部活にでも行くところなのだろうか。

「何を占いましょう?」

 いつもどおり、そう問いかける。しかし、女の子はうつむいて、黙ってしまった。茶色の髪が顔を隠し、表情もわからない。

 姿が見えないのをいいことに、ミズキさんがぎりぎりまで接近して、彼女の顔をまじまじと見ている。近い、近いよ。オレの気が散るんだけど。

「わかったわ。この子、悩んでるのよ」

 そんなもん、オレにもわかる。

「どうか、されましたか?」

 とりあえずそう促すと、そのまま数秒の沈黙を挟んで、女の子はおもむろに顔を上げた。

「あのう……あたしの未来を視て欲しいんです。あたしの未来には……その、希望は、あるんでしょうか」

 ずいぶん思い詰めた様子で、そんなことをいいだした。まただ、この既視感。最近、この手の質問が多い。まあ、未来を視て欲しいっていわれること自体は、珍しくもないのだが。

「わかりました。では、目を閉じて──あなたの未来を、あなた自身で、思い描いてみてください」

 厳かに告げる。はい、とつぶやいて、彼女はおとなしく目を閉じた。

 水晶に手をかざす。ばあちゃんはどうだったか知らないが、オレは水晶の扱い方なんか知らないから、完全にポーズだ。演出にすぎない。そうしておいて、オレは目を閉じてうつむく彼女を観察した。

 何か、漠然とした霧のようなものが見える。なんつーか、霧っていうより、透明な泥、みたいな印象だ。とにかく、どう考えても彼女にとってプラスに働きそうにないものが、まわりを覆っている。

 ミズキさんの言葉を信じるなら、これが、守護霊を感じるということなのだろう。彼女の守護霊が、何か良くないものを背負っているのかもしれない。しかし、悪霊にとりつかれてるとかならまだしも、これほど漠然としていては、オレにはどうすることもできない。

「大丈夫ですよ」

 優しい声、優しい声、と念じるようにして、オレはいった。

「あなたはいま、霧の中にいます。未来が不安で、普段なら考えもしないようなことを考えてしまって、そしてまた不安になっていく……そういう状態なのではないですか? 大丈夫です、霧は必ず晴れます。いまは辛いかもしれませんが、必ず、良い時期がやってきます。自分を見失わず、心をしっかりと保ってください。あなたの未来は、ちゃんと、希望に満ちていますよ」

 我ながら胡散臭い、かつ怪しい、かつ歯の浮くようなセリフだ。それでも、オレ自身の感情は排除して、一言一句確かめるように、静かに告げた。

 顔を上げ、目を開いた少女の顔が、かすかにほころんだ。内心で安堵して、オレは続ける。

「黒いものにはあまり近づかないほうがいいでしょう。夜の外出などは控えるように。携帯電話も良くありませんね。一人の時間を減らし、友人と会う時間を増やした方が、霧が早く晴れます。あとは、あなたのお気に入りの本を、いつも持ち歩くように」

「ありがとうございます……!」

 この年頃には、具体的な指示の方が効くってもんだ。案の定、彼女の目が輝く。それから数分、世間話程度の会話をして、彼女は快くお代を払い、帰っていった。

「それって占い?」

 …………いわれると思った。

 ミズキさんが、大きな目を半分にして、オレを見ている。そ、そんな目で見るな!

「いいんだよ、本人が納得してんだろ」

「ほとんど当たり前のことしかいってないわよね。夜出歩くな、一人でいるよりも友人といなさい──お気に入りの本、のくだりはよくわからないけど」

「そんなもん、気の持ちようだ」

 そうなのだ。占いといえど、オレのは所詮この程度。ばあちゃんみたいに、神懸かり的になんでもかんでもわかるわけじゃない。

「詐欺ね」

 詐欺ゆーな。

「占いに頼る人間なんてな、大半が安心したいだけなんだ。思い詰めてるヤツなんてなおさら」

「そうかしら。若いのにそんな商売の仕方してたら、今後社会に出られなくなるわよ」

 すでに出られてない、という言葉は、あまりに情けない気がして飲み込む。くそう。

 ミズキさんのいい方は、嫌味とかそういうのではなく、本気で心配してるニュアンスが入ってるから余計にへこむ。霊のくせに、どうしてこう現実主義者なんだ。

「それにしても……」

 急に肩を落として、ミズキさんは水晶の乗っている机にもたれかかった。霊格の高低にもよるが、霊は基本的には現世の影響を与えるほどの力は持っていない。ミズキさんだってそうだろう。それでも、こうして物質にさわっているように見えるということは──たぶん、それだけ生前の記憶がはっきりしているのだ。そういう霊は、ほぼ無意識に、物質や人にさわっているようなポーズを取る。現実には、あらゆる物質に触れることなどできないのに。

「世の中はどうなってしまうのかしらね。日本の行く末を憂えずにはいられないわ。あんな若い子が、未来に希望があるかどうかを知りたがるなんて」

 考え事をしていたオレは、その言葉で現実に引き戻される。

 そうだ、ミズキさんのいうことはもっともだ。オレが高校のときだって──そんな大昔のことではないが──未来がどうのなんて考えずに生きていた。考えてたらもうちょっとどうにかなってたんじゃねーの、とか思うぐらいには脳天気に。

「いや、でも……そういう用件で高校生が来るようになったのは最近だな。大抵は相性がどーの、意中の相手がどーのってのだから」

 最近の高校生はどうなってるんだ?

「最近になって? 急に?」

 意外にも、最近、のキーワードにミズキさんが食いついてくる。身を乗り出され、オレは思わず身体を引いた。

「急にっていうほどじゃないか……まあ、でも最近多いな。高校生っていうか、館丘の生徒が。近いからってのもあるんだろうけど」

「…………」

 ミズキさんは黙ってしまった。何かをためらってるみたいな表情だ。

 あまりいい沈黙じゃない。オレの方が妙にそわそわする。

「……気にならない?」

 ぽつり、と聞かれた。何が?

「ここに来て、気休めでもなんでもいってもらって、持ち直す子たちはいいわ。もしかしたら、館丘高校で何か良くないことが起こってて、私たちの想像を超える人数の子たちが悩んでいるのかもしれない」

 ……おお?

「それってそーとー突拍子もねえな。なんでそういう発想に?」

「もしかしたら、たくさんの子たちが自ら命を絶とうとしているのかもしれない」

「聞けよ」

 ミズキさんは、しっかり自分の世界に入ってしまっているようだった。両手を組んで、天井を見上げる。

「気づいてあげられる人間がいなかったばっかりに、消えてしまう命があるのかもしれない。気づいてあげられるのは、きっと、要クンしかいなかったのに。何か良くないことが起こっているかもしれないのに。ああ、館丘高校でいったい何が起こっているのかしら」

「…………」

 ついていけず、オレは黙る。そのまま、ケータイを取り出した。ヒマだから、ネットにでもつないで遊ぶか。

 しかし、オレの顔とケータイとの間に、ミズキさんが顔を割り込んでくる。正確には、ケータイをすり抜けて。こういうことされると、ああほんとに霊なんだー、と実感。

 いや、そうじゃなくて。

 すげえヤな予感。

「気にならない?」

 もう一度、同じ問いをくり返されて、オレは思い切り眉間に眉を寄せた。

「気にならない」

 ズバリ。

 ミズキさんは、悲しそうに瞳を伏せた。辞書の『これみよがし』の例文に載せたいぐらいにこれみよがしに、ため息を一つ。

「そう……要クンが気づいてあげなかったために消えゆく命があっても、気にならないのね……」

 う。

「救えることができるのは、要クンしかいなかったかもしれないのに」

 うぅ。

「ああ、そうそう、守護霊の立場から今日の運勢をいわせてもらうとね、今日は館丘高校に行くと良いことあるって出てるわよ。君にとってのラッキースポットね」

 うおお、こいつ、アプローチの仕方変えてきやがった!

「なんだよ、そのとってつけたような『今日の運勢』。行かねえよ。めんどくさい」

「さ、そうと決まったら出発ね。早く準備して」

「…………」

 何がどうなって「そうと決まったら」なのかわからなかったが、もう抵抗するのも億劫になっていた。どうせ、そうそう客も来ない店だ、急な臨時休業ぐらいどうってことはない。

 オレは、しぶしぶながらも立ち上がった。

 まあ、まったく気にならないわけでもないしな。



 オレの母校、私立館丘高校は、創立百年がどーのという、それなりに風格のある高校だ。オレは家が近いというだけの理由で通っていたので、高校の歴史やら何やらにまったく興味はないが。

 商店街前のバス停から乗車して、十分後に到着。もちろん、当時はバス通学なんていう金の無駄遣いはしていなかったが、さすがにこの歳にもなると自転車を乗り回す気にはならない。車を出すにはかえって不便、という微妙な距離。

 校門の前に立って、オレは寒気を覚えた。

 うまくいえないが、良くない感覚だ。ミズキさんのいうことも、あながち間違ってはいないかもしれない。何か──得体の知れない何かが、高校の敷地内を覆っているような、嫌な気配。

 見上げると、まだ入学式は一週間も先だというのに、校門の桜はまさに満開だった。というよりも、すでに下降線だ。こりゃ、新入生が来るころには散ってるな。

「綺麗ね。私、花って好きなの。生きてるって感じがして」

 隣を歩く──実際には歩いているように見えるだけだが──ミズキさんが、非常にコメントしづらいことをいっている。スルーしよう。

「……で、良いことって?」

 代わりに、『今日の運勢』に関する質問をしてみた。わざわざ口に出すのも癪に障るので、オレが感じた違和感についてはいわないでおく。

 聞いているのかいないのか、ミズキさんはうっとりと桜を見上げていた。

「来たはいいけどよ、まだ春休み中だろ。金にもならない慈善活動する気になったって、生徒がいないんじゃやることねーじゃん」

 オレは憮然として、言葉を重ねた。右手には、いつもどおり木刀の入った包みが一つ。履き慣れた編み上げブーツで、地面を彩っている花びらを踏みながら歩く。

 学校という場所が、オレはあまり好きではない。

 この木刀を使わなければならなくなる危険性が高いからだ。若くして死んだ満たされない霊ってのは、悪霊になって学校に住み着いたりしてるもんだ。この良くない気配も、そういうことなのかもしれない。

「ねえ、屋上に行ってみましょう。これだけの桜を見下ろしたら、きっと壮観だわ」

「……話の流れ、完全無視かよ」

 何やら楽しそうに提案してくるミズキさんに、うんざりする気力さえ尽きる。とはいえ、このまま何もせずに帰る方がよほどばかばかしい。

 生徒用の入り口まで回り込み、ブーツを適当に脱ぎ捨てて、裸足のまま上がる。ちょっと考えて、オレはブーツの紐を木刀に引っかけた。屋上に行くなら、裸足じゃまずい。

 ひやりとした冷たい廊下を進み、階段をひたすら上がる。部活中の生徒ぐらいいるはずだが、だれにも会うことはなかった。人のいない学校ってのは、どうにも気味が悪い。

「わくわくするわね。立ち入り禁止の場所に行くのって」

「どうしてそんなこと知ってんだよ」

 飛べるだろうに、ご丁寧にもミズキさんも階段を上るポーズをしていた。

「高校の屋上なんて、大抵はどこも立ち入り禁止だわ。危ないもの」

 さらりと返される。まー、それもそうだ。オレだって在学中にわざわざ屋上に行ったことなどない。

 途中にあった『この先ダメ』のプレートを乗り越えて、さらに進む。やがて、青春モノの映画なんかでよく見るような場所に行き着いた。屋上への扉って、本当にこんなんなんだな。階段が途切れた先に無機質な金属の戸って、なんかちょっとカッコイイ。

 着いて初めて、カギがかかっている可能性に思い当たった。しかし、ノブに触れると、それはたやすく回った。不用心な。

 暑いぐらいの陽気であるにもかかわらず、まわりに障害物がないせいか、戸を開けた途端に冷たい風が吹き抜ける。オレは思わず目を細め──

「──うわ」

 呻いた。

 視界に捉えてしまった、セーラー服の女子生徒。

「大変。まさに直前ね」

 淡々とした声でミズキさんがいう。そんなこといってる場合か!

 裸足のままで、オレは走り出していた。考える余裕もなく、本能のままに叫ぶ。

「早まるな!」

 ずいぶん安っぽいセリフになった。

 飾り気のない、だだっ広いだけの屋上のまわりを囲む、背の高いフェンス。その向こう側に立つ、女の子。

 そう、向こう側だ。

 まさに直前だ。

 彼女はふり返った。顔面は蒼白で、距離があっても、全身が震えているのがわかる。

「と、止めないでください──! 死なせて──!」

 おきまりの言葉を叫ぶ。こういうときは、ためらったら負けだ。スピードには自信がある。

 オレはすぐに地を蹴った。フェンスごしに彼女の腕を捉え、木刀を引き抜く。使うのは入れ物の方だ。布製のそれで、とにかく飛び降りることだけはないように、彼女の腰とフェンスとを固定した。

 ここまでやってしまえば、とりあえず安心だ。それから慎重に、泣き出してしまった少女を救出した。


「……絶対するなよ。自殺はダメだ。絶対ダメだ。何が何でもダメだ」

 フェンスから精一杯距離を取り、校舎の壁際に座り込んで、オレは依然として泣き続ける少女──相田幸子という名らしい──に告げた。本当は、こういういい方をすべきではないのかもしれないが。

 相田幸子は、ひたすらに泣き続けている。どうにか名乗ってくれたものの、あとのことはなかなか言葉にならない。いまどき珍しい三つ編みの、おとなしそうな子だ。

「そういういい方ってないんじゃないかしら。この子にも、この子なりの理由があるんでしょうから」

「……そうはいうけどな」

 じゃあ、どうしろっていうんだ。

 不機嫌そうなオレの声を、自分にかけられたものだと勘違いしたのか、相田幸子は涙を拭いながら顔を上げた。

「ど、どうして、放っておいてくれなかったんですか……わ、わたし、死にたいんです。生きていてもしょうがないんです。希望がないんです」

 真っ赤な目をして、そんなことをいわれてしまう。

 希望、ときたか。オレんとこに来た女子高生たちと、同じようなこといってやがる。

 ──それにしても、どうなんだこの状況。まんま、ミズキさんのいったとおりだ。

「希望がどーのってのは、あんたが自分で決めることじゃないんじゃねーの。どういう事情か知らねえけど、あんたまだ高校生だろ。親に扶養されてる身で、死にたいとか考えるな。親不孝ってやつだ」

「要クン」

 ミズキさんが、非難がましい目を向けてくる。なんだよ、間違ったことはいってねえぞ。

「わ、わ、わた、し…………!」

 せっかくおさまっていたのに、また涙が溢れ出してしまった。これじゃまるで、オレが泣かしたみたいだ。……いや、オレが泣かしたのか?

 頭を掻いて、オレは黙った。黙るしかない。声をかけたって、ぜんぶ裏目に出そうだ。

「要クン、ちゃんと話を聞いてあげなくちゃ。それだけでも、気持ちって変わるものよ」

 ミズキさんが、耳元で囁いてくる。

 ──あー、もう!

「悩みがあるなら、話せよ。なんかできること、あるかもしれねえだろ」

 いい捨てて、オレは座り込んだ。相田幸子が、ものすごく不思議そうな顔でオレを見る。

 そんな顔するな。ガラじゃないことは、オレだってわかってんだ。

「……わたし……」

 それでも、彼女は話し出した。


 相田幸子の話を要約すると、こうだ。

 両親は幼いころに離婚。どちらからも好かれようと、マジメ一本で生きてきたものの、本来の性格なのか遠慮グセが身に付いてしまったのか、引っ込み思案で友だちナシ。

 そんなとき、唯一親身に話を聞いてくれた新任の高校教師がいた。

 で、単純にも、その教師に恋をしたらしい。

 卒業式の日に、勇気を振り絞ってその教師に告白。自分のことを想ってくれているなら、桜が咲いている間に屋上まで迎えに来て欲しい、と告げる。

 しかし、教師は来ないままで──……いまに至る、と。


 そんなことで死のうとしたのか、という言葉を、オレはぎりぎりで飲み込んだ。

 オレがそんなことと思っても、こいつにとっては重大なことなのだろう。

「桜、まだ咲いてるけど」

 なので、とりあえず気になったところを口にしてみた。

 桜が咲いている間に来て欲しい、という要求なら、まだ望みを捨てるのは早い。まあ、散り始めてはいるが。

「……でも、だめです。先生は、来てくれない」

 完全にあきらめてしまっているのか、それとも、最初から望みを持ってはいないのか──相田幸子の涙が乾く気配はない。

 まあ、正直なところ、オレも来ないと思うなぁ……。新任つったって、教師だろ。生徒を相手にするとは思えない。世の中には、教師と元教え子の夫婦が結構いるって話もあるが、オレには理解できない世界だ。

「もしも……」

 オレはあえて、その一言を強調した。

「もしも、来なかったら、本当に死ぬつもりかよ。こんなこといいたくねえけど、あんたが死んだらその先生、責任感じるんじゃねえの」

 いっといてなんだが、ドラマやらマンガやらで聞き飽きたセリフだ。

「それに、あんたが大学行って、社会人になって、バリバリやってるころにその先生と再会、無事ゴールインっていう可能性だってあんだろ」

「意外とポジティブね、要クン。人相悪いのに」

 人相関係ねーじゃん。

「……いいんです、ほっといてください。これは、わたしの問題です。あなたには関係ないです」

「そうはいうけどな」

 でた、『関係ない』。オレは、力の限りため息を吐き出した。その言葉は好きではないのだ。一方的にシャッターを閉められるのは、気分が悪い。

「どんな経緯だろうと、オレはこうしてあんたを知ったわけだろ。あんたが死ねば、オレは悲しいよ。……自分が死んでも、世の中になんの影響もないとか思うなよ。自分のために生きられないなら、想ってくれるだれかのために、歯ァ食いしばって生きるんだな」

 相田幸子は、驚きを含んだ表情で、数回まばたきをした。続く沈黙に、オレの方がいたたまれなくなる。……もしかしてオレはいま、そーとー恥ずかしい系統のセリフを口にしたんじゃないだろーか。

 いや、しかし、ここでオレが目を逸らしては負けだ。オレはひたすら耐える。

 見つめ合うこと、数秒。汗、数滴。

「だれか来るわね」

 急に、ミズキさんがつぶやいた。 

「だれか?」

「うわ、ほんとにいやがった! こら、要!」

 場の空気を完全に無視して、屋上に飛び込んできたのは、オレのよく見知った男だった。オレは思わず、相田幸子を見……ようとした。いない。

「あれ?」

 慌てて首を回すと、見えたのは、校舎の影に隠れる直前の姿。素早い。教師が説教に来たとでも勘違いしたのだろうか。

「なんだよ、反応なしかてめえ! 総ちゃんにリサーチするために最後の手段で学校まで来てみたらよ、階段上がってくおまえを見かけたっていうじゃんか! ナニが仕事だ! だったら最初から付き合えぇぇ!」

 怒り心頭の様子で、下滝洋介がオレの首を締め上げる。死ぬ。

「ちょ……」

 ヤメテ、ともいえないオレにさすがにはっとして、洋介は手を離した。今朝、誘いを断ってさっさと電話を切ったことを相当怒っているらしい。

 ……オレにしてみても、洋介に付き合ってた方がなんぼかマシだったなという展開なわけだが。いや、どのみちここに来たなら一緒か。

「悪かったよ。こっちにも色々あったんだ」

 適当に取り繕う。納得したわけでもないだろうが、洋介は鼻を鳴らした。

「いーだろう。いまから付き合うなら許す。学校に総ちゃんいるんだってよ。リサーチしに行くぞ」

 大学院で遺伝子の研究なんぞをするインテリなくせに、こいつは相変わらずヤンキーな見た目だ。限りなく金に近い茶髪、だらしなく下げたズボン。そしてなぜかインテリ眼鏡。

「類は友を呼ぶのね」

 まじまじと洋介を見て、ミズキさんが聞き捨てならない感想を口にする。突っ込むわけにもいかないので、聞き捨てるしかないわけだが。

 完全に有無をいわせない勢いで、洋介がオレの腕をつかんできた。そのまま、出入り口まで引きずられる。

 オレは思わずミズキさんを見た。彼女はちょっとだけ肩をすくめてみせただけで、こういうときに限って何もいおうとしない。相田幸子が隠れてしまった方向を見るが、彼女の姿も見えない。

 ここでこの場を離れるのは心配だが……でも、さっきの彼女の目。最初とは違っていた。

 それに、あんな勢いで隠れたのを引っ張り出すのも良くないか。──うぅむ、大丈夫だと信じよう。



 山頭総一郎先生は、生物担当の教師だった。高三のときに担任だったので、大学進学についてなど、あれこれ相談に乗ってくれたものだ。それほど堅苦しくはなく、それでも威厳のあるじーちゃん先生で、生徒から慕われてた。

 オレらの担任だったときにはすでにじーちゃんだったが、数年ぶりに見る山頭先生は、ずいぶん老け込んでいた。定年を迎えても講師として続けていたらしいから、七十歳ぐらいいっているのかもしれない。

「おお、神崎君か。見違えたなあ」

 生物準備室の椅子に腰かけていた先生は、オレを見て頬の筋肉をゆるめた。顔全体の皺が下がったような顔だ。

 見違えた……だろうか。卒業から五年、これといって成長した覚えはない。なんとなく大学を卒業して──変わったことといえば、車の免許を取ったことぐらいだ。

 特に報告できることもないという事実が、妙に気恥ずかしい。ごぶさたです、と面白みのない挨拶をする。

「君も、手伝ってくれるのかね。いやあ、ありがたい。なんせ、人生の半分以上ここにいたからね……もう四月に入ってしまったのに、この通り、まったく片づかない」

 先生はそういって、照れたように笑った。洋介に目をやると、ヤツは何やらオレに目配せしている。片づけの手伝いという名目で来てるってことらしい。そりゃあ、何が欲しいか聞きに来ました、とかバカ正直にいえないわな。

「ここにあるもの、ぜんぶ持って行かれるんですか」

 とにかく目を引くのは、大量の書物の類だ。床が抜けるんじゃないかってぐらいに、ぎっしりと本棚に詰め込まれている。

 あとは、形容のしようのない、がらくた──ではないんだろうが、オレにはそう見える──の数々。標本らしきものや、剥製的なもの。

 それでも、まったく手つかずというわけではないようだった。あまり広くはないスペースに、いくつか段ボールが重ねられている。

「ぜんぶではないがね。まあ、ほとんどは先生の私物だ。ちょっとずつ増やしてるうちに、こんなになったよ。これがまた、どれもこれも思い出があるから、手に取ったら箱に詰める前にじっくり物色してしまうんだ。この調子じゃ、一年あっても足りない」

 ……ああ、その現象は、わかる気がするなあ。

「懐かしいものがいっぱいね」

 自分の高校時代でも思い出しているのか、ミズキさんはさっきから部屋の中を探検中だ。あれやこれや観察して、何やら思いを馳せている。

「お、これ! これって俺らのじゃん」

 どうやら目的を見失っているらしい洋介が、書棚からアルバムを持ち出した。

「おお、懐かしい」

 オレも思わず身を乗り出した。みんな若い……っつーか、むしろ幼いな。なんかしょっぱい。

「やっぱり買うんだったかな、アルバム。俺買ってねンだよ。卒アルって購入自由だったろ」

「俺も買ってないな……」

 あのときは、こうやって懐かしむ日が来るなんて思ってなかったんだ。買うには確か一万近く金がかかって、女子なんかは買ってた気がするが、男子は半数ぐらいがいらないと突っぱねていた気がする。

「だめね、こういうものは買っておかないと。老後の楽しみになるのに」

「老後って」

『老』とは無縁なミズキさんの言葉に、思わず突っ込んでしまう。二つの視線が集中して、オレは慌てて咳払いをした。

「ろ、老後って、何をするんですか、先生は。自宅でのんびりですか」

「おいおい、老後とかいうなよ。先生、傷つくぞ」

 しょーもないフォローになってしまったが、先生は笑い飛ばしてくれた。危ねえ。

「そうだなあ、毎年の卒業アルバムでも見て過ごすかな。こういうのを、老後の楽しみっていうんだ。買っておかなかったのを、将来後悔するぞ」

 ミズキさんと同じことをいいだす。なんというか、オレはもう苦笑するしかない。

「毎年? ひょっとして、ここにぜんぶ揃ってる?」

「ああ、もちろん」

 洋介の言葉に快く答えて、先生はよいしょと腰を上げた。洋介がアルバムを取り出した棚とは違う棚の前で、しゃがみこむ。

 よく見れば、ずらりと並ぶ紺色の背表紙。あれ、ぜんぶアルバムってことか。すげえ。歴史を見た気分だ。

「私も見たいわ。いいかしら」

 どういうわけかテンション上昇気味のミズキさんが、先生が開いていくアルバムをのぞき込む。こうして一歩引いて見てると、先生と洋介とミズキさんと、本当に三人でアルバムを見ているみたいだ。

なんていうか、年配の教師と卒業生と、それから若い女教師、というような図。微笑ましい。

 ……いやいや、なんでミズキさんが参加していて、オレが蚊帳の外なんだ。オレも参加しよう。


 結局、三人(四人?)で、数十年分のアルバムを物色してしまった。

 世話になった教師や、商店街で店をやってる顔見知り、知り合いの親がここの卒業生だったとか、そういった話題が尽きない。そうじゃなくても、行事の様子、その年に起こったニュースを特集しているページ、それに生徒の髪型なんかの変化を見るだけでも、意外と楽しいもんだ。

 オレにとって、そのアルバムは、非常に興味深いものだった。それから、先生の思い出話も。

 オレも洋介も、完全にリサーチのことなど忘れていた。

 いつの間にか日も暮れて──


 ──なぜか、こんなことになっている。

「そうかそうか、君らももう二十三歳か。立派な大人だなあ」

 ビーカーを傾けながら、赤い顔をした先生が笑い出す。

 そう、ビーカーだ。

 別に、怪しい薬品で怪実験をしているわけではない。

 注がれているのは、先生秘蔵の高級ウィスキー。

「立派といっても、サラリーをもらえる職に就いてませんけどね」

 同じくビーカー片手に、オレはそう返す。先生がさらに笑う。

 雑然とアルバムの積まれた机の上に、すでにカラになった酒瓶が三本。洋介は早々につぶれて、並べたイスに器用に寝転がっていびきをかいている。

 オレはというと、日々ブランデーを飲んでいるぐらいなので、そう簡単には酔わない。

 ──とはいえ、まあ、本当なら酔ってもいいぐらいの量を飲んでいた。

 しかし、酔えない理由があるのだ。

「そうなのよう! だめよねえ、最近の若い子って。もっとこう、しがみついてでもシューショクしなきゃいけないわよ。試験に通らなくて、この子ったらねえ、占いよ! う、ら、な、い! 占い師やってるの! 笑っちゃう!」

 この人だ、この人。

 なんで酔ってんの。あんた霊だろ。

 酒が登場し始めたあたりから、急に饒舌になったミズキさんは、何がおかしいのか終始くすくす笑いっぱなしだ。オレや、見えていない先生にまで絡んでいる。ここまでわかりやすく酔っぱらわれると、こっちは妙に冷めるというかなんというか。

「なあに、毎月給料をもらえることが立派だっていうんじゃない。君は、君の思うようにやりなさい」

「そうよぅ、要クン、立派! ぃよ、大統領!」

 ミズキさん……いってることが百八十度違ううえに、それ微妙に古いよ……。

 でも、ちょっとわかったような気がした。今朝のミズキさんベッド潜り込み事件、あれも多分、ブランデーの匂いに酔ってしまったってことなんだろう。

 なんてやっかいな霊だ。

「先生は、本当のところ、どうしてまだここにいるんですか」

 昔と変わらない、優しい言葉をかけてくれた先生に、オレはそう質問を投げていた。

 いってしまってから、少しイヤないい方だったと後悔する。退職だって、急なことではないはずだ。それでもこれほど片づいていないというのは、やはり釈然としない。

 しかし、気分を害した様子もなく、先生は目を細めた。

「本当のことをいうとね、名残惜しいんだよ。公立と違って、私立には異動もないからなぁ。あんまりにも長い時間を、ここで過ごしすぎてしまったんだろうな」

 何かを思い出しているのだろうか、先生の目はオレのほうを向いてはいたが、オレを見てはいないようだった。それから、独り言のように、ひどく小さな声で続ける。

「それにまだ、桜が咲いている」

 その言葉に、オレは安堵していた。 

 オレは、机に広げられたままになっている一冊のアルバムに、視線を落とした。一冊だけ、何度も手に取られた形跡のある、装丁の崩れそうなアルバム。

「なによぅ、そんなこといったら、フツーのサラリーマンとか自営業やってる人とか、どうなっちゃうの。もう、総ちゃんったら!」

 ミズキさんがけらけら笑う。霊じゃなかったら木刀で突いてるところだ。

 遠い目をしたまま、黙ってしまった先生に、オレは一つの提案をした。

「先生、桜を見に行きませんか」

 先生は驚いたようだった。それでも、笑顔でうなずく。

「いいね。夜桜か。ここの桜は、美しいから」

「屋上から見下ろすというのは、どうでしょう。きっと綺麗ですよ」

 先生の表情が一瞬強ばるのを、オレは見逃さなかった。

「屋上! 屋上、いいわねえ! お花見しましょう、お花見! ──あら、屋上? 私、何か忘れてないかしら」

「…………」

 オレは無言で、ミズキさんに縦チョップ。彼女は大げさによろめき、頭を抱えてうずくまった。

「いいかげんにしろよコラ。いつまで酔ってんだよ」

「痛いわ……」

 酔いが覚めたのか、冷静な声でぽつりと一言。それから、オレと先生とを見て──洋介のことはもう完全に頭にないらしい──、最後に暗くなった窓の外に目をやると、ミズキさんは急に真剣な顔をした。

「もう夜……! どうして、こんなことに」

 どうしてでしょうねえ。

「大変よ、要クン。急がなくちゃ」

 まだ酔いが残っているのか、ミズキさんの言葉からは要領がすっぽりと抜け落ちている。

 オレは苦笑した。まあ、生きてようが死んでようが、酔った人間なんてのはこんなもんか。

「……神崎君、君、だれかと話しているのか?」

「いえ、独り言です。酔ってしまったみたいで」

 オレは適当に返した。正直なところ、そろそろそれどころではないのだ。

 学校全体を覆っていた嫌な空気、それがどんどん濃度を増しているのを感じる。

 おそらく、もう限界なのだろう。

 ミズキさんのいうとおり、急がなくてはならない。

「先生、準備はいいですか」

 意味など伝わらなくてもかまわなかった。オレは木刀を袋から取り出し、校内であることは承知の上で、編み上げブーツに足を入れる。きついぐらいに、紐を結んだ。

「行きましょう」

 自分に気合いを入れるように言葉に力を込めて、オレは生物準備室のドアを開けた。



 予想はしていたが、それを超えるほどに恐ろしい状況だった。

 廊下の壁が白いということすらわからなくさせる、黒い塊の数々。

「な、なんだ? 神崎君、何か様子がおかしくないか?」

 霊感がなくとも、さすがにここまでくると何かしら感じるものがあるのだろう、ほろ酔い気味だったはずの先生の表情が、いまでは青ざめてしまっている。

 そりゃ、そうだ。現に、勘の良いヤツらはこれにあてられてネガティブになっていた。

「きっと酔ってるんですよ、先生」

 ほとんど上の空で答える。かくいうオレも、冷や汗をかいていた。

 オレの目にしっかり映っている無数の黒い塊──その大きさは様々だが、どれも怪しく漂っている──は、すべて悪霊だ。夜になれば霊は増えるものだが、それにしてもこれほどとは思わなかった。

 悪霊には、生前の記憶はない。あるのは、霊としての本能のみだ。

 すなわち──気づかれたい、かまわれたい、そして、仲間が欲しい。

 存在を見つけてもらうために、やつらは色々な悪さをする。いたずら程度ならかわいいものだが、最後の望み、仲間が欲しいというのはやっかいだ。

 生きている人間、悪霊になっていない霊を、引きずり込もうとするのだ。

 しかもどうやら、こいつらは群れを成すことで力が増すらしい。

 ……勘弁してくれ。オレは別に、マンガに出てくるようなヒーローってわけじゃないんだ。

「だいじょうぶよ」

 オレの考えていることがわかったのか、ミズキさんがオレの隣に立った。もう完全に酔いから覚めたのか、冷静な声だ。

「あなたには、経験があるもの。要クンなら、大丈夫」

「……他人事だと思ってよ」

「それに、私が守るわ。守護霊だもの」

 自然と、口元がほころんでしまった。隣に人がいる気配など皆無なのに、ミズキさんは確かにそこにいるのだ。

 そうだ、大丈夫だ。オレには、守護霊がいる。

「先生」

 どんどん顔色が悪くなっていく先生に、ちらりと視線を向けた。

「オレ、いまからトレーニングしながら進もうと思うんで、先生はオレのうしろからついてきてくださいね」

 我ながら間抜けな話だ。どこの世界に、夜の学校、しかも廊下で、トレーニングしつつ屋上を目指すヤツがいるというのか。

 それでも、疑問を持つ余裕もないのか、先生はうなずいてオレのうしろへ移動する。 

「行くか」

 オレは木刀を両手で構え、腰を落とした。こちらの存在に気づいた悪霊たちが、だんだんと近づいてくる。時間をかければかけるほど、不利になるのは明白だ。

 オレは一気に踏み込んだ。同時に、木刀を振り下ろす。その一振りで、悪霊特有のかすかな手応えを残し、複数の塊が霧散する。しかし、もちろん気を抜いている場合ではない。そのまま、今度はほぼ水平に構え、低い位置にいた悪霊どもに打ち込みを見舞う。

 基本的には、まっすぐ。左右の悪霊にまで手を回している余裕などない。

 道ができればいいのだ。

 ただ、屋上への道。

 必ず、そこへ、送り届けなければならない。

「要クン、上!」

 叫びながらも、ミズキさんが地を蹴って、頭上の悪霊を腕でなぎ払った。意外と役に立っている。

 目に見える『守護霊』がいるというのは、それだけで、少しだけ気が楽になるものらしい。これだけの悪霊を前にして、オレは落ち着いていた。

 とはいえ、落ち着いていることと、うまくことが運ぶこととは、決して同義ではない。

「きりがない!」

 木刀を振るいながら、オレは毒づいていた。悪霊は容赦なく、まるで光に群がる蛾のように、こちらめがけて飛んでくるのだ。

 しかも、階段を上がるほどに、どんどん悪霊の数が増していくようだった。息を切らしている先生の手を引いて、もう一方の手でどうにか木刀を操りながら、ひたすら上を目指す。

 屋上へと続く扉が、見えた。

 あと少しだ。

 しかし、とうとう力尽きたのか、先生が膝をついた。

「先生!」

 呼びかけても、返事がない。顔色は蒼白を通り越して、よどんだ泥のようになっている。ひどい汗だ。

「ここまで来て……ちょっと総ちゃん、がんばりなさい!」

 ミズキさんも叱咤しつつ、それでも動けないオレのために悪霊の相手をしてくれている。

 とはいえ、いつまでもここで止まっているわけにはいかなかった。このままでは、みんなそろって悪霊の餌食だ。

「先生、あと少しです」

 先生の両肩をつかんで、揺さぶる。先生の目はすでに半分ほど閉じていた。常人には、悪霊だらけのこの空気の中にいるということは、毒の海に浮かんでいるようなものなのだ。

 どうにかして、むりやり立たせた。だらりと力の抜けてしまった肢体を支えるため、腕をオレの肩に引っかける。

「屋上で彼女が待ってます」

 その言葉に、ぴくりと反応した。

「会うんでしょう、相田幸子に」

 一歩、一歩と歩を踏みしめる。

 あと二段、一段──

 木刀から手を離し、オレはドアノブを握りしめた。


 風が吹き抜けた。

 月が照らす夜の屋上──そこは、校舎の内部のように、そこかしこに悪霊がいるというわけではなかった。

 フェンスの向こう側に、昼間と変わらず、立ちすくむ相田幸子の姿。

 その周囲を、おびただしい数の黒い塊が、まるで一つの集合体のように覆っていた。

「……ああ」

 その一点を見つめ、先生は声を漏らす。

 そのまま、ずるずると崩れた。

「相田君…………」

 先生の瞳から、いつの間にか涙が流れていた。もしかしたら、見えているのか?

 いや、そんなことはどっちでもいい。

 重要なのは、ここに来た、その事実だ。

 フェンスの向こうの相田幸子は、ひどく緩慢な動作で、ゆったりとふり返った。

 その目が、確かに、先生を捉える。

 年老いてしまった先生。昔の面影など、ないのかもしれないが。

「先生……良かった、来てくれた……」

 相田幸子は、そっと微笑んだ。

 心から満たされたような、幸せな笑みだ。

 オレは思わず自身の胸をつかむ。やり場のない負の感情に、支配されそうだ。

「相田君、先生は、君の想いには答えられないんだ──君の言葉は嬉しかった、とても嬉しかった。けれど、先生が本当に屋上に行ってしまっては、君にとって良くないと思ったんだ」

 涙を拭おうともせず、何かに懺悔するかのように、先生はつぶやき続けた。

「……いや、本当は、怖かったのかもしれない。行ってしまっては流されてしまうのではないかと、思っていたのかもしれない。だが、まさか、こんな──」

 先生は頭を抱えた。

「──君が、死んでしまうなんて」

 後悔ばかりの、震える声。

 オレは、あのアルバムのことを思い出していた。はにかむように笑う、三つ編みの少女。そして、生徒たちの真ん中で、真面目くさった顔をしている若々しい教師。

 一つだけ、ひどく痛んでいたそのアルバムの、三つ編みの少女が微笑むページには、消えようのない涙の跡があった。幾度となく、泣いたのだろう。

 自分が行かなかったばかりに、身を投げてしまった彼女を想って。

 それは、どれほどの苦しみだったろう。

「ありがとう、先生」

 相田幸子は、闇の中、悪霊に囲まれた中にあって、それでも春そのもののように、微笑んでいた。

 そっと、背を向ける。

「これで、やっと、終わりにできる」

 ──っ? あのバカ!

「ふざけんなよ!」

 オレは地を蹴っていた。相田幸子の身体が闇夜に放り出され、それを待っていたかのように、黒い塊が彼女めがけて突き進む。

 考えている余裕などなかった。フェンスをつかみ、二度足をかけて乗り越える。

「どけ、おまえら!」

 悪霊に向かって、一喝し、そのままダイブした。落ち行く彼女の身体に手を伸ばし、指先でつかんで引き寄せる。

 どうして、ここまで来て、結末が変わらないんだ。

 そんなのは、絶対、おかしい!

「あなた、どうして──」

 相田幸子が目を見開く。重力に逆らえるはずもなく、落下していく。

 逆さまの視界のなかで、見事に咲き乱れる桜が見えた。あまりの美しさに魅了され、一瞬だけ、意識が遠くなる。

オレは、死ぬのか。

 ミズキさんめ、何がラッキースポットだ。

「ばかね」

 しかし、地面に激突することはなかった。

 オレと、オレがつかんだ相田幸子は、ミズキさんの腕の中にいた。

 地面すれすれで、抱きとめてくれたようだ。慎重すぎるほどにゆっくりと、砂地の上に降ろされる。

 ……改めて考えると、これは、相当──

「──やばかった……」

 遅れて汗が出た。死ぬところだった。っつーか、ミズキさんがいなかったら死んでいた。

周囲に、悪霊の姿はない。彼女が満たされたことで、退散したのだろうか。

 遠くの方で、光が差しているのが見えた。

 夜明けだ。

「変なひと」

 相田幸子は、笑ったようだった。その拍子に、涙がこぼれ落ちる。

「わたし、どうせ死んでいるのに。どうして、助けたりなんか……」

「そんなもん、オレが知りてえよ」

 オレはそう吐き捨てていた。

 教師になりたての先生のアルバムの中に、彼女の写真を見つけたときに、思ったんだ。こいつ、こんな笑い方するんだって。

 だから、どうにかしたくて、先生を連れて行った。

 それなのに、身投げだ。目の前で身を投げ出されて、それを助けたいと思って、何が悪い。

「ありがとう、ございました……先生にも、お礼を伝えてください。それから、あなたのせいじゃないです、って。わたしが、弱かったんです」

 陽の光を頬に受けて、彼女はそう告げた。

「だれかのために、生きればよかった。いまさら気づいても、遅いけれど」

「遅くねえよ」

「本当、変なひとですね!」

 やっと女子高生らしい笑顔を見せる。彼女の身体が、だんだんと薄れていくことに気づいた。望みを果たし、消えていくということだろうか。

 相田幸子は、最後に、ミズキさんを見た。

「先生も、ありがとうございました。ずっと、ずっと、気にかけてくれて。わたし、これで本当に──」

 続きは、風にかき消えた。

 どこからか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。薄暗かった周囲が、照らされていく。

 嘘みたいに、朝が始まったのだ。 

 ……さて、と。

 これで解決ではない。

 見ると、ミズキさんは罰の悪そうな顔をしていた。覚悟はできている、という表情だ。

「……何かいうことは、安藤瑞希先生?」

 そうなのだ。

 オレが見た、あのアルバム。

 新任教師の隣に、かしこまって座る、副担任の姿があった。気づかないはずがない。黒く長い髪に、知的な顔立ち、それから大きな目。

 名前の欄には、『安藤瑞希』の四文字。

 ミズキさんだ。

「あの子ね、毎日毎日、ここから飛び降りてたの」

 ミズキさんは、オレの隣に座り込んだ。話す気になったってことらしい。

「毎日よ。同じ孤独と苦しみを、毎日くり返してた。生きてるときにも何もできなかったから、せめて死んだあとはって思うじゃない。説得しようとしたけど、ダメなの。あの子、私の言葉なんてまったく聞こえないふり」

 そういえば、とオレは思い出す。

 最初に屋上に行ったときも、相田幸子はミズキさんなんて見えていないような態度だった。だからこそ、オレは彼女が霊だなんて考えもしなかった。

「ずっと説得を続けたわ。でも、あの子の魂自体がだんだん病んできて、悪霊をおびき寄せるほどになっちゃったの。健康な一般生徒にまで影響が出るようになって、そりゃあもう、途方に暮れたわよ。──で、思い出したの」

 ミズキさんは、オレを見た。鼻先に、細い指を突きつける。

「要クン、君のことを。私はこの学校に憑いていたから、当然君のことも知っていたわ。生きている人間の説得になら応じてくれるんじゃないかって思ったの」

 ……なるほどね。

 理解はできたが、納得はできないという気分だ。

 なら、最初からそういってくれれば、と思う。オレだって鬼じゃないんだから、素直に頼んでくれればなんとか………………いや、どうかな。必ず動いた、とはいい切れないか。

「ごめんなさい」

 ミズキさんは姿勢を整え、きっちりと正座すると、そういって深く頭を下げた。

「要クンの守護霊なんて、嘘。もちろん守るつもりだったけど、結局危ない目に遭わせちゃったわ」

 ……ああ、もう。

 オレは頭を掻いて、空を見上げた。早朝の空だ。寝不足の目に光が差し込んできて、まぶしさに目を細める。

 霊とはいえ、年上の女性に頭を下げられるとは。

 なんていうか……こういうのは、ガラじゃねえってのに。

「いいよ。……守ってくれたじゃん、ミズキさん。あんたがいなかったら、オレは屋上から落ちて死んでた」

「でも」

 ミズキさんはまだ顔を上げない。勘弁してくれよ。

 オレは立ち上がって、ケツについた砂を払う。大きく伸びをした。

「ミズキさんさ、学校に憑いてたのに一度そこから離れたってことは、もうここにはいられねえんだろ」

 ミズキさんは答えない。

 けど、確か、そうだったはずだ。ばあちゃんが教えてくれたことがある。場所や人に取り憑いている霊ってのは特殊で、一度でもそこから離れれば、再び元の場所に戻ることはできない、と。

 だったら、オレのすることは決まっていた。

 なんだかんだいって、悪くない一日だったんだ。

「オレ、霊が見える分だけ、必要以上に悪霊に追われたり、変なのに巻き込まれたりするんだよな。もし、よかったらさ──」

 オレは、右手をジーンズで拭った。

「──これからもよろしく、守護霊さん」

 そっぽを向いたまま、差し出す。そんなもん、恥ずかしくて直視できるか。

 しかし、いつまで経っても手に感触が返ってこない。

 オレは内心の冷や汗を堪えるのに精一杯だ。なんなんだ、この居づらい沈黙は。

 ……まさか、もういないとか? すごい迷惑とか?

 恐る恐る、視線を前に戻して──

「……う」

 ──すぐに、後悔した。

 ミズキさん、泣いてやがる。しかも、全開の笑顔ってヤツだ。

「もちろん、全力で守るわ。──よろしく、要クン」

 そうして、両手でオレの右手を握り返した。




 ──ちなみに。

 その後、泥酔状態から目を覚ました洋介にオレは怒りの鉄拳を食らうこととなる。忘れて帰ってしまったから、怒られるのもまあ無理はない。

 山頭先生のお疲れパーティに出席したが、先生は相川幸子について何もいってこなかった。ただ、吹っ切れたのか、あっというまに荷造りを終えたそうだ。プレゼントは、洋介の提案で年代物のウィスキーと高級グラス。いたく喜んでいただいたようでなにより。


 そんでもって……

 もともとの高霊媒体質に、ミズキさんという守護霊を得たオレは、不本意ながらも悪霊退治屋まがいの仕事を始めることになってしまうのだが──

 ──まあ、それはまた別の話ってことで。







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